自慰人形たちの放課後 立ち読み版
第一話 La traviata
その日の午後、清陵大学附属中等部の生徒は全員でオペラを鑑賞することになっていた。演目は椿姫。誰もが名前くらいは聞いたことがあるほど有名なオペラだったが、春海はこれまで見たことがなかった。
だからといって、オペラを鑑賞するのが初めてというわけではない。春海の家、筒木家はかなりの名家で、オペラを鑑賞する機会は日常的にあったからだ。
劇場に入り決められた席に着く。舞台の幕が開くと豪奢なドレスが真っ先に目に留まった。アイボリーのベルラインのドレスは艶やかで、落ち着いた色なのにとても華やかに見える。それはスカートの部分に数段のフリルが着けられていて、そのフリルの縁が金糸で出来ているからだ。スカートの下にはパニエが重ねられているのだろう。ふっくらとしたシルエットがとても美しい。
金糸のレースは胸元にも飾られていて、開いた襟ぐりの周囲から袖まで繋がっている。袖はレースとフリルで出来ており、細い腕の先にはドレスと同じ色の手袋がはめられている。手袋の縁にもやはり金糸のレースがあしらわれており、一層華やかに見える。
美しい衣装と美しい歌、もの悲しいストーリー。どれも春海の好みだった。ラストシーンでは涙が自然に浮かんで、ハンカチで何度も目頭を押さえなければならなかった。
うっとりと余韻に浸りながら春海はクラスメイトたちと一緒に劇場を出た。周囲を歩く誰もがオペラに感動し、言葉熱く語っていた。春海はポーカーフェイスを装い頷くだけの返事をしていたものの、内心では両手を上げて意見に賛同したいと思った。
感動の余韻はだが、ある声が聞こえたところですっぱりと途切れてしまった。
「わたし、椿姫は好きではないんです」
耳に入った声に驚いて春海はそっちを見た。春美から少し離れたところには一人の美しい少女がいた。滑らかな肌、艶やかな長い髪、そして少女の顔立ちはとても愛らしい。少女は愛らしい顔に愁いの表情を浮かべていた。この少女は学校では有名人だ。もちろん名前も知っている。木之下つばさ。それが少女の名前だ。
木之下家はかなりの名家で、春海の筒木家よりも歴史は浅いが、現在では格上と評されている家だ。だが春海は眉を寄せて思わずつばさの方に歩き出した。
「どうしてお気に召さないの? とても素晴らしいオペラですのに」
つばさは名家の娘ながら気取らず奔放にふるまい、家柄などに左右されず、皆に気さくな態度で接する。そのためつばさに憧れる生徒は数多くいる。現に今日もつばさの周囲には、まるでつばさをガードするかのように取り巻きの女子生徒たちが固まっていた。
横から口を挟まれると思っていなかったのか、つばさを取り巻いていた女子生徒たちが鋭い目で春海を睨む。だが当のつばさは不思議そうに首を傾げ、微かに笑った。
「お気を悪くなさったのならごめんなさい。わたしの感性に合わない、というだけですから」
楚々と笑って会釈をしたつばさが静かに去る。それを無言で見送っていた春海に何人かの生徒たちが駆け寄ってくる。口々に大丈夫か、無闇に声を掛けない方がいい、などと言われて春海は今度は彼女たちを見てため息を漏らした。
つばさと同様に春海にも取り巻きと言えるような存在がいる。純粋に春海を慕っている生徒がいないわけではないが、彼女たちの多くは筒木の名に惹かれて集まってきているのだ。
「何でもありません。少し、気になっただけです」
つばさを見たのはこれが初めてではない。取り巻きがいることも知っていた。けれど、感動の余韻を一言で消し去ってしまったつばさに、どうしても理由を訊きたかったのだ。だがそれを説明するのも煩わしい。春海はいつものように取り巻きたちに無難な返答をしてから教室に戻った。
帰宅したらもう一度、パーソナルシアターであのオペラを観ることにしよう。そうすればこの、言いようのない苦い気持ちも和らぐに違いない。そう思いながら春海は観劇の後の授業を受けた。その間もつばさのあの言葉は頭から離れなかったが、春海はその理由をあえて考えないようにした。
ごきげんよう、といつもの挨拶を交わしたクラスメイトたちが教室を出て行くのを待つ。春海の取り巻きの中には側に残ろうとしたものもいたが、観劇を終えてからの春海の機嫌の悪さを察したのか、挨拶を返して去って行った。
迎えの車はもう校門前についているだろう。誰もいなくなった教室で春海はため息を零してから、深く息を吸って俯き、目を閉じて静かに息を吐き出してから顔を上げた。
「ごきげんよう、ごきげんよう、ごきげんよう」
苦い顔で何度か繰り返してから、春海は鞄を机に叩きつけた。
「もう、限界! 何でさよならとか、バイバイとか、普通の挨拶は駄目なの!?」
幼い頃から躾けられてきたからこそ、本当は知っている。
クラスメイトたちのほとんどは春海から離れたところでは、他の学校の女子生徒と変わらぬ言葉で会話をしていることを。
そのほうが普通で当たり前だということを。
「何であたしは普通の話はしちゃ駄目なの!? 学校の帰りにお店に寄ったり、美味しいものを食べたり、可愛いものを見たり、買ったり、どうして出来ないの!」
溜まった鬱憤を吐き出してから深呼吸をする。春生まれだから春海という名前が付けられた通り、春海は進級してすぐに十四歳になった。もう駄々をこねるような年ではない。そのことは充分に判っている。そしてこうやって声を張り上げたところで、何も変わらないことも知っている。
クラスメイトを始めとする周囲の生徒が筒木家の娘である春海に媚びているだけだということも、幼い頃から何一つ変わってはいない。そしてそのことを知っていても春海は我慢し、周囲に合わせ、顔には作り笑いを貼り付けて過ごしている。
時折、馬鹿馬鹿しくなる。家柄に吸い寄せられて春海に媚びるのは生徒たちだけではない。パーティー会場で馴れ馴れしく話しかけてくる見知らぬ若い男達も同じだ。それを思い出した春海は吐き気を覚えて口許をハンカチで押さえた。
いけない。まただ。
幼い頃はきらきらとしたパーティーの雰囲気がとても好きだった。テーブルには食べきれないほどの美味しいご馳走が並び、大人たちは陽気に話していて、多少のいたずらも笑って見逃してくれる。同じくらいの年の男の子たちも春海と一緒にはしゃいで遊んだ。ドレスを汚さないようにね、という母親の笑顔の忠告に頷いてはいたが、パーティーの雰囲気につられて遊びすぎてしまい、庭に出て裾を汚してしまうこともよくあった。だがそんな春海を両親は叱らなかった。だから春海はパーティーが大好きだった。
だが今は違う。春海が幼い頃から両親はパーティーに呼ばれた子供を抜かりなく観察し、春海と遊ばせる相手を厳密に選別していたのだ。そのことを春海はもう知っている。今もそうだ。春海に話しかけてくる男は必ず、先に両親に挨拶をすることが義務づけられているようだ。その関門をクリアした者だけが、春海と話が出来る。
筒木は古くから続く家柄だ。だから両親は筒木の家にプラスになるように春海の相手をチョイスしているのだろう。そのことに春海が気付いたのは、中等部に上がった時だった。両親が朝食の席で春海の婚約者をそろそろ決めなければという話をし始めたのだ。驚く春海を余所に、父親と母親は男の名前を挙げては結婚相手に相応しいかどうか話し合っている。そんな二人を見た春海は漸く気付いた。
自分は両親にとって人間ではないらしい。彼らにはその気はないのかも知れないが、春海にはそうとしか思えなかった。まるで商品のように扱われている気分だった。
だから今日見たオペラのヒロインである椿姫が羨ましく思えた。悲しい最期を迎えはしたものの、彼女には心から愛してくれる相手がいて、そしてその相手を彼女も愛することが出来たのだ。それにひきかえ自分は愛や恋をすることはおろか、それがどういうものなのか知ることすら許されない。だから劇中の彼女に憧れ、そして同時に羨ましく思えたのだ。
劇場で見たオペラのラストシーンを思い出し、深々とため息を吐いた春海は、背後に気配を感じて慌てて振り返った。
教室の後ろのドアにもたれて立っていたのはつばさだった。くすりと笑ったつばさが目を細めて舐めるような視線で春海を見る。その視線が不気味に思えたが、春海は何事もなかったかのように平然と訊ねた。
「木之下さん、この教室に何かご用でも?」
「奇妙な声が聞こえたので様子を伺いに」
楽しげに笑ってつばさがゆらりと動いて机の間を縫うように歩いてくる。その足取りはとても軽い。どうやらさっきの声を聞かれてしまったようだ。そのことに気付いた春海は目を合わせられなくなり、ぎこちなくつばさから目を逸らした。
人形のように愛らしいつばさの人気は止まるところを知らず、中等部だけではなく、高等部にまで噂が流れているようだ。常につばさを取り囲んでいる生徒たちが、つばさのファンであると自称していることも春海はよく知っていた。
「椿ね。そういえば」
足音も立てずに近づいてきたつばさが、そんなことを言いながら春海の顔を覗き込む。どういう意味だろう、と思った春海は、何となくつばさの方を向いて頬を染めた。いつの間に距離を詰めたのか、つばさが至近距離まで顔を近づけていたのだ。
「だから、椿。筒木の木と、春海の春を合わせたら椿でしょう?」
吐息がかかるほど間近に寄ったつばさが囁く。間近で見てもつばさはぞくりとするほど肌が美しく、髪は異様なほどに艶やかだ。それに何だか甘い香りがする。深く息を吸い込んだ春海は、緊張と言い知れない不気味さを懸命に押し隠して返事した。
「素敵ね。考えたこともなかったわ」
微かに笑って春海は失礼、と断って机から離れようとした。が、その寸前につばさに手首をつかまれる。
「今度から筒木さんのことを椿姫とお呼びしてもいいかしら?」
細い指は意外にもしっかりと春海の手首に食い込んでいる。うろたえた春海の視線が無意識に揺れる。その隙を狙っていたのか、つばさが擦り寄ってくる。
今日は何故、つばさは一人でいるのだろう。いつもは色んな生徒に取り囲まれていて、一人でいるところなど見たことがない。あの時以外は。
手首をつかまれた春海は身動きが出来なくなっていた。その間につばさが妖艶な笑みを浮かべて身体を寄せてくる。制服越しに触れられた春海は全身を強ばらせた。脳裏にまざまざとあの時のことが蘇る。
ある時、つばさが一人の女子生徒と絡み合っているところを、春海は偶然見かけてしまった。誰もいない暗い教室のドアが少しだけ開いていたから、気になって閉めようとした時だった。ドアの隙間から中を覗くと微かな声が聞こえた。机に座った女子生徒がつばさに唇を奪われるところを見かけた春海は、思わず足を止めて二人の様子に見入ってしまったのだ。
机に腰掛けた女子生徒は足を開いているように見えた。ブレザーとブラウスのボタンも外され、露わにされた女子生徒の乳房をつばさはしきりに弄り回していた。弄られるのが嬉しいのか、女子生徒は蕩けそうな顔をしてつばさにすがりついていた。そんな女子生徒の足の間に挟まれる格好で立っていたつばさが、不意に振り返って意味ありげに笑った。
そこで春海は我に返って慌ててその場を離れた。あれはもしかして情事の最中ではなかったのか。そう考えるだけで春海の顔は真っ赤になった。恥ずかしさと同時に得体の知れない何かがこみ上げてくる気がした。
胸を締めつけられるような苦しさを覚えて、春海は苦い顔で声を吐き出した。
「あなたには、判らない、自由なあなたには、絶対に判らない!」
「なあに? 今度は八つ当たり?」
首を傾げたつばさが楽しげに笑う。その笑いには嘲りがこめられている気がして、春海は唇を噛みしめてつばさの手を振り解いた。すると、つばさがそれを待っていたように、邪険にされて傷つきました、という顔をする。普段なら例えそんな意図が透けて見えても春海の方から謝るのだが、今はそんな気になれなかった。
「迎えが来ているので失礼しますわ」
素っ気なく言って春海は鞄を大事に抱えるようにして歩き出した。そんな春海の背中につばさの笑い混じりの声が飛んでくる。
「今晩が楽しみです。良かったら連絡をください。……あ、わたしの連絡先をお伝えした方が良かったかしら?」
そんなもの知っている訳がないし、知る必要もない。連絡する気になるはずがないのだから。心の中でそう言いつつも、春海は黙って教室を出た。