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ある非・真面目公務員の仕事史
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ある非・真面目公務員の仕事史
2003年09月20日~2004年01月20日
2003年09月20日
「ある非・真面目公務員の仕事史」連載開始
当ホームページでは、日本経済新聞の「私の履歴書」の向こうを張って、「1公務員の仕事史」の連載を行うこととした。(9月22日から開始)原則として、平日に連載を行い、ウィークエンドは、その感想や他の話題を提供したいと考えている。この連載で重要な点は、個々の自治体職員が必ずしも「平々凡々」に仕事をしてきたわけではなく、危機もあり、嬉しいこともあって誠にドラマティックであり、そして何よりもその人自身がキャリア形成されて、「プロ職員」になっていく「生き様」を見ることができるということである。その意味では、当会のメンバーの中でも、まずはベテランの方に口火を切っていただき、中堅職員がそれに続いていくというスタイルをとっていきたいと考えている。
連載に対するご意見・ご感想は筆者が最も望むものである。このHPへご投稿いただくか、問い合わせ先にご連絡をいただければ、筆者にお伝えし、ウィークエンドは、双方向の意見交換の場になっていけばと考えている。
それでは、22日の連載開始にご期待いただきたい。
2003年09月21日
ある非・真面目公務員の仕事史No1
[はじめの一歩(その1)]
生まれも育ちも、そして死ぬのも福岡(全国区では九州・博多と言った方が通りがいいか)という、市役所生活28年の田舎者が、ささやかにやってきたことを牛のヨダレ風に細々と書きつづってみたいと思います。酔狂に富んだ方は、しばし立ち止まって耳を澄ましてみてください。
まずは正体をはっきりさせておきます。氏名は、秋吉 誠。昭和27年生まれの51歳です。よく団塊の世代といわれますが、厳密には団塊の世代が食い荒らした道をトボトボと歩いている団塊直後の世代です。現在の所属は、福岡市総務企画局職員研修所で、副所長という立場にあります。これから書いていくことは、全く私の個人的見解です。もちろん公務員である以上、公的側面を逃れられないのは重々承知していますが、まぁたわいもないおしゃべりですから、口が滑ったところはご容赦下さい。
小さい頃から、機械いじりが好きだった(バラすのが専門で、組み立てはヘタだった)私が、エンジニアに憧れて、工学部に進んだのは当然の流れでした。もっとも、現役の時は機械工学で受験しておきながら、一浪するとより難易度の高い(?)電気工学に鞍替えするなど、ええ加減な選択のような気もします。
さらに言えば、気分としては法学部や農学部にも関心があったから、時の勢いで自分の進路を決めたようなものです。それにしても、今の子ども達は、高校に入学する時点から理系・文系を選択せねばならず、全く無茶な教育をやっていると思います。
電気工学に進んだ私の就職先としては、東京か大阪のメーカーしかないかなぁ、という漠然とした思いがありました。大学3年(1973)の夏休みに企業実習が行われた。東京でアゴ足付きで、単位までもらえるというので、生まれて初めて花の都に上ってみました。自分が乗っている電車と同じ方向に電車が走る複々線を見た時には、度肝を抜かれました。実習先は、川崎にある東芝の中央研究所。寮は、横浜の磯子でしたから、毎日、京浜急行で通勤の真似事を2週間ほど経験しました。
与えられたテーマは、IC(集積回路)の基盤となるシリコンの単結晶を輪切りにしていくために、炭素の土台に接着剤でくっつけるのですが、あまり接着力が強すぎるとシリコンが歪む怖れがあります。色んな接着剤を試して歪みの具合を「赤外光弾性写真」に撮るというもの。当時まだ珍しかったポラロイドを惜しげもなく、バンバン使って撮りまくっていたが、考えてみれば最先端の技術の開発のホンの一部とはいえ経験させてもらったわけです。
仕事そのものは、3時のおやつもあるという、研究室的雰囲気ですこぶる居心地は好かったのですが、ある日、通勤の途中でとんでもない経験をしてしまいました。毎日、京浜急行で通っていると、沿線の墓地が目に入いります。当然、その墓石はホコリまみれで真っ黒に汚れています。それを見た瞬間、絶対東京や大阪に住みたくない、という激しい拒否反応でした。
実習から帰ってきて、真剣に考えたことは、どうやったら地元福岡から離れずに就職できるかということでした。第1次オイルショックが発生したのは、その年の10月。すぐには就職戦線には異状がなく、私のクラスは50名に対して約2000社の中から好きなところを選んで、主任教授の推薦状をもらえばOKというのどかさでした。
しかし、地元から離れないとなると、選択肢は極めて限られます。選択肢は3つでした。長崎香焼造船所を擁する三菱重工業、地元福岡が本社の九州松下、お隣の北九州市に本拠を構える安川電機。まぁ手頃ということで、安川電機の会社訪問に行ったのが、4年生(1974)の5月1日。当時は、5月1日が就職活動の解禁日で、いきなり筆記試験や面接なんて話になって、家に帰り着く前に合格電報が届いているという手際よさ。
しばらくしてから、安川電機の大学の先輩から、出てこいと言われてノコノコ行ったら、役員専用のクラブで大接待してくれて、奨学金を出すから大学院を出てから入社しろと言われて、あわてて大学院入試の準備を始めた次第。(つづく)
2003年09月22日
ある非・真面目公務員の仕事史No2
[はじめの一歩(その2)]
当時は、大学院への進学が1/3程度であったため、最下位(?)で滑り込みセーフ。それにしても、あんな難しい問題が少しは解けたんでしょうね。外国語は、英語とドイツ語ですが、それを同時に解かなければいけない。ドイツ語はウンウン考えながらしか出来ないので、英語の方は斜め読みしながら答案用紙を埋めていきました。その学力が30年ぐらいたつと、痕跡も残っていないというのは、やはり教育方法に問題があるんじゃないかなぁ。ともあれ、順調な大学院生活に異変が起きたのは、当時の恋人(まぁ今の女房ですが)が、福岡市役所の採用試験を受けるので、付いてきてくれと頼まれたことがきっかけです。 私の職業の選択肢に、医者・教師・坊主・公務員の4つは、全く眼中にありませんでした。どれも坊主丸儲け[という諺がありますから、関係者の方がいらっしゃったらご容赦を]という感じで、私の生き方にはピンと来ませんでした。せっかく付き添いで行くのなら、受験料が要るわけでもないので、私も受検することにしました。因みに女房は薬剤師なので、「衛生管理」で、私は「電気技術」で受検。一般教養科目はどうということはなかったのですが、電気工学の専門科目が恐ろしく難しい。ほとんどチンプンカンプンという状態で、ガックリ疲れました。市役所に入ってから上級試験の問題のチェックを依頼されたことがありますが、ほとんど大学院の入試級ぐらいで、答えが分かっていても四苦八苦したぐらいですから、私に“電気”は向かないんでしょうね。 ところが、1次試験の結果は、女房は不合格、私は合格。全く、世の中は上手くいかないものです。そこで、ハタと考えた。私の第一の望みは、東京や大阪に出ていきたくないこと。だとすれば、転勤のない福岡市役所は理想的ではないか! 2次試験は、面接だけだから“口先男”の私には、何の問題もなし。専門面接では、試験官が困惑するほど高度(?)な回答を行い、集団面接では大半が反撥するであろう問題提起を行って、一手にさばいていたため、試験官から「弁論部ですか?」なんて尋ねられてしまった。
当然、採用者名簿には登載されたものの、実際の採用通知が来るのは、年度末ギリギリですから、入社を前提として奨学金を受けていた安川電機と、大学院の対処が困りました。安川電機には、礼を尽くして奨学金を返納。大学院の方は、修士論文以外の単位は全部取った上で、退学届けを出しました。入る方は、結構大変でも、辞める時は、あっさり受理されるんですね。後から考えれば、大学院は夜でも研究は続けられたので、別に辞めなくても良かったのですが、そんなアドバイスをしてくれる人は、当時の市役所にはいませんでした。 私が福岡市役所に入庁したのは、昭和51年(1976)4月1日。電気技術職として募集倍率50倍の難関を突破してでのことです。ちなみに、私の初任給は86,800円。大学院時代は、小学5~6年生の塾と、高校2年生の家庭教師、予備校の数学講師のバイトに加え、奨学金と我が家からの小遣いで、月に10万円の生活。しかも自宅から通っていたから、全部小遣いなわけ。要するに、フリーターの最先端をいっていたわけです。(つづく)
2003年09月23日
ある非・真面目公務員の仕事史No3
1ヶ月ちょっとの新規採用職員研修を終えた後、配属されたのは[清掃局作業部東部清掃工場開設準備担当副主幹付]。つまり建設の最終段階にあった東部清掃工場の施設要員としてでした。
福岡市の西部地区には、昭和47(1972)年に竣工した西武清掃工場があったものの、東部地区のごみ処理施設は、「東塵芥処理場」と称する焼却施設で、ごみを焼却するというより建物全体から、モクモクと黒煙を発生するような代物でした。その中で、作業員は古タイヤを放り込んだりしながら、燃えにくいごみと格闘していました。作業が終わって、風呂に入いるとススが風呂底に堆積するぐらい、凄まじい作業環境でした。近くにあった埋立場には、処理しきれない生ごみも一緒に埋め立てていたため、地面は真っ黒。その正体は、何層にも重なったハエの大群で、その上空を真っ黒なカラスが舞うという世紀末的状況でした。時々、“自然発火という名の火災”が発生しましたが、どうもごみの量を減らすために、故意に火をつけたのではないかという気がします。
東部清掃工場の出現によって、状況は一変し、ハエが激減したのを見て、やはり近代的だなぁ、と素直に感動していました。建設中は、プレハブの現場事務所にいたのですが、我々新人には自分の机すらなく、ひたすら清掃工場とは何かという研修を受けさせられました。後から考えると、その道のプロが一から教えてくれるわけですから、こんな有難いことはないのですが、右も左も分からない人間にとっては、かなり苦痛です。私は、心根が素直(?)なもので、分からないことがあると、すぐに質問します。どこの世界でもそうですが、業界用語がいっぱい出てきます。「EPって何ですか?」EPというのは、電気集塵器のことで、ごみを燃焼すると大量の煤塵が出ます。これをEPで除去することで、煙突から煙が見えなくなるのです。EPはElectric Preciptaterの略ですが、意外とフルネームで理解している人は、少ないのです。組織というのは、面白いもので、こんなささいな質問が、本庁の耳には「現場で色々質問している威勢のいい兄ちゃんがいる」という風に伝わります。そのためかどうか知りませんが、わずか1年で、現場を離れて本庁に転勤になりました。もう少し現場にいたら、当時の情勢から地下鉄建設部門に配属された可能性が大きいので、人事異動なんてものはモノの弾みみたいなところがありますね。
市役所に入って初めてのボーナスは、手取りで104,958円。その時は、仕事をやっているという実感はなく、研修を受けていただけですから、「こんなにもらっていいのかなぁ」というのが素直な気持ちです。その気持ちを今まで持ち続けることが出来ていれば、ちったぁ真面目な公務員になってたんでしょうね。(つづく)
2003年09月24日
ある非・真面目公務員の仕事史No4
[はじめの一歩(その4)]
東部清掃工場の試運転が始まると、直体勢になりました。清掃工場は、盆も正月も関係なく24時間稼働していますから、夜間勤務が始まるわけです。1回の勤務時間が13時間、1直が朝の8時半から夜の9時半まで、2直が夜の8時半から翌朝の9時半まで。要するに1週間の内、4回しか出勤しないわけで、昼間に出るのは2回しかないという生活です。夜勤を1回経験すると、寿命が数日縮むという妄説(?)がありますが、やはりカラダには決してよくないようです。悲惨だったのは、風邪をひいて最悪の体調の中で、2晩続けて夜勤を経験した時には、めげました。夜勤でもっとも辛いのは、午前3時から5時の間にトラブルが起こった時です。この時間帯は、目は開いていても身体が動きません。私は、夜勤につく時は、清掃工場の中をグル~と周りながら、機械達に「今夜はオレが当直なんだから、故障したらダメだよ。オレはお前達を修理する力なんかないんだからね」と言い聞かせました。直は、2人1組で4組あるのですから、4ヶ月で相棒が変わります。しばらくすると、誰の直の時にトラブルが発生するかが誰の目にも明らかになります。不思議なことに、トラブルメーカーというのは、必ずいるのです。幸い、私はおまじないが効いたせいか、重大なトラブルに巻き込まれたことはほとんどありません。でも世の中面白いもので、トラブルに直面した人間はメキメキ力をつけます。まさに“ピンチはチャンス”で、自力でトラブル処理を体験した人間は、少々のことには動じなくなります。現在の清掃工場は、小型の火力発電所と思っていただければ理解しやすいと思いますが、それだけに重大なトラブルが起こると大変なことになります。私が夜勤をしている時に、非常電源系統という絶対に停電してはいけない電気系統が停止してしまいました。すると焼却排ガスを冷却するボイラー(まあ瞬間湯沸かし器の親分ですね)に水が回らなくなり、そのままの状態が続けば、ボイラー全体が熔解して大事故につながります。その時の現場の雰囲気を文字で伝えることは出来ませんが、工場全体が不気味なうなりを上げて、軋んでいるという感じです。幸いに、まだメーカーの試運転要員が残っていたのですが、彼は実質的に1人で、テキパキと対処し、大事故になる前に修復しました。それを目の当たりに見ていると、まるで人間業とは思えないように瞬時の判断力と決断力で見事に乗り切りました。私は呆然と彼の所業を眺めていただけですが、なるほどこれがプロか、というのを実感した一瞬でした。(つづく)
2003年09月25日
ある非・真面目公務員の仕事史No5
[南部清掃工場を造る(その1)]
東部清掃工場での生活を1年で終え、[清掃局管理部建設課]に異動になりました。いわゆる本庁ですね。私の直属の上司である係長は、塩川延孝さん。ごみの業界では、この人を知らない人は潜りというぐらいの全国銘柄のおっちゃんです。塩川さんとの出会いが、私の一生を決定したと言っても過言ではありません。まさに私の師匠です。後年、塩川さんが市役所を定年退職される時、私は送る会の幹事を買って出ました。私の先輩達もたくさんいたのですが、「塩川の死に水を取るのはオレだ!」ということに誰も異論がありませんでした。一切の手配を1人で行い、『塩川さんの卒業を残念がる会』と名づけていました。ある人が“とっても”と入れて欲しいとの要望があったので、吊り看板に『塩川さんの卒業を“とっても”残念がる会』と吹き出しで入れました。この塩川さんは、仕事においては妥協を知りません。24時間働けますか、の権化みたいな人で、資料一つ作るにも推敲に推敲を重ね、後世に残る芸術品(?)を生み出していました。清掃工場というのは、可燃性ごみを衛生的に焼却する施設です。簡単に言えば、ごみ収集車(パッカー車といいます)で集めてきたごみを、塵芥壕と呼ばれる巨大なピットに溜めて、焼却炉で燃焼し、灰は埋立処分します。焼却排ガスを冷却する過程で得られる蒸気で発電を行い、排ガス中に含まれる有害物質を除去してから煙突から出すのです。ごみを衛生的に処理するという観点からすると、清掃工場から臭いや煙が出ることは論外ですが、細心の注意を払わないと、最近の清掃工場でもトラブルが起こります。日本の場合は、ごみ処理の74%が焼却で、世界でも焼却の割合が高い国です。ダイオキシン問題が注目されてから、焼却を止めようとの運動も盛んになりましたが、いくらリサイクルが進んでも、焼却するものがなくなるというのは幻想だと思っています。私が担当したのは、南部清掃工場です。普通、焼却施設は市域内に建設するのが原則です。ところが、福岡市の場合に、南部地域に適地がなかったため、お隣の春日市に場所を求めました。こう書けば、福岡市と春日市の境に建設するんだな、と思うでしょう。ところが実際には、春日市と大野城市の境、つまり春日市の南部にあたるところです。こうなると、春日市の住民はもちろん、大野城市も黙っていません。ものすごい反対運動が起こって、計画が大幅に遅れていました。私がタッチした頃は、何とか住民合意もとれて、実際の建設計画を進めていましたから、反対運動の現場を実体験するのは、ずっと後になってのことです。清掃工場は、石炭を生炊きしていた頃の火力発電所と原理的には同じです。イメージとしては、1辺が120mぐらいで高さが13階建てぐらいのビルに煙突が付いているという感じですか。一般の建築物と違って、焼却炉に合わせて建物を設計します。つまり、建物は焼却炉の入れ物なのです。まぁ、奈良の大仏さんと同じで、大仏殿に当たるわけです。ということで、まずは大仏さんを造るメーカーを選定するわけです。今でも状況は変わりませんが、焼却炉の契約金額は、常に当時の福岡市の単独事業での契約金額の記録を更新するぐらい高額です。従って、どういう発注方式にするかは、御前会議(?)にかかる事項です。そのため、要求される資料も膨大なものとなります。その上、仕事師の塩川さんが陣頭指揮をとりますから、新婚早々の私も容赦なくこき使われました。可哀想なのは、焼却炉メーカーで、土日も関係なしにヒアリングを行うわけです。メーカーの技術者は東京や大阪から来られるわけですが、役所が土日に仕事をするわけがないのだから、何故福岡に行くのか、と奥さんに詰め寄られた人もあったそうです。(つづく)
2003年09月26日
ある非・真面目公務員の仕事史No6
[南部清掃工場を造る(その2)]
一般に清掃工場を建設するには、計画段階から10年かかると言われています。現在は住民合意形成の難しさ、環境影響評価、施設の複雑化及び労働基準法(無茶な突貫工事ができなくなったため)等々のため、もっと時間がかかるようになっています。
私は、昭和52年(1977)4月から昭和62年(1987)4月まで、丸10年間[清掃局管理部建設課]にいました。現在の人事制度では不可能な記録ですが、当時でもかなり珍しい存在でした。おかげで、清掃工場の計画段階から竣工までを一貫して手掛けるという貴重な体験をさせてもらいました。優秀な人間にとっては、2~3年で一通り事を学ぶことは可能でしょうが、ごく普通の人間にとって、このようなスローキャリアを経ることは決して無駄ではないのです。
私は経験主義を振り回すつもりはありませんが、普通の人のモノを見るスパンは、せいぜい長くても過去10年間です。ところが、永年同じ仕事をしていると過去30年スパンでモノを考えるようになります。経済周期60年説もありますが、30年のスパンでモノを見ていくと、あまり極端な仮説をとらずとも、今後のトレンドが見えてくる場合もあります。
さて、現場経験1年の人間が、いきなり清掃工場の建設計画にかかわったらどうなるか。もちろん、何人かの先輩はいるのですが、現在のように細分化された職責になっていないので、自分に割り振られた仕事は、自分で解決するしかありません。
ともかく、ひたすら勉強しながら、実物に取り組むしかないわけです。現在は、まずこういう無茶なことはやりません。でも考えたら、今では係長がやるような仕事を新米の担当者がやっていたわけですから、嫌でも実力(?)はつきます。
地元交渉が一段落したら、焼却炉メーカーを選定するのですが、前述したように選定方法は、助役をトップとする御前会議で決まります。我々は、同席することを許されないのですが、こっそり録音したテープから議事録は作らなければなりません。そのため、会議室の扉に耳を当てて、切れ切れの会話をメモにとっていました。
すったもんだのあげくに、焼却炉メーカは「日本鋼管」に決まりました。見積もりのための資料作成だけでも、1社数千万円かかるという事業ですから、各社とも血眼の入札合戦です。そのため、ごみ処理施設の建設をめぐっては、汚職の事例が多々ありますが、純然と技術とコストから決定しようとしている我々からすれば、実に不愉快な構図です。
ちょっと煩雑ですが、簡単に発注方法を説明しておきます。一般に、官庁が工事を発注する場合は、全ての物品を網羅した設計書を作って、それに見合ったものを作らせる「仕様発注」という方式をとります。ところが、焼却炉の場合は、各社独特の機械ですから、その方法がとれません。従って1日の焼却量だとか、排ガスの排出基準のような性能面から規定します。この方法を「性能発注」といいます。
なぜ官庁工事が民間に較べて3割高いと言われるかというと、仕様発注によって全てをキチンと決めているため、受注者の裁量の余地がないのです。最近は、この弊害に気づきある程度柔軟になってきていますが、裁量の幅が大きくなるほど、担当者の負担は増します。まぁ、この辺は永遠のジレンマなんでしょうね。(つづく)
2003年09月29日
ある非・真面目公務員の仕事史No7
[南部清掃工場を造る(その3)]
焼却施設は、「性能発注」によって日本鋼管に決まりましたが、実際に建設するためには、それを図面にしなければいけません。メーカーとしては、一旦受注したら、いかにコストを切りつめるかに必死になります。市側としては、「性能発注」をタテにより良いモノを要求します。この戦いは熾烈を極めます。メーカーの人間が、あまり市側の要望を聞き入れると、社内での立場が悪くなります。実際、そのために退社された方もいらっしゃって我々としても後味の悪い経験をしたこともあります。
大仏さんの設計と併せて、大仏殿の設計も必要となります。建築設計を担当したのが、日本最大の建築設計事務所である「日建設計」。いかに清掃工場が特殊とはいえ、建築工事は「仕様発注」の原則が貫かれます。
ちょと考えてもらえば分かるのですが、大仏さんの設計をやりながら、大仏殿の設計をやるのは大変なことなのです。建築物は、鉄骨・鉄筋コンクリートですが、機械の正確な重量や取り付け脚の位置が決まらない内に、建築の図面を引かなければいけないわけです。理論的には、焼却炉の設計を完全に終えてから、建築設計にかかればいいのですが、竣工時期が決まっていますから、同時並行作業を余儀なくされるのです。
聡明な読者の皆様は、もうお気づきでしょうが、そもそもの工期の設定がオカシイというのは、真実です。しかし、“真実”は常に“現実”に裏切られます。当時の福岡市の状況は、可燃性ごみが溢れかえっていて、とても余裕のある工期など設定出来なかったのです。皮肉なことに、南部清掃工場が竣工した昭和56年(1981)からは、第2次オイルショックの影響で、長期低成長時代に突入し、燃やすごみがガクッと減ったのです。
現在のように、平成大不況の時代ならば、余裕のある工期がとれるかというと、多分無理だと思います。なぜなら、そもそもの着工時期が予算削減のあおりでジリジリと引き延ばされ、いよいよどうしようもなくなってからしか、ゴーサインが出ないからです。
つまり、大仏さんと大仏殿の関係は、いつの時代にも頭の痛い問題なのです。しかも、大仏殿の方は、「仕様発注」ですから、機械基礎が1個違っていてもマズイのです。実にバカバカしい話ですが、世の中の仕組みというのは、担当者を困らせるために存在するのか、という気がしてきます。
日本の建設業界は、実に不思議な力関係にあります。実際にモノを建てるのは、ゼネコン(まぁ正確には下請け・孫請けの建設業者ですが)です。設計コンサルタントと称される建築設計事務所は、適当な図面を描いて涼しい顔をしているわけです。現場で矛盾が生じれば、ゼネコンが何とかするものと相場が決まっています。
私の感覚からすれば、こんなバカなことはなく、設計ミスであれば、当然設計事務所がカバーするのが当然だと思います(実際、後年そうやって責任をとらせたことがあります)。
しかし、ゼネコンはよほどのことがない限り、偉そうな設計事務所の指示に従っています。
そのため、設計事務所は何度も同じミスを繰り返して、結果的に資源のムダな消費を促進しているのです。
日本一の「日建設計」も同じようなものでした。そもそも、約束の期限までに図面が出来上がらない。お盆の真っ最中に、東京から届く図面を待っておく時間が惜しくて、福岡空港の航空貨物の仕分け場まで、取りに行ったこともありました。
極めつけは、タイムリミットがせまっていたため、日建設計の東京本社まで押しかけて会議室を占拠して、出来上がった図面を片っ端からチェックしたことでした。その場合に、私が若造であることは何の関係もありません。契約で決められた期間内で何が何でもやってもらうという強烈な意思をこちらが示せば、相手も動かざるを得ないのです。(つづく)
2003年09月30日
ある非・真面目公務員の仕事史No8
[南部清掃工場を造る(その4)]
すったもんだで、ようやく建築の設計図が出来上がり、それに基づいて積算してみると、予算金額をオーバーしていることが判明しました。ものすごい物量のものを積み上げていくので、最後の最後にならないと総金額がはじき出せません。
予算オーバーした分は、何とかして削らなければいけません。清掃工場の建築関係の費用は、大半が躯体(つまり柱や壁といった構造部分)が占めてますから、予算がないからといって柱を数本抜くというわけにはいきません。仕上げ材や設備を少しずつ落としていくしか方法がないわけです。
東部清掃工場では1台だったエレベーターを、南部清掃工場では2台導入しました。これは、1台では作業員も見学者も一緒に使用するため、エレベーター内にごみの臭いが付いてしまうのです。それを避けるために、見学者専用の通路とエレベーターを設置したわけです。一見ムダに見える部分ですが、清掃工場の姿を広く宣伝するためには、不可欠な舞台装置です。
その虎の子のエレベーターを、建築担当の係長が削れと、命令してきました。私は、以上のような理念の下に計画したものであるから、断固として拒否しました。エレベーター1基分の金額は、1,000万円。その分を、私の担当の部分から捻出することにして血眼になって、少しずつ削り出しました。当時は、まだまだ見学者動線に対する認識が低かったのですが、ここを守りきったために、以後の清掃工場の計画では当初からキチンと配置されています。
設計は、内部ばかりの話ではありません。南部清掃工場は、山を切り開いて開発したため、既存の樹木をどこまで残すかが、重要な課題でした。工事だけのことを考えれば、バッサリ切るのが楽なのですが、周辺環境との調和は最大限尊重しなければなりません。実際、工事中も業者から何度も要請があったにも関わらず、必死で守り通した10数本の檜のおかげで、竣工当初から、森の中の清掃工場のイメージを保つことが出来ました。
ずっと後になって、環境グループが主催する集会で、南部清掃工場のために緑が破壊されたとの発言があったので、「現地を見てくれ。南部清掃工場のところだけが緑が残って、周辺は乱開発されているじゃないか。南部清掃工場は緑化保全にも重要な役割を果たしている。」と反論しましたら、会場はシ~ン(^-^)
いざ工事が始まったら、図面の上で論議しているのは桁違いの難問が次々と湧いてきます。まぁ実物があるだけ、実感はしやすいのですが、待ったなしで決断しなくてはいけません。通常、官庁の決裁では、業者さんから上がってきた図面をチェックして、係長→課長と上げていきます。そのため、業者さんからの提出期限は、厳しく要求するクセに返却期限は空欄にしろというのが多いのです。
我々としては、即断即決しかないので、必ず返却希望日を明記してもらって、何が何でも間に合わせるという覚悟でした。相手が1週間半徹夜で描いてきた図面は、こちらも半徹夜でチェックして返却するという作業の連続です。
実際、現場が始まると、私が現場事務所を出るのが午前1時か2時という生活でした。まぁ、若かったからやれたんでしょうね。圧巻は、工期がないのでコンクリート打設工事を36時間連続でやった時です。普通は、鉄筋がちゃんと入っているか、電気配管の数量は間違いないかを2~3日かけてチェックして、コンクリートを流し込むという作業を行うのです。ところが、それんな余裕はないということで、チェックをやった片端からコンクリートを流し込んでいくという前代未聞の作業をやったわけです。最後のコンクリートを打ち終わった時は、業者さんも我々も床に座り込んで、立つ気力もありませんでしたが、どうやら間に合いそうだという安堵感とやれば出来るという爽快感で胸がいっぱいでした。(つづく)
2003年10月01日
ある非・真面目公務員の仕事史No9
[南部清掃工場を造る(その5)]
清掃工場が巨大建築物ということはご理解いただいたと思いますが、そんなものが建設されると周辺にどんな影響を及ぼすのか?
どうしても避けられないのが、ごみ搬入車の集中の問題と、直近に対する圧迫感です。特に福岡市は、全国でも珍しい夜間収集を行っていますので、車両騒音が気になります。
それに次いで、問題となるのが電波障害です。電波障害に関して法理論的には色々な解釈があって、どこまで保護するかというのは難しい問題です。今は流行りませんが、アマチュア無線なんかは保護の対象外です。一般のテレビ受信に対しては、広い意味での環境権の概念から保護するようになっています。
電波障害には、建物の陰になるために発生する“遮蔽障害”と、建物に乱反射した電波が悪戯する“反射障害”があります。“遮蔽障害”の方は、建物の図面が出来上がると、ある程度障害地域の予測が出来ます。それに反して、“反射障害”は、ほとんど予測がつかず出たとこ勝負の間がります。
世の中には、NHKが中心となって『電波障害防止協会』という組織があります。電波障害の調査においては、ここのお墨付きが必要となります。私が企画した調査では、当時一般的でなかったビデオ録画による評価も組み入れたのです。写真だけの評価では、相手方に納得していただけない場合もあるだろうということで、取り入れたわけです。ところが、そんな手法は新しすぎて、『電波障害防止協会』としては認定証が出さないという。もちろん、ビデオ録画の調査を外して認定してもらうことは可能だったのですが、より精度の高い調査故に認定出来ないというのなら、こちらから願い下げということで、無認定で押し通しました。
ここで“先住権”という概念が登場します。つまり、自分の家を建てて、ちゃんとテレビが見えていたのに、後から建物が建ったために障害が発生した場合は、補償の対象となります。ところが、すでに障害の発生した地域に、新たに家を建てた場合は、それを承知で移ってくるわけだから、自前で何とかして下さい、というわけです。
話がややこしいのは、南部清掃工場の周辺は、山を切り開いて、住宅団地の造成が終わったばかりの段階でした。従って、工場建設に着手した時点では、数軒しか家が建っていなかったのに、電波障害が問題になるくらいに工場の姿が出来た段階では、辺り一面住宅が張りついてしまいました。つまり、“先住権”が主張出来る住民の方々がワンサと増えたわけです。
電波障害対策としては、大きく分けて2つあります。一定の地域全部をカバーする共同受信方式と個別の住居に対応するアンテナ方式です。確実なのは、共同受信方式ですが、お金もかかりますし、工事の時間もかかります。
共同受信の場合は、道路に電線を敷設するわけですが、電力会社の電柱やNTTの電柱(電信柱に電力会社とNTTの札が貼ってある場合は、上に張ってある方の持ち物です)に簡単に間借り出来るかというと大間違い。基本的には自前で電柱を敷設しなければなりません。ところが、道路管理者である市は、道路の占有許可をなかなか出しません。同じ市でも簡単に許可が下りないのに、まして隣の隣の市(南部清掃工場が建設されている春日市のお隣の大野城市に電波障害が発生したのです)ですから、余計複雑な話になってしまいました。
やっと市の占有許可が下りたと思ったら、今度は警察が年末は交通混雑になるから、道路使用許可を下ろさないと…。清掃工場を建設するぐらいだから、そんなに交通量の多いところではないのです。ところが、所轄の警察署管内は一律にダメだと言う。障害が発生しているご家庭からは、大晦日の紅白歌合戦がちゃんとした画面で見られるのかと、矢の催促。何とか頼み込んで、ギリギリ間に合わせることが出来ました。
電波障害は、その年の夏頃からポツポツ発生していて、苦情がある毎に現地に出かけて確認します。途中からは、私に名指しで電話が入ってくるようになります。一応、その地区の自治会長さんを通してお話をさせてもらいます。段々我々の事情が分かってこられると、自治会長さんが我々寄りの発言をされることが多くなります。すると障害の発生したご家庭から見れば自治会長さんが我々の味方のように思えて、自治会長さんが責められる場面も出てきます。いつの時でも、地域のとりまとめの立場の方は大変なんだなぁ、と思います。
電波障害対策で難しいのは、障害地域の確定です。道路1本で認定していきますから、当然外されたところは面白くありません。自分の所のテレビが古くなっていることやアンテナの不備を棚に上げて、我々に何とかしろと要求されます。そんな時こそ、『電波障害防止協会』のグレードを上回った事前調査が役に立ちます。分厚い調査資料を持っていって、滔々と範囲外であることを説明します。こうなりゃ、気力の勝負です。それで判定を覆したことは一度もありません。
清掃工場において煙突による電波障害は未知数の世界です。風呂屋の煙突と違って、ちょっとしたビルぐらいの大きさがあります。南部清掃工場の煙突は、クローバー型です。東京の赤坂見附にあるホテルニューオータニ・タワーと同じ形です。だって、設計事務所が同じ日建設計ですから。なぜクローバー型かというと、煙突の壁面を凹型にすることによって、テレビ電波の反射障害を防止するというわけです。
この理論を証明するため、NHKが実際に調査を行い、一応効果があることが確かめられ、私も出演して、全国放送で流されました。それをちゃんと青森で見ていた知り合いがいて、「見た、見た」と知らせてきました。(つづく)
2003年10月02日
ある非・真面目公務員の仕事史No10
[南部清掃工場を造る(その6)]
変な話ですが、消防署にとって清掃工場は鬼門です。
一般の事務所ビルなんかに比べて、遙かに複雑な構造だからチェックするのが大変なのです。
一般に建築物を建てようとすれば、建築確認申請なるものを受けなければなりません。最近は、民間の建築主事なんてのも登場して、市役所の建築主事の存在が大きく揺らいでいます。官庁が建築物を建てる場合は、建築確認申請の代わりに「計画通知」というものを提出します。まぁ内容的には同じようなものです。その際、消防署の同意が必要となります。つまり、ちゃんと消防法の基準に適合した消防設備が備わっているかどうかを図面の段階から審査するのです。
「踊る大捜査線」の警察と違って、消防は現場の力が圧倒的に強い。いくら本局の予防課がOKを出していても、実際に竣工検査に来た所轄の消防署がダメを出せば、泣く子と地頭には勝てません。
南部清掃工場は、福岡市外に建設しているため、福岡市の消防の出番はありません。春日・大野城消防組合が対応します。まぁ身内だから大目に見てもらえるわけではないのですが、市外で仕事をするというのは、ことごとく面倒なものです。
消防署と最初に検討するのは、清掃工場のどこを防火区画とするかです。清掃工場のかなり部分は焼却炉ですから、その部分は特例措置で、“防火区域対象外”となります。実際のところ、建物の大半が防火区域対象外なのです!
消防設備の解説なんか延々とやっていたらキリがありませんが、防火区画の壁を貫通するダクト(換気用などの鉄の筒)には、防火ダンパ(遮断用の板)の取り付けが義務づけられています。ちょっと想像してもらえば分かると思いますが、ごみ焼却用の巨大なダクトの途中にダンパなんてつけるわけにいきません。従って、適用除外となります。ところが、その横を通っている換気用の小さなダクトには規定通りダンパが必要です。同じ壁を貫通するのに、そこだけチマチマと消防法を適用してもしょうがないのに、法は法です。
一事が万事、こんな調子で作業を進めていくわけですから、気の遠くなるような打ち合わせが必要となります。自動火災報知器はどこに付けるのか、屋内消火栓の適用範囲は、スプリンクラーは必要か、消化器はどこまで置くか…。ごみを燃やす時に最初だけ灯油バーナーで着火する必要があります。そのため、ハロン消火設備が必要となりますが、その区画の取り方によって、予算が全然違ってきます。まるで神学論争みたいな地道な作業が続きます。
私事ながら(まぁこの書き物全体が私事なのですが^-^;)、私のオヤジは消防吏員です。当時は現役で仕事をしていましたから、消防の皆さんのご苦労は人並み以上に理解しているつもりです。そのため、計画の最初の段階から徹底して消防署と話し込んで、最終的には全ての設備を図面に書き込んで、OKをもらいました。
ご存じの方もあるかと思いますが、自動火災報知器が作動した場合、事務室等に設置されている受信盤に位置が示されます。これは、窓式といって「何階の何号室」というような表示になります。ところが、清掃工場は部屋数だけでもべらぼうに(実際に数を数えたことがありませんので…)あるし、だだっ広い機械室だったら、「その第4区画」なんて言われてもピンと来ません。
そこで誰でも考えつくのは地図式にすればいいじゃないかということです。ところが当時の(今がどうなっているかは勉強不足で…)消防法では、「地図式のものは副受信機として認めない」というのです。清掃工場は中央制御室で24時間監視・制御を行っています。そこに2台(主受信盤と副受信盤)を置くなんて、経費的にもスペース的にもバカバカしい限りです。となれば答えは簡単で、「地図式を主受信盤」と認めてもらえばいいわけです。
ところが、実際に防災監視盤(といういかめしい名前になります)を作るのは、大阪にある日本信号防災の工場です。そして作った防災盤は、その地域の消防署で認定検査を受けることになります。となると、大阪の消防署と交渉をしなければなりません。まだ規制緩和なんて言葉すらない時代ですから、当初は全く相手にしてもらえませんでした。しかし、私にはこの方が、確実に機能的だという確信がありましたから、全く動じることなく押し通しました。記憶が正しければ、全国初の事例だと聞いています。
ようやく竣工検査までこぎつけて、消防署の方が丸2日かけてじっくり検査されます。通常色々な不備が指摘されますから、ある程度の改善工事は覚悟していました。ところが、出てきた言葉は「なぜ地下室に連結散水設備がないのか?」という質問です。連結散水設備というのはスプリンクラーみたいなものです。確かに設備基準を詳しく読めば、設置が必要なような気もします。しかし、今さらそんなことを言われても、大規模な改修工事が必要ですし、一日も早く工場の操業を始めるのが至上命令でした。
そこで単身で、春日・大野城消防本部に乗り込んで、幹部連中と直談判です。真っ先に言われたのが、「一人で来たの? 課長や係長は?」。まぁ若気の至りというか、怖いモノ知らずというか、全責任と権限は私一人に任されているという思いがありましたから、「全ての話は私が承ります」と切り出しました。次の質問は、「なぜ連結散水設備を付けなくていいのかの理由を説明せよ」というものです。冗談じゃない、何のためにあれだけ打ち合わせしてきたのか! 設置が必要ならば、そちらから指摘するのが筋じゃないか。てなことを(多分)顔を真っ赤にしながら、主張しました。
相手の予防課長さんは、「オレをクビにするつもりか…」と真剣に悩まれていました。まぁ結果的には、私の気合い勝ちで、何の手直しもせずに押し通しましたし、相手さんも処分は受けられなかったから、メデタシなんですが、いかに己の手順に問題がないとはいえ、もっと深く消防法を読み込んでおくべきだったという反省はしっかり残りました。(つづく)
2003年10月03日
ある非・真面目公務員の仕事史No11
[南部清掃工場を造る(その7)]
昭和55年(1980)は、南部清掃工場の建設が大詰めを迎えた年でした。私にとっても思い出深い年でした。5月に長男が生まれて、父親になったのは良かったのですが、1ヶ月も経たない内に、細菌感染で高熱を発し救急車で病院に担ぎ込まれてしまいました。
毎日、病院に見舞いに行っていたのですが、私も左足に鈍い痛みを感じていたので、ついでに診てもらうことにしました。左大腿骨のレントゲン写真には、卵大の空洞が写っていました。病名は「骨腫瘍」、要するに骨が溶けて空洞ができたわけです。もう少し発見が遅れていたら、大腿骨骨折という最悪の事態になったそうです。
幸い息子は、大事に至らず退院出来たのですが、今度は入れ替わりに私が入院。仕事も最盛期にかかっていたので、午前中現場で仕事をしてから直接病院へ。外科手術は、大工と同じと言いますが、まさに骨を削り取って、自分の骨と骨バンクからの骨を混ぜ合わせて、空洞部分に詰め込むという作業です。出血が1000ccに達すると、歯の根が合わないくらい寒気がします。輸血を始めると身体の芯から温まってくるのを感じます。他人の血がこんなに美味しいとは、ドラキュラ伯爵の気持ちがちょっぴり分かるような気がします。
検査の結果、良性腫瘍ということで、後は回復を待つだけです。とは言うものの、2週間絶対安静で、ベッドの上で身動きも出来ませんでした。ようやく車イスでトイレに行けるようになった時、人間の最低限の機能を回復したような気がします。流れる水道の水で顔を洗えることが、どんなに幸せかを初めて知りました。松葉杖で、道路を歩いてみるといかに道が凸凹しているかを実感します。
結局足かけ3ヶ月職場を離れていました。南部清掃工場も仕上げの段階に入っていましたから、私は担当から外れて別のプロジェクトを担当するようになっていました。ところが、私の担当分をカバーするほど人員がいなかったせいもあって、すぐに左足を引きずりながら、南部清掃工場の現場内をウロチョロすることになりました。
清掃工場は迷惑施設というイメージが強いので、イメージアップも大事な仕事です。そのためのツールが見学者用映画とパンフレットです。現在では、ビデオで撮影してDVDで納品という形が一般的です。そのため、シナリオも割と手軽に作られるような気がします。当時はビデオはようやく一般的になってきましたが、16ミリフィルム全盛の時代です。そうなると、撮影もかなり本格的になります。単なる建設記録映画ではなく、その地域のお祭りなども取り入れて、一種のドキュメンタリーとなります。
私は広報担当も兼ねていましたので、撮影隊に付き添って色んなところに出かけました。カメラマンというのは、どこにでも厚かましく入っていくので、後で謝りに回るのが私の役目のようなものです。
パンフレットには、担当者の個性が滲み出ます。全く無個性なパンフレットは、業者さんに丸投げしている証拠です。全くの素人ですから、パンフレットがどういう手順で出来るのかから、じっくり勉強させてもらいました。紙の質にもこだわって、たくさんの見本を取り寄せてもらいました。フツウ表紙は、工場の全景写真なんてのが多い時代に、福岡が誇る「金印」をバ~ンとシールプレスしました。
各種設備の写真のカットから説明文まで、全部自分でレイアウトしました。そんなことは業者に任せればいいという声もありましたが、日本一のモノを作るからには手抜きは許されないと固く信じていました。
その頂点が、工場全景の空撮です。当然、私自身も乗り込むつもりにしていました。ところが、係長が万一の事故を心配して、乗ることはまかりならんとのこと。わざわざフライト予定の土曜日の午後に係内会議を開くと宣言。そんなことはお構いなしに、さっさとセスナに乗って空中散歩。カメラマンが後部座席を占めているため、私は副操縦席に座ることになりました。
パイロットが面白い人で、300mより高度を下げてはいけない規則になっているといいながら、200mまで降りてくれるようなサービス精神旺盛な人でした。せっかくだから、水平飛行をやってみろと、操縦桿を私に任せてくれました。ジャイロコンパスが水平になるように操縦桿を動かせばいいのですが、3次元で飛ぶモノを水平にするだけでも大変なことだと身体で知りました。
でも空を飛ぶということが、こんなに楽しいことだと実感出来たのも、強引に自分の仕事を押し進めた成果かな、とちょっぴり得意げです。(つづく)
2003年10月06日
ある非・真面目公務員の仕事史12
[どスランプからの脱出(特炉物語)(その1)]
南部清掃工場の竣工式が行われたのは、昭和56年(1981)4月7日。私は29歳になっていました。もちろん、竣工したからといって、すぐに手が切れるわけではありません。そのため、清掃工場には特別に2年間の保証がついています。まぁ出来上がった後に色々なトラブルをボチボチと癒していくという感じです。
とは言うものの、ビッグプロジェクトが終わった後の虚脱感が、私を蝕んでいました。いわゆる“燃え尽き症候群”というやつで、私の場合それほど重症ではなかったのですが、毎日が何となくつまんないという感じでした。今の課に異動してきてから、4年が過ぎていましたから、人事異動があっても不思議ではありませんでした。
実際には、既存の清掃工場の定期点検・修理や新しい清掃工場の建設計画も俎上に乗っていて仕事量としてはかなりあったのですが、何となく気乗りがしないという状態が続きました。結局、人事異動はなく、結果的にはそれから、さらに6年間も居続けたわけですが、その時は来年は動くのかなぁ、ぐらいの感覚でした。
表面上は、淡々と仕事をこなしていても見ている人は、ちゃんと見ているわけで親しい先輩から「お前は、新しい工場を造ることには熱心だが、既存の維持補修はつまらないことだと思っている!」とズバリ指摘されました。この先輩は、今に至るまで私の親友という間柄ですが、その時は、だからといって自分の気持ちが奮い立つわけでもありませんでした。
大スランプというだけあって、その後半年以上も、モヤモヤとした気分の中で過ごしていました。私の人生の中で、このような低空飛行を経験したのは、後にも先にもこの時だけです。そんな私を救ってくれたのは、“忠犬ハチ公”です。
私が最初に勤務した東部清掃工場には、「特殊焼却炉(通称:特炉)」が設置されていました。小動物専用の焼却炉です。つまり、犬や猫を焼却するためのものです。福岡市ではこの1箇所だけです。東部清掃工場の前身の東塵芥処理場にも特炉が設置されていました。東部清掃場にいる時に、東塵芥処理場の特炉を夕方点検に行くと、焼け残った犬が横たわっている光景に、思わず顔を背けたこともありました。
道路で車にはねられた犬猫の死骸は、“ごみ”として扱われます。そういう意味では、道路清掃のロードパッカーが片付けてもいいのですが、やはり市民感情としてチトまずいので、特別に収集を委託しています。ご家庭で、犬猫が死んだ場合も、連絡があれば引き取りに行きます。ペットブームの最近では、1体2万円ぐらいで火葬する専用車もありますから、飼い主の気持ち一つです。
東部清掃工場に隣接して動物管理センター(つまり野犬を捕獲して処分するところ)が設置されていて、そこからも特炉に持ち込まれます。
小動物とはいえ、持ち込まれるモノは犬と猫だけではありません。動物園で大型動物(予算費目上は備品扱いです)が死ぬと、持ち込んでいいかという問い合わせがあります。キリンが死んだ時にも問い合わせがあったので、首をいくつかに切り分けてもらわなければ入り切れないと答えました。結局、このキリンさんは剥製にされたので、成仏できたと信じています。唖然としてのは、浜に打ち上げられたイルカをそのまま、特炉に突っ込んだアホがいたのです。イルカの尻尾が大きくはみ出しているのを見て、途方にくれてしまいました。(つづく)
2003年10月07日
ある非・真面目公務員の仕事史13
[どスランプからの脱出(特炉物語)(その2)]
いくら小動物とはいえ、生き物だったものを焼却するという仕事を嬉々としてやる人はあまりいません。私が入庁した頃は、Sさんという爺様が一手に引き受けてやっていました。このSさんは、競艇大好き人間で、レースの合間に焼却をやっていたような人でした。飼い犬の死骸を持ち込んだ人の中には、特炉の前に色々お供えをしていく人もいました。だから、Sさんが我々にお菓子なんかをくれる時は、要注意です。チョコレートなんかをうっかり食べた後で、お供え物なんて言われたら食欲減退もいいところです。
Sさんが引退した後は、清掃工場全体を委託している業者の方に任せましたが、誰も進んで担当する人はいませんでした。そんな設備ですから、我々も点検するのに及び腰です。狭いマンホールから身体をくねらせながら炉内に入ると、独特の臭いが鼻につきます。
余談になりますが、悪臭というのは人によって感じ方がバラバラです。焼き立てのパンの香でも四六時中かがされていれば悪臭です。廃棄物に関連する人でも、自分の担当分野の臭いについては慣れてしまいます。青果市場の人は魚市場の臭いを嫌いますが、逆も同じです。ごみの焼却をやっている人間は生ごみの臭いには比較的慣れますが、埋立場の嫌気性の臭いには抵抗があります。
当然、特炉の臭いは異質なわけです。特炉は七輪の目皿にあたる部分(ロストル:炉床といいます)が鋳物で出来ていました。灯油バーナーで焼却するのでロストルがすぐにひん曲がってしまいます。この改善が私のテーマです。どスランプの私に、そんな仕事が楽しいわけがありません。
ある日、いつものように狭っ苦しい特炉の中に潜り込んでみると、ロストルの上にちょこんと載った犬の髑髏(しゃれこうべ)。真っ白に焼けた(?)髑髏を見た時、無性に可愛いなと感じました。それまでのモヤモヤした思いが吹っ切れて俄然やる気が湧いてきました。「ヨ~シお前達が迷わず成仏できるように、最高の整備にしてあげる!」という気持ちがフツフツと湧いてきました。耐火物メーカである日本プライブリコとロストルの材料について色々と実験をかさねて、最終的には鋳物でなく、不定形耐火物(まぁ耐火性のセメントみたいなもの)で作ることによって、満足のいくものが得られました。
その日以来、既存工場の改造がめちゃめちゃ面白くなって、次々とアイディアを出し、現場が困っていることを片っ端から解決していきました。通常だったら何年経っても出来ないような改造も腕力と若干の智慧に任せて、グイグイ進めました。
まさに“ワンちゃんのしゃれこうべ”が私にとってスカンジナビア航空の社長のヤン・カールソンが提唱する“真実の瞬間”だったのだと思います。面白いのは、それだけ私の人生に大きな影響を及ぼした大事件なのに、具体的にいつだったかが分からないのです。お気づきの方もいらっしゃると思いますが、このコラムでは時々えらくリアルな日付が出てきます。私は高校3年の時以来、ずっと日記をつけています。すでに34年になります。そのため、ある程度のことは検索が可能なのです。今回このコラムを書くに当たって、ず~と見直してみたのですが、特定出来るような記事が見当たりません。
多分、真実の瞬間というのは、!マークのように閃くのでなく、徐々に己の人生の中ににじみ出していくものなのでしょうね。(つづく)
2003年10月08日
ある非・真面目公務員の仕事史14
[炎からの塩回収(その1)]
ごみの中には