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1007 沖縄返還時、「核密約」示す米公文書 外務省は存在否定 [朝日]

2007年10月07日23時57分

 日米両国が沖縄の「核抜き本土並み返還」に合意した1969年11月、当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領との会談直前に、両国間で返還後の沖縄に米軍の核の再持ち込みなどを認める「密約」を結んだことを明示する米政府の公文書が見つかった。密約の内容は当時の複数の米高官らが認めているが、「秘密議事録」と記述された米側の公文書が明らかになったのは初めて。

 見つかったのは、キッシンジャー大統領補佐官(当時)からニクソン大統領にあてた69年11月12日付と同13日付のメモ。信夫隆司(しのぶ・たかし)・日大教授(日米外交史)が今夏、米国立公文書館で入手した。首脳会談の進め方や手順を説明した文書で、05年に機密指定解除された。

 12日付のメモで、キッシンジャー氏は「返還後の沖縄への核兵器持ち込みと繊維問題に関する日米間の秘密合意に関連して、佐藤首相とあなた自身(ニクソン大統領)は次のような交渉のやりとりをする」と記したうえで、「手続きに関する申し合わせ」を添付した。

 「申し合わせ」の核問題に関する項では、首脳会談での具体的な交渉の進め方が記され、「secret Minute」(秘密議事録=密約)という言葉があり、日米間で核密約があったことが前提となっていたことがうかがえる。

 また「申し合わせ」は佐藤首相の密使としてキッシンジャー氏と交渉した若泉敬・元京都産業大教授(故人)の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で全文が明かされ、「日本政府は(中略)共同声明についての修正された秘密議事録(=密約)と共に(中略)受け入れるものと了解する」と訳されている。

 さらに13日付のメモには、若泉氏が使っていたコードネーム「ヨシダ」が登場し、「この取り決めは昨日午後、私(キッシンジャー氏)とヨシダ氏との最終会談で合意した」などと書かれている。

 信夫教授は「密約の存在が公文書のメモの中で明確に確認された。若泉氏の著書の価値が高められた。外務省は政府の信頼を高めるためにも自ら検証すべきではないか」と話している。

 今回見つかった公文書について外務省は「文書がどんなものか定かではないのでコメントする立場にない。核の『密約』は存在しない」と従来の主張を繰り返している。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/1007/TKY200710070118.html

0915 沖縄返還、佐藤・マクナマラ会談で初確約…外交文書で判明 [読売]

 1967年11月に訪米した当時の佐藤栄作首相が、ジョンソン政権のマクナマラ国防長官と会談した際、国防長官が沖縄について「これらの諸島はいずれ返還されることとなっている」と述べ、米政府として初めて沖縄返還を公式に確約していたことが、外務省が14日に追加公開した外交文書で裏づけられた。

 米国が沖縄返還の方針を日本に伝えた歴史的瞬間が、公式文書で確認された。

 首相と国防長官の会談は11月14日。文書によると、国防長官は「問題は返還にあるのではなく、米国の基地にある」と強調したうえで、「日本が、核の持ち込みを許すのが困難なのは知っているが、自分の安全保障のためと納得すれば合意できよう。核、琉球、安保体制は相関関係にある」とも語り、沖縄返還後の核持ち込みに理解を求めた。

 佐藤首相は「今の状態で論議するのは早い」と述べ、核や基地の自由使用についての議論を避けた。

 国防長官の発言は、沖縄の「核抜き本土並み」返還に合意した69年のニクソン大統領との首脳会談に至るまで、沖縄の核を巡って続いた困難な交渉の「序章」となった格好だ。

 また、文書によると、佐藤首相は67年11月15日の日米首脳会談で、中国が同年6月に初の水爆実験を行ったことを踏まえ、ジョンソン大統領に「前回訪米の際に大統領は、日本に対するいかなる攻撃に対しても守ると約束された。約束が、我が国に対する核攻撃に対しても同じように適用されることを期待したい」と、中国による核攻撃が行われた場合の防衛を要請。大統領は「私が大統領である限り約束は守る」と応じた。

 14日に公開されたのは、1967年、当時の佐藤首相が訪米した際のジョンソン大統領、ラスク国務長官らとの会談録など6文書。

(2007年9月15日1時50分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070914it16.htm

0904 元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏死去 政財界の黒衣役も [朝日]

2007年09月04日03時10分
 元伊藤忠商事会長で、臨時行政改革推進審議会(新行革審)会長代理や東京商工会議所副会頭なども務め、戦後の政財界の黒衣役として隠然とした影響力をもった、瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)さんが4日午前零時55分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。95歳だった。通夜や葬儀の日取りは未定。

 1911年、富山県小矢部市生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学を首席で卒業し、39年に陸海軍の作戦・用兵などを担当する大本営参謀になった。43年のガダルカナル島撤収作戦の主任参謀などを務めた後、終戦直前の45年7月、中国東北部に駐屯していた関東軍参謀に転出。停戦交渉に携わった後、そのまま56年夏まで旧ソ連に抑留された。

 帰国後、58年に伊藤忠商事に航空機部嘱託として入社。独自の情報網や人脈を駆使して同社の業績向上に貢献し、安宅産業との合併責任者として活躍するなど、繊維商社から総合商社に脱皮させるのに力を尽くした。

 副社長から副会長、会長を経て81年から相談役。同年11月から東商副会頭となり、消費税の導入に対して、政策委員長として反対論を抑える役割を果たした。

 また、故土光敏夫経団連名誉会長が力を入れていた臨時行政調査会(土光臨調)と、旧行革審でも委員を務め、その後の新行革審では大槻文平会長の下で会長代理として、政官界と財界の橋渡し役となった。

 83年に当時の中曽根首相が電撃的に韓国を訪問した際には、「密使」として日韓のパイプ役になるなど、戦後政治の様々な場面で保守政治家のブレーンとして活躍した。

 山崎豊子さんの小説「不毛地帯」のモデルとされる。著書に「瀬島龍三回想録 幾山河」。
URL:http://www.asahi.com/obituaries/update/0904/TKY200709040001.html

0830 ポツダム受諾の「聖断」直前、東郷外相が原爆抗議を指示 [朝日]

2007年08月30日13時09分

 戦争の終結をめぐって話し合われた1945年8月9日の御前会議が始まったのとほぼ同じ時刻に、当時の東郷茂徳外相名で、原爆の投下について米国に抗議するよう指示する電報が打たれていたことが、外務省が公開した文書でわかった。御前会議は約2時間半で終わり、ポツダム宣言の受諾が決まった。現在までを通じて、これが原爆投下に対する唯一の抗議となった。

 公開された文書の中に「大至急」と書かれた1枚の公電がある。発信は45(昭和20)年8月9日午後11時55分。《6日、米国飛行機数機、広島市に来襲。新型爆弾を投下せる為、市民多数に死傷者を出し、家屋もまた大半倒壊または焼失せり。その被害の甚大なるは到底従来の爆弾に比較し得ざるものなり。よって帝国政府は別電のごとき抗議を米国政府に提出いたしたきにつき――》

 原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一公使へ指示する東郷外相の公電だった。

 じつは加瀬公使も、原爆に抗議すべきだと考えていた。すでに公開されている別の文書によると、8日午後10時半(日本時間9日午前5時半)、入れ違いで東郷外相にあてた至急電でこう述べている。《大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり……罪なき30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして……》

 東郷外相は、原爆投下やソ連参戦を受け、戦争終結を急ぐべきだと考えていた。しかし「本土決戦論」などを唱える陸軍側との間で議論が紛糾。天皇の判断を仰ぐために御前会議が開かれたのが、9日午後11時50分ごろだった。

 御前会議さなかの10日午前1時には、東郷外相名で、加瀬公使あてに「別電」で《本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たな罪悪なり》と1029文字からなる抗議文が追加されている。

 御前会議は、昭和天皇の「外務大臣の意見に賛成である」という「聖断」が下り、午前2時半に終結。国体護持だけを条件にポツダム宣言を受諾することが決まった。

 戦後、政府は一度も原爆投下に抗議していない。今年7月に閣議決定された政府答弁書は「米国に抗議を行うよりも、核兵器が将来二度と使用されるようなことがないよう、現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要である」と述べている。

 作家の保阪正康さんの話 まさに御前会議が始まるタイミングで打電していることは興味深い。原爆の影響を軽視しようとする陸軍に対して、東郷外相は、抗議したという既成事実をつくろうとしたのかもしれない。東郷外相は8日には、原爆について天皇に奏上している。抗議には天皇の意志が働いていた可能性もある。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0830/TKY200708290328.html

0830 米、執拗に5億ドル要求 67年の佐藤・ジョンソン会談 [朝日]

2007年08月30日10時00分

 沖縄返還交渉の本格化を前にした67年11月の日米首脳会談で、米国が国際収支改善を目的に日本に対し5億ドルの資金協力を執拗(しつよう)に要求していた様子が、30日付で公開された外交文書で明らかになった。米国の資金協力要請については、米国側公文書や関係者の証言などで明らかになっていたが、日本側の外交文書でも裏付けられた形だ。

 公開されたのは、当時の佐藤首相が訪米した際に行われたジョンソン米大統領との会談録抜粋。2日間で計3時間に及んだ会談で、沖縄・小笠原返還問題を前進させたい佐藤首相に対し、ジョンソン大統領が「われわれを助けるために5億ドル出してほしい」と繰り返し求める様が生々しく記されている。日本側は翌年約3億5000万ドルの資金協力に応じた。

 72年の沖縄返還に際して日本は、米軍資産の買い取り名目など3億2000万ドルを支払った。さらに日本の裏負担により米側は約2億ドル分の利益を得たことが米公文書で明らかになっている。同会談での資金協力要求は、こうした利益供与につながっていく「出発点」だとの指摘もある。

 会談でジョンソン大統領は「国際収支問題で援助できるはず。何故(なぜ)5億ドル出せないのか」などと国際収支改善のための資金協力を求めた。背景にはベトナム戦争で膨らんだ戦費などがある。北爆前の64年には21億ドルだった米国の海外軍事援助などは、会談のあった67年には31億ドルにまで増加。国際収支(貿易収支や資本収支などの総合収支)の赤字幅は、35億ドルと膨大なものになっていた。固定相場制では国際収支の悪化はその国の通貨の不信認に直接つながる。

 それに追い打ちをかけたのが、主要通貨だった英ポンドの対米ドルレートの切り下げ問題だ。ポンド切り下げは、基軸通貨であるドルの不信認に拍車をかける。

 会談の1日目では「一層切迫した問題がある。ポンドの問題である」と、沖縄に関する佐藤首相の発言を制するようにジョンソン大統領が切り下げ問題を持ち出していた。会談の3日後、ポンドは切り下げられた。金井雄一・名大大学院教授(イギリス金融史)は「ポンド切り下げが、ドル危機誘発につながることへの強い危機感がにじみ出ている」と見る。

 会談終盤でジョンソン大統領は「自分も日本を助けるためできるだけのことをするから、総理も私を助けるためできるだけのことをしてほしい」と発言する。伊藤隆敏・東大大学院教授(国際金融)は「日本を助けるとは沖縄返還のことを指しており、取引を迫っている。沖縄返還を巡る交渉は会談以降に先鋭化するが、その走りがここに表れている」とみる。

 米国側の危機感に対して日本側の反応は鈍かった。佐藤首相は「5億ドルでは困る。3億ドルが支出しうる最大の額」と反論した。当時の外貨準備は20億ドル程度しかなく、日本には重い負担だった。

 結局議論は平行線で、日米貿易経済合同委員会の下に小委員会を設置することで合意。68年1月にハワイで開かれた小委員会で、兵器の購入や直接投資として1億ドル支出するなど計3億5000万ドルの資金協力が決まった。

 浅井良夫・成城大教授(政治経済学)の話 ポンド切り下げ問題で、米国が国際収支をいかに心配していたのかが浮き彫りになっている。5億ドルの要請は、イラク戦争まで続く防衛上、金銭上の協力を日本に求める姿勢の始まりという印象だ。
URL:http://www.asahi.com/national/update/0830/TKY200708290327.html

0823 人とゴリラ、分岐は1200万年前 人類進化史書き換え [朝日]

2007年08月23日07時22分

 エチオピア中部の約1000万年前の地層から、ゴリラの祖先にあたる新種の大型類人猿の化石が見つかった。ヒトとゴリラは約800万年前に共通の祖先から分かれたと考えられていたが、今回の発見で分岐が約1200万年前までさかのぼることになる。人類の進化史が書き換えられそうだ。

 諏訪元・東京大総合研究博物館教授(古人類学)ら日本とエチオピアの研究チームが、23日付の英科学誌ネイチャーに発表する。

 チームは、昨年から今年にかけて、エチオピア中部で大型類人猿のものとみられる犬歯1本、臼歯8本の計9本の歯の化石を発見した。

 ゴリラの臼歯は表面に特有の凹凸が発達、植物の葉や茎の繊維質をかみ切って食べやすいようになっている。化石の臼歯にこの特徴があり、チームはゴリラの祖先にあたる新種の類人猿だと結論づけた。地層名などからチョローラピテクス・アビシニクスと名付けた。

 チームはヒトとゴリラやオランウータン、チンパンジーとその仲間のボノボの進化について枝分かれの時期を再検討したところ、いずれも従来より古い時代に分岐したとの結果になった。

 諏訪さんは「現代の人類の初期進化の舞台とされるアフリカだが、この時代の類人猿の化石が見つかることは非常に少ない。今後、さらに化石が見つかれば、進化の過程がよりはっきりするだろう」と話している。
URL:http://www.asahi.com/science/update/0822/TKY200708220361.html

0718 共産党の宮本顕治・前名誉議長が死去 [朝日]

2007年07月18日20時44分

 日本共産党の中央委員会議長、同幹部会委員長などを歴任し、40年近く同党の最高指導者だった宮本顕治(みやもと・けんじ)氏が18日午後2時33分、老衰のため、東京都内の病院で死去した。98歳だった。同党が非合法とされていた戦前からの幹部で、50年代に「宮本体制」を確立。旧ソ連や中国などの社会主義国と一線を画した「自主独立」、国内での「議会主義」の路線を進め、、「少数が多数に従う」という「民主集中制」を組織原則とする共産党を築き、同党の支柱として90年代まで君臨した。


共産党第4回中央委員会総会であいさつする宮本顕治議長=1995年10月25日
 宮本家で密葬を行うとし、共産党として参院選後に葬儀を執り行う。自宅は東京都多摩市連光寺1の31の28。

 宮本氏は97年9月の第21回党大会を機に引退し、実権を持たない名誉議長になり、00年11月の第22回党大会で名誉役員の一人になっていた。

 宮本氏が一線を退いた後の党運営は、委員長を引き継いだ不破哲三・前議長が中心となって担ってきた。不破氏も06年に議長を勇退し、党の実務は志位和夫委員長と市田忠義書記局長に引き継がれている。

 不破氏は90年代に志位氏とともに「ソフト路線」を進めた。現在の党運営は不破氏が敷いてきた路線に沿っている。宮本氏の死去で党の政策や路線に変更は生じないものの、党にとって宮本氏の死去は大きな節目となりそうだ。

 1908(明治41)年、現在の山口県光市生まれ。東大在学中の29年、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」が雑誌「改造」懸賞論文の1等になって文筆活動を開始。大学卒業後の31年に共産党に入党。翌32年に作家中条百合子と結婚、33年5月には党中央委員になったが、同年12月に逮捕され、治安維持法やいわゆる「スパイ査問事件」などで有罪となり、無期懲役の判決を受けた。その後、45年10月に網走刑務所から釈放されるまで非転向を貫いた。

 戦後は、55年に指導部に復帰。58年には書記長に就任し、事実上の最高指導者となった。70年には新設された幹部会委員長となり、不破氏を書記局長に抜擢(ばってき)。82年には委員長を不破氏に譲り、議長になった。77年には参院全国区で初当選。83年には比例代表区で再選され、89年まで議席を維持した。

 宮本氏の指導下、共産党は64年には旧ソ連の「修正主義」と日本の党に対する干渉を批判して断絶。66年には文化大革命直前の中国共産党と決裂するなど、外国の共産党に対する「自主独立」路線を取った。87年の大韓航空機爆破事件について「北(朝鮮)のやったことだ」と発言。89年からの旧ソ連・東欧諸国の体制崩壊に対しては「科学的社会主義とは無縁の出来事で、こうした政権の崩壊は当然のことだ」との考えを表明した。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0718/TKY200707180450.html

0628 宮沢喜一元首相が死去 [朝日]

2007年06月28日19時31分

 「55年体制」下の自民党単独政権時代の最後の首相で、保守護憲派として知られた宮沢喜一(みやざわ・きいち)さんが28日午後1時16分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。87歳だった。通夜は30日午後6時から、密葬は7月1日正午から、いずれも東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で行われる。喪主は妻庸子さん。自宅は東京都渋谷区神宮前6の34の1。


宮沢喜一氏
87年10月の第48回臨時自民党大会で、中曽根・竹下両元首相らと握手する宮沢元首相
91年11月、新内閣の組閣を終え、皇居での認証式に向かう宮沢新首相(当時)
93年6月、内閣不信任決議が可決され衆院本会議場を退場する宮沢首相(当時)
 91年10月、海部俊樹氏の後継を争う自民党総裁選で渡辺美智雄、三塚博両氏を抑えて当選。翌月、第78代首相に就任した。国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、カンボジアに自衛隊を派遣した。

 93年に政治改革法案をめぐって、「どうしてもこの国会でやらないといけない。やりますから。私はうそをついたことはありません」と断言。しかし、同法案は不成立となり、逆に宮沢内閣不信任決議案が可決され、自民党の分裂、野党転落のきっかけをつくった。総選挙後の8月に退陣。在任期間は1年9カ月だった。

 19(大正8)年、東京生まれ。41年東大法学部卒。翌年大蔵省に入省し、池田勇人蔵相の秘書官を務めた。池田氏の右腕としてサンフランシスコ講和条約の下交渉に携わった。池田氏の勧めで政界入りを決意。53年、参院で初当選。67年、衆院にくら替えし、以来連続12回当選。経企庁長官、通産相、外相、官房長官、自民党総務会長などを務めた。通産相として70年の日米繊維交渉にあたったが決裂。75年の外相時代には、金大中氏事件のいわゆる第2次政治決着を図った。

 87年の党総裁選では、竹下登、安倍晋太郎両氏の「安竹宮」の一角として、中曽根元首相の後継を争った。だが、3氏の候補者一本化調整は不調に終わり、中曽根氏に調整を一任。中曽根氏は竹下氏を後継総裁に指名した。竹下内閣では、副総理・蔵相として入閣したが、リクルートコスモスの未公開株の譲渡をめぐる問題に元秘書が関与。この問題をめぐる衆院予算委などでの説明が二転三転したことの責任を問われ、88年12月に辞職した。

 98年7月の小渕内閣発足で、当時の金融危機に対する「切り札」として小渕首相に請われて蔵相に就任。積極財政で景気を刺激するケインズ政策を総動員し、森内閣が退陣する01年4月まで2年9カ月務めた。03年10月の衆院解散で、小泉首相の要請を受け入れて政界を引退した。

 米有力紙が「日本の有力政治家の中で最も英語が達者」と折り紙をつけた「国際派」。キッシンジャー元米国務長官、シュミット元西独首相、リー・クアンユー元シンガポール首相ら海外の要人とも交流が深かった。

 常に憲法全文をポケットに入れて持ち歩く「護憲派」。05年1月に発足した自民党新憲法起草委員会には小委員長として加わり、ハト派の立場から同年11月に公表された同党の憲法改正草案づくりに協力した。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0628/TKY200706280302.html

0503 前大阪府知事の横山ノックさんが死去 75歳 [朝日]


2007年05月03日18時09分

 前大阪府知事でタレントの横山ノック(よこやま・のっく、本名山田勇=やまだ・いさむ)さんが、3日午前7時15分、咽頭(いんとう)がんのため兵庫県西宮市の病院で死去した。75歳だった。葬儀は親族のみの密葬とし、後日、お別れ会を開く。


横山ノック・元大阪府知事(99年12月撮影)
 漫才グループ「漫画トリオ」のリーダーとして人気を集めた後、参院議員を4期務めた。「無党派」を掲げて立った95年の大阪府知事選で圧勝し、東京都知事選で勝った故青島幸男氏とともに「青島・ノック現象」と呼ばれた。しかし、再選された99年、知事選の女性運動員へのわいせつ行為で大阪地検の聴取を受け辞職を表明。強制わいせつ罪で在宅起訴され、懲役1年6カ月執行猶予3年の有罪判決が確定した。04年に芸能界に復帰したが、晩年は表舞台に立つことは少なかった。

 32年、神戸市生まれ。横山フック、上岡龍太郎(横山パンチ)の両氏と結成した漫画トリオは、60年代、時事問題を交えた漫才で一世を風靡(ふうび)した。「パンパカパーン、今週のハイライト」という語り口は流行語になった。

 68年に漫画トリオを解散し、参院選全国区で出馬して初当選。74年参院選には落選したが、77年に返り咲いて計4期を務めた。95年の統一地方選では、大阪府知事選に立候補。「既成政党をノックアウトする」との訴えで風を起こし、自民などの相乗り候補に圧勝。任期中は府の財政再建に力を注ぎ、99年知事選では史上最高の235万票で再選された。

 しかし、その選挙戦のさなかに、選挙カーの中で女性運動員に性的暴行を加えたことが発覚。再選から8カ月後に強制わいせつの罪で在宅起訴され、00年8月、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

 04年に芸人として「復帰宣言」したが、演芸会などに年数回出演する程度だった。弟子に故横山やすしさんらがいた。
URL:http://www.asahi.com/culture/stage/engei/TKY200705030117.html

1220 前東京都知事、青島幸男氏が死去 [読売]

 前東京都知事の青島幸男(あおしま・ゆきお)氏が20日午前9時30分、骨髄異形成症候群で亡くなった。74歳だった。

青島氏は東京・日本橋生まれ。早稲田大商学部を卒業した後、脚本家としてデビュー。「スーダラ節」などの作詞で一躍流行作家となった。67年にはテレビドラマ「意地悪ばあさん」に主役として出演した。

 68年には参院選に出馬し、政見放送と選挙公報だけの選挙戦で当選した。その後は、小説家としても活躍、「人間万事塞翁が丙午」では直木賞も受賞した。

 95年には、都知事選に出馬し、同じ選挙スタイルで当選。就任直後に、世界都市博覧会の中止を決断した。2期目の都知事選を前にして、突然不出馬を表明し、再びタレント活動を始めた。

 2001年の参院選では、二院クラブの代表として再び参院選(比例選)に立候補したが落選。04年にも無所属で参院選に東京選挙区で出馬したが落選した。
(2006年12月20日14時50分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061220i507.htm

1227 A級戦犯資料の一部を公開 国立公文書館 [朝日]

2006年12月27日10時56分
 国立公文書館は27日から、これまで非公開としてきたA級戦犯に関する保存資料1200冊の一部を公開した。10月の国会審議で公開を求める声が出ていたことを踏まえ、同館で改めて公開可能かどうかを精査、51冊を全面公開することにした。

 同館には約6000冊の戦争裁判資料があり、このうち裁判記録など3500冊はすでに公開されている。残り2500冊は私的なメモなども含まれるとして、一律非公開だった。

 今回、A級戦犯の弁護関係資料1200冊の精査を進め、第1弾として弁護人が裁判に向けて国際法の基礎的研究をした記録など51冊を「公開」に区分変更。基礎研究のうち各戦犯の行為など事実関係にかかわる135冊は、閲覧申請を受けて非公開部分の有無を個別に判断する「要審査公開」とした。A級戦犯弁護資料の残りは来年の夏までに、それ以外は来年度中に区分変更の作業を行う予定。

 また同館では今後、公開基準の見直しなどについて、弁護士や歴史学者らによる有識者会議に諮る方針も決めた。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/1227/003.html

1212 小泉前首相の秘書官、本を出版 政権の5年5カ月つづる [朝日]

2006年12月12日08時39分
 小泉前首相の政務秘書官を務めた飯島勲氏が、小泉政権の5年5カ月をつづる「小泉官邸秘録」(日本経済新聞社)を出版した。02年の最初の訪朝の直前、小泉前首相が金正日総書記に親書を出し、北朝鮮側から肯定的な反応があったことで「早期の日朝首脳会談開催のメドが立った」と明かしている。

 飯島氏は小泉政権下の主な出来事を側近の立場から振り返り、首相の資質や官邸主導のあり方などについても記述。小泉氏が「トップダウン」の政治手法を取ることができるように、首相秘書官や参事官らで首相直属のチームを編成し、首相が毎日テレビカメラを通じて国民に直接語りかける手法を編み出した経緯なども描いている。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/1211/007.html

1212 強行突入での解決、「日本了承」と認識 フジモリ氏 [朝日]

2006年12月12日07時53分
 「公邸の主権は日本にある。自分のやることについて、任せてもらわないといけない」――96年12月に発生したペルー日本大使公邸人質事件で、強行突入を指示したフジモリ元ペルー大統領(68)が、橋本龍太郎首相(当時)との会談で、軍事作戦を認める了承を取り付けたと認識していたことが明らかになった。「早期の平和的解決」を求めた日本からは、解決の具体策は全く提示されなかったという。

 事件発生から10年を前に滞在先のチリで朝日新聞との会見に応じた。事件の焦点として、発生から約1カ月半後の97年2月にカナダ・トロントで実現した橋本首相との会談を挙げ、「軍事的な作戦を許す条項を入れる。会談の目的はそれだけだった。日本の許可が、作戦に欠かせない条件だった」と語った。

 会談の共同発表では、「(犯行グループとの)対話のためには人質の身体的、精神的健康の維持が不可欠」という一文が盛り込まれた。これがその条項だという。

 文章をみたフジモリ氏は当時、交渉窓口役のパレルモ教育相にこういった。

 「完璧(かんぺき)だ」

 「人質に唯一責任を負っていたのは私だ。私が責任を負い、すべて決断した。作戦が失敗したら、日本政府は私の責任といっただろう」――フジモリ元ペルー大統領は、日本人24人を含む人質72人が4カ月以上拘束されたペルー日本大使公邸人質事件での強行突入をこう振り返った。軍事作戦に「自重」を求めていた日本側とのやりとりで、フジモリ氏は「突入」の了承を取り付けたと判断していた。

 ●食い違い

 「日本政府が要請したのは、平和的、安全かつ早期の解決だった。私はそれをしなければならないが、大使公邸の主権は日本にある。自分のやることについて、(日本側から)任せてもらわないといけない」

 「トロントでの交渉で『もし、人質が病気、危険で医者が入れなければ突入できる』という内容を入れられた。この一文がなければ、日本とペルーの関係が大変になると考えた」

 ●情報戦

 「最も重圧を感じたのは事件発生の翌日。青木盛久大使らの殺害が予告された時だった」

 「事件発生直後、大使公邸の停電、断水を指示した。目的は二つ。情報部員を電気技師などに扮装させて公邸内に入れ、マイクなどを仕掛けることと、相手の反応を見ることだった。人質を殺せば終わりだと、犯人も分かっているだろうと計算した。この時から情報収集は始まっていた」

 ●突入

 「犯人グループを最大20人解放することで、平和解決を決断しかけたことは何度もあった。だがそのたびに相手の言うことが変わった」

 「公邸の下に掘り進めたトンネルが完成したのは3月15日ごろ。3月末には準備が完了した。突入を決断したのは2日前の4月20日。犯人が医師の診察を拒否したからだ。人質は疲れ果て、限界が迫っていた。突入を知っていたのは、148人の特殊部隊員と12人ほどの軍幹部だけだった」

 「私は、救出作戦を実行しろ、と命じた。処刑や殺害は命じていない。犯人の死亡の経緯は『作戦の過程で死亡した』とだけ報告を受けた」

 ●対テロか人権侵害か

 「在任中にテロ対策で心がけたのは、国民が政府を支えるようにすることだ。国民が政府に忘れられていると思えば、ほかに助けを求める。テログループの宣伝に影響される。私は軍に武器を置かせ、住民向けの建築作業などに従事させた。軍事面は一つのポイントにすぎない」

 「テロは社会格差から生まれる、というのは間違いだ。彼らは革命の理由に貧困を利用しているだけだ」「(フジモリ政権のテロ対策を人権侵害としたトレド政権は)私のやったことを過小評価し、結果的に平和を損なう状況を生み出した」

 〈ペルー日本大使公邸人質事件〉 96年12月17日、左翼ゲリラ・トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の武装グループが、天皇誕生日祝賀レセプションを開いていたリマの日本大使公邸を襲撃、占拠し、青木盛久大使(当時)や各国要人ら最大で約600人を人質に取った。ペルー当局はフジモリ大統領(同)の発案で公邸下までトンネルを掘り、97年4月22日、特殊部隊が突入した。犠牲者は3人。ゲリラ側は投降者も含め全員が射殺された。人質生活は127日に及んだ。
URL:http://www.asahi.com/international/update/1212/003.html

1126 戦史の比較研究に本腰、防衛庁が海外から史料積極収集 [読売]

 防衛庁は2007年度から、同庁の調査研究機関である防衛研究所(東京都目黒区)で、戦史の国際的な比較研究を強化する。

 昭和戦争中に連合国を中心とする諸外国が作成した日本関連史料や、連合国が押収した旧日本軍史料のうち、歴史的価値の高い史料を積極的に収集し、国内史料と比較して、戦史研究を多角的に進める。07年度は、研究所職員を米英露豪などに派遣し、各国の研究機関が保管する該当史料の実態調査に着手する方針だ。

 防衛庁が戦史の比較研究に本腰を入れるのは、「戦史研究の世界では、国内外の史料を比較しながら史実を検証する手法が主流となりつつある」(防衛政策課)との判断からだ。防衛研究所が引き継いでいた大本営の膨大な史料の整理・分類が、昨年度にようやく完了のメドがつき、立ち遅れが指摘されていた戦史の比較研究に重点を移せることになった。

 海外にある史料で、防衛庁が「日本の戦史研究に影響を与えた」とする事例としては、蒋介石が、生前に抗日戦の戦略や舞台裏をつづった日記などがある。

 防衛庁では、海外での実態調査を通じ、重要な史料の特定と目録入手を行ったうえで、非公開分を含め、各国にある日本関連史料の複写などの収集を順次進める。研究を深めることで、「先の大戦で、日本が各国の意図や戦略を読み違え、外交交渉による解決の可能性を逃していったという歴史的教訓が得られる」(防衛政策課)とみている。

 研究の成果は、同課内に07年度新設する「戦略企画室」での中長期的な政策立案にも役立てたい考えだ。

(2006年11月26日10時54分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20061126i302.htm?from=main3

0901 満州軍機密文書:現金強奪計画も 謀略工作の実態浮き彫り [毎日]

 発見された満州軍の機密文書「発信原稿」からは、日露両国が虚々実々の諜報(ちょうほう)戦を繰り広げ、謀略工作に深く手を染めていた実態が浮き彫りになった。【栗原俊雄】

 「露清銀行ハ香港弗(ドル)ヲ買ヒ入レ奉天ニ送ルトノ事ナリ新民屯マテハ多分汽車ナラン新民屯奉天間ニ於(おい)テ之ヲ奪略スルノ工夫ナキヤ橋口ヨリノ報告ハ僅(わずか)ニ一回達セシノミ」

 満州軍の諜報参謀だった福島安正少将が1904年11月1日付で発信した電文。露清銀行は満州の植民地開発を目的にロシアが設立した銀行で、日本が現金強奪を計画したことを示す内容だが、実際に行われたかどうかは明確な記述がない。

 児玉源太郎総参謀長からロシアの旅順要塞を攻めていた乃木希典司令官率いる第三軍にあてた指令(同年8月19日付)には、「鉄道破壊ノコトハ兎(と)ニ角ヤラセテ見ルモ可ナラン」とある。同日は第1回総攻撃を開始日。総司令部が、なりふり構わず攻略を目指したことがうかがえる。

 翌年4月、児玉総参謀長が各軍参謀長にあてた指令では、日本国内の新聞が満州に展開する部隊の編成、配置などを報道していることを挙げ、「記事ガ如何(いか)ニ敵ヲ利スルコトノ大ナルカ(中略)此際(このさい)従軍内地記者ニ対シ(中略)懇切ニ其(その)利害ヲ説得シテ充分ニ彼等ヲ警醒スルノミナラズ此ノ如キ通信記事ハ検閲ノ際容赦ナク之ヲ削除スル」よう指示した。

 また、スパイの暗躍に悩んだ大山巌総司令官は、「在満洲ノ朝鮮人ハ露探タルノ疑アル者少ナカラサルニ付此際彼等ヲ駆リ集メテ韓国ニ護送スヘシ」との命令(同10月24日付)を各軍に伝えている。露探とはロシアのスパイという意味。実行されたかどうかは分からないが、朝鮮人の護送手段にまで言及している。

 欧州で反ロシア勢力の結集を図っていた明石元二郎大佐に関する記述も。05年1月26日付の電報原文には「明石ヨリ補助金ノ請求アラハ此際断行セラレタレ」と記され、同日付の別の電報原文には「露国内乱ノ気煙益々盛ナラントス、クロパトキンハ軍隊ノ動揺ヲ恐レ之ヲ機密ニ附サントスルニ苦心シツツアル(中略)種々ノ手段ヲ以テ(中略)満州蒙古ノ各地ニ発布スル様尽力セラレタシ」とあった。


0901 日露戦争:満州軍の諜報活動伝える大量の機密文書発見 [毎日]

 日露戦争(1904~05年)で日本が旧満州(現中国東北部)に派遣した満州軍の諜報(ちょうほう)活動の詳細を伝える機密文書が大量に見つかった。満州軍が04年6月23日から05年6月30日に発信した約700通の極秘電文の元原稿をつづったもので、日露両国のスパイが暗躍する様子や謀略工作の実態が暗号交じりで生々しく描かれている。

 機密文書は「発信原稿 満洲軍参謀部諜報部」と表書され、「満洲軍総司令部」や「大本営」と印刷された罫紙(けいし)に書かれている。1枚ごとに児玉源太郎総参謀長ら最高幹部のサインが記され、紙数は約950枚。諜報参謀だった福島安正少将の手紙13通も挿入されていた。

 発信原稿からは、満州軍が旅順総攻撃に合わせてロシアの鉄道破壊を促したり、後方かく乱のため馬賊(ばぞく)を組織して敵の物資を奪うよう命じたり、情報漏えいを恐れて従軍記者の記事の検閲を徹底するよう指示したことが浮かび上がった。重要な言葉は、数字やカタカナを使用した暗号に組み替えていた。ロシア資本の銀行の現金輸送列車を襲うよう指示したり、ロシアのスパイを恐れて満州在住の朝鮮人を韓国に強制移送させることを通知するなど「初めて明らかになる」(浅野豊美・中京大教授)内容も含まれていた。

 発信原稿は日露戦争後、最高機密文書として陸軍に保管され、太平洋戦争敗戦時、GHQ(連合国軍総司令部)の没収を恐れ、諜報活動に関する他の史料と共に焼却処分されたと思われていた。しかし、名古屋市在住の故長谷川昇・東海学園女子短大(現東海学園大)名誉教授が所有。遺族が昨年、遺品を整理中に見つけた。

 概要は9月中旬発行の軍事史学会の機関誌「軍事史学」に掲載される。【栗原俊雄】

 ▽原剛・防衛研究所調査員の話 満州軍の諜報戦の内容は、これまで断片的な史料や口伝えでしか分からなかった。最前線ならではの情報が記されており、一級の史料だ。



:★新史料06Ⅰ? より続く

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