新生人工言語論

文字論

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lideldmiir

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普遍文字時代にはヒエログリフや漢字を始め、表意文字やその他ピクトグラムがもてはやされた。母語によって読みが異なろうとも同じものを表しているので異言語話者の間でも伝わる共通の書字として捉えられたからである。しかし漢字などの自然文字が理想的な手段ではないことが明らかになると、今度は真正文字を自分達で作り出した。その集大成は恐らくウィルキンズのものであろう。

しかし実用面で考えればあまりに合理的で論理的すぎる彼の案は使い勝手が悪く、実効性が無かった。漢字が煩雑で無駄が多く複雑だが、その反面少し崩しても意味が伝わる。それゆえ草書なども可能である。ところがそのような性質は余剰なのでそういった余剰を切り取ってしまえば最も便利なものができるではないかと考えるものがいる。だがその選択ではウィルキンズと同じ道を辿る。彼らはひとつ重要なことを見落としている。漢字の煩雑さはある意味バッファであり、ある意味保険である。漢字はかなり煩雑なので確かにもう少し簡略化したほうがいいだろうことは否めない。しかし完全に贅肉をそぎ落とした身体で良い運動パフォーマンスが得られないのと同様、完全に無駄を省いたウィルキンズのような文字体系は書き損じに弱すぎる。普遍文字に実用性を持たせるのならば多少煩雑さがあったほうが良い。そのほうが少し書き間違えたところで意味を取り違えずに済むし、またロドウィックのように五線譜の上に几帳面に書かなくても済むからである。

国際語時代には普遍文字は逆に下火になり、いかに皆が既に共有している文字を使うかに心血が注がれた。エスペラントは字上符を持つが、これは当然のように欠点として扱われた。できるだけ書きやすく共通性のあるものが好まれるからである。まして現在はコンピュータでエスペラントも処理するわけだから、通常のqwertyキーボードのデフォルト設定で入力できないというのはシェアを広げる上では厄介である。

他方、この時代でもまだ普遍文字は死滅しておらず、ピクトグラムを想起させる共通の書字が生き残っている。概ねそれらの言語は独自の読みもできるが、使用者の母語で読んでも良いという日本語における漢字のようなシステムを持つ。つまり訓読み音読みの両方ができるというのに若干似ている。ウィルキンズのころの普遍文字とは違い、最近のグローバル化を反映して文字そのものが文化の違いを表すこともできるようになっていることが多い。ピクトグラムの組み合わせで同じ神でも一神教のものだったり多神教のものだったりして、表現しわけることができる。これは普遍言語時代ではダルガーノに若干その気配が見られた程度である。だが筆者の見たかぎりではダルガーノはむしろ哲学的な分類の諦めの境地から偶発的に起こった結果としてこのような性質を得たのではあるまいか。個々の文化を大切にして異民族間の文化の違いを守るという精神はこのころには乏しかったため、そういった精神をダルガーノが持っていたとは考えにくい。結果的に少し似通う部分があるという程度に留めるのが妥当である。

現代はネット言語が流行るにつれ、ますますキーボード入力を意識した文字体系が流行るだろう。キーボードはラテンアルファベットでできているので、この26字を意識した言語作りにならざるを得ない。入力がしにくい言語であればそれだけより人気を失いやすいからである。したがって独自の文字を持つものは減るだろうが、それではオリジナリティがないという考えが浮かび、独自の文字はあるにはあるがアルファベットで転写もでき、普段はそちらを使うという折衷案に帰着することが多いと考えられる。そうでなくば単にアルファベットしか持たない言語であろう。尚、ピクトグラム系の人工言語はその文字でなければ意味が無いため、恐らく独自の入力ソフト等を開発するだろう。しかしそのツールを利用者が使うのはラテンアルファベットよりは難しく面倒なため、とっつきの悪さは否めない。

無論それが逆に魅力に映って使用者を獲得することもあるだろうが、一般に一番とっつきやすいのはエスペラントでもなく、 qwertyのラテンアルファベット26字で入力でき、しかも文字の読みも親しみやすいものであろう。 pはパ行を当てるのが妥当であるが、xなどは言語によって異なるので、これに奇抜な音を当てるととっつきにくくなるといったことが考えられる。

いずれにせよ現代はツールとしてのコンピュータとどう折衷していくかといった戦略が重要視されるであろう。
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