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自治体職員のキャリアデザインを考える日記(11-20)
最終更新:
匿名ユーザー
2004年08月02日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(11)
猛暑が続く毎日、ということで慌ててエアコンを買ったにもかかわらず、
設置してから一度も使わず少し損をした気分の戸崎です。
先日、千葉県内では40度を越える日もあったので、エアコン無し物件に
入居するに当たって「まずエアコンを買わねば」と電気店を巡ったのですが、
連日の猛暑でどこの店も軒並み半月待ちという混み様でした。
ようやく3日で設置してくれる店を探し、入居日に合わせて工事をすることが
できたのですが、新しい部屋はとても風通しが良く、結局一度もエアコンを
使ってません。幸運なことに(不幸なことに?)風船やスーパーのポリ袋などが
風下の部屋に吹き溜まるくらい風通しが良いので、夜は扇風機も必要無いくらいです。
こんなことなら慌てて買わなければよかった、と少しトホホ気分です。
さて、「有志の会」のメーリングリストでは、いわゆる「2:6:2の法則」に
関する議論が盛り上がりました。この法則は働きアリの集団の分析やパレートの法則の
バリエーションなどいろいろな説がありますが、簡単に言うと、「あるグループを
分析すると、2割の高業績者と2割の低業績者、その他の6割に分類できる」と言うものです。
そして、仮に低業績者をグループから排除したり、高業績者だけのグループを作ったとしても
新しいチームもやはり「2:6:2」に分かれると言われています。
この話題がMLで盛り上がったきっかけは、会員向アンケートに「あなたは2:6:2の
どこに属していると思いますか?」という質問があったからなのですが、この質問に対する
反応は様々で大変興味深いものでした。
そもそもどういう基準で2:6:2を分けるのか、ということがはっきりとしていないので
人それぞれに解釈され、「自分は下の方だけど上を目指したい。」や「下の2割の人の方が
地域活動に貢献するなど人間的魅力が高い。」等、混沌とした議論になり面白かったです。
「高業績者」を「能力の高さ」と捉える人もいれば「出世の速さ」と捉える人もいて
話がかみ合いませんでした。
こういう本人のプライドを刺激するような内容の質問はアンケートには難しいのかも
しれませんね。
ところで、2:6:2に分かれる理由の一つとして、チームによる仕事の
問題があると考えられます。仮に、個人個人の活動を完全に観察することができ、
それぞれの働き振りに応じた報酬が支払われるのであれば、単に「人間の能力には
差がある」という統計的な問題に過ぎません。
2:6:2が問題にされるのは、2割の高業績者が8割の貢献をしている一方で
低業績の2割は何もしないのにあまり変わらない報酬を受け取ることができる、と
いうことです。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
仮にメンバーが3人の小さな企業を考えます。
もちろん、年齢や経験によって能力の差はあるでしょうが、3人のうち誰かがサボっていれば
他のメンバーにはすぐに分かります。サボった人は叱責され、場合によっては企業を
追い出されてしまうことでしょう。
この小さな企業が3万円稼ぐためには一人一人の貢献が大きく影響しています。
一人がサボれば1万円しか稼げないかもしれません。そのため、仲間による非難は
強くなります。
しかし、この企業が急成長して社員が100人になったとします。この企業でサボった人が
1人いたとして、その人は叱責され追放されるでしょうか。
まず誰がサボっているのかがよく分かりません。1人がサボったことで企業の業績が
直ちに傾くというものではありませんので、誰かサボっている人がいることすら
気づかれないかもしれません。
そして、誰かがその怠け者を発見したとして、強く叱責するでしょうか。
その怠け者が一生懸命働くことで1万円を企業として稼ぐことができたとしても、
一人あたりは100円にしかなりません。100円のために人間関係を悪くしてまで
同僚を注意することが得策でしょうか。結果として怠け者は野放しにされてしまいます。
問題はこのような人の努力へのただ乗り(フリーライダー)が横行すると、
誰も企業に貢献する人がいなくなってしまう、ということです。
全員がフリーライダーになってしまえばその企業はつぶれてしまうことでしょう。
これは漁業資源の乱獲等の「共有地の悲劇」問題と同じ構造を持っています。
実際には、個々人の行動が全く観察されないということはないので、
(本人が望んでいないのに)2割が家庭を犠牲にして働き、6割はそこそこに働き、
怠け者は2割に留まる、ということになるのではないかと思います。
では、自治体はどうでしょうか。
まず、個々人の活動は観察しにくい性質のものです。そして、よほど小さな村でも
ない限り、相当数の職員がいるため怠け者を叱責するような人も現れにくい。
さらには、怠け者を公言している職員がいてもよほどのことがないと首にできません。
フリーライダーが発生しやすい環境だと言えます。
そして、自治体職員がフリーライドしているのは仲間の努力だけではありません。
住民の税金そのものにただ乗りしているのです。その意味で一般の企業以上にただ乗りの
罪は重い、と考えられます。
住民の先銭で生活している以上、気をつけたいと思います。
2004年08月09日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(12)
皆さん。こんにちは。
引越しのごたごたでビデオカメラの充電器が行方不明になり
家中のダンボールをひっくり返している戸崎です。
電気製品のパーツってバラで買うと高いんですね。
調べたら13000円するらしいです。
これは何が何でも見つけないと・・・。
さて、前回はチームの中でのフリーライダーの問題の話でしたが、
成果と報酬を連動される単位としてのチームの規模はどのくらいが適正なのでしょうか。
まず人数が多すぎる場合を考えてみます。
人数が多すぎるとフリーライダーを発見することが難しくなります。
3人のチームではお互いの活動の内容が相互にわかりますが、
100人のチームではお互い何をやっているのかは見えにくくなります。
このようなチームにおいて、チームの成果と報酬を連動させたところで、
個々人の努力が成果に寄与する割合、そしてその成果が報酬増として
個々人に反映される割合は小さいため、他の99人の努力にフリーライドする方が
個人にとっては合理的な行動となりかねません。
次に、人数が少なすぎた場合はどうでしょうか。
報酬を与える単位が少なすぎる場合、極端な例では個々人の成果に直接
報酬を結びつける場合には、個人の成果に結びつく行動ばかりが強調されてしまい、
チームを作る意味、つまり、他の職員の活動とのコーディネーションが
無視されてしまいます。
同僚とのコーディネーションが比較的重要でない活動、例えば個人での
飛込み営業のような活動であれば、個々人の成果に報酬を連動させることは
有効かもしれませんが、チームで営業する業務では、他のチーム員の
成績が下がったとしても自分の数字を上げることにエネルギーを
集中しかねません。
では、報酬を与える単位としてのチームはどのくらいの規模が適しているのでしょうか。
一概には言えませんが、業務の性質として相互に「補完性」の高い活動は
一括りにして報酬を与える必要があると考えられます。
つまり、互いに相乗効果のある活動、一方の活動がもう一方の活動にとって
不可欠な活動は一括りにして成果に報酬を連動した方が望ましいという考え方です。
そして、もう一つ重要なパラメータは、成果をどのくらい報酬に連動されるかという
連動の強さです。
この連動を短期的に極端に強くすれば歩合級になりますし、長期的に弱く連動させれば、
伝統的な日本企業のように成果を企業の成長という形でストックし、
雇用の安定や定年時の退職金の形で報酬を受け取る、という報酬形態になります。
さて、自治体職員の業務は個々人の活動が直ちに成果という形で現れるものが少なく、
また、他の職員、他のセクションの活動とのコーディネーションが
重要になるものが多いように思われます(だから民間では難しい、と言われるわけです。)。
その意味で、現在の自治体の報酬体系、つまり短期的にはやってもやらなくても
同じだけれども、長期的には毎年のトーナメントの中で選抜が行われ、
数十年単位では報酬に差がつく仕組み、というのは合理的なのかもしれません。
(ただし、今の仕事のやり方を前提にすれば、という話ですが。)
また、ここまでの話では特に金銭的報酬をインセンティブとして取り上げましたが、
現実にはそれだけを目的にして人は働いているわけではありません。
「仲間と一緒にお客様により良いサービスを提供する」こと自体が
働く喜びになっている人・職場ももちろんたくさんいます。
このような働く喜びに金銭的報酬を結わえ付けようとすると、却って
本人の気持ちを挫いてしまう場合もあります。
そのため、成果を報酬に反映させるチームの範囲、そして報酬に連動させる強さを決める
制度設計は千差万別、いろいろなバリエーションの中からチョイスしていくことになります。
自治体職員の報酬制度を考えていく上でも、いろいろな団体、職場によって
様々な事情がありますので、どこに持っていっても万能な制度設計というのは
ありえないと考えます。
そのため、自治体間で共有すべきは制度の運用の方法ではなく、
制度を設計する上での考え方であると思います。
2004年08月16日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(13)
皆さん。おはようございます。
高浜のシンポジウムまで一週間を切ってしまい、緊張のあまり
夜も眠れずに昼寝してしまう戸崎です。
さて、今回は話題の『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』をネタに
目標管理の失敗について考えてみます。
「有志の会」MLでも、『内側から見た富士通~』が話題になりましたが、
日本の成果主義人事システムの先頭を走っていた富士通の元人事部社員の
暴露本ということで、10年遅れで成果主義に関心を示している自治体関係者に
与えたショックは大きかったようです。
富士通の成果主義が上手く行ってないらしい、ということ自体は新聞報道等で
耳にしていましたが、内部の人間からここまで憎悪に満ちた暴露話は、
読んでいてあまり気分の良いものではありませんでした。
しかし、この中で述べられている問題点を別の視点から分析していくと
「富士通の失敗」から学べることはずいぶんありそうです。
なお、ここで述べることは所詮後付けの講釈に過ぎないという前置きの上で
お聞きください。やる前から分かっていれば誰も失敗する人はいません。
○短期的成果と長期的成果
まず、成果主義の導入によって、社員が短期的な成果の出る活動にしか
目を向けなくなった、という問題が挙げられています。
これについては、単に評価のスパンが短いから、ということ以外にも
短期的成果のための活動と長期的成果のための活動の両方に対して
同じくらいの強さのインセンティブを与えることができなかったから、と
考えることもできます。
つまり、企業としては短期的活動と長期的活動のどちらの活動にも努力を
向けて欲しいと考えているときには、どちらの活動にも同じくらいの強さの
インセンティブを結び付けないと、インセンティブの強い方の活動に
社員の努力が集中してしまう、ということです。
しかも、長期的活動は短いスパンの間には評価することが難しいという性質を
持っています。そのために、長期的活動に対しては強いインセンティブを
結びつけることができません。
結果として、両方の活動に努力を振り向けて欲しいのであれば、両方に同じくらいの
弱いインセンティブを結びつけるという方法をとるか、短期的な成果を求める社員と
長期的な成果を求める社員とを別々に処遇するという方法をとることになります。
『内側から見た~』によれば、富士通の場合は、同じ社員に対して
短期的成果と長期的成果の両方を求めながら、短期的成果に強く結びついた
報酬制度を導入しようとした点に問題があったと考えられます。
○人事制度以外の制度との間の補完性
また、その他の制度との補完性が強いために、人事制度を変えただけでは
機能しない、という問題を挙げることができます。
青木昌彦の「A企業システムとJ企業システム」の表現を用いれば、
企業は、「昇進に依存した賃金、”人質”としての年功賃金、新卒からの
長期雇用、企業特殊的技能」というJ企業システムと、
「個人の業績・能力に直接依存した賃金、外部労働市場を用いた短期雇用、
一般的技能」というA企業システムという二つの典型的なシステムのうち、
どちらの組み合わせを用いることも可能ということになります。
また、J企業システムでは、意思決定を現場に分権化する代わりに
人事評価を人事部に集権化している一方で、A企業システムでは、
意思決定が集権化されている代わりに人事評価は現場に管理者に
分権化される、と分析されています。
この視点で富士通の成果主義の取組みを見ると、業績・能力に応じた賃金の
導入に合わせ、それまで業界では御法度だった他社からの引き抜き(中途採用)を
行うなど、外部労働市場を志向した取組みが行われており、建前上はJ企業システムから
A企業システムに移行しているように見えます。
しかし、実態としては人事部にますます権限が集中し、かえってJ企業システムとしての
色を強めているようです。
その原因は何でしょうか。
『内側から見た~』を読んだだけの後付け講釈の一つに過ぎませんが、
外部労働市場が機能していないことや、実態として年功賃金が維持されてきたとこ、
等が考えられます。
前者については、現場の管理者に人事権が与えられ、必要な人材を外部労働市場から
募集することができれば、人事評価は常に外部市場との比較で行われることになります。
この場合、個々人が目標の設定に当たってわざと低い目標を設定する(ラチェット効果)
ことは自らの首を絞めることになります。低い目標しか達成できない社員には低い報酬が
与えられるか、代わりの社員が採用されるかのどちらかになるからです。
また、評価者のインセンティブについても、甘い評価を吸収してくれる「のりしろ」は
もうありません。原材料の調達などの外部との取引で甘い交渉をすると、直接業績が
低下するように、自らが下す人事評価が業績にダイレクトに反映されるからです。
評価が甘ければ自部門の業績が低下し、自らがその席を追われることになります。
そして、全社的な評価基準の調整も必要ありません。評価基準は外部市場との見合いで
決定され、部門間の調整は不要になります。例えば、現在でもアルバイトを募集する際の
時給の決定を各部門に任されているように、全社的な「統一価格」は必要なくなるのです。
このように、「個人の業績・能力に直接依存した賃金」を導入するのであれば、
A企業システムのその他の要素、つまり「外部労働市場を用いた短期雇用」と
「(企業特殊的でない)一般的技能」の両方の要素が併せて用いられることが
必要になるのです。
『内側から見た~』に述べられた富士通の問題点は、外部労働市場が機能していない状況で
外部労働市場を志向した制度を導入したために起こった問題であると考えられます。
また後者については、それまでの年功賃金制度における”人質”は維持したままで
業績・能力に応じた賃金制度を導入ことに問題があったと考えられます。
つまり、年功賃金制度での給与の基準を維持したために、実態としての業績・能力の
評価との乖離が生じ、その分のしわ寄せが若い社員や現場に押し付けられた、ということです。
もともとキャリア前半の若い時期は業績よりも低い賃金で我慢し、キャリアの後半で
業績以上に高い給与(これが”人質”です。)を受け取る、というのがJ企業システムに
おける年功賃金制度であることを考えると、中高年社員の多くは業績以上の報酬を
受け取っていることになります。
これを業績・能力に直接結びついたA企業システムの報酬制度に改めるのであれば、
当然中高年社員の多くは報酬が低下するはずなのですが、中高年社員の報酬は維持し、
その分のしわ寄せを若い社員に負担させるというJ企業システム的な運用を続けてきた
という実態が『内側から見た~』では語られています。
しかも、業績・能力を明らかにし、これに基いて報酬を支払うと明らかにしたにも
かかわらず、支払われるはずの報酬が支払われない、ということになるので若い社員の
不満は年功賃金制度以上に高まってしまう、という悪循環を呼んでいるようです。
このように、いくつかの制度が補完し合ってシステムを形成している場合には、
このうちのどれかの制度だけを変更しても機能しない、ということがあります。
そのため、人事制度の変更に当たっては、その他の制度との相互補完の関係を
よく解きほぐしておくことが必要であると考えます。
2004年08月23日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(14)
皆さん。おはようございます。
シンポジウムの2次会in名古屋に参加できず、悔しい思いをしている戸崎です。
シンポジウムに参加、出演された皆様。本当にありがとうございました。
さて、パネルディスカッションでは二言三言ボソボソと質問しただけだったので
いろいろな人から「話し足りなかったでしょ。」と言われてしまうのですが、
実はパネルディスカッションの始まる2時間前から隣の控え室で豪華パネリストの
皆さんとお話をすることができました。
個人的にはこれでかなり満足だったのですが(^_^、シンポジウム会場の皆さんにも
ぜひパネリストのお話を聞いて欲しい、ということで何点かパネルでも質問させていただきました。
1点目は、「地域力」「住民力」「パブリック・サーバント」というキーワードが出たが、
同時に改革の当初はトップダウンが力を発揮しても職員の力を引出さなければ進まない、
というお話もあった。そこで、皆さんが「職員から引出したい力」とは何かをお聞かせいただきたい、
という質問をしました。
2点目は、尼崎市では「YAAるぞ運動」のような職員を巻き込んでいく取組みをされているとのことだが、
リーダーの「思い」を職員に伝える、共有するためにどのようなことをされているか、
という質問をしました。
この質問に対して、各市長からは以下のようなご意見をいただきました。
○後藤臼木市長
・管理型の執行から抜け出すためには、「権力」ではなく「権威」や「威厳」のようなものが必要。
それには日ごろからの人格形成や住民との信頼関係構築が大事。
○白井尼崎市長
・公務員と接して感じることは「できない理由」を考えることに一生懸命なこと。
もっと「こうしたらできる」という方向で返して欲しい。
自分の持っている「熱気とやる気と本気」を出して欲しい。
・思いを共有するために、できる限り対話研修を行っている。
また職員のグループからお呼びがあればできる限り顔を出すようにしている。
市長と職員が出かけるときには別の車を使わずに同じ車に乗るようにしている。車内でいろいろな話ができる。
他にはメールも活用している。
○森高浜市長
・変化に対しては職員よりも市民の方が敏感。職員には「変化力」、変化に対応する力を示して欲しい。
職員自身が後ろ向きになっていたら市民に理解してはもらえない。
・「奥の院」に閉じ込められている首長ほど御しやすいものはない。
自らが現場で動いて情報を得るようにしている。そのスタンスをいかに職員に理解してもらうか。
・後藤市長から話のあったような「選択」をすることができる能力は財産になる。
○穂坂志木市長
・柔軟性と創造性が必要。専門性なんてあって当たり前。
高校や大学を出た程度の知識があれば必要な専門知識は本を読むなり専門家に聞くなりすれば良い。
逆に専門性が硬直しているのが古い職員。
・職員20人と2時間かけたウイークリー講座をやっている。
職員と飲みに行くのはあまり好きではない。全職員と飲みに行くわけには行かないので、
誘われなければ寂しい思いをすることになる。自分も職員だったのでそういう気持ちがわかる。
年頭に職員に講演をしている。研修などで外から講師を呼ぶことが多いが、
自分のところのトップの話を聴く機会をたくさん設けたほうが良い。
どなたからも、示唆と含蓄に富んだお答えをいただくことができ、このためだけに
高浜に来た、と言っても構わないくらいです。
本当にありがとうございました。
実は、パネルディスカッションに先だって、管理人さんと公私融合さんから
たくさんの「これを聞いて」を託されていたのですが、全体の時間が足らず
質問できませんでした。2時間と言わず5時間くらいお話を聞きたいくらいですね。
ということで、「まだまだ聞き足りない。」という方、この日記を読んで関心を持たれた方は
今週27日(金)に開催される自治体学会の第4分科会をぜひお聞きになってください。
穂坂志木市長と森高浜市長に御出演いただき、アウトソーシングや住民との協働について
パネルディスカッションを行います。
(今度は私はスタッフ側でお話を聞かせていただきます。)
詳しくはこちら。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jigaku/new.files/jichitaigakkai(18).htm
分科会4 「自治体経営改革 -行政の外部開放-」
自治体業務が役所の一手専売の時代は、すでに過去のものになりつつある。
外部開放は、地域の活性化、行政経営そして市民との協働などの面からも、今後
ますます注目を集めていくものと考えられる。今「旬」の動きを、自治体の実践
の中から探ってみたい。
●パネリスト
志木市長 穂坂 邦夫
高浜市長 森 貞述
静岡県 下山 晃司
●コメンテーター
政策研究大学院大学 辻 琢也
●コーディネーター
千葉商科大学 玉村 雅敏
(なお、文中の発言内容は筆者の聞き取り・理解の範囲のものであり、内容を保証するものではありません。)
戸崎将宏
tozakimasahiro@yahoo.co.jp
2004年08月30日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(15)
皆さん
おはようございます。
先週の金曜日は自治体学会千葉大会の第4分科会で、高浜のシンポジウムに引き続き穂坂市長と森市長のお話を聞くことができ、非常にためになったと感じている戸崎です。高浜のシンポジウムでは改革の現場に働く職員の視点から、自治体学会では組織全体の視点からお話を聞くことができました。
さて、有志の会のメーリングリストでは「仕事は組織でするものか、個人でするものか?」というテーマで議論をしているところです。
この議論には、同じものを違う視点から見る、という面があり、どちらが正しいというものではありませんが、「終身雇用」の公務員の特性なのか、「組織」を所与のものとして見る傾向があるように感じました。つまり、「個人」に対して「組織」が厳然と存在し対峙している、というイメージです。
民間企業の従業員であれば自分の所属する会社が未来永劫、いや自分が定年になるまで必ず存続している、という呑気な確信を持っている人はほとんどいないでしょう。また、小さな企業であれば、「組織対個人」という図式は明確ではなくなります。社員10人の企業では「自分は組織で仕事をするのか、個人で仕事をするのか」と考える前に、自分の仕事がイコール組織の仕事に直結します。つまり「組織」と言っても他人事ではなく自分自身の振る舞いが影響してくるのです。
その意味で、「組織か個人か」ということが議論になること自体、永続的な組織を前提にした「お役所的」な議論なのかもしれません。
■なぜ組織を作るのか。
ここでいったん議論の前提となっている組織の必要性に立ち帰ってみます。
仕事をするのに、なぜ組織が必要なのでしょうか。わざわざ手間をかけて組織を作らなくても、市場において個人ベースで契約をして仕事をしても良いのではないでしょうか。(現にそういった仕事のやり方をしている人はたくさんいます。)
これは、企業において考えると、企業組織内で取引をするか市場を通じて外部と取引をするか、という「企業の境界」の問題と同じ構造を持っています。
組織を作る、すなわち取引を企業内部に取り込む説明の一つとして「市場の失敗」を理由に挙げることもあります。しかしそうなると、全ての取引を内部に取り込んだ巨大な単一の企業が存在しないのはなぜでしょうか。この問いは1937年の「企業の本質」というロナルド・コースの論文に書かれたものですが、以来4分の3世紀が経過したにもかかわらず明確な答えは出ていません。
■「契約の束」としての組織
しかし、「企業の境界」に関する研究が進んだ結果、企業組織を単一の塊として捉えるのではなく、個別の契約を束にした「契約の束(nexusofcontracts)」として捉える考え方が発展しました。この考え方、すなわち組織を「労働契約の束」として捉え直すことで、組織と個人の問題も少しすっきりしてきます。個人として市場取引の中で仕事をしていくか、組織の内部で仕事をしていくのか、ということを組織の存在を所与ではないものとして考えることができるからです。例えば、公共的な内容のサービスでも必ずしも行政組織に属さなければ提供できないというものではありません。市場の中で「社会企業家」として公共的なサービスを提供していく、という生き方も選択できるはずです。
戸崎将宏
tozakimasahiro@yahoo.co.jp
2004年09月06日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(16)
皆さん、こんばんは
(日付が変わってしまいました。遅くなってすみません。)
この週末は、南房総の小学校のアフターネットデイを見学に行ってとても楽しかった戸崎です。
今回の話はモチベーションと遊びに関係します。
私事ですが、1歳半の私の娘が、最近「お手伝い」をしてくれるようになりました。
食事の後でテーブルを拭いていると、取り込んだ洗濯ものからシャツを持ってきて一緒に拭いてくれたり、洗濯物を畳んでると一緒に畳んでくれます。正直じゃまですが・・・(^^;
さて、このとき娘は仕事をしているのでしょうか、遊んでいるのでしょうか。
おそらく本人にとっては遊びと仕事の違いはありません。
大人がやってるのを真似したいだけかもしれませんし、人の役に立つこと、「ありがとう」と頭を撫でられることが嬉しいからかもしれません。洗濯物を一心不乱に畳むことそのものが目的なのかもしれません。
では、私たち大人にとって仕事と遊びの違いは何でしょうか。
「楽しいことが遊びで楽しくないことが仕事」と答える人がいるかもしれません。
しかし、山に登れば苦しいし、海で泳げば溺れそうになることもあります。旅に出れば孤独に苛まれ、将棋に負ければ悔しくてもんどり打ちます。逆に、仕事に没頭すればこんなに楽しいものはありません。難しい仕事をやり遂げたときのガッツポーズは誰にでも経験のあるものではないかと思います。
「お金をもらってやるのが仕事で、お金を使うのが遊び」と答える人もいるかもしれません。
しかし、金になることだけが仕事でしょうか。お金にならなくても「自分はこれをしなければ」という仕事はたくさんあると思います。
このように、仕事と遊びの境界は(少なくとも私にとっては)曖昧です。
(「公私融合」さんからコメントがあるかもしれないので先に予防線を張っておきますが、)本質的な問題として、仕事と遊びに境界など無いのではないかと思います。
この境界については、おそらく人それぞれの様々な考え方があるのかもしれません。
#ぜひ、コメントに「私にとっての仕事と遊びの違い・境界」を書いてくだされば幸いです。
さて、今回の話のネタ本は、チクセントミハイの『楽しみの社会学』です。最近(といっても4年前ですが)、新装版が発売されたので手に入りやすくなりました。
チクセントミハイは、チェスや(著者自身が趣味としている)ロッククライミング、ダンスといったいわゆる「遊び」と外科医の困難な手術という「仕事」に共通する「フロー体験」を中心に据えて本書を構成しています。
モチベーションの議論が、どうしても「モチベーションを与える」という「仕事をして欲しい側」からの見方になりがちであるのに対して、「仕事や遊びの行為そのものに没頭する楽しさ」を解き明かすチクセントミハイの研究は、自分にとって正直にうなづきやすいところがあります。
また、「自分の使命として○○の活動をする」という肩肘の張った生き方よりも、「自分が楽しいからこの活動をしている」という方が自分は好きです。先日、ネットデイの活動で出会った人達からも、そういう空気を感じてとても心地よいものでした。
戸崎将宏
tozakimasahiro@yahoo.co.jp
2004年09月13日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(17)
みなさんこんばんは
前回「仕事と遊び」について書きましたが、なかなか難しい問題です。
それでもこの有志の会でたびたび話題になる「自治体プロ職員」という考え方と「仕事と遊び」の問題は切っても切れない問題だと思います。
「自治体プロ職員」というものを考えたとき、はたして彼は成果に応じた報酬のために仕事をするのでしょうか。
私はそうは思いません。
食うに困るのであれば考え直すかもしれません。まったく認められないとすれば寂しくなるかもしれません。
しかし、自分の仕事の価値は誰が決めるのでしょうか。少なくとも「人事考課」などに決められたくない、というのが正直なところではないでしょうか。
商売であれば、お客が払ってくれるお金は自分の仕事にどれだけ満足してもらえたか、の印と受け取ることができます。しかし、行政サービスにどれだけ満足したかということと支払う税金とは直接にはリンクしません。
ではその間をつなぐものは何でしょうか。
一つの考え方はバウチャーです。バウチャー制度の下では行政サービスは民間企業のサービスと直接競合することになります。行政サービスに対する満足がバウチャーの支払いに直結します。極端な考え方をすれば、バウチャーが職員個人に支払われる仕組みというものも考えられるかもしれません。
「自治体プロ職員」の一つのモデルとしては有りかもしれませんね。
もう一つの考え方は、職員の業績や能力に応じた報酬制度です。しかし、業務内容が複雑で多次元になるほど評価は困難になります。プロとして満足できる仕事をすることと高い評価を受けることが相反する状況が多く現出することが考えられます。
ここで大切になってくるのが「仕事と遊び」です。
仕事と遊びが重なる、というと、自己満足のために仕事をするという悪いイメージにつながりがちですが、住民の満足についての正しい情報、業績評価に関する考え方が歪められなければ、仕事への没頭・満足感と住民満足とは両立しうると思います。
問題は、成果と報酬とのリンクが強すぎても弱すぎても行動が歪められることです。
成果との報酬のリンクが強すぎると、報酬に直接影響する活動に引っ張られ、仕事へ没頭感、遊び的な要素は損なわれてしまいます。短期的な評価の問題点といえるでしょう。
一方で、成果と報酬が完全に分離されていると、成果をまったく気にかけない自己満足的な活動に没頭してしまう恐れがあります。
要はこれらの間のバランスをいかに取るか、ということだと思います。
戸崎将宏
tozakimasahiro@yahoo.co.jp
2004年09月20日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(18)
■自治体幹部職員のリクルーティング
みなさんこんばんは
日曜日の日記でHP管理人さんから幹部職員のリクルーティングについての話題が出てましたので便乗させてもらいます。
有志の会のMLでは、長野県で24歳の課長級職員の採用や岩手県滝沢村での投票による課長選出などが話題になりました。
自分の上司が年下のヨソモノに、しかも将来自分のポストへの道が閉ざされる、ということもあり、感情的にはなかなか複雑な問題ではあります。
一方で、管理人さんから提案のあった「幹部職員の内外からの公募」について、多くの自治体が全面的に採用した場合には、2つの面から注意深い検討が必要と考えられます。
一つは外部労働市場の整備です。
ニワトリとタマゴの話ではあるのですが、現在の日本国内には「プロの幹部職員」のマーケットの規模はごくわずかです。民間企業においても多くは長いスクリーニング期間を経た上で内部登用しています。
そして、行政の場合には活動と成果との間の因果関係は弱くタイムラグも大きくなります。つまり契約内容に関して立証可能性が低くなるということになります。立証可能性が低いということは、自治体側の恣意的な評価によって契約の更新や外部労働市場での評価が決められたり、逆にまったく評価が行われないことが危惧されます。このことによって本来望ましい契約が結ばれないことが多くなると考えられるのです。
もう一つは技能獲得のためのインセンティブの問題です。言い換えれば内部労働市場の整備です。
その自治体でしか通用しない(つまりツブシの効かない)技能に対してこれまで投資を行ってきた職員に対し、突然、別の基準で選抜を行う、ということを宣言してしまうことのマイナス面も考える必要があります。
まず幹部目前の職員にとっては、これまで投資し続けてきたものが紙切れ同然だと宣言する、ということになってしまいます。「行政経営?聞いてないよ~!!」という状態です。彼らがそれまでに投資してきたものが自治体の経営にとってまったく必要ないのであれば、そんなもの邪魔なだけですが、実際には両方が必要になるものと考えられます。これまでの蓄積を生かしていくためには工夫が必要です。
次に、若い職員にとっては、将来に向けて獲得すべき能力の質が変化することになります。もちろん、プラスの方向に働く面もありますが、より汎用的な能力を身に着けようとする傾向が強くなる恐れがあります。国家公務員の例ですが、海外に留学したキャリア組職員が帰国後に民間のコンサルタントに転職してしまうとい問題と同じ要因を持っているものと考えられます。
では、どういう方向が考えられるでしょうか。
私は、採用そのものを外部に向けることはCIOのような一部の分野に限定するほうが望ましいと考えます。それ以前に行政内部における幹部登用のプロセスの変革を優先すべきです。
まずは活動と成果に基づいた評価による契約をそれまでの評価と併用して用いるシステムから導入します。つまり、一定の職位以上の役職に登用される場合は活動と成果による評価を受け、評価が悪い場合には元の職位に降格される、評価を受けたくない職員は一定以上には昇格できないシステムです。国会議員の大臣への登用、と言えば想像が付きやすいかもしれません。
外部労働市場の整備もこういう方向で進めていけば可能ではないかと思います。
戸崎将宏
tozakimasahiro@yahoo.co.jp
2004年09月27日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(19)
先週は幹部職員の外部からの採用の話だったのですが、今回はなぜ企業は外部からの採用よりも内部からの昇進を好むのか、という話にしたいと思います。
理屈から言えば、外部と内部とで候補者を比較して、より能力の高い者を登用するということは理にかなっています。しかし、現実の世界には理屈のとおりには行かない「摩擦」が存在します。
一つは採用・契約・評価をどのように行うのか、ということです。まず採用に関する問題があります。一般職員に比較して、より複雑で権限の大きい幹部職員の採用において、能力の評価はどのように行われるのでしょうか。1回のペーパーテストや面接で測りうるものではありません。この場合、内部昇進トーナメントを通じた10数年以上の長年にわたる評価の蓄積のある内部候補者の方に分があるものと考えられます。
また、いざ「幹部職員雇用契約書」を締結しようとする段階になった場合、その契約書を明示的に作成することができるのか、将来に起こりうることについて詳細に取り決めすることができるのか、という問題があります。複雑な幹部職員の職務内容に関しては、在籍している内部の職員に対する「暗黙の雇用契約」の方がコストがかからない場合が多いと考えられます。
そして、採用後の成果の評価も難しい問題です。多次元の評価軸の存在する行政活動を測定すること自体が可能であったとしても、Aという活動次元に関する成果とBという活動次元に関する成果のどちらを重く評価するかということは民間企業以上に困難です。仮に明示的な契約を結ぶことができたとしても、その履行を立証することは事実上難しくなります。このことは、採用された幹部職員が努力して成果を挙げたとしても買い叩かれるか、あるいはまったく逆のノーチェックの状態に置かれるか、という可能性をあらわします。
もう一つは昇進が内部トーナメントにおける「賞金」として機能しているということです。内部での昇進トーナメントに参加する職員にとって、外部から幹部職員を採用するということは、トーナメントの「賞金」が減少することに他なりません。このことは、現在在籍している職員の努力へのインセンティブを殺ぎ、「頑張ってもどうせ自分たちは昇進できない」という諦めを招きます。
外部から幹部職員を採用するには、このような様々な「摩擦」をクリアしていく、または無視していくことが求められます。
ただし、外部から幹部職員を採用することが有効と考えられるケースも考えられます。
一つは、外部の候補者が内部の候補者に比較して極端に優れていることが明白な場合です。他の団体・企業において顕著な実績を残している者や、まったく新しい分野で内部において適任者が育成されていない場合などがこれに当てはまります。
もう一つは、内部の候補者同士が共謀して努力を行ってこなかった場合です。言わば内部におけるカルテルを脅かす意味で新規参入者を迎えるというケースが考えられます。
現実には、日本国内において外部からの幹部職員採用はまだ緒についたばかりです。その定着には、今後、多くの人柱を必要とするかもしれません。しかし、そういった試行錯誤ができることも地方自治体の強みでもあると思います。
戸崎将宏
tozakimasahiro@yahoo.co.jp
2004年10月04日
自治体職員のキャリアデザインを考える日記(20)
おはようございます。こんにちは。
今回は、役所にいれば誰でも強く感じることができる、ある活動とそのコストについての話にしたいと思います。
「自治体職員」というと世間の厳しさとは無縁の籠の中で仲良くのんびり過ごしているというイメージがありますが、ちょっと目端の利く人はそれほど放っておいてはくれません。なにしろ、住民から集めた税金を一手に扱っているわけですから、ここには公式、非公式を問わず様々な働きかけがかかってきます。それらの活動は、しばしば議員を通じて行われるわけですが、このような、「他人の意思決定に影響を与えることを意図した利己的な活動」(MilgromandRoberts,『組織の経済学』より)をインフルエンス活動と言い、そのために費やされるコストをインフルエンス・コストと言います。
この働きかけの対象は、首長であるときもあれば、幹部職員の場合もあり、また、一担当者の場合もあります。働きかけの内容や方法によっては手が後ろに回ることもあり、自治体職員にとっては大きなストレスとなっているのです。(「役得」と思っているような人はいつか職を追われることになるでしょう。)
また、インフルエンス活動は組織の外部からのものばかりとは限りません。組織内部においてもインフルエンス活動は盛んに行われます。そして、メンバーの流動性の低い自治体内部においては、そのためのコストは民間企業以上になるのではないかと思われます。
・・・というようなことを書いたところで、夜も遅くなりましたので続きは月曜の夜に書こうと思います。おやすみなさい。(-。_)。。o〇
戸崎将宏
tozakimasahiro@yahoo.co.jp
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↑と書いておきながら金曜日になってしまいました。すみません。<(__)>以下続きです。
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さて、インフルエンス活動とは、言ってみれば選挙運動のようなものです。違いは票の代わりに、予算の獲得や組織の人員増を訴えかけること、そして働きかけの対象が有権者の代わりに意思決定の権限のある経営者や経営スタッフであるという点です。
こう考えると、そこかしこで疑惑になっている裏金問題についての整理が付き易くなります。いわゆるカラ出張やカラ会議の問題は、裏金を作って自分たちで飲み食いしてタクシーに乗って帰った、という倫理的な面で問題視されることが多いですが、そういった視点では裏金問題の本質を見失ってしまいます。裏金問題の本質的な問題は、その使途が組織内部向けのインフルエンス活動に費やされているものであることです。例えば、地方の職安で作った裏金でいわゆる「キャリア組」と呼ばれるエリート官僚を接待する、県警で作った裏金でキャリア警官とゴルフをする、東京に出張して地元の名産を付け届けする、料亭で一席設ける、などです。これらは単に自分が料亭に行きたいから、ゴルフをしたいから裏金を使っているのではありません。そうやって働きかけをすることで組織の意思決定に影響を与えようとしているのです。こう考えると裏金問題の大半が理解できるのではないかと思います(もう一つの使途については後述します。)。「公僕としての意識が足りないことが問題だ!」と言っているだけでは「根性野球」と同じで根本的な解決策は生まれません。
では、組織内部のインフルエンス活動を抑えるためにどのような方法があるのでしょうか。インフルエンス活動は選挙運動ですから、一つの方法としては選挙運動をする機会自体を減らしてしまう、つまりコミュニケーションの機会を減ずる、という方法があります。
窓口部門の課長や出先機関の所長などの現場の管理者にとって、年度の途中でフレキシブルに補正予算を獲得できないこと、人事部門が規則規則といって埒が明かないことなどは大きな不満の一つです。いわゆる官僚制の問題として挙げられる「融通の利かなさ」の問題です。
しかし、インフルエンス活動を抑制する、という面から見ると、予算獲得や人員獲得の機会が制限されていることは「選挙運動期間」を制限している、と考えることができます。つまり、年中フレキシブルに予算や人員を獲得できるということは、予算編成の時期以外にも陳情と接待ができる、ということになってしまいます。これに対し、原則的に年に一回しか働きかけをする機会がなく、それ以外の時期の働きかけには一切応じない、という原則にコミットすることで「選挙運動費用」、つまりインフルエンス活動に要するコストを節約している、と考えることができます。
同じことを、対住民向けに考えると、いわゆる「お役所仕事」の特徴の一つである融通の利かなさは、インフルエンス・コスト節約の手段と考えることができます。もし自治体が決められた規則に対してコミットできなければ、税金を払う前に値切り交渉をしないのはもったいない、ということになります。例えば納税通知に「あなたの住民税額は○○○○円です(応交渉)。」と書いてあったと想像してみたら公務員の「融通の利かなさ」にも一定の理由があることが理解しやすいと思います。
しかし、この融通の利かなさは別の問題を生むことになります。先ほどの裏金の例で言えば、年度途中での交渉の機会が制限されるために、必要な事務用品が購入できない、だからカラ出張で作った裏金でコピー用紙やパソコンを買う、というもう一つの使われ方をすることになります。これは、インフルエンスコストを節約したために別のコストが生じてしまう例と考えることができます。