dunpoo @Wiki ★バブル経済と竹下政権(85年~89年)

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プラザ合意と前川リポート

米国は財政と貿易の双子の赤字で苦しんでいた。特に、日本からの工業製品輸入に悲鳴を上げていた。1985年9月22日、先進五か国の蔵相と中央銀行総裁はニューヨークのプラザ・ホテルで極秘の会合を開いた。日本からは竹下蔵相、澄田日銀総裁が出席した。各国は、米国の貿易赤字救済のため、ドル高是正の協調介入を強化することで合意した。大蔵省は、早速9月24日からドル売り介入を開始した。効果はめざましく、合意の内容が明らかになってからドルは急落(円は急騰)した。さらに各国は協調利下げを実施し、ドル高への反転を阻止した。

日本は、米国から求められていた輸出抑制・内需拡大を実行するべく、経済対策を打った。中曽根首相の指示でできた、「国際協調のための経済構造調整研究会」が、報告書(座長である前日銀総裁・前川春雄の名前をとって「前川リポート」と呼ばれる)をまとめ、内需主導の経済への転換を提言したが、86年4月に行われた日米首脳会談で、首相はこのリポートの実行をレーガン大統領に約束した。

プラザ合意による協調介入の効果はめざましく、ドルは下がり続け、230円台から、1年後には 150円台までになった。急激な円高によって、輸出が激減し、当初「円高不況」に陥った日本経済であったが、経済対策と利下げの効果が現れて86年11月には底を打った(経企庁による景気回復宣言は87年7月に行われた。)

バブル景気へ

80年代後半、米英では金融制度改革(金利の自由化、銀行・証券の業務規制緩和)と、金融商品の多様化、その売買のコンピュータ化が進み、いわゆる金融革命が起こった。このような変化を象徴するのが、87年10月19日に起こった「ブラックマンデー」である。金利引き上げ懸念からコンピュータ売買で売りが売りを呼び、NY市場で株が大暴落、世界同時株安となった。各国は利下げを続けることでこの影響を早期に克服したため、マネーゲームは世界的に拡大していった。

日本では、内需拡大策のもと、財政と金融両面から景気刺激を続けたことから、マネーサプライが増大していた。内部留保や資金調達手段が多様化した大企業が銀行からの借入を減らしたことから、銀行は住宅専門金融会社(住専)などノンバンクを設立して貸し出し、中小企業の財テク・土地投機への融資を拡大することに狂奔していった。株価、地価は鰻登りで上昇していった。

1987年2月に、電電公社民営化により誕生したNTTの株が公開されると、初値が160万円をつけ、それがあっという間に300万円にも化けた。にわかに株で諸手に泡の儲けを手にする市民が巷に増えた。4月に発表された公示地価では、東京都の平均は前年より53.9%も上昇していた。短期の土地の売買で莫大な利益を上げることができた。6月には総合保養地域整備法(リゾート法)が公布・施行され、土地投機熱をさらに盛り上げた。

87年3月、安田火災海上保険がゴッホの油絵「ひまわり」を53億円で購入することが明らかになったとき、大きな話題になった。金余り現象はあらゆるところに現れ、おまけにその円は、一年前に比べて対ドルで倍ほどの価値があった。
85年末には、日本は世界一の債権国になっていたが、87年4月には日本の外貨準備高は686億ドル、西独を抜き世界一になった。

竹下新内閣の発足

中曽根政権を継ぐべき自民党「ニューリーダー」は、安倍総務会長・竹下幹事長・宮沢蔵相の三人だった。竹下は、田中派議員の大半を引き連れて7月に経世会を結成し、最大派閥を率いていたが、安倍と宮沢が連合した場合には勝てない。安倍は世論調査では一番人気であった。宮沢は円高不況を吹き飛ばす積極財政の牽引車とみなされていた。三人は再三にわたって会談を重ねたが、だれも降りると言い出さなかった。結局、一本化調整を中曽根首相に一任することになり、これをうけて中曽根首相は竹下を後継総裁に指名する裁定を下した。総裁が任期を全うしてしりぞいたのは結党以来初めてのことであり、余力を残して後継者を指名し、影響力を保持しようというもくろみであった。
87年11月、竹下内閣は、安倍幹事長、副総理兼任で宮沢蔵相(再任)というトロイカ体制で発足し(中曽根の意向だったといわれる)、党三役の一角・政調会長を中曽根派の渡辺美智雄に明け渡して組閣した。官房長官には竹下派の小渕恵三が座ったが、実権は副官房長官の小沢一郎にあると言われた。

消費税の成立

88年1月、竹下首相は初の施政方針演説で税制改革に向けての意欲を表明したが、この国会では、税制改革の本格的審議にはいたらず、7月、いよいよ消費税導入のための臨時国会が召集された。
リクルート事件の追及と絡めて審議拒否で徹底抗戦する社共に対し、公・民両党は委員会、本会議に出席することで自民党に協力した。大幅な会期の延長によって、結局12月24日、社共議員の牛歩戦術による抵抗むなしく、3%消費税導入を含む税制改革6法案は可決成立した。

リクルート事件

88年6月、『朝日新聞』は川崎市の助役が川崎駅前への進出に便宜をはかった見返りとして店頭公開前のリクルートコスモス株を譲渡され、一億円の利益を得ていたと報道した。その後、同様にコスモス株が政官財界にばらまかれたことが明らかになり、疑獄に発展した。森喜朗元文相・渡辺政調会長・加藤六月前農水相・加藤紘一元防衛庁長官・塚本民社党委員長・中曽根前首相・安倍自民党幹事長・宮沢蔵相・竹下首相らへの本人または秘書等の名義での株譲渡がつぎつぎに発覚した。さらにその後も,藤波元官房長官・真藤NTT会長・高石前文部次官・加藤前労働次官などの関与が明らかとなり、株譲渡に関与した政界関係者は自民・社会・公明・民社四党の代議士17人にのぼった。
12月になって宮沢蔵相が秘書のリクルート株譲り受けで引責辞任したのをはじめ、閣僚の辞任が相次ぎ、竹下内閣は追いつめられた。年度内に予算が成立せず、暫定予算を組んだが、それでも予算成立のめどが立たなかった。ついに、竹下首相本人が、89年4月の3%の消費税導入を見届けてから辞意を表明、6月に内閣は総辞職した。


天皇の死と昭和の終焉

 88年9月19日深夜、裕仁天皇が大量の吐血と下血症状で重体におちいった。政府は、天皇の国事行為の代行を皇太子に全面委任することを決定した。マスコミは一斉に特別体制をとり、天皇の病状を逐一伝えた。閣僚の外国訪問から各地での秋祭りや各種行事まで中止・自粛があいついぐ異様な空気が列島を覆った。
 89年1月7日午前6時33分、天皇は十二指腸乳頭周囲がんのために87歳で死亡した。ただちに皇太子明仁が即位し、政府は新元号を平成と決定した。
1月24日、大葬が行われ、外国元首ら要人多数が参列する中、63年間つづいた激動の昭和時代は幕を下ろした。