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★1994年

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細川内閣の迷走

政治改革関連法案が曲がりなりにも成立し、高い内閣支持率もそのまま維持して二年目に入った94年2月3日の未明、細川は突然記者会見を開き、消費税を福祉目的税に改め税率を3%から7%に引き上げる国民福祉税構想を発表した。
小沢一郎と大蔵事務次官の斎藤次郎の間で練った案であったが、根回しはまったくなされず、武村正義官房長官や与党諸党派の代表でさえ知らされていないことであった。結局翌日、これを撤回することになり、政権がぎくしゃくしただけのことであった。
社会党の村山委員長は、米の市場開放を発表した記者会見も深夜だったことをふまえて、「夜中によう騒ぐ男じゃのう」と皮肉った。

細川辞任

細川は、東京佐川急便から1億円借金していたことが明らかになっていた。本人はこの金を自宅修理のために使い、既に返済していると釈明したが、返済の証拠を提出することが出来ず、その問題をめぐって国会は空転した。細川は4月8日に突然退陣を表明した。国民はあっけにとられた。予算審議に入る前に予算編成時の首相が辞任するのは極めて異例の事態であった。在任期間わずか八ヶ月であった。

羽田内閣

細川の辞任を受けて、4月25日、国会は羽田孜を首班指名した。だが、かねてから小沢との関係が悪化していた武村が率いる新党さきがけは、次期政権では閣外協力に転じる意向を表明した。さらに、首班指名直後に、新生・民社・日本新が新会派「改新」を結成したことに、蚊帳の外に置かれてた社会党の村山委員長が激怒し、連立を離脱した。羽田内閣は、少数与党として心細い船出をした。
遅れていた94年度予算の成立を待って、自民党は内閣不信任決議案の上程を狙っていたが、羽田は、社会党との連立復帰交渉が不調に終わって、不信任の議決が確実視されるなかで、総辞職した。在任わずか65日であった。

自社さ内閣

社会党は、非自民連合と自民党を天秤にかけていた。自民党の河野総裁が、「村山首班」の連立を持ちかけたことで、さきがけを加えた三党連立内閣は、6月30日に成立した。
自民党総裁の河野が外相兼副首相、武村が蔵相、官房長官は社会党の五十嵐広三で、閣僚の13人が自民党、5人が社会党、2人がさきがけという布陣であった。
村山は、首相就任翌日のクリントン大統領との電話会談で日米安保堅持を約束し、衆院本会議で質問に答えて「自衛隊は合憲」と言明した。党議を経ない方向転換であったが、社会党は9月の党大会でこれを追認した。
さらに、9月には、税制改革で、97年からの消費税5%に引き上げを与党間で合意し、消費税反対の立場もかなぐり捨てた。(所得税・住民税減税とセットではあったが)。

新進党の誕生

政権交代で下野した諸党派は、来るべき小選挙区での選挙で自民党と雌雄を決すべく、大同団結するしかなった。新しい党は、構想段階で「新・新党」と呼ばれていたが、12月10日、新進党として発足した。新生党、公明党の一部、民社党、日本新党、自由改革連合などが結集し、衆参議員214人に達する大勢力となった。
初代党首選挙は自由改革連合(細川政権誕生以降に自民党を離党した議員たちのグループ)代表の海部俊樹元首相、新生党党首の羽田元首相、民社党委員長の米沢隆の3名で争われ、海部が勝利した。幹事長には小沢一郎、政務会長に旧公明党の市川雄一が就いた。この小沢と市川の連携が新進党を実質的に動かすことになり、一一ラインと呼ばれた。
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