dunpoo @Wiki ★1956年

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小選挙区制法案・教育委員会法改正

1月、吉田茂の後継者として旧自由党を率いてきた緒方竹虎が急死した。当面のライバルがいなくなったことから、4月の自民党臨時大会では、鳩山の総裁就任がすんなりと決まった。
党内基盤を確立した鳩山は悲願の憲法改正を実現しようと、小選挙区制を導入する法案を国会に提出した。さらに、教育委員会を公選制から自治体の首長の任命制に改める新教育委員会法案を提出した。両法案に野党は猛反発、国会外でも反対運動が広がった。結局、小選挙区制は、衆院可決の後審議未了で廃案に、教育委員会法は、本会議場に出動した警官隊に守られて強行採決、可決された。

7月、4回目の参議院選挙があり、自民61、社会49と、社会党が善戦して、当面憲法改正に着手することは不可能な状況となった。この参院選には、創価学会が初めて国政に候補者を立て、3名の当選を果たした。創価学会は、前年の統一地方選では全国都市部で51名の議員を誕生させていた。

日ソ国交回復


55年3月の第二次鳩山内閣の組閣に際して、鳩山首相は、日ソ国交回復を政権の目標に掲げた。その2ヵ月ほど前に、元ソ連代表部ドムニツキーが鳩山を訪れ、国交正常化を促すソ連政府文書を手渡したからであった。憲法改正の夢破れた鳩山にとって、「日ソ」が悲願となった。吉田政権の対米一辺倒と異なる外交姿勢を打ち出し、千島の領有権の問題のほか、漁業権、シベリア抑留者、国連加盟など日ソ間の懸案を解決しすることに鳩山は政治生命をかけた。、

55年6月、ロンドンで日ソ交渉が始まり、日本側は元外務次官で民主党代議士の松本俊一を全権代表に送り、ソ連側マリク駐英大使との交渉に当たらせた。ロンドン交渉は3か月余に及んだが、領土問題で行き詰まった。
ソ連側は、全千島諸島は南樺太とともにすべてヤルタ協定によってソ連に帰属したもので、ポツダム宣言もそれを確認している、しかも日本自身はサンフランシスコ講和条約によってそれらを放棄している、と主張し、領土問題は解決済みであるとした。
日本はそれに対して、歯舞・色丹はもともと北海道の一部で、サンフランシスコ条約で放棄した千島諸島には含まれないと主張した。ソ連は会談の途中で、この2島については条件次第で返還に応じてもよいと示唆した。日本はさらに、国後・択捉の南千島も歴史的には日本固有の領土であり、サ条約で放棄した千島に含まれていないと主張した。また、ヤルタ協定はカイロ宣言と異なりポツダム宣言で確認されておらず日本はそれに拘束されない、と主張した。

再交渉は56年7月からモスクワで始まった。重光外相が松本とともに全権代表として参加したが、ソ連の国後・択捉の領有意志を崩すことはできなかった。10月、合意のないまま、鳩山自らがモスクワに飛んだ。「まとまらなければ生きて帰れるとは思っていなかった」と鳩山は後年語っている。結局、領土問題は棚上げしたまま10月19日、「日ソ国交回復に関する共同宣言」が発表された。戦争状態の終結、外交関係の回復、抑留者送還、漁業条約の発効、日本の国連加盟がうたわれ、国交回復後に領土問題を含む平和条約を締結する交渉を継続することで合意したものである。

国会では、吉田派が退席したが、野党が賛成し、全員一致でこれを承認し、日ソの国交回復は実現した。
同時に、鳩山は勇退を表明した。鳩山を支えていた三木武吉が7月に死亡していたことと、自身の健康問題の故である。

前年、ソ連の反対によって国連加盟を阻まれていた日本は、12月の総会において全会一致で国連に迎えられた。これで日本はほぼ完全に国際社会に復帰することができた。

石橋内閣

12月の自民党大会では、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の三者で総裁選が争われた。保守政党の総裁が党大会の選挙で選ばれるのは戦前戦後を通じてこれが初めてであった。
岸は、河野・佐藤のバックアップを受け、豊富な資金力で第一回投票で首位に立ったが、過半数を獲得することはできなかった。決選投票では、石橋・石井の2,3位が連合して石橋に投票して、僅差で岸を破った。石橋は、組閣に当たって、副総理を空席として、岸を実質NO2として外相に招いた。
石橋は、戦前硬骨の自由主義的経済ジャーナリストとして名を馳せた男で、A級戦犯として服役していた岸よりも世間の受けは良かった。新政権は、折からの神武景気を背景に大型減税と積極的財政を掲げ、外交面では日中貿易の拡大を進める姿勢を示した。
ところが、年が明けて1月、石橋は病に倒れ、岸を首相代理に指定、2月にあっさり内閣総辞職をしてしまった。わずか9週間の短命内閣であった。

スターリン批判・ハンガリー動乱・百花斉放

1956年2月、ソ連でのちの世界を揺るがす驚天動地のことが起こった。(それは、6月にアメリカ国務省が確認して公表するまで世界には知られないことであった。)
53年に死去したスターリンの後継者、フルシチョフ第一書記が、スターリンを徹底的に批判する長時間演説をソ連共産党第20回党大会の席上行ったのである。これまで社会主義陣営の守護神、偉大な国家指導者であり世界の革命運動のリーダーであると信じられてきたスターリンを、冷酷無比な独裁者であり、無辜の同志や一般市民を虐殺・監禁した国家的犯罪者であると告発したのである。
この党大会では、同時に、アメリカを中心とした帝国主義勢力が弱まり、ソ連を代表とする平和勢力が強くなったので、世界戦争は回避できるという「平和共存論」、資本主義から社会主義への移行は暴力革命でなくても、議会で多数を得ることで実現できるという「平和移行論」が採択され、内政不干渉、相互尊重など、東欧諸国の独自性を認める決議も行われた。

この非スターリン化の波は、東欧と中国という二つの社会主義圏には、違う作用を及ぼした。

東欧では、まずポーランドで、ナショナリスト・反ソ主義という理由で投獄されていた国民的政治家ゴムルカが釈放され、ボズナンでの労働者暴動、反ゴムルカのクーデタ未遂などを経て、ゴムルカ第一書記の下での自由化改革が始まった。
ハンガリーでは、ポーランドの事態の影響を受けて、自由化を求める市民・労働者の運動が広がった。ハンガリー党中央委員会は、自由化を恐れていったん解任したナジを首相に据えて事態の収拾を図ったが、労働者らは、ワルシャワ条約破棄、複数政党制、政治的・宗教的自由などを求めてストライキを続行した。ナジはその運動に抗しきれず11月1日、ハンガリーの中立を宣言した。その3日後、ソ連軍15個機甲師団が侵攻し、一週間足らずの抵抗の末民衆の運動は鎮圧された。10万人以上の市民がオーストリアやユーゴに亡命、ナジは逮捕され、後に処刑された。

このニュースは世界を駆けめぐって、ソ連あるいは社会主義にシンパシーを持っていた人々にたいへんな混乱を与えた。人民民主主義・民族自決主義を掲げ、侵略や市民の弾圧に無縁と思われていたソ連が白日の下にハンガリー人民の自由と独立を求める声を圧殺したことをどう考えればいいのか、社会主義者の意見は二分した。

中国では、4月、国家主席毛沢東が、「百花斉放・百家争鳴」を演説で訴えた。国家路線・政策についての自由な論議を促したのである。中国は、50年代後半、朝鮮戦争に参戦したことによる経済的ダメージを克服し、急速な工業化と国営企業化・農業集団化によって、経済成長を達成していた。その過程で、党幹部による「官僚主義」が目立ってきたとして、毛沢東は、そのような「人民内部の矛盾」を克服するために、知識人・民主党派を監視者・批判者として利用しよう、と考えたのである。ところが、この「双百」路線の発動後すぐに、民主勢力による批判は、党の許容限度を超え、党の指導権そのものへの懐疑・批判にまで達した。毛と党は驚愕し、6月には「反右派闘争」に切り替えたのである。以後、58年7月にかけて、多くの知識人や党員が弾圧・投獄され、労働改造に送られた。

こうした中国政府(特に毛沢東)にとっては、個人独裁批判に通じるスターリン批判は、不快なものであったし、東欧での自由化の動きは警戒すべきものであったが、表だったソ連との論争は翌年まで封印された。

スエズ戦争

7月、エジプトのナセル大統領が、長年の悲願であったスエズ運河(英仏の管理下にあった)の国有化を宣言した。エジプトでは、1952年に軍のクーデタにより王政が廃止され、54年に首相、56年1月に大統領となったナセルは、ユーゴ・チトー大統領、インド・ネルー首相とともに東西の軍事ブロックに反対する「非同盟主義」を標榜し、米ソのバランスの上でそれぞれから軍事・経済援助を引き出そうとしていた。ところが米国が、イスラエルとの関係、ソ連との関係を考慮してアスワンハイダム建設資金援助約束を撤回し、英国や世界銀行がそれに追随したことから、ナセルは報復としてスエズの国有化を断行したのである。中東石油の輸入ルートとしてスエズ運河に死活的な利害を有していた英仏は武力制裁を主張したが、米国は同調せず、国連の枠内での解決を主張した。ソ連もまたアラブ・イスラエルへの等距離外交を表明し、米国の主張に同意した。

10月29日、イスラエル軍が英仏の了解の下、突然エジプト領であるシナイ半島へ侵攻し、スエズ運河近くまで侵攻した。第二次中東戦争の勃発である。31日、英仏両軍もスエズ運河領域を占領した。このことで英仏とイスラエルは厳しい国際的非難を浴びた。米ソは終始協調的態度で英仏の軍事行動に反対し、カナダが提案した国連緊急軍派遣が実現しそうになると、英仏はなすところなく、撤退に合意し、12月までに撤退を完了した(イスラエルの撤退は翌年3月)。ナセルは外交的に勝利してスエズ運河国有化を確定的なものとし、アラブ世界の英雄的政治家として大きな影響力を持つことになった。