向日葵 立ち読み版
向日葵の花が揺れる頃に咲惠(さえ)さんは現れる。僕は咲惠さんに会うまでは退屈な毎日を過ごしていた。
ここは何てことのない田舎町で、あるのは周囲を囲む山と田んぼと畑くらいだ。町外れには牛や鶏を飼っている家もあるらしい。
この町は都会よりは涼しいという理由で昔は避暑地として賑わっていたと聞いた。誰もいなくなったスキー場の跡、林の中のボロボロになったバンガローの群れを見ると、昔はそれなりに人がいたことが実感出来る。
寂れた公民館。錆び付いたバス停。動かない自動販売機。壊れた自転車の山。伸び放題の雑草に囲まれた廃墟。……その他もろもろ。
この町には古くなったものがたくさんある。人によってはそれを見てノスタルジーとかを感じるのかも知れない。けどそんなのは僕には無縁だった。
僕は父の転勤に合わせて引っ越してきた。母はいない。僕は父と二人でこの町に来たのだ。
同級生は一人もいない。遊ぶ相手もいないので、僕は仕方なく本を読むことにした。本だけは父の書斎にたくさんあったからだ。
最初は意味が判らないところも多かった。僕はその言葉の意味を調べるために、別の本を開き、そこに書いてある文字を読むために、更に別の本を開いた。そうやってゆっくりと本を読んでいると、いつの間にか時間が過ぎているのだ。
最初は父の書斎で調べながら読んでいた。でも僕は埃っぽい書斎が嫌いだった。やがて僕は本だけを持ち出して自室で読むようになった。寒い日は部屋にこもり、ストーブにあたりながら本を読んだ。
そして日差しが暖かくなりはじめた頃、僕は外に出て本を読むことにした。日差しが強くなってくると、小川に足先を突っ込んで川辺に座って読むことが多くなった。
やがて夏休みに入った。僕は蝉の声を聞きながらいつものように小川の傍で本を読んでいた。
「本? こんなところで?」
唐突に話し掛けられた僕は慌てて振り仰いだ。そこには微笑む咲惠さんがいた。長い髪を指で耳にかけ、咲惠さんが僕に合わせてその場に座る。
白い帽子はつばが広くて咲惠さんの顔をいつも半分くらい隠している。真っ青なワンピースは風に吹かれて踊るように揺れる。綺麗な足はまるでストッキングでも穿いているかのように白い。腕も華奢で透けるように白い。指も細く美しく、しらうおのような、という表現が咲惠さんにぴったりだと思う。
始めは名前を聞いた。僕も名乗った。咲惠さんは微笑んで僕のことを「ゆきくん」と呼んでくれるようになった。雪治(ゆきじ)という名前がちょっと古くさいと思っていた僕は、咲惠さんの言葉で自分の名前が嫌いじゃなくなった。
咲惠さんは僕に漢字の読み方を教えてくれた。それまでいちいち調べていた言葉に、咲惠さんは鉛筆でルビをふってくれた。するとその言葉は僕の目には輝いて見えるようになった。咲惠さんの文字が本人と同じく華奢で、そして綺麗だったからだ。
それがきっかけで僕は文字を覚えるのが早くなった。咲惠さんは僕が小川に行くと先に来ていて、毎日のように遊んでくれた。最初は本を一緒に読むだけだったけど、夏休みの間、咲惠さんは色々な遊びに付き合ってくれた。
僕はまるで友達が出来たように感じて嬉しかった。その頃の咲惠さんは年の離れたお姉さんという感じだった。
だが咲惠さんは夏休みが終わると同時に町から姿を消した。僕はひと夏の思い出になってしまったのか、と咲惠さんがいなくなったことを悲しんだ。町の人たちもそれなりに咲惠さんと話をしたりしていたらしい。時々、咲惠さんがいなくなって寂しくなった、という噂を聞いたりした。
秋が来て、冬が過ぎ、春が終わって、夏が来る。
咲惠さんは再びやってきた。前の年と同じように、僕は咲惠さんと一緒に本を読み、たくさん遊んでもらった。咲惠さんはとても物識りで、僕に色んなことを教えてくれた。
川の話。森の話。木々の話。
咲き乱れる向日葵の話。
それから毎年、咲惠さんは夏になると必ず町に現れるようになった。僕はいつからか咲惠さんが町に来るのを待ちわびるようになった。
咲惠さんが来る時を知りたくて、僕は庭に向日葵を植えるようになった。咲惠さんが前に向日葵の話をしていた時、この花が咲く頃に町にくるの、と言っていたからだ。
風に吹かれた向日葵が花を開かせる頃になると僕はそわそわするようになった。早く咲惠さんはこないだろうか。子供心に待ち遠しく、毎日毎日、庭の向日葵の育ち具合を確かめた。
咲惠さんは不思議なところがあった。咲惠さんが町にいる間、どこにいるのか判らないのだ。一度だけ、夜に歩く咲惠さんを見かけ、こっそり追いかけようとしたらすぐに気付かれてしまった。咲惠さんが困ったような顔をして僕を家まで送ってくれて、僕は父にこっぴどく叱られてしまった。
僕は叱られるのを覚悟して父にも咲惠さんがいる場所を訊ねた。けど父は言葉を濁すばかりで答えてはくれなかった。父も咲惠さんと会ったら仲良さそうに話すのに、居場所は全く知らないらしかった。
咲惠さんは町の人たちにもすぐに受け入れられた。学校の先生まで咲惠さんのことを知っていた時にはびっくりしたけど、あんなに綺麗なのだから当然だと思った。
年を重ねるごとに僕の背は少しずつ伸びていく。中学生になると咲惠さんとの身長の差もかなり縮まった。それまでは年の離れたお姉さん、という印象だった咲惠さんとの年の差すら縮まった気がした。そう思えるくらい、咲惠さんの容姿は変わらなかった。
「そっかぁ。ゆきくんももう中学三年生? 高校はどこに行くの?」
中三の夏。僕は咲惠さんと一緒に川辺に座り、ズボンの裾をまくって水に足を浸していた。もちろん本は読んでいるが、横に座る咲惠さんのことが気になって仕方がなかった。
「ここだと選ぶ余地なんかないよ。知ってるでしょ」
こんな田舎だ。町の外の高校を受験するという選択も出来た。でもそうなると下宿か寮の二択になってしまう。夏休みに家に戻って来ようと思っても、もしかしたら補習授業が入ってしまったら咲惠さんと会う機会が減るかも知れない。僕はそれが一番嫌だった。
「ゆきくん、頭良いのに。外部受験はしないの?」
そんなことをしたら咲惠さんに会えなくなる。僕はそう言いたいのを我慢した。
「ここの高校でも大学進学には差し障りはないから」
「そう? 大学はこの町から出るのよね?」
僕は問われて言葉に詰まった。大学は町から通える場所にはない。進学するためにはここを出なければならないのだ。そうなると咲惠さんにも会いにくくなるのだろうか。僕はそこまで考えていなくて答えることが出来なかった。
少し待ってから咲惠さんがくすりと笑って首を傾げてみせる。これ以上は訊かない、という仕草だ。
咲惠さんは町にいる女子と比べても、ネットで見る女優とかと比べても、別物のように綺麗だった。特に肌質なんか本当に綺麗で、水に触れると水滴が肌を滑らかに落ちて行くのがとても……。
そこまで考えて僕は慌てて本に目を戻した。近頃、こんなことばかり考えている。
僕もそういうお年頃だ。咲惠さんのことが好きなのだと気付いたのは最近だ。気付いてしまうと、咲惠さんとああしたい、こうしたい、という妄想に囚われてしまう。
せめて二人きりでデート、と思ったりもするが、今の状況がすでに二人きりなので何も言えない。それにデートすると言っても、こんな田舎ではせいぜい古めかしい喫茶店でコーヒーを飲む程度だろう。
そんなことをしたら町中に話が出回ってしまう。喫茶店のおじさんもにやにやしながら冷やかしたりもするだろう。僕はうっかり想像してしまってため息を吐いた。
「どうしたの? もう本に飽きた? 今日は何を読んでいるの?」
以前は咲惠さんに読み方を教わっていた。けれど今では咲惠さんの方が僕の本を見て興味を示すようになった。
僕は本のカバーを外して咲惠さんに見せた。
「ただの参考書」
「残念。予想が外れちゃった」
楽しげに笑った咲惠さんがつま先で水を蹴る。ぴしゃん、と水が跳ねたことに驚いたのか、近くにいたらしい魚が水を散らして逃げていった。
その日もいつも通り、僕は夕方になってから家に帰ることにした。小さな頃と同じように咲惠さんが見送ってくれる。僕は並んで歩きながらうっそうと茂る雑草の中で逞しく咲いている向日葵を見やった。
「向日葵、好き?」
「うん。花の中では好きかな」
咲惠さんの質問に僕は無難に答える。すると咲惠さんが僕の見ていた向日葵を指差した。
「あれは早咲きの品種なの。この町にある向日葵は全部そうなんだけど」
「えっ!」
「ゆきくんのおうちの向日葵もそう。日光が大好きなところは同じなんだけど」
驚いた僕を見た咲惠さんはちょっと嬉しそうだ。びっくりさせることに成功した、という顔をしている。僕は少し恥ずかしくなってしまった。
「そうじゃないと、こんな時期に咲かないでしょ? この町って涼しいし」
「あ、そうか……」
言われて僕は思い出した。まだこの町にくる前のことだ。小さい頃、真夏の暑い日に大きな向日葵が満開になっているのを見た覚えがある。汗だくになりつつ、背の高い向日葵に触ろうと頑張って手を伸ばしたけど届かなかった。
何だか遠い昔のことみたいだ。僕は少し笑ってそう言った。咲惠さんもつられたのか微笑みを浮かべる。でもその笑みは何故か寂しそうに見えた。
その日の僕の夢にいっぱいの向日葵で溢れていた。花に囲まれた咲惠さんが楽しげに笑っている姿に思わず見とれてしまう。僕は向日葵をかき分けて咲惠さんに近づく。でも咲惠さんは僕が伸ばした腕を避けて笑いなが逃げていく。僕は慌ててそれを追いかけて……。