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日々雑感
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日々雑感
2004年01月11日
日々雑感その一(田舎のネズミと都会のネズミ)
みなさん、おはようございます。
このリレー日記において、オフ会報告に続き2回目の登場となる切り込み隊長@神戸市です。
個人的には、日記を書くのは、遥か昔の小学校時代の絵日記以来になりますので、肩肘張らずに書きますね。(この日記は、絵が入れられないので、絵で文章をごまかせないのが難点ですね。(^^;)
そこで、今回は、最近感じていることをダラダラと述べさせていただこうと思います。
ひとつ、お付き合いの程をよろしくお願いいたします。(落語の枕みたいですね。汗)
この所、MLでは、都会と地方の問題、地理的ハンディの問題が話題になっていますね。
この件について、MLではなく、この日記で私見を述べさせていただきましょうか。
結論から先に言うと、この問題は、答えの出せない永遠のテーマのような気がします。各人各様で構わないんじゃないのかな。
おそらく、突き詰めていくとベースにあるのは、最後には矢張りメンタリティの問題、あるいは哲学の問題といったことになるのではないでしょうか。(異論はあると思いますが、誤解を恐れずに敢えて言い切っちゃいました。)
都会だとか田舎だとか、何だかんだ言っても、住めば都といったことが、先ずある訳でしょう。言い古された陳腐な表現ですが、都会には都会の、田舎には田舎の良さがあるのですよね。誰しも、自分の住んでいるところに愛着はあるはずですからね。
ML上でも、例に引かれていましたが、「田舎のネズミと都会のネズミ」のお話が、この問題については言い得て妙なように思います。
確かに、表現が不確かで申し訳ないのですが、「田舎での勉学より都での昼寝」といったことはあるのだけれど(これは、昔読んだ司馬遼太郎の「峠」の中で、東京に遊学する際に、後に越後長岡藩執政になる河井継之助が藩の上役に理由として述べた言葉だったかと思いますが。)、こうした事情だって、今はかなり改善されているのではないでしょうか。
ITに限らず、新聞・テレビ・出版物等、労力(後はお金も少しばかり)を惜しまずに小まめに探せば、各種情報を手に入れる方法を現在の僕たちは、昔の人に比べれば遥かに沢山持っている訳ですから。
何事も欲を言えばキリが無い訳で、そんなことなら何でも東京の独り勝ちになってしまいますよね。整理の仕方としては、まぁ、量よりも質というところに落とし所を求めることになるのではないでしょうか。
例えば、とかく僕の住んでいる関西という地域では、対東京(はたまた対中央)といったことが色々な方面(卑近な例では、阪神-巨人戦。)で言われることが多いのですが、これなんかは決して褒められたことではない訳ですね。(いつまで、こんなこと言ってるのでしょう。大関西への郷愁という過去の亡霊が、いまだに供養されずさ迷い歩いている訳です。ただ、想い出は、全て薔薇色に彩られることが多いですから仕方ないのかな。)
これは、詰まるところ欲の塊の権化みたいなものである訳です(私見では、東京の繁栄が羨ましいということの屈折した表現方法なんだと思っています。)が、本当は東京がどうだとか、中央がどうのといった事が重要ではないのですよ。
他人の家の庭の芝生は青く見えてしまうのは、人の性(あるいは宿命)なんでしょうが、肝要なのは、色々と足らない所や不備な点がある中で、どれだけ工夫できるか、面白味を見出せるかといったことなのではないでしょうか。個人も組織も採るべき行動パターンや発想は、基本的には同じなっちゃうのね。
だからといって、「自分のところさえ、ちゃんとなってれば良い。他のところは知らないよ。」っていう訳ではないんですよね。「先ずは、自分の所の良い所も悪い所も見定めて、足元をきっちりと固めちゃおう。」これが基本ということなのでしょう。多くの先進的自治体の首長さん方は、これを実践されている訳なのですよね。
また、僕たちが日々悪戦苦闘している問題は、学校の試験問題とは違って、確たる解答がある訳ではないのは明らかでしょう。(これは、人間稼業につきものの問題ですね。)
ですから、実践の中身は、それぞれ地域ごとに違ってきて当然なのですよ。むしろ、違って当然なわけです。
そうなれば、都会であろうが、田舎であろうが、地理的な問題は、余り関係が無いということにもなるのでしょうね。
それより、その取り組みが、ユニークであったり、面白味があれば、関心を持つ人は自ずと出てくる訳ではないでしょうか。(それが、別の地域で有効かどうかは、もちろん別の議論ですよ。)
そうなれば、一つの自治体の取り組みが他の自治体に対して、何らかの影響力を持つ形で情報発信していくことは、比較的スムーズにいくのじゃないのかなと、僕自身はこの点かなり楽観しています。
ただ、情報の発信の仕方は、直接行われることもあるでしょうし、東京など他所を経由して発信されるなど、本当に色々でしょうけれどもね。
最後に、都会と地方の問題をどう考えるかは、モノを考える際の視点をどこに置くかということなのではないでしょうか。卑近な視点は、「羨み」や「嫉み」といった余り感心できない気持ちを包含しかねませんし、高い視点では、全体を鳥瞰出来ても、細部を見逃してしまう嫌いがあります。この二つの視点のバランスを上手にとるのは、本当に難しいと思います。
要は、この問題に限らず、モノの本質を見る目をいかに持つかということに尽きるような気がしてなりません。それには、自分の寄って立つ哲学(あるいは、信念?)が必要にも思えます。
話の落ちとしては今ひとつかもしれませんが、そういったところに落ち着くのではないでしょうか。
2004年01月18日
日々雑感その二(人事とは人の事ゆえ難しいのだ。)
日記のアップが遅くなりましたが、先週に引き続いての登場になります。
今回も、しばらくの間、どうぞお付き合いの程よろしくお願いいたします。
前回は、「田舎のネズミと都会のネズミ」と題して、都会と地方の問題、地理的ハンディの問題について、思うところを述べさせていただきました。
今回は、矢張りこのMLで話題になっており、また、このMLの原点でもある人事制度について思うところを書かせていただきます。人事は、「人間の事」であり、「他人の事」であるので、誰しも何かしら関心を持っていますものね。
さて、ここから本論です。
先ず何からお話するのが一番よろしいでしょうか。
僕個人としては、組織メンバー個人のやる気を十分に引き出すことが出来れば(これが本当に難しいのですけれど。)、その人事制度はかなり成功したものでないかと思っています。
自分自身が、過去に人事の仕事にわずかな期間かもしれませんけれど、携わっていた経験からもそのように思います。(人事課出身の人間が皆そのように考えたり、思ったりしている訳ではないですよ。)
確かに一個人の経験が全てを語り尽くす訳ではないのですが、何がきっかけとなってある個人を生き生きとさせたり、逆に意気消沈させてしまうのか、これは、実際のところよく分からないというのが実感です。
こんなことを言うと、プロとして仕事をしてお金を貰っているのに、何を甘えたことを認めているのだとお叱りを受けるだろうということは、重々承知しています。
それでは、具体的に自分の経験を少しお話させていただきましょうか。
少しデフォルメしていますが、具体例を次に出させていただきます。
Aさんは、ある職場で仕事も良く出来、周りからの評判・信頼もすこぶる高い。上司も彼を相当買っており、彼の将来に期待している。(彼の上司も所謂仕事の出来る人であり、人物眼がある人として認識されている。)
Aさん本人自身も、礼儀正しく、がめつさはないけれど、仕事に対しても意欲的である。
人事課でも、個別調査の上、上記と同様な評価をAさんに出している。
さて、この場合、人事課(あるいは組織)としては、Aさんの処遇をどのように決定することになると思いますか。
当然ながら、一般的にAさんは「仕事の出来る人間、意欲の高い人間」として認識される訳です。(異論ある人はいると思いますが、通常はそうなのです。)
金銭面での厚遇は、現行の公務員制度上は出来ないので、人事異動でそれを反映させることになります。つまり、Aさんの将来性を見込んで、さらに難易度は高いが、重要度の高い職場へ異動させます。そこで、さらに頑張ってもらって、次のステップへ進んで貰うというのが、少し一般化し過ぎていますが、組織が出来ると判断した人間に対してとる行動パターンだと思います。(多分、多くの組織で同様の方法がとられているのではないでしょうか。)
ところが、必ずしも上記のことが、上手くいくことばかりでもないのです。
実際にあった話ですが、Aさんは、上のような評価を元に晴れて、周囲から見れば栄転といった形で異動し、異動先でも当初は頑張ってくれたのですが、徐々に加減が悪くなってきたのです。(うつ病ではないのですが、それに近い状況が出てきたのです。)
職場の水が合わない。仕事が合わない(真面目な人なので、仕事関連の勉強もちゃんとするのですが。)。逆に、頑張れば頑張るほど、真面目だからこそ、本人自身がしんどくなってきた。これを甘えていると見てよいのかどうか。
一般的には、甘えていると見なし、そこで切ってしまうことになりますね。
仕事という観点から見れば、そうした扱いになってしまいます。
この辺は、人事課の中でも意見が分かれる所ですが、再度様子を見ようという温情派も出てくることもあります。
この事例の場合は、Aさん本人に直接・間接に状況を確認して、結果としては、別の部署に異動となりました。
この異動は、人事に詳しい人であれば、少し変だなといった程度の異動でしたが、異動先でAさんは、忙しい職場なのですが、再び元気になって、その職場で上下皆から信頼され、お客さまからも喜ばれています。
別の事例をもう一つご紹介しましょう。
Bさんは、とある職場で問題児です。上司は、彼をもてあまし気味でした。必要最低限の仕事はこなしますが、どうも色んな事にふてくされているようだとの報告を人事課では受けています。
このケースの場合、Bさんの異動に当たって、懲罰的な要素が加味されました。異動先にいわゆる困難職場が割り当てられたのです。困難職場は、どこの組織にもあるのでしょうが、一般的に仕事の中身が厳しく、周囲からの当たりもきつく、そこへの配置を誰もが一般的に嫌がる職場です。
人事課としては、Bさんを少し懲らしめるつもりで、はたまた最悪の場合、その職場で腐って辞めても構わないといったようなつもりで、この異動を決定したのではないでしょうか。(人事課の真意の程は、合議で決めているので、分からないのですが。)
結論から言えば、Bさんは、腐るどころか、職場を引っ張る存在になり、上司や周囲の人間から無くてはならない存在になっています。上司も彼が異動して来たことを、本当に喜んでくれています。
本人も、仕事に対して色々と工夫や提言を行うなど活き活きと働いており、人事課の職員が彼に会った時には、「良い職場に異動させていただき、ありがとうございます。」とお礼を逆に言われて苦笑することもありました。
これなどは、本当にうれしい誤算ですね。
ここに挙げた事例が、特殊なものであることは否めませんが、決して稀なものでないことは事実だと思います。僕の短い経験の中でも実際に体験しているのですから、ある程度一般的なのではないでしょうか。(確かに、人事課に人を見る眼がない、節穴と言われればそれまでですが。)
僕自身としては、色々と人事制度について制度の議論がなされますが、完全なものはないのだろうなと思います。生身の人間を扱う以上、血の通わない制度であれば、如何に素晴らしいものであっても、空疎なものになってしまいかねないと思います。
綺麗事かもしれませんが、人間に対する関心と愛情、信頼を基礎に制度の運用をどのように上手く行うのかという気持ちを持つことが、一番大事なように思います。
昨今の成果主義をはじめとした色々な制度を精緻に構築し、採用すれば、問題は解決するような議論がありますが(実際はそんなに簡単でないのですけれど)、制度はあくまで従なのではないでしょうか。
制度重視は、ソフトを重視しているようで、実際にはハード偏重と変わらないような気がしますね。
何の結論にもなっていませんが、繰り返しになるけれど、人事制度を考える際には、制度には直接表れてこない「人間に対する関心と愛情、信頼」を基本に置くことこそが、肝要な気がします。
2004年01月25日
日々雑感その三(僕らはきっと(?)生きている!!)
この日記に登場するのも三度目となりました。(通算では、実は四度目だ。)今回も他愛も無い与太話にお付き合いの程、よろしくお願いします。
さて、今回は、根源的な問題についてのお話です。
そもそも行政の担う役割とは何なのでしょう。直ぐに答えられますか。
現状を見ると、はっきりと分かりませんよね。何でもかんでもやっているというような所がありますものね。
昨今、自治体の財政難を契機に、官民の役割分担の見直しとか市民参加によるパートナーシップ、果ては企業とのパートナーシップといったことまで喧伝されるところがありますが、本当の所、どうなのでしょうか。結論ばかり先に急いでいませんか。
どこから、どのように取り組んで解決策を見出せばよいのか、実際は難しい問題ですよね。
先ず、やはり仕事の範囲を明確にすることが必要なのでなないでしょうか。それと時代状況の変化をきっちりと理解することが必要だと思います。
行政の役割は、究極的には地域を活性化することになるのでしょうね。
それでは、地域を活性化すればどうなるのか。そこの地域は豊かになって、その地域に住む人は裕福になって皆ハッピーというのが、最も簡単な図式でしょう。
これがもう少し昔だと、地域を治める領主(或いは殿様)は、結果として領民からの上りが増えるので、領民以上にハッピー、しかも領民からはヤンヤヤンヤの大喝采の嵐のということになるのでしょうか。
でも、今はそんな単純な時代じゃないですよね。(心情的には、旧態依然の所は無いとは言えませんが。)
また、昔のお話のデフォルメですが、昔の殿様は、意識している若しくはしていないに係わらず領国を経営している訳ですし、今で言うところの会社とか無い訳ですから、何でも自前でやっちゃう、あるいはやっちゃえるのですね。良い悪いは別として。
現在の我々行政も時代は違うのですが、地域の活性化のためにというお題目の下に、少なからずこうした流れを踏襲してしまい、その呪縛から抜け出せていないような気がします。
行政と民間企業との違いは、市場の洗礼を受ける存在かどうかということなのでしょうが、民間企業で出来ること、少なくとも可能なことは、民間企業に任せ、そのサービスを必要であれば購入するというのが懸命な選択ではないでしょうか。仮に、民間でやれない分野があるとして、その場合も直接行政が手を出すのではなく、助成等の方法を採るのが良いように思いますね。
資本主義社会で、市場が成立するのは、詰まるところはそこが思惑の交差する所だからです。もっと有体に言えば、丁半博打の世界で白黒がはっきりしているからです。皆が同じ目に張るようでは市場は成立しませんし、そのように誘導すること自体が資本主義を否定するものになります。
委託やアウトソーシングだけでなく、官から民への仕事の開放が今求められているのでしょうね。そこでは、やはり行政が何を担う存在なのかをもう一度問い直す作業が必要になってきます。(この辺は、抽象的な議論ではなくて、もっと深みのある具体的な議論をする必要があります。)
僕自身は、現時点では明確な答えを持ち得ていません。ただし、税金を集めて仕事をするということから答えは見出せるのではないかとも考えています。回り道に見えても、原点に立ち返って考えれば、完全な解答でなくても答えは見出せるのではないでしょうか。要は、税金は何故に集められ、行政に信託されるのかということです。(この問題も別稿で議論するに値するテーマですね。ここでは、尻切れトンボの議論で置いときますが。)
抽象的な答えだと、地方における行政は、社会的な基礎インフラのソフト面とハード面の整備と治安のバッファーとしての社会保障を担えば、それで必要十分なようにも思います。
その際には、地域それぞれの特性を活かした取り組みを考える必要がでてくるのではないでしょうか。そうした地域特性を「風土」と呼んでも良いのでしょうね。風土を活かした解決策・対応策を考えなければ、決して良い答えは導き出せないのではないでしょうか。
無から有は、決して生まれないように思います、錬金術ではないのだから。
2004年02月01日
日々雑感その四(ガラガラッ、こんにちは、毎度おおきに!)
さて、この日記も早いもので、連続して四回目となりました。今回は、昨日参加した「とある交流会」でのお話をさせていただきたいと思います。とってもホットな話題で、日記らしいですね。(笑)
昨日、大阪はミナミにおいて、東北地域で有名な二人の佐藤さんにお話を伺う機会を得ました。たまたま、姓が同じなだけなのですが、奇しくも取り組まれているお仕事が、地域の産業振興、取り分け産学連携、企業支援といった同じフィールドを担当されておいでです。
ご存知の方も多いとは思いますが、お一人は花巻市の佐藤利雄さん、もうお一方は宮古市の佐藤日出海さんです。行政で商工関連の仕事に携わられている方なら、お二方のお名前だけは聞かれたことがあるのではないでしょうか。
最近、巷で流行の産学官連携やベンチャー支援、インキュベーション施設運営等といった施策を考えなければならなくなった時に、色々な調査書やインターネット検索などを通じてこれらの関連情報を収集すれば、必ずこのお二方のどちらかの取り組みにヒットすることは間違いないかと思います。
また、二人の佐藤さんは、共に一橋大学の関満博教授とのご親交が厚く、いわゆる関組のメンバーです。すなわち、常に現場を大事にして、現場から学び、現場で考え、現場と一緒に行動することを実践されておいでです。
言葉で表現するのは、とても簡単ですが、これを実践するのがいかに難しいかは、皆さん方もよくご存知かと思います。
例えば、産業政策の分野において、「現場で考える」までは、やろうと思えば出来るのですよね。それは、現場の側に立たなくても実行することが可能なので、ある意味やり易いとも言えるでしょう。これは、現場を分析・調査の対象を捉える立場(いわゆるコンサルテリング部門、調査部門の方に、こうしたやり方が多いのですね。)です。往々にして、現場重視と言いながら、その実、意識的にしろ、あるいは無意識的にしても、現場を調査や施策実施のための対象としてしか認識していない場合が多いのではないでしょうか。
これは、こちらの側では色々な意味で実が上がるので良いでしょうが、現場(具体的には、企業さんや商店主さん、農家さん、漁師さんなど)にとっては不幸でしかないですね。
では、どういったことを実践すればよいのでしょうか。ここからは、お二人の佐藤さんからお聞きした話の受け売りです。
先ずは、玄関先に行って、扉を開ける。そして、「こんにちは、お邪魔します。どないですか。」から入って行き、現場そのものを見せてもらうことが、必要なのですね。そこで、質問をして、色々なことを教えてもらう。決して、応接間でアンケートやヒアリングだけして帰っては、真実は見えてこないのです。また、現場(具体的には、工場や農場など)を見て、言葉では分からない、或いは言葉では隠されている真実を見抜くことが必要なのです。そのためには、基礎的なことはきっちりと勉強していなければいけませんが、これは基本中の基本のことなので、省略しますね。
そこで、現場は、何を今考えているのか、どんな問題を抱えているのか、といったことを体で知る訳です。調査書を読んでみたり、アンケート・ヒアリング調査の実施などを基に机の上だけで考えていては、現場の本当の問題は見えてこないのです。現場に飛び込む勇気と行動力、これこそが必要なのです。さらに、現場に対する愛情と現場からの信頼なしには、本当に効果を生み出すことは出来ません。現場と一緒になって、泣き、笑い、怒り、称えあう事が出来ることが求められるのです。この辺の呼吸は、ある意味、「子育て」にも本当によく似ており、合い通じるものがあるようです。手を抜けば、手を抜いただけの結果しか出てこないのです。正に、生ものを扱っているが故の妙ですね。
このように、現場を中心に考えることの基本は、熱い想い、「志」と言い換えても良いかもしれませんが、これに尽きるのでしょう。そして、そのためのツールが、コミュニケーションなのですね。
現場からいかに発想し、それを現場にどのように返し、現場と供に走っていくのか。簡単なようで難しい問題です。これは、産業政策分野に限らず、行政の全ての分野に深く関わってくる問題だと思いました。
2004年02月08日
日々雑感その五(♪止められない、止まらない♪♪)
早速ですが、先週末に当有志の会の第4回目のオフ会に参加してきました。
今回は、埼玉県志木市での開催で、ヘイコンサルティングの浅川さん、志木市の穂坂市長にお忙しい中にも係らず、ご出席を願い、大変貴重なお話をお伺いしました。
オフ会の内容等については、別に報告があることかと思いますので、この日記では、あえて触れませんね。(報告者の方、よろしくお願いします。)
ただ、今回のオフ会にはこれまでの最高の40人を超える参加者があり、世話人の高崎市の伊藤さんと志木市の尾崎さんには、裏方として大変なご苦労をお掛けいたしました。お蔭を持ちまして、盛況の内に会が終了できたこと、この場を借りて、心よりお礼を申しあげたいと思います。
さて、ここから本論です。前回の議論にも関連しますが、自治体のやっている仕事って本当に必要なのというのが、今回のお話の論点です。
都道府県、政令市、市町村と日本国中に本当に沢山の自治体があり、教育・福祉から土木事業、産業振興まで色々な仕事を毎日毎日エッサエッサとやっております。それに関連して多くの公務員が一生懸命職務に従事しております。(その筈です。)
でも、それらの仕事は、本当に税金を基礎に行政部門がその運営を担わなければならないものばかりなのでしょうか。これまで、そうした議論は、まともに考えられたことは無かったのではないでしょうか。当然のこととして議論の対象外だったかと思います。
それは、行政は公平・中立的な存在で決して悪行を行わないという行政性善説的な考え方や、公共の福祉の観点から非効率で市場経済にそぐわないけれど必要なものが存在する以上、そのサービス供給は民間部門ではない行政部門が担わなければならないという補完論的な考え方のよるものだと考えられます。
ところで、本当にそうなのでしょうか。実際のところは、極言すれば組織の存在そのもののために仕事を無理矢理作り出してると言って良いようなことは無いでしょうか。
底まで言うと、言い過ぎかもしれませんが、現実として、そうした事象が起きているように思われます。大半の公務員は、真面目で勤勉な筈ですから、日々その与えられた職務を全うしていますよね。そして、市民や企業をはじめとした現場を持っており、現場の声を聞いていることから、目の前の問題を何とかしたいという思いに駆られるのは、人情です。さらに、多くの公務員は優秀であるから、そうした問題を解決するために新たな試練を自ら(あるいは職場)に課し、新たな仕事を作り出してしまっているのでは無いでしょうか。
確かに、こうしたことは、前向きなことであり、顧客満足度を高める観点からすれば、否定されることでは無いでしょうね。
ただ、ここで気を付けなければならないのは、確かに顧客の満足度は高まりますが、それに伴って、コストも追加的に発生しているのですね。では、こうしたコストの回収をどのように図るのか。行政のやることだから只で出来るといった法は、この世に存在しません。普通に考えれば、可笑しな話ですが、行政内部では、これまで、このコストの面は、なぜか蔑(ないがしろ)にされて来ました。多分、収入が税収といった形で確保されることから、収支の観点で物事を観る必要性が少なかったことと、戦後期の物資欠乏状態に基づく右肩上がりの経済の下、税収も基本的には伸びてきたことなどから、こうした問題を真剣に考える必要が無かったのが原因ではないかと思われます。
しかし、これからの時代は、そうでは無いのは自明のことですね。経済は、世界的に見て供給過剰の状態にあることから、これまでのように皆が勝てるような状況には無い訳ですから、それに応じた対応を考えることが必要でしょう。
また、人口の問題もそうです。これまでは、日本全体の人口に限らず地域の人口も含めて、増加基調をベースに全ての施策体系が組まれていたかと思います。これとて、これからは、全体が減少し、さらに若年層の割合も減少するという、これまで経験したことの無い時代を迎えようとしています。
こうした時代背景を踏まえれば、これまでの単純な延長で仕事を進めることで、本当に良いのでしょうか。決して良いはずは無いですよね。
少なくとも、全てをゼロから見直すことが必要なように思われます。その際には、これまでのように行政が全ての中心となってこなしていくという発想ややり方を改めることが必要です。他の機関・組織に任せられることは任せるといった考え方をもっと前面に出すことが必要となって来るでしょう。少なくとも、行政の担ってきた仕事の大半を担う能力のある存在は、企業(大企業、中小企業、ベンチャー企業)をはじめとして、最近ではNPO・NGO(怪しいのも多いですが)、市民団体など沢山存在する訳ですから、そうした存在との連携を真剣に考える時に今は来ているのです。
仕事や事業を止めることを真剣に議論し合いましょう。これは、決して後ろ向きで消極的な議論では無いのです。格好よく言えば、「戦略的事業撤退」といっても良いでしょう。つまり、明日(未来)を睨んで、事業を再構築する訳です。むしろ、事業や仕事を始めるよりも、止めることの方が、殿(しんがり)の役が戦場で最も困難な様に難しい筈です。
これからの行政に課された課題は、正にこのことに尽きるのではないでしょうか。
さあ、今から(今すぐにでも)事業を止めていきましょう。思い切って自分自身が行うことを止める決断をすることから、全ては、いや未来は始まるのです。
2004年02月15日
日々雑感その六(海洋堂って知ってますか?)
一昨日、神戸で開催されたミニオフ会に参加された皆さん、どうもお疲れ様でした。本当に楽しい時間を過ごせて、有難うございました。取り分け、秋吉さん、小堀さん、星野さん、遠くからのご出席ありがとうございました。
ミニオフ会の報告は、管理人さんからML上であるかと思います。
ところで、皆さん、海洋堂ってお店をご存知でしょうか。そう、知っている人は、本当に良く知っている筈。その道の通でない人間が語るのが憚られる位に。
ただ、最近は、マスコミ等でも数多く取り上げられているので、ご存知の方も多いとは思いますが。
ご存知でない方に簡単に説明するとすれば、大阪にある模型屋さんで、「食玩」(おまけのついたお菓子のことです。)の世界のビジネスを一変させた造形への熱いこだわりを持った集団(この表現が正しいとは思えないのですが。)ということになりましょうか。
もう少し詳しく言うと、チョコエッグの中に入っている「おまけ」の動物や恐竜などの模型を作っている会社と言えば、ピンとくる方も多いのでは。ただし、現在ではチョコエッグの製造販売もとのフルタ製菓さん(チロルチョコレートと聞いて懐かしいと思う人は年齢がばれますぜ。)と決別されているので、チョコQの中に入っている模型といった方が正確でしょう。
また、模型と言うのも正確な言い方ではないかも知れません。むしろ、フィギュアといった方が良いのかも知れないですね。
皆さんの中には、北斗の拳やルパン三世、ゴジラ、モスラ等のリアルなアクションフィギュアをお持ちの方がおいでかも知れませんが、その分野での有名所の会社が海洋堂さんなのですね。(所謂マニアックな会社なのですね。)
さて、何故、この日記で海洋堂を取り上げたかと言えば、筆者がプチ・オタクだからということもありますが、最近海洋堂の専務さんの宮脇修一さんが書かれた「造形集団 海洋堂の発想」(光文社新書)という新書と森川嘉一郎さんの「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」(幻冬社)を読んだからなのです。
この二つの本はマイナー系の書物ですが、とっても面白いと思います。
男の子なら(女性の方すみません。)、小さい時に一度はプラモ作りにはまった経験をお持ちではないでしょうか。分野は問いませんよ、分野は。車だったり、戦車だったり、軍艦だったり、飛行機だったり、ガンダムだったり、色々と専門(?)分野はある訳ですけれども。
特に30代、40代の方で、そういった幼児体験をお持ちの方なら、これらの本はすんなりと読め、内容が理解できるのではないでしょうか。
これらの本を読んで、僕が最初に思ったのは、「僕たちは何か大事なものを忘れてしまっているのではないか」という問いです。
僕らは、「大人」になってしまい、「お子さま」の気持ちを忘れてしまったと言ってしまえば、抽象的過ぎますかね。打算的で、銭金算段のみで物事を判断するように成長した結果、勝ち馬を探すことに血眼ですといった方が分かりやすいでしょうか。
昨今の市場を絶対視する議論や成果主義への手放しの礼賛などの類の議論は、いささか行き過ぎの感がします。方向性は大筋では間違っていないのでしょうが、余りにそればっかりだと、何が目的で手段かを見失ってしまいかねませんよね。
自分自身も含めて働く人間が、誇りを持って仕事に取り組める環境をどのように作っていくのかが求められているように思います。働くこと、その「中身」に誇りと尊厳を取り戻すことが、今こそ必要なのではないでしょうか。
どれだけ、熱い思いを持って仕事に取り組んでいるのでしょうか。仕事と言う言い方それ自体が、空虚な他人行儀なものに聞こえてしまうのは、私だけでしょうか。
生計を立てるためだけに働くことは、やはり苦痛でしかないように思われます。取り組むことに全身全霊をかけて、身を委ねることさえ出来れば、それはとっても幸せなことなのでしょう。お金や地位も大事でしょうが、そんなことは後から付いて来るのでしょうし、それ自身が決して目的ではないはずです。
こんな啖呵を大見得切って、一度でいいから言いたいものですね。
2004年02月22日
日々雑感その七(あんた、バカあっ?:新世紀エヴァンゲリオンの惣流・アスカ・ラングレー風に)
先週水曜日18日放送のクローズアップ現代(みんなのNHK)を皆さんはご覧になられましたか。「こだわり主義がヒットを生んだ~開発する中小企業の挑戦~」とのテーマで、花巻の起業化支援センターの佐藤さんがゲスト出演され、事例として海洋堂さんが取り上げられていたようです。(伝聞表現になっているのは、僕は、当日オンエアーを見逃してしまったからなのですね。ビデオ等で録画しとけば良かったのですが、それも出来てなくて、残念無念。後悔することしきりの状態です。)
この日記の連載の中でも、花巻の佐藤さんのことやフィギュアの海洋堂さんのことは、これまで取り上げた(前回と前々々回)ことがありますが、誰しも皆、注目するところは一緒なのでしょうか。
それだけにこの長~い不況の中、成功しているところや上手くいっているところが、全国的に見てもとっても少ないということなのでしょうかしら。(実のところ、悲しいかな、みんな手詰まり状態にあるのですよね。)
ところで、そんな中で彼らだけが成功しているのはどうしてなのでしょうか。「運」という要素も決して否めない部分はあるのですが、それだけでは決してないと思うのです。
答えは、意外と簡単で、NHKさんのテーマじゃないですが、「こだわり」とそれに関連するのでしょうが、地道に基本を大事にということにあるようです。月並みな回答でがっかりした人も多いことかとは思いますが、現実の答えは意外とそんなところにあるようなのですね、これが。(とは言うものの、分かっちゃいるけど、実践するのは難しい。)
それから、これは「こだわり」につながってくるのだと思いますが、どれだけ取り組んでいることに「馬鹿」になれるのかということも大きな成功要因の一つだと思われます。
一橋大学の関満博先生に以前お聞きした話の中で、地域を変える、救う、活性化する人材というのは、「ヨソ者、若者、馬鹿者」だということがありましたが、正しくその内の「馬鹿者」にどれだけ為れるかが勝負なのでしょうね。一心不乱に取り組むから面白い、面白いからこそ一心不乱に取り組む、この辺は、卵が先か鶏が先かという議論で結論は出ませんが、何せ、仕事だから、或いは給料を貰っているから証拠となしにやっているというのでは無いように思います。要は、他人事であるうちは、何事も解決しないと言うわけなのですな。
実際のところ、これは、①困っている人や状況が目の前にある、②しかし、解決策は分からない、何かをやらなければどうしようもないが、誰もやれないし、分からない、③でも誰かやらなきゃならない、④誰もやりそうにない、やっぱり嫌でも自分がやるしかない、⑤やるとなったら全身の知恵を絞って、足らない部分は体を張ってでも取り組むといった構造なのでしょうね。ただ、彼らの多くは、そうだからといって、悲壮感に浸っているわけではなく、むしろ、僕の知っている限り、とっても馬鹿が付く位にバイタリティ溢れ、ネアカかつ陽気で(皆さん、お酒もとっても大好きです。加えて、芸達者で呑んで騒ぐのも人一倍お好きですね。)、しかも他人に優しいという共通点を持っているのは、不思議な限りです。(表現に不適切なところがあるかも知れませんが、それはご容赦を。なお、馬鹿馬鹿言うなという人は、本当に馬鹿じゃないのでご心配なく。)
最近じゃ、国の方でもそうしたことを意識しているようで、「地域産業おこしに燃える人」といった言い方で、選定委員会も設けられて、中心人物を全国から選定されたようです。
「馬鹿者」じゃなくて、「燃える人」という表現が、万人を意識していてお洒落じゃないですか。(個人的には、「燃える闘魂」の問答無用のアントニオ猪木さんを想起してしまい、何でも有りってな感じもしちゃいますけどね。)
国の連中も馬鹿じゃない訳で、これまでの上から指導するやり方じゃ、もうどうしようもないことは、良~く分かっているのですね。机の上だけで考えて計画するだけじゃ成功は覚束なくなっていることは、現場の我々以上に実感しているのですよ(その筈)。しかも、これは褒めても良いと思うのですが、そうした情報にとっても敏感だし、情報入手は早いですよね。(なお、そこから先のことは言わないのが、大人の分別ですので。)
逆に、現場に近い我々、自治体職員の方に問題がある場合も、最近は多いのではないでしょうか。県や政令市といった組織が大きいと、自治体は現場に近いと言っても、皆が現場指向ではないのですよね。官僚組織というか、管理部門と前線の現場の間の意思疎通の難しさなどもあって(書きたいことは山ほどあるのですが、書けない。)、意外と「馬鹿者」と言われるような人材を活かしきれていない、或いは、そうした人材を育てたり、支援する体制になっていないことが多いのですよ。
この辺りの問題をどのように上手くさばくかが、各自治体の課題なのでしょうね。正しく、こうした人材こそが本当の行政のプロなのでしょうけれど、意外とご本人自身たちは、そんなことは全く意識されていないですね、不思議なことに。(僕の知っている範囲の人たちだけかもしれませんが。)
最後に、花巻市の佐藤さんが仕事をされる中でモットーとされていることをご紹介させていただきます。それは、①いつも明るく元気で笑顔、②相手が動かなければ自分から動く、③否定語は使わないということの3つです。この3つの掟は、簡単そうですが、実践するのは、本当に勇気が要ります。
自分としては、願わくば、今日この時からでも、この3つを肝に銘じて仕事をしていきたいと思います。
2004年02月29日
日々雑感その八(なぜベストを尽くさないのか?by上田次郎:「トリック」より)
この日曜日限りのウダ話の連載もそろそろマンネリ化してきたという声も聞こえてくるようですが、もう暫くの間、お付き合いの程を。(いつも長~文なので、今回は本当に簡潔にしちゃいます。)
さて、前回のこの稿では、「馬鹿になれ!」(アントニオ猪木さんじゃないですが。)と言うことを書きました。今回も、もう少しこのことに関連した議論をしてみたいと思います。
馬鹿と言っても本当の馬鹿じゃないことは、皆さん先刻ご承知のとおりですが、それでは何故、馬鹿になれないのか。
もう少し噛み砕いた表現をすれば、「なぜベストを尽くさないのか?(Why don't you do your best?)」といったところだろうか(この言葉を読んで、上田次郎の名前が直ぐに浮かんだ人は、チョットしたドラマおたくですね。)、はたまた、「なぜベストを尽くせないのか?」といった感じだろうか。
そもそも、この問いかけの根底には、「何」のために働くのかということが横たわっているように思います。
それでは、これを読んでいるあなたは、何のために毎日を働いていますか?(僕自身は、はっきりとした答えを正直なところ、言えません。)
一般的な答えとしては、「パン(生計を立てるお金)のために働く」とか、「名誉のために働く」とか、色々と出てくることでしょう。
その答えの内、人はパンのためだけに働くのではないのでしょうが、そうかと言ってパンを要らないとまで言い切れる人はそう多くはないでしょう。少なからず、生活のために働くことを余儀なくされることは否めません。しかしながら、生計を立てると言うことだけで働くことの全てを説明してしまうことに問題があるのは、皆さんご存知のとおりです。
そこで「働く」と言うことの原点を考えることが必要になってくる訳ですね。「働く」ということに積極的な意味づけを持ちえるかどうかが、大きなポイントになってくるといってよいでしょう。(本当に月並みな議論で申し訳ない。)
「やらされ仕事」であれば、働くことは苦痛であり、生計を立てるために、嫌でも耐えるものということになりますよね。そうなれば、ベストを尽くすことは、世ほど変人で無い限りありえ無いでしょうし、お座なりな仕事の態度に陥ることは否めないでしょう。
ただ、これまで様々な所でなされてきたこうした議論に関して、個人的にどうしても違和感を禁じえないのです。というのは、これらは、人が仕事に就いている期間に限ってしか議論されていないように思う訳です。つまり、僕が抱いているのは、本当にそれで十分なのかなと言う違和感です。人は、働くためだけにその生を受ける存在と言ってしまって良いのか、僕には単純に(あるいは、手放しで)そうは思えないのです。
ただ、この辺りの考え方の整理は、現時点は着きかねるので、次回以降の宿題とさせてくださいね。(この会の設立した当初目的のひとつに働くことの意義付けがあったかに思いますので、そういう意味では、原点に戻る議論なのでしょうか。)
今回は、短くすると最初に宣言しているので、そろそろ終わりにしますが、この「働く」ということの意味をもう少し考えていきたいと思います。
2004年03月07日
日々雑感その九(この世の中には、 ― 不思議なことなど何もないのだよ。)
早いもので、とうとう3月に入り、これをお読みの皆さんも年度末の大詰めを迎え、きっと大忙しのことでしょうね。
当の私目も、皆さんと同様、先週弥生の声を聞くと同時に、この月末まで何かと予定が立て込んでおり、テンヤワンヤの状況突入モードです。とは言うものの、本来のお仕事と直接的には関係ないことなんかにも色々と係っているため、余計に時間の遣り繰りが大変なのでしょうが。(これは、自業自得と言ってしまえば、それまでなのですね。)
確かに、例年のことなので、予め、この時期が大変になるだろうなと言う予想は立てようとすれば、立てられるのです。しかしながら、それでもって前もって万全を期して、事態の到来を手薬煉引いて待つといった状況を作り出すことは、現実には中々難しいものです。
と言うのは、現実の世界では、飛び込みの仕事が発生したり、思わぬ事故が発生したりして、予想外の事態が起きますものね。
だからと言って、偶然性だけをひとり楯にして、全てのそうした準備は無駄であると言っている訳ではないのですよ。準備は、して置くにこしたことはないし、「備えあれば憂いなし」の諺もあるように、必要なことですから、そのこと自体を否定するものでは、全くありません。むしろ、テンヤワンヤの状態で、周囲に何かとご迷惑・不義理をお掛けしてしまいかねないことへの、言い訳だと思っていただければ幸いです。
さて、上記の言い訳話にも絡むところがあるのかもしれませんが、全てのこの世の中で起きる事態は、因果律の法則に従っているといっても良いかもしれません。
例えば、当事者の意図していない、全く予想のつかない事態が発生することがあります。しかし、それとて、当事者限りの狭い原因・結果関係だけで捉えれば、そうなのかも知れませんが、もう少し広い範囲で事実関係を見てみれば、因果関係を説明し、理解できるものと言えます。確かに、前もって予測することは、極めて困難なのですが、少なくとも後付の説明・解説は間違いなく可能であると思います。
そう、人が係っている限りにおいて、この世の中には、不思議なことなど何もないのです。
普通に過ごしていれば簡単に気付くこと、見過ごしてしまうこと、注意していれば気付くことなど、様々な要因は、確かに事実として存在する訳なのですから、これらの事実をどのように把握し、理解するかが問われる訳です。偶然と理解される事柄の多くは、実は因果律の流れの中できっちりと位置付けられることが大半なのではないでしょうか。
もう少し、大きな話をしましょうか。例えば、昨今、多くの自治体(ほとんど全てといっても良いかも知れませんが。)は、財政危機に喘いでいます。これも、本のつい数年前までは、大きな話題になっていませんでした。この数年間で急に財政状況が、驚くほどに悪化してしまったのでしょうか。答えは、否です。元々、現在の状況につながる原因行為が、連綿と続けられてきたのです。偶々、あるいは運良くと言っても良いかもしれませんが、問題を先送りできる状況が存在したため、表面化しなかったと言っても過言ではないでしょう。
予算面で言えば、根拠の薄い財源を元にした予算規模の拡大、人事面で言えば、将来予想計画の無い採用といったことを進めてきたツケが、最近になって表面化したに過ぎないのです。
景気は常に一本調子で動くものでないことや、人口動態の予測、世界経済システムの一部である日本経済の状況といったことは、予め、知ろうと思えば知ることは可能です。(多くは、質の良い研究や統計資料、データ分析等が、入手可能です。)がさらに、過去の歴史における教訓(類似性の研究と言っても良いでしょう。)や経験(個人的経験、組織的経験の両方を含みます。)といった知識もある訳ですから、もう少し上手い対処方法を採ることも可能だったのではないでしょうか。
少なくとも、自治体が携わっている事態は、全て人の手になるものである以上、全くの偶然によって生じるものではないでしょう。確かに、直接的に係っている人の思惑や、それを取り巻く人の思惑、直接の関係者以外の外的要因といったことが、事態を複雑にすることは事実でしょう。しかしながら、全ては神の世界の出来事ではなく、人間世界の出来事である以上、理解できないことや説明できないことなどは何もないはずなのです。
だとすれば、自治体の行動を如何に理性的に制御するかということが、次に必要になってくるのでしょうか。
2004年03月14日
日々雑感その十(人はいさ 心も知らず ・・・)
とうとう、この連載も十回を迎えることになりました。
さて、今回の話題も、また本会の原点に戻って、人事に関するお話をさせていただくことにいたします。丁度、時期的にも4月の異動時期を間近に控え、皆さんご自身の異動や友人・知人・上司・部下の異動についての噂話や希望、まことしやかに聞こえてくるリーク(人事課から?)といったことを、少なからず気にする日々をお過ごしではないでしょうか。
そうであればこそ、どのようにして人事が決まるのか、これは皆さん、とっても興味のあることだと思います。
多くの人は、人事課と呼ばれる部署で、そうした人事の作業が行われていることは知っていても、その実態がどのようであるかは、全く分かりません。人事そのものは、人事課の厚いベールの下に隠れ、外に漏れ出てくることは、まずありません。
人事課出身者や現役の人事課職員が、皆さんの周りにもおいでかと思いますが、彼らがその実態を語ることは、ほぼ皆無と言ってもよいでしょう。
財政の分野に関しては、完全とは言わないまでも、例えば予算について何かしらの査定の理由が開示されるのとは、大分状況が違いますね。
こうした違いが生じるは、一体何故なのでしょうか。
それは、簡単に言えば、生身の人間を扱っているからということになるのでしょうか。
単純化すれば、財政分野は、計数をベースにして、客観的に判断することが可能ですが、人事の問題は、如何せん、理性だけでは判断できない情理の問題が入ってこざるをえないところがあります。(これは、大変大雑把な議論で、反論の余地はあるかと思いますが、概ねにおいてそうだと言う理解をしていただければ幸いです。)
人事の分野でも、客観的情報を収集するために人事考課制度や自己申告制度など様々な手法が開発され、導入されつつありますが、それとて、完全ではないのです。
人に関連する情報と言うのは、実に膨大な量・分野に渡ります。(例えば、性別、年齢、職歴、勤務状況、健康状況、相性等々、その他にも数え上げれば切りが無い程です。)これらは、全て個人情報に関わるものと言っても良いのですが、これらの情報の中から、必要なものを抽出し、人事の作業の中に反映させることになるのです。
と書いてしまえば、非常に科学的に人事が行われているようにも聞こえますが、しかしながら、実態はそうではないのです。というのも、一人の個人に関しても情報量が膨大であることは当然のこととして、人事異動の対象者の数の問題(異動規模)、異動先ポストの業務の問題、異動先における体制(上司・部下の組み合わせ)の問題等々、複雑に絡み合う問題が、非常に多いのです。
しかも、異動作業を行う期間は、限られています。(通常は、密度の濃い短期決戦になります。)
さらに、人事課で把握できる情報は、基本的な情報は収集できても、それ以外の情報については、収集の努力はしているものの、完全ではありえません。漏れている情報もあるのです。(何でもかんでも、個人に関する情報を人事課が把握することが、決して良い訳ではありません。)これは、本人が誰にも知られたくない情報というものもある訳であり、一方でそれが、組織として人事を考える際には、重要な要件となる場合もあるという訳です。
となると、限られた情報を元に判断をせざる得ない場面は出てくる訳であり、「えぃ、やっ」といったことで人事を決めてしまう、決めなければ前に進めないことも無きにしも非ずなのです。(抽象的で、分かりにくいところは、ご勘弁を。)
そういう訳で、多くの場合に対外的に語られる適材適所の人材配置ということは、実際上、完璧に行うことは難しいのが現実です。
一方で、多くの人は、人事に完璧をお求めになられておいでかとも思います。そうであればこそ、人事課を畏怖するとともに、最終的には、正当な人事・評価を行ってくれるという信頼(?)、期待感を人事課に対して抱かれているのではないでしょうか。(逆に、裏返しとしての不信感もありますよね。)
しかしながら、人事を携わる人事課も人の子である以上、余りに完璧を期すことは酷に過ぎるような気がしますね。また、これは、難しいところですが、人の痛みが分かることは大事なことですが、それだけでは、人事課の職分は勤まりませんし、逆に、その重みでつぶれちゃいますね。
少なくとも、人の良い面だけでは無い、影の部分も見えてしまう仕事である以上、HOTな心に、COOLな頭脳を持って、物事に対処できる人間が人事を担当してもらいたいと思います。(個人的には、人事が好きだとか、生身の人間を駒のように考えて人事をやりたいといったような人間には、人事の仕事は向かないし、やって欲しくありません。)
何の結論にもなっていないのですが、世の中には知らぬが仏と言うこともあるということでしょうか。
2004年03月21日
日々雑感その十一(一期一会、春が来ます)
この日曜限りのズボラ日記も1月の途中からなのですが、早いもので連載期間が3ヶ月を越そうとしています。
さて、今回の日記は、本当に日記らしい書き出しで始まります。
先だっての木曜日に、ちょっとした小さな飲み会に顔を出してきました。
現在、ドクターストップが掛かっており、僕はお酒はお預けなのですが、楽しく、かつ充実した時間を過ごすことが出来ました。
私を含めて4人ほどの本当に小さな、仕事を離れた集まりです。4人のうち、僕を含めた3人は行政関係の人間で、後1人が民間の方という構成です。
偶々、別のご縁(これも実は仕事ではないのですね。)があって、その民間の方に僕がお会いして、意気投合と言うほどのものではないのですが、お聞きしたお話が面白かったので、これを自分一人で独占するのも面白くないので、そこで、同じ職場の仲間に声を掛けて、飲み会を企画したと言うのが裏話ですね。
僕以外は、お互いに初対面だったのですが、まちづくりから食の話題、本の話など話題は多岐に渡り、大いに盛り上がりました。時間が経つのが本当に早かったのが印象的でした。
このように盛り上がったのは、お互いに熱い想いを心の底に持っていることが共通の基盤だったとも思えますし、年恰好が比較的近かったせいかも知れません。
また、こうした会を企画しても、こうした集まりを面白いと感じる感性が無ければ、出席自体が無いでしょうし、仮にお義理で出席しても得る所は無いのでしょうね。
何事に対しても良い意味での好奇心を持つことは、大事なことだなと感じた夜でした。
また、そこでこうした会を企画して思ったのは、人と人をつなぐ場を設けることこそが、行政の役割ではないのかということでした。
仕事を離れて、個人としてどのようなことが出来るのか、あるいは、自分は何がしたいのか、こういったことを模索している人は、最近多いように思います。
こうした巷に居る仲間を見つけ出し、お互いに想いを語り、小さいことで良いから出来ることを実際に行動に移して行く事で、本当の地域の活性化が出来るのじゃないかと、僕は密かに思っています。
これまで、行政が進めてきたことは全てが間違いじゃないのでしょうが、行き過ぎてる面が多々あろうかと思います。所謂、ユーザーから見れば、オーバースペックになっているのですね。使う側は本当は必要としていないのに、親切心から作っちゃう、サービスメニューを考え出してしまう、その結果、使われない施設や使い勝手の悪い制度の山が出来てしまうといったことが、繰り返し行われてきたことはご存知のとおりです。これも、需要サイドからの発想でなくて、行政が供給者の観点からだけでやってきたからに違いないと思います。
そうした中で、巷には老若男女を問わず、多くの専門家・実務家がゴロゴロしているのですよ。こうした宝の山を発掘しなくては、勿体無いお化けが出てきますぞ。
これからは、ノウハウではなく、ノウフーの時代だとよく言われますが、こうした宝の山を発掘し、ネットワークを正しく作っていくことが、行政には今後は求められてい