長くなったので真ん中でぶった切ったらアルヴィンの出番が少ないジュアルです。
ギャグかラブコメかで言うならラブコメ寄りです。


 風が強く吹いていた。雲一つない空は抜けるように青い。ニア・ケリアの空を思い出す。
 少年に振り払われた手は、行き場をなくして彷徨っていた。大した力ではなかったのに怯んでしまったのは、そこに確かな拒絶の意が込められていたからだ。背を向けて屈み噎せる子供に手を延ばすべきか、迷う。肩に懸かる重みを理由に、男はその場を動けずにいた。
 少年に、名前を呼ばれた時のことを思い出す。男は穴を掘っていた。何処までも掘り進めても掘り進めても、凍った土はただ冷たく固かった。頬を伝う汗が不快で、何度も手の甲で拭う。一向に終わりの見えない穴は、けれど掘り進める内に少しずつ冷たい予感を漂わせた。それが余計に自分の手を重たくしている事実に、男は気が付かないふりをした。もしかすると贖罪でもしているつもりなのかも知れない、と脳裏に過ぎって、堪らなく可笑しくなった。そんな高尚さとは程遠いことを、男自身が一番よく理解していたからだ。ただ、一人でなければ意味がなかった。一人で向き合わなくてはならなかった。一人で成し遂げなくてはならなかった。それが、せめてもの報われなかった二十年へのけじめなのだとそう、そう何度も念じながら、男は重たい腕を動かし続けた。
 だからこそ、名前を呼ばれ振り返ったそこに見開かれた美しい榛を見つけた時、ああもう駄目だ、と思った。もう本当に、駄目になってしまった。一人であることに意味があったのに、心は容易く折れてしまった。
 肩が軽くなる。背負った荷を乾いた大地に放って、男は少年の背中に手を伸ばした。温かい、生きている人間の温度に涙が出そうになる。子供が、こんな風に甘やかすからどうしようもなく一人で行けなくなってしまった。ともすれば自分の墓穴を掘っているような錯覚すらしたあの時、延ばされた子供の手があまりにも温かくて放せなくなってしまった。
 小さく丸くなった子供の背を掻き抱きながら、空を仰ぐ。山の頂はまだ遠い。

 


鳥をまつひと The Avian Departure


 その夢をジュード・マティスが視るようになったのは、イル・ファンを離れて旅をするようになってからだ。正確には精霊の主を自称し、またそれに見合う数々の人智を超えた「奇跡」のようなものを起こしたミラ=マクスウェルと出会い、彼女共々祖国から指名手配されなし崩しに旅をする羽目になってからだ。あの時、身に覚えのない罪状に困惑するジュードの脇をすり抜けてミラは出港する船に乗った。そのある種潔く優雅な身のこなしを、まるで猫のようだと困惑する頭の片隅で思ったのを覚えている。非日常への処理が追いつかない頭が行った現実逃避のようなものなのだろう、と客観的にその時のことを思い返すことが出来るようになったのは随分と時が経ってからだ。そうして、訳も分からず立ち尽くすジュードは罪人を捉えるべく伸ばされた既知の手を、半ば絶望しながらただ見つめていた。だが、その手がジュードへと届く前に事態と世界は反転する。精霊の主としての奇跡を失ったミラは既に出港した船の上だ。それなら何が、誰が、行動を起こしたというのだろう――思い到る前に、身体は重力から解放されていた。アルヴィン、と名乗る傭兵が猫の子供を浚うような気安さでジュードをあの窮地から救ったからだ。だから、ジュードの旅は力を失った精霊の主と、この素性の知れない奇妙で何処か酷薄な傭兵との出会いから始まったのだとも言い換えられる。
 初めてその夢を視たのはハ・ミルの村長の家だった。それからも頻繁に視るようになった夢はいつも、見慣れない天井から始まった。故郷ル・ロンドの自室とも、イル・ファンの部屋の天井とも違う。そしてジュードは夢の初めに改めて、今自分が旅をしているのだということを必ず思い出す。そういった幾つかのルールが、この夢にはあった。夢は先ず、そうして目覚めるところから始まる。覚醒しきらない意識の外で蝶番の軋む音が鼓膜を震わせると、ジュードは寝台に身を横たえたまま頭を傾ける。隣に並べ置かれた寝台が、空であることを確かめる為だ。そうして、間違いなくそこに身を横たえるべき人間が居ないことを確かめると、ジュードは漸く上体を起こす。そこで視線は、空の寝台から扉へと向かう。必ずだ。けれど、蝶番は二度軋むことはない。夢の中で、その扉が開かれる様子をジュードが目にしたことはただの一度もなかった。扉の向こうから「誰か」が入ってくることもなかったし、ジュードがその扉を開けることも出来た試しはなかった。部屋の中にただ一人取り残される、そんな夢だった。
 繰り返しその夢を視るようになって、その法則性に気が付いたのはカラハ・シャールに着いた頃だ。夢を視た朝、同室であることの多いアルヴィンが必ずと言って良い程部屋を抜け出しているということに気付き、だからあの夢は単なる現実の延長に過ぎないのだということが知れた。その時はただ実直に、そして先行きの見えない不安な旅の中で頼れる「大人」として、ジュードは彼を信じていた。夢のことも、矢張り真正面から少しの疑いの眼差しすらなくアルヴィンに訊ねると、悪戯っぽく口の端を吊り上げて「そんなこと面と向かって訊いちゃうなんて、案外野暮だね優等生?」と言って彼は笑った。今思えば体よく話を打ち切られたに過ぎないからかいを含んだ声音はそれでも、当時のジュードを納得させるには充分な説得力を持っていた。その程度には、ジュードは彼を信頼していた。だからミラの負傷に際しての彼の突き放した態度にジュードは傷ついたし、彼の不在に少なからず落胆と不安を感じた。そして、彼の居ない三旬――とうとう開かない扉の夢を視ることはなかった。
 ミラの傷が快復した頃姿を現したアルヴィンは、また何食わぬ顔で旅への同行を申し出た。だが、それからそう時の経たない内に、夢はすぐに疑念にすり替わった。シャン・ドゥで、彼が精霊の主であるマクスウェル――ミラの命を脅かす組織アルクノアと、繋がりがあるのだという事実が知れたからだ。
 アルヴィンは、時折アルクノアから仕事の依頼を請けることもあったのだと語った。彼は傭兵なのだから、そうした偶然も或いはあるのかも知れない、とその時ジュードは思った。彼の言葉を信じたというより、惰性から疑うことを忌避した。だからただ、アルヴィンにもうアルクノアの仕事は請けないよう釘を刺し、彼の気安い二つ返事に満足した。そしてまた裏切られた。
 多民族国家ア・ジュールの首都カン・バルクで、アルヴィンはいとも容易くジュード達に背を向けた。仲間である老軍師の機転で逃げおおせはしたもののシャン・ドゥへと逃走する道すがら、ジュードは肩越しに見留めた手を振り微笑む男のことで頭がいっぱいだった。だのに、彼はそう時を置かずにまるで悪びれた様子もなく姿を見せると、ジュード達の疑念も不信感も笑顔で一蹴して共にイル・ファンへと向かう意志を示した。
 アルヴィンの真意はまるで不透明で、既にジュードは無条件に彼に信頼を寄せることは出来なくなっていた。けれど、そんな幼い思惑を見透かしたかのように彼は仲間を売った裏切り者の口でジュードの信頼を「知っている」と言った。知っているからこそ裏切る「ふり」をしてもまた戻って来られるのだとでも言うかのように、その実、何者をも拒絶する口振りで彼はジュードを絡め取る。それら全ては未だ記憶に新しい、昨日の出来事で、だからなのかイル・ファンへ発つ前に一泊したこのシャン・ドゥの宿でジュードはまた、あの夢を視た。
 石造りの天井を、焦点の定まらない視界が捉える。開け放たれた窓からは柔らかな故郷の陽射しともイル・ファンの夜を照らす街灯樹とも異なる、黄昏の色が射し込んでいた。吹き込む風と共に、砂を孕んだ冷たい空気が室内を満たし、ジュードは毛布を抱き込み寝台の上で一つ身を震わせる。白く吐いた息の向こうで、風に煽られて細かな刺繍の施された祈念布が微かに揺れていた。身体を起こし、脇に並ぶ寝台を見遣れば矢張りそこは冷たく乾いている。ジュードはそのことだけを確認して、すぐに視線を逸らした。先には、街中を彩るア・ジュール独特の垂れ幕にも似た旗が山脈から吹き込む風に揺れる様子が、窓から切り取られて見て取れた。風と衣擦れの音以外何も聞こえてこないのはこれが夢だからなのだろうな、とジュードは思った。そして、この夢の中で思考らしい思考を巡らせるのは初めてだと気が付いた。
 寝台から靴を履かず床に素足を付けるとジュードはそのまま立ち上がった。夢の中だからなのか、感触らしい感触は返らなかった。開け放された窓辺に寄れば、風に踊る祈念布の合間からシャン・ドゥ中心を流れる川面が見えた。人影はなく、鳥の声もない。ただ風と、水と、旗が揺れていた。水辺に見慣れない文字が刺繍された五色の布の並ぶ不思議な旗を見留め、頬杖を突き窓の外を眺める。扉は無理でもこの開け放された窓ならば或いは、この部屋から出ることもできるだろうかとそんなことを考えている内に夢は閉じた。
 目覚めてしまえばそこは夢の中と然して変わらない宿の一室で、違いがあるとしたら風や衣擦れの音に混ざり人々の喧騒や生活音が耳に届くくらいのものだった。それから、使う者の居ない空の寝台に奇妙な既視感を覚え、窓辺の人影に今度こそ明確に、ジュードは動揺する。夢の中、ジュードが頬杖を突き川面を眺めた窓辺に、アルヴィンが居たからだ。
 シャン・ドゥの暖色の光に輪郭を滲ませる、鳶色のコートに覆われた背中に声を掛けようと口を開き掛ける。けれど紡ぐべき言葉が見当たらず、ジュードはそのまま俯いた。そんなジュードの困惑を察したのか、アルヴィンの肩が明確に揺れる。それから、僅かだが顔を傾けてジュードへと視線を寄越した。
「おはよう、ジュード君」
 やや下がり気味の目尻を細めながら、アルヴィンは言った。「おはよう」とジュードも返した。それから、夢の中でそうだったように寝台を下りると、窓の外を眺める無防備な背中に近付いた。
「戻ってたんだね、アルヴィン」
「戻って来ただろ、ちゃんと」
 喉を鳴らして彼は笑う。だが、視線は交わらない。窓辺に腰掛けた彼の頭頂から背中に掛けてのラインを見下ろすだけのジュードからは、その表情までは伺い知れなかった。
「昨日のことじゃなくて……」
 何処まで、ジュードの苛立ちと疑念を察して彼は言葉を選んでいるのだろう、そんなことを考えながら僅かに語気を強める。アルヴィンはそんなジュードを特に気にした様子もなく「母親のところだよ」と言って肩を竦めた。
 寝台の上に横たわる、一人の女性の姿が脳裏を過ぎった。薄ら白く土気色をした肌が、シャン・ドゥの柔らかな陽射しの下で不気味に浮き上がっていたのを覚えている。落ち窪んだ眼孔から覗くアルヴィンと同じ色をした眼が、まるで小さな子供のようにきらきらと輝いていた。背中を向けて母親に優しく、それでいてよそよそしく話し掛ける彼の表情はジュードからは分からなかった。ただ、「レティシャさん」と女性の名前を呼ぶアルヴィンの硬質な声が酷く耳に残った。彼の守るものを見た。その事実が彼への疑念を咎める。
 ジュードは窓の外を眺めるアルヴィンの隣に立った。夢の中とは違い、行き交う人々の活気で眼下は賑わっている。風にそよぐ色とりどりの祈念布だけが、変わらない光景だった。けれどそうして並び立ち、同じものを目にしていてもアルヴィンが何を考えているのかジュードには少しも解らなかった。それどころか、彼が今何を見ているのかさえ解らない。人の波を追うようにも、流れる川を無為に眺めているだけのようにも見える。何に焦点を定めることもなく、ただ思案に耽っているだけのようにも見える。同じ黄昏を孕んだ空の下、忘我の淵に沈む彼の守るものに思いを馳せているようにも、次の裏切りの算段に思考を巡らせているようにも見えた。
「誰か、死んだみたいだな」
 アルヴィンが言った。窓の外を見て、彼の視界をなぞっていたジュードは唐突に紡がれた不穏な言葉に驚きアルヴィンの方へと視線を引き戻した。しかし、変わらず彼は頬杖を突いて窓の外を眺めるばかりだった。
 ほら、と言ってアルヴィンは革の手袋に覆われた手で水面を指した。
「あの祈念布、昨日からあそこにずっと出てやがる」
 指し示された方を見やれば確かに、水辺に程近い所に他の祈念布とは形状の異なる五色の旗が風になびいて揺れていた。また、奇妙な既視感に胸が騒いだ。
「……あの旗、夢に出てきた気がする」
「へぇ?そいつは縁起がいいんだか悪いんだか」
 そう言って、アルヴィンはやっとジュードの方を見た。浮かんでいる相変わらずの人を食ったような笑みに、ジュードはまた昨日のことを思い出して腹の底が重くなった。それでも、背を向けられたまま話をされるよりずっと良かった。
 アルヴィンは五色の旗には特別な祈りが込められていること、その祈りはア・ジュールの伝説に出てくる聖獣とその獣を討った英雄とに纏わるものなのだということを教えてくれた。
「死人が出るとああして葬儀の場に旗を吊すんだよ」
「聞いたことあるよ。ア・ジュールでは死んだ人の魂は川を流れて精霊になる、って」
 それ故に、精霊信仰の厚いア・ジュールに在って、水の大精霊ウンディーネは魂の導き手としての側面も持つのだという。
「まぁ、精霊になれんのは強者だけみたいだけどな。負けた奴は海の底らしいぜ?」
 確かに、放っておけば川の流れが行き着く果ては海だろうし、精霊の主であるマクスウェルが泳げないことを目の当たりにしているジュードは事実と伝承とを照らし合わせて奇妙に得心がいった。そんなジュードの様子が可笑しかったのか、赤褐色の双眸を細めてアルヴィンが笑みの色を強める。
「まぁ、川を流れんのは基本的に魂だけだよ。身体の方は……そうだな、鳥葬が多いな、この辺りは」
「そうなの?」
「水葬や火葬もないわけじゃないけどな。基本的に精霊信仰が盛んだから、水や火を穢したくねぇんだと」
 カン・バルクの王城でも、燭台とは明らかに違う意図で灯されているらしい焔が揺らめいていた光景は、ジュードの記憶にも新しい。そこに宗教的な理由があったとしても不思議ではないな、とアルヴィンの話を聞きながらジュードは思った。
「ラ・シュガルでは土葬が多いかな。最近では衛生面を考慮する声もあって、火葬も主流になってきたみたいだけど」
 記憶の糸を手繰り寄せるようにして、ジュードはこめかみに指先をあてがう。遺体の処理方法に関しては、医学校で何度か上がったことのある話題でもあった。
 もともと、ジュードは精霊術による治療を専攻していた為、生身の身体に刃を入れるような原始的な治療法への造詣はあまり深くない。ただ、それでも書物以外で得られる人体の正確な構造を知る目的で遺体の解剖現場に立ち合う機会が何度かあった。確か火葬が増えたことで質の良い解剖用の遺体が出回らなくなってきた声を耳にした気がする。そうした医学校での日常を、非日常の一端とも言うべきアルヴィンとの会話の中で連想するのは少し変な気持ちがした。
「まぁ、ラ・シュガルでは確かに合理的だわな」
「精霊研究も進んでるしね。ア・ジュールみたいに宗教的な理由で埋葬方法が変わる、っていうのは今はもうあまりないんじゃないかな?」
 死者を悼む気持ちがないわけではないが、そこにはどうしても合理性が付きまう。そんな言葉が脳裏によぎったところで、不意に、自分の目の前で溶けて消えた男の最期が思い出された。彼は医学校に通っていたジュードの、研修先の教授だった。思えば彼の死からジュードの非日常は始まった。そんな彼の死は、あの夜の街でどう処理されたのだろうか、とジュードは思った。
 思考の海に沈んでいたジュードは、男の喉から漏れた笑い声に意識を引き戻される。アルヴィンはいつの間にかジュードに背を向けて、また窓の外を見ていた。
 「ア・ジュールでも、宗教的な理由なんてのは後付けに過ぎないさ。要は樹木の育ちにくいこの環境じゃ、火葬は高価ってこと」快活な声音で、アルヴィンは死を語った。「土は堅くて凍ってるから土葬にも適さない。この辺で鳥葬が主流になるのは必然なんだよ」
 言われて、語るアルヴィンの背中から自然とジュードの視線は空へと向かった。イル・ファンの常闇ともル・ロンドの夜と暁の混ざる空とも異なる、黄昏を孕んだ雲が乾いた風に流されていく。そこに、アルヴィンの言うような死者を運ぶ鳥の姿は見つけられなかった。
「火葬が高価、っていうのは木材の希少性が関係してるんだよね。全くないわけじゃないんだ?」
「だな。火を汚さないくらいの徳の高い人間や高貴なご身分の方々なら、払いも悪くないだろうしね、ってこったろ」
 確かに、ア・ジュールを束ねる黎明の王は焔のような男だった。瀝青炭にも似た暗い色の髪の合間から、鮮烈な紅い瞳に射抜かれた。ジュードはその苛烈な眼差しの前に、ただ言葉を失うばかりだった。そして、芋づる式に思い出されるのは、矢張りこの男の裏切りだ。
「ガイアスも、死んだら荼毘にふすのかな」
 鬱屈した思いに突き動かされるようにして、ジュードは言った。もしかすると、アルヴィンの反応が見たかったのかも知れない。
「いや、王族なら塔葬じゃねぇの?俺もよくは知らねぇけど」
 屈託なく笑いながら「そもそもあの御人が死ぬとか想像出来ないけどね」とアルヴィンは付け加えて言った。その様子に、裏切りに対する後ろ暗さは少しも感じられなかった。
「狡いねアルヴィン」
 空を見上げたまま、ジュードは言った。「何が?」と言って、アルヴィンがジュードを仰ぎ見てきたので、そこでジュードは視線を落とす。
「空に還すのに、旗を吊すのは水辺なの?」
 アルヴィンの問いに、ジュード答えなかった。独白を問いにすり替えて、口を開く。
 彼はジュードを、下から真っ直ぐに見据えたまま、何かしら思案するように赤褐色の双眸を緩く細めた。そこに映る自分の顔が今にも泣きそうに見えて、冷ややかな思考との落差に少しだけ驚く。
「……あれは水葬」
 ややあって、アルヴィンは口を開いた。水葬だから水辺に旗が飾られているのだ、と丁寧に付け足して彼はジュードの問いに正確に答えた。
「鳥葬も金が掛からないわけじゃない。だから、女や子供や、金のないやつは水葬が多いんだよ」
 死の畔を穏やかな眼差しで眺めながら、彼は笑う。そんな笑みを横目で見下ろしながら、ジュードは彼が死者を送った水辺を眺める理由を考えた。それから、昨夜視た夢に祈りの旗が揺れていた理由を考えた。
「どうして見てたの?」
「うん?たまたま目に入ったから、だけど……何だよ?起き抜けだってのにやたらめったら質問責めだな」
「アルヴィンに質問するのは面白い、って最近知ったからね。叩けば埃しか出てこないんだもん」
 揶揄するように呟いても、彼は肩を竦めて笑うだけだ。
 昨日も、宿に向かう前にアルヴィンを問い詰めた。ア・ジュールの王の側近であり、聖獣の名を冠する四象刃[フォーヴ]の一人が彼と顔見知りだった件に関してだ。
「それも嘘かも?」
 片目を瞑り、ふてぶてしく言い放つその様子にジュードは一つ溜め息を吐いた。
「アルヴィンって、変なとこ子供っぽいよね」
「おいおい、一回り以上も離れた相手にそりゃねぇよ。もちっと敬え、青少年」
 もう一つ、ジュードは溜め息を吐いた。
 最初は、非の打ち所のない大人だと思った。今まで自分の周りには居なかったタイプの人間だったが、だからこそミラとはまた別の意味で惹かれた。人当たりが悪いわけではないが決して社交的であるとは言えないジュードの気持ちを察して気を遣ってくれる様や、戦闘のときに先陣を駆って活路を切り開くその背中に一つの大人の在り方として憧れていた。けれど、今は少し違う。アルヴィンの気紛れとさえ言える不透明な言動に振り回されて、約束をすれば破られて、信じていると言えば突き放される。だのに彼は何食わぬ顔をして、また姿を見せこうして隣で窓の外を眺めている。まるで、頭の良い子供の気紛れに付き合っているようだ。それこそ彼の言うように、ジュードとアルヴィンは一回り以上歳が離れているのだから、そんな相手を「子供のよう」と形容するのは間違っているのかも知れない。それでも、今のジュードには彼が「大人」であるとは決して思えなくなっていた。
 鳶色の髪を風に揺らせて、図体ばかり大きな頭の良い子供が笑っている。ジュードの溜め息を彼はどんな意図として捉えたのか、考えようとして止めた。最近のジュードの思考はこの男のことばかりだ。いい加減に疲れてきた。
「じゃあさぁ、ジュード君。堅くて冷たい土を苦労して掘って埋められんのは、どんな奴だと思う?」
 口の端を吊り上げて彼は言った。こんな時ばかり、アルヴィンはしっかりと上体をジュードの方へと向けて正面から見据えてくる。勿論、宗教的な慣習――それも他国への造詣などそう深くはないジュードは不意打ちのような問いに言葉を詰まらせた。アルヴィンはというと、それはもう底意地の悪い満面の笑みを浮かべて頬杖を突いていない方の手で耳を貸せとでも言うようにジュードを手招きした。
 一日も始まったばかりだと言うのに、もう何度目になるかも分からない溜め息を吐きながら窓辺に座るアルヴィンに合わせてジュードは上体を屈める。すると、途端に腕を絡め取られてジュードの体勢は大きく崩れた。そのまま座るアルヴィンの膝に半ば抱き込まれるように乗り上げる。膝の上の子供の肩に男は腕を回して覆い被さりながら、耳元に唇を寄せる。
「罪人」
 笑みの色の濃い吐息がジュードの耳に掛かる髪を揺らした。反射的に耳元を手で覆い、アルヴィンから身体を引き離そうともがく姿を彼がどんな目で見ていたのか、ジュードには分からない。そんなことにまで気を回す余裕は恐らくなかった。
 結局、アルヴィンの腕をほどくことには成功したものの相変わらず上体が離れただけで、その膝の上に乗り上げたままのジュードを見て彼は笑った。外気の冷たさに反して顔が熱くなるのが分かるジュードは、その視線に耐えきれず目を逸らした。逸らした先に、水辺で揺れる五色の旗を見留めた。
「あとは、病人」
 一層強く、風が吹く。囁くだけのアルヴィンの声は、それでも強くジュードの耳に残った。
 嘘吐き、と喉元にまで込み上げた罵倒を飲み下す。その代わりに、ゆっくりとアルヴィンへと向き直った。だが、アルヴィンは水辺の旗を眺めていてジュードを見てはいなかった。
 脳裏に浮かぶのは、病床に在る彼の母親の姿だ。時を止めて、ただ「息子」を愛し案じる、儚くも美しい女性だった。病に伏す母を持つ彼が「たまたま」死の畔を見つめるなどということがある筈がない。彼は常に終わりに寄り添い、終わりを見つめてきた。それが、死を感じさせる人間を身内に持つということだ。
 恐らく、既に彼はある種の諦念を以って母親と常に対峙している。何れ冷たい土の下に埋もれるだろう予感に、ジュードは彼に返すべき言葉を見失ったままでいた。
「土を掘って、埋められるんだろうな」
 彼は揺れる旗を見つめて、死の片鱗を語った。どうしてそんな風に中途半端に己の手の内を見せるようなことをするのかと、喚き立てながら掴み掛かりたい衝動にも駆られた。けれど、ジュードがしたことと言えばただ固く、拳を握り締めただけだった。
「俺も」
 端的な呟きに、少し、ジュードの反応は遅れた。そうして、その意味を理解する頃もう一度アルヴィンは同じことを呟いた。その声は酷く乾いていて、彼は矢張り遠くを見たままで、ジュードは掛けるべき言葉を持っていなかった。ただ、どうして、自分はアルヴィンのことをこんなにも何一つ解らないままで居たのだろう、とそれだけが不思議と悔しくてたまらなかった。それでも、昨日のような無様を晒さないようにと空を仰ぐと、鳥の陰を雲間に見た気がした。


 斜光に沈む街で、寝台に身を横たえる夢を久しぶりに視た。最後にその夢を視てから二節程経っていた。
 夢の中で、ジュードはいつもの通りに上体を起こす。灯り取りの窓は開け放されて、差し込んだ暖色の光に剥き出しの岩壁が濃い陰影を浮き彫りにしていた。
 シャン・ドゥでアルヴィンと話をしてからも、ジュードはこの類いの夢を視る機会に事欠かなかった。寧ろ、アルヴィンへの疑念は日を追う毎に濃く深いものへとなっていき、夢を視る頻度は増した。だが、頻度が増したばかりで全く変化がなかったということでもなかった。今まではその旅の空、宿泊した宿の一室であったり、平野や森での野宿であったりした夢の情景は、必ず彼の母親が病に伏し、そして死んだ崖の街の宿の一室になった。その部屋で必ずジュードは目覚めるようになった。そこに、死を語る彼の感傷や執着に触れた事実が関係しているのか、そこまでは分からない。ただ、穏やかな悪夢のように付きまとったアルヴィンの片鱗は、彼の故郷であるエレンピオスへと訪れた頃からぴたりと成りを潜めてジュードの眠りを邪魔することはなくなった。
 夢の記憶はあまり代わり映えはしなかった。最後に現実でシャン・ドゥに訪れてから一旬も経っていない筈だが、その時はアルヴィンが母親の遺品を整理する為だけに立ち寄ったので宿には泊まらなかったせいも知れない。
 あれから、ラ・シュガルの王ナハティガルが死に、アルヴィンの裏切りで断界殻[シェル]が割れ、ジュード達の住む世界リーゼ・マクシアの「外」の存在が知れた。そうして、ミラが万物の守護者である精霊の主マクスウェルではないという事実が彼女の死に因って発覚した。ジュードは失意に沈み、寄る辺を失ったアルヴィンは銃を手にした。ジュードは、向けられたその銃口を無感動に見上ていた。銃を向ける男は無表情を装い、激情を押し殺していた。その姿は哀れみを誘い、早く楽になってしまえばいいのに、とジュードは思った。ミラはもう居ないのに、思考し、苦悩する彼が不思議だった。けれど、その後のことはあまりよく覚えていない。漠然と起きた事実だけを把握しているだけで、アルヴィンの銃口が震える理由や余裕をなくして歪んだ表情の意味、そしてそこにどんな感情が伴っていたのか――そうした子細がすっぽりとジュードの中から抜け落ちていた。一瞬、霞掛かった視界が晴れるような、まるで素晴らしい宝物を見つけたかのような高揚感を覚えたが、それは一発の銃声と奇妙に近い幼馴染みの虚ろな表情を前に呆気なく霧散してしまった。そして、衝動に任せて大地を蹴ると、大きく腕を振りかぶり喚き立てまるで見知らぬ余裕のない男に拳を向けた。
 結局、アルヴィンのことも自分の感情もよく分からないまま、ジュードは精霊として再び姿を顕したミラと共にリーゼ・マクシアとエレンピオス双方の世界の在り方を良い方向へ変える為の手段を模索することにした。そして、彼女が戻ったその頃から、黄昏の支配する出口のない部屋の夢をジュードが視ることはなくなっていた。
 夢の窓に祈念布が揺れる。眠りに落ちる前にも窓の外に同じものを見たが、その布は凍てつく風雪に揺れていた気がした。
 寝台から這い出ると、ジュードは窓辺へと近付く。黄昏に沈む石造りの街並みは最後の記憶と違わず、静謐の中に沈んでいた。人の波もなく、鳥の声もしない。風の音と川のせせらぎだけが、耳鳴りのように鼓膜を震わせている。窓辺から見下ろす川の畔には、以前の夢にも確かに見留めた五色の祈念布が揺れていた。あの旗が死の祈りだとアルヴィンに教えられてから、ジュードの夕暮れの夢には必ず死の気配が付きまとうようになった。
 だが、何故、今になってこの夢を視るのだろう、と揺れる旗を眺めながらジュードは不思議に思う。彼の母は死んでしまった。故郷に帰ることなく、思い出に沈んだまま、けれどその死の間際のほんの一時現実へと意識を向けて、彼女は死んだ。
 アルヴィンが口にした以上の彼女の最期は、ジュードには分からない。己を害する誰かを思いやるその姿は、アルヴィンの穏やかな口調も相俟って非常に美しくもあったが、その実息子である彼自身、自らの置かれた状況に付随する感情は一つとして語られずじまいだった。死者はただ沈黙を守り、その亡骸の行方すら知れない。
 ジュードは夢の窓辺を離れると、踵を返した。黄昏に沈む石造りの部屋の中、ささくれ立った木製の扉がいやに浮いて見えた。扉へ向けて、ジュードは足を踏み出す。そして扉の前に立つと、手を伸ばしてドアノブに指先を掛けた。扉は、何の抵抗もなく開いた。
 扉の先には、何故だか唐突に荒涼とした大地が広がっていた。薄暗い空の下に広がる乾いた光景はシャン・ドゥに程近い岩砂漠にも、精霊の死に絶えた彼の故郷にも見えた。踏み出した夢の足取りは重い。けれど振り返っても開けた筈の扉は消えていて、ジュードは仕方なく歩を進めることにした。風の音も、水音も鳥の声も、虫の鳴き声もしない。まるで全てが死んでしまったかのような大地を、ジュードはひたすらに歩いた。夢の中の感覚は酷く不鮮明で、何もかもが遠く感じた。自分以外何も動くもののない世界で、それでも不思議と後悔はなかった。やがて自分が歩いているのか立っているのか、乾いているのか餓えているのかも解らなくなった頃、唐突に視界が開けた。霞掛かった視界に、目が眩むような鮮烈な緋色が痛かった。その焔のような色を黎明王の瞳のようだな、とジュードは思った。それから、猛る蘇緋が乾いた大地を照らし暴く陽の光であることに気付く。周囲を見渡せば、ひしゃげた枯木がジュードのすぐ傍らに立っていた。その幹に触れると、手袋越しであるにも関わらずざらついた感触が手のひらに伝わった。そのまま手のひらを枯木の幹に押し当てて、反対側の死角へと回り込む。そこには、赤々と燃える陽射しが荒涼とした大地を照らす光景が続いているだけだった。空を仰いでも、周囲を見渡しても、何の、誰の姿も見留めることはかなわない。空はただ無慈悲に赤々と輝き、不毛の大地には無機質な岩が横たわっている。だから、ジュードはきっと間に合わなかったのだろうな、と思った。ジュードは間に合わず、彼女の愛した世界と、彼の焦がれた世界を救う筈の研究は実らず、世界は死んでしまったのだろうな、と思った。それから、ジュードは今一度ゆっくりと、周囲を見渡した。彼の――アルヴィンの姿を探した。結局、この夢の始まるところはいつもあの男にあったからだ。今まで決して一つの部屋から出ることのかなわなかった夢は、けれどどうした自身の心境の変化なのかこうして外への扉を開いた。だから、きっと、この夢の終わりには彼が必ず居るのだろうとそう、奇妙な確信を以ってジュードはアルヴィンの姿を探した。けれど荒野に見える陰はどれも岩ばかりで、結局ジュードはアルヴィンを見付けることが出来なかった。

 覚醒は、目を開けるより先に肌寒さをジュードに促した。無意識に鼻の頭にまで上掛けを引き上げて、瞼を持ち上げる。寝起きは決して悪い方ではなかったが、この寒さに睡魔は助長する一方だ。今一度眠りに落ちれば、夢の中のアルヴィンが見付かるかも知れない、などという甘やかな言い訳すら脳裏に浮かぶ。そうして寝返りを打った先に、白く雪の降り積もる街並みと山脈とを縁取る窓を見留めて、途端にジュードはその動きを止めた。一拍を置いて上体を起こす。上掛けと毛布がずれ落ちて、肌着一枚の肩は確かな寒さを感じたが気に留めることなくジュードは素足を冷たい床に晒した。
 裸足のまま窓辺へと歩み寄る。外は一面の銀世界だ。険しい岩壁と、風雪に揺れる祈念布の間から堅牢な黎明王の城が見えた。
 滞在した宿の一室はカン・バルクへ訪れた際、男性三人に宛がわれる一室だった。その所為か一人で使うといやに広く寂しく感じるものだな、とジュードは思った。思考を巡らせると酷く自然に、自分がそれまで横たわっていたすぐ隣の寝台に目が行く。彼は居ない。当たり前だ。昨日、雪原に消える背中を見送ったばかりだった。なのに何故あの夢を視たのだろうか、とジュードは寝台を見つめたまま小さく首を傾けた。
 昨日、遅くまでジュードは黎明王の城の会議室に居たのだということを、ぼんやりと思い出す。断界殻が消え、ミラと道を分かち、リーゼ・マクシアへと帰還したジュード達が最初に降り立った地がカン・バルクだった。今となってはリーゼ・マクシアにおける唯一の王となった黎明王ガイアスと共に、これからのことについてある程度話を纏める必要があった。現状はリーゼ・マクシアとエレンピオスの双方を救おうというジュードやミラの主張に難色を示していたガイアスを漸く説得出来たというところで、まだエネルギー代替案に対しての深い理解を彼から得られたとは到底思えない。だが、彼の存在がなければ、リーゼ・マクシアの理解も得られず、エレンピオスと対等に渡り合うことも難しい。だからジュードは精霊を殺す黒匣[ジン]に代わる、源霊匣[オリジン]への可能性をガイアスに正しく伝えなければならなかった。
 リーゼ・マクシアへと帰還してから数日、ジュードと仲間――殊元ラ・シュガル軍の軍師であるローエン・J・イルベルトは真摯にガイアスと向き合い、源霊匣の可能性を説いた。そんな彼がもう暫くカン・バルクへの残留を決め、その旨を現在のローエンの主であるドロッセル・K・シャールへの言伝として二人の少女に託すことが決まったのが、丁度昨夜遅く日付の変わる鐘の鳴る直前だった。ローエンとはそのまま城で別れ、城下町の宿に向かう途中でアルヴィンもエレンピオスの従兄に源霊匣の共同研究の話を本格的に通す前に、今一度シャン・ドゥの自宅へ寄りたいと告げてその日の内にカン・バルクを発った。だが、別れ際に「また連絡する」と言って、シルフモドキにジュード達の霊視野[ゲート]を覚えさせていたので誰も彼を引き止めなかった。
 彼の真意は、相変わらず不透明で「母親の為」という最優先事項を欠いた今、判断基準を測ることはますます難しくなった。居場所を無くしたアルヴィンに声を掛けたのは確かにジュードだが、それは彼を独りにしたくなかっただけなのだと思う。その時はまだレイアへの彼の仕打ちやジュード自身へ向けられた殺意も記憶に新しかったので、そこにいつもの――それこそ彼がずっと疎み続けていたお節介やお人好しというジュードの打算があったとは考え難い。だから、そこに伴う筈の感情にどんな名前を付けるべきだったのか、ジュードは未だに判らない。ただ、きっと居心地が悪いことこの上ないだろうジュードたちの傍にいつまでも留まりはせず、また持ち前の奔放さでふらりと姿を消す――そんな予感はあった。だが、そんな予感に反してアルヴィンはジュードたちと行動を共にし続けた。
 結局、旅が終わっても彼の真意は遂に知れることはなく、ジュードは言うべき言葉や示すべき行動を見失ったままでいる。或いは、彼に対して抱いていた感情の在処も解らないままだ。信頼を裏切られ、憎悪を植え付けられ、失意と嫌悪を覚えた。だのに、とうとう諦念を以って彼という存在を黙殺することだけは出来なかった。その理由が分からない。自分自身に対しても、両親に対しても、友人に対しても、ずっとそうやって生きてきた筈なのに、あの男だけは諦められなかった。

 身支度を整えてジュードは部屋を出た。階段を下りてロビーに向かうが、少女達の姿を見留めることは出来ない。すぐに降りてくるだろう、とストーブに近いソファを選んで座ると備え付けの棚に並ぶ観光客向けの冊子が目を引いた。おもむろに手を伸ばし、特に選り好みすることもなくその中の一冊を手に取る。内容はア・ジュールにおける精霊信仰とその聖地に関するもので、それらが挿し絵付きで如何にも大衆向けな紹介文と共に掲載されていた。中にはジュードにも馴染み深いニア・ケリア霊山の名前などもあり、ほんの少し複雑な気分になる。それからふと、ミラを祀るニア・ケリアの人々に彼女の選んだ道――新たな「使命」を報せるべきだったのではないか、という思いが脳裏を過ぎった。マクスウェル信仰の薄れゆく中、それでも彼らはミラ=マクスウェルを信奉し続けていた。真実を知った彼らがどのような選択をするのかは分からない。それでも、彼らもまたミラの選択と決意を知るべきなのだろうな、とジュードは思った。
 カン・バルクからニア・ケリアに向かうのなら、シャン・ドゥを流れる川を経由して湿地帯を抜けていくのが最短距離だろう。道筋を頭に思い描きながら、ジュードは無作為に冊子のページをめくり続けた。そして、流れる挿し絵の一つに今までの思考を停止させ、手を止める。描かれていたのは、黄昏に沈む夢の中でいつも揺れていたあの五色の祈念布だった。 そうすると、その祈りの意味とそこに寄り添う死の気配を語る男の声音を自然と思い出す。今朝方の夢との奇妙な既視感を感じた。
 五色の旗はア・ジュールの大地と成った聖獣と聖人クルスニクの顕れである、といつか彼が言っていたのと同じようなことが冊子には書かれていた。また、五色は四大と元素の精霊に由来するという説も説かれ、五葬にも通ずるとの記述もある。死を見つめていた男とも、確かにア・ジュール独特の宗教観や埋葬法の話をした。だからなのか、不意にジュードは彼が母親の死に目に立ち合えなかったのだという事実を思い出した。彼の母親の最期を見取りその亡骸を知る唯一の女は、今や意味のある受け答えの出来ない状態に在る。そんな彼女に母親を亡くした男は、強くその行方を訊ねることをしなかった。
 思考の底に沈むジュードを現実に引き戻したのは、凝視する挿し絵が露骨な陰りを見せた為だ。顔を上げるとそこには幼馴染みの少女と、縫いぐるみを抱く少女とが立っていた。
「お待たせ、ジュード。やっぱカン・バルクの朝って寒いねー」
「レイア、なかなか布団から出て来てくれなくて大変だったんですよ」
 栗色の髪の寝癖を気にするようにいじりながら幼馴染み――レイア・ロランドが笑う。その横でストーブの焔を照り返す美しいアッシュブロンドを揺らして、エリーゼ・ルタスが小首を傾げた。
「おはよう、二人とも。昨日はよく眠れた?」
 冊子を戻しながら、ジュードはソファを立ち上がった。そのまま彼女たちの部屋の鍵を受け取り、自分のものと纏めてフロントに返す。
「うん。もうぐっすり!」
「寒かったからぁ、レイアったらエリーゼの布団に潜り込んで来たんだよー」
 エリーゼの抱く不思議な縫いぐるみが、ジュードに弾む声を投げた。彼女の深層の代弁者である縫いぐるみが嬉しそうに話すその声に、ジュードもまた暖かい気持ちになって耳を傾ける。 早くに両親と死別したエリーゼにとって、レイアの過剰なスキンシップは新鮮な驚きと優しさであるようだ。肉親の情に代わるものには決して成り得ないだろうが、それでもエリーゼがその温もりを大切にしてくれたらいいな、とジュードは思った。
 宿を出るとジュードは少女たちと共に朝食を済ませ、道具と携帯食の補充をした。シャン・ドゥへと向かうにはモン高原を抜けなくてはならない。棲息する魔物や野盗の類いこそ今のジュードたちの敵ではなかったが、舗装もろくにされていない雪道を歩くのはまだまだ不慣れだった為、準備を怠るわけにはいかなかった。
 一通り必要な物を買い揃え、モン高原へと向かう。白い息を吐きながら、道具袋を覗くエリーゼが「これ、美味しいですよね」と買ったばかりの携帯食を指して言った。
「あ。私もそれ好き!」
「じゃあ、お昼はこれを食べようか」
 レイアがエリーゼの手元を覗き込んだのでジュードも倣うと、そこには生クリームのたっぷり掛かった牛丼が湯気を立てていた。ちゃんと確認してから提案すれば良かった、と少なからず後悔しながら以前この奇妙な牛丼を食べたときに「普通の玉子焼きが食べたい」と嘆いた男が居たことを思い出してしまう。何だか今日は彼のことばかりだな、とうんざりしながらジュードは溜め息を吐いた。いつだったか、裏切りを繰り返す彼を寧ろ目の届くところに置いておく方が安心だ、とミラがローエンに言っていたことを思い出したせいもあるかも知れない。今更のように過去に共感するジュードの隣で恐らくは溜め息に対する理解を違えたレイアが、小さく噴き出して笑った。
「いいじゃない。美味しいよ、クリーム牛丼!ね、エリーゼ?」
「はい。私の、大事な思い出の味ですから」
 少女たちはそう言って朗らかに微笑みを交わし合う。そんな彼女たちをジュードは少し離れたところから疎外感に苛まれながら見つめた。普通の玉子焼きが食べたい、と思ったからだ。
「でも、あんまり早いペースで食べるとすぐになくなっちゃいますね」
 精霊の主のように量こそ必要とはしないが、意外と食に対しては貪欲な少女が若草色の瞳を伏せ目がちにして呟いた。
「モン高原を抜ければすぐシャン・ドゥだし、その時にでもまた買えばいいよ」
 すかさずレイアが入れたフォローに、「そういえば」とジュードは切り出した。
「僕、ラコルム海停には向かわずにシャン・ドゥからニア・ケリアに行こうと思うんだ」
 そう告げると、矢張り二人の少女は驚いたようだったので、ジュードはミラを信仰するニア・ケリアの人々には真実を伝えるべきだという考えを口にした。
「……そっか。なら、ちょっと遠回りだけど寄ってこっか」
「駄目だよレイア。レイアはエリーゼをカラハ・シャールに送らなきゃ」
 エリーゼはローエンの言伝をカラハ・シャールの領主に伝えなくてはならない。暗に臭わせるとレイアは頬を膨らませて顔を逸らした。
「別に、そんな急がなくたっていいじゃない」
「でも、急に断界殻が消えてドロッセルさんも色々大変だと思う。カラハ・シャールも霊勢が特殊な場所だし……早いに越したことはないよ」
「だったら、わざわざ別行動なんてしないでニア・ケリア行きを後回しにしちゃえばいいじゃん」
 確かに、レイアの言う通りだった。もともと霊勢も安定し、外界からも隔絶しているあの集落は酷く緩慢な時の流れの中に在る。だから、彼女の提案を跳ね除ける理由も見つからずジュードは言葉と共に息を詰めた。
「でも、ジュードは今、ニア・ケリアに行きたいんですね」
 それまで黙ってジュードとレイアのやり取りを聞いていたエリーゼが、おもむろに口を開いた。視線は、胸に抱いた縫いぐるみへと向けられたままだったので上から見下ろすジュードからその表情は伺い知れない。
「……けじめ、ですか?」
 ともすれば風雪に掻き消えてしまいそうな声音で、彼女に問われる。ジュードはあまり迷うこともなく「そうだね」と答えた。
 旅の中でミラの存在が大きくなるのに、そう時間は掛からなかったように思う。だからこそ彼女を亡くした時の喪失感も大きかった。それ程までに、ジュードはミラ=マクスウェルという存在に依存していた。そんな彼女と奇跡的な再会を果たし、けれど再び訪れた別離にジュードは今度こそ覚悟を以って対峙した。
「でもやっぱり、僕の中でミラの存在は大きくて……割り切れない、って思いがあるんだ。だから、気持ちを整理したいんだと思う」
 努めて穏やかに主張すると、レイアが力無くジュードの名前を呼んだ。何かを言い淀むような、諦めたかのような声音は共に旅をするようになってから何度も耳にする機会があった。そのことを申し訳なく思いながら、ジュードは彼女に微笑んだ。
「しょうがない、ね……よっし。カラハ・シャールには私と二人で行こっか、エリーゼ」
 レイアに促されると、エリーゼは一度強く胸に抱いた縫いぐるみを抱き締めてから、ゆっくりと顔を上げた。灰色を帯びたブロンドに付いた雪が音もなく落ちる。橄欖石に似た瞳を真正面に受け止めながら、ジュードは彼女の髪を撫で梳きながら言葉を待った。
「わかりました。頑張って下さいね、ジュード……私も、頑張ります、から」
 頬を紅潮させ、エリーゼは一息でそこまで言いきると縫いぐるみを抱いていた腕を大きく広げてジュードに抱き付いてきた。腕に収まっていた縫いぐるみ――ティポは抱きついたまま顔を埋めるエリーゼの周りを一度大きく飛んで見せると、ジュードの目線の高さに舞い降りた。
「ジュードが頑張るなら、エリーゼも頑張れるってさ」
 彼女の深層の代弁者が、少女の意図を伝える。その意味するところをこの上なく正しく理解しながら、ジュードもまたエリーゼを強く抱き返した。

 高原の冷気を遮る地下道を抜けると、乾いた冷たい風が頬を撫でた。渓谷に造られた古都は数日前に視た夢の記憶より、少し明るいように感じた。
 闘技大会の時期も過ぎて人の波は疎らだったが、念のため先に宿を確保しておくことに決める。ロビーで名前を書くジュードを残して、レイアとエリーゼは隣のカウンターへ携帯食の注文をしに行ってしまった。「二人分だけなんだから、買い過ぎないようにね」と声を掛けるが、返されたのは生返事だけだった。そんな二人を諦観を以って眺めながらふと、アルヴィンもまだこの街に居るのではないだろうか、と過ぎる。もしかすると、宿に滞在しているかも知れない。そんな思いに突き動かされて、口を開こうとしたジュードを呼ぶ声が背後から掛けられた。
「ジュード、こっちは終わったよ。そっちは?部屋取れた?」
「……うん。大丈夫」
 振り返ると、レイアとエリーゼが立っていた。
「じゃあ、雑貨屋さんで道具を補充しましょう」
 少女はそう言って促すようにジュードの手を取った。その手を柔らかく握り返しながら、ジュードは開こうとした口を噤んで笑みの形に吊り上げた。
 渡し舟に乗り、闘技場の受付近くにある雑貨屋で道具を補充すると特に寄り道をすることもなくジュードたちは宿へ戻ることにした。野盗や魔物にこそ手こずりはしなかったものの、慣れない雪道を歩いてきた所為で足が痛い。そう思っているのはジュードだけではないらしく、街の中を見て回るのが好きな筈のレイアとエリーゼも特に何も言わずについて来た。
「あー……足だるーい」
「余ったハートハーブを乾燥させたものがありますから、フロントで桶を借りて足湯でもしましょうか」
「さんせーい」
「そうだね。明日も歩かなきゃならないし」
 エリーゼの提案に賛同したレイアに、ジュードも同意する。部屋に入ると夕食の前に、借りてきた桶に湯を張って素足を浸した。温かい湯と緊張を和らげる効果のあるハートハーブの芳香で、張っていた足が徐々に解きほぐされていくような心地がする。
「これ、前にアロマにしたとき大変だったよね」
 動かなくなった足の補助器具として取り付けた医療ジンテクスの痛みを緩和する目的で、一度ミラの為にハートハーブを探したことがあった。その時のことを思い出して、ジュードは笑う。
「ああ、あれね!ミラのしゃっくりが止まらなくなったやつ」
「でも、ミラ嬉しそうでした」
 口に出して笑い合うレイアとエリーゼも嬉しそうだ。香草の薫りを孕む湯気の合間を漂うティポがはしゃぐようにして辺りを飛び交う。
「皆が採ってきてくれた、ってことがミラは嬉しかったんだろうね」
 そんなミラを見て、ジュードも嬉しかった。彼女の役に立てるだけで、その時は良かった。そんな些細な全てが今は遠い。
「でもさぁ、あの時は皆一緒だったのに三人だけになっちゃったねー。やっぱ何かサミシー」
 エリーゼではなくレイアの膝の上に収まりながら、ティポが言った。困惑した様子でエリーゼが縫いぐるみの名前を呼ぶ。けれど少女の深層は取り繕うでもなく「だってホントのことでしょー」と言った。
「す、すみません」
「いいよ。多分、僕もレイアもエリーゼと同じ気持ちだから」
 旅の途中、色々な所へ行った。大きな滝の下をくぐったり、深い森を抜けたり、果てのない荒野をさ迷ったりもした。その全てを、ミラや仲間たちと乗り越えた。その暖かな記憶の気配を感じずに居られる場所は、あまりにも少ない。
 浮遊する縫いぐるみがレイアの膝から定位置であるエリーゼの元へ戻る途中「明日にはジュードともお別れだしー」と寂しそうに呟いた。喉元まで出掛かった謝罪の言葉より先に、レイアが「私は、カラハ・シャールまで一緒だからね」と言ってエリーゼの手を握る。エリーゼもすぐに朗らかな笑顔を見せて頷いた。そんな二人のやり取りを眺めながらジュードはレイアに感謝した。ティポはそれ以上何も言わなかった。

 夢を視る。眠りに就いた時と同じその場所で目覚める夢を視る。
 上体を起こし、黄昏が浮き彫りにする陰影の濃い部屋の中をジュードは見渡した。窓を一瞥し、すぐに逸らす。常ならば窓辺に寄り流れる川と石畳を眺めたが、今日の夢においてはジュードはすぐに背を向けて扉へと向かった。
 扉は難なく開くと、密室は荒野へと転じた。水音は遠退いて、眼前には乾いた大地が広がる。ジュードは躊躇なく一歩を踏み出した。
 ままならない明晰夢の中、今やジュードは自由だった。扉は記号でしかなく、距離もまた意味を成さない。鈍く輝く空の下、ジュードはただ強く強く呪詛のように念じた。放たれた夢の中で、確信だけを胸に抱いて彼を探した。
 やがて、夢はひしゃげた枯木の元へと辿り着く。狂気のように鮮明な夕陽が辺りを真っ赤に染めていて、曲がった枯木は腰の折れた老人の影にも似て見えた。そして、その根元にジュードは彼の姿を見留めた。
 歩調を緩め近付いていく。アルヴィンは錆びた剣先スコップを手に、穴を掘っていた。やっとのことで見つけたというのに、彼はジュードが傍らに立っていることに気付いた様子もなく一心不乱に穴を掘り続ける。ジュードは、アルヴィンの名前を二度呼んだ。一度目は特に意識することもなく、二度目はやや強い口調で呼び掛けたがそのどちらにもアルヴィンは顔を上げはしなかった。こうなるとどうにもならない夢の中のルールのようなものを、いい加減に理解していたジュードは諦めて周囲を見渡す。広がるのは矢張り荒涼とした大地ばかりで、陰を作るものは無機質な岩ばかりだ。
 鳥の一羽もなく、獣も絶えた、虫の鳴き声すらしない世界で、枯れた木の根元を掘る男はジュードに気がつかない。何だこれは、とうんざりしながらジュードは溜め息を吐いた。男は手を止めることなく穴を掘り続けた。その時にはもう既に、半ば夢の終わりを望み朝の気配を探り始めていたジュードはふとあることに気がついた。穴を掘る男の傍ら、やけに規則正しく立ち並ぶ岩が気にかかった。迂回し、ジュードは岩へと近付く。そして、それらが自然物ではなく人の手の加えられたものであると知れると、全てを直観的に悟った。それから、ゆっくりとアルヴィンへと向き直る。彼は、相変わらず穴を掘っていた。
「アルヴィン」
 名前を呼ぶ。男は穴を彫り続けた。返事はない。分かっていた。それでも、縋るような心地でもう一度ジュードはアルヴィンの名前を呼んだ。
 人の手の加えられた形跡のある岩は、全部で三つあった。それぞれに文字が彫られていたが、夢である所為かジュードが「彼ら」の正確な名前を知らない所為なのか、読み取ることは出来なかった。ただ、読み取ることは出来なくてもその文字が名前であることが解ったように、その読み取れない文字が示す人物が誰なのかジュードは正しく理解した。だから、戦慄く声で彼の名を呼んだ。
「……アルヴィン、やめて」
 固く、凍れる大地を掘り進める男に言った。いつだったか、男自身の口から聞いた言葉を思い出す。黄昏に輪郭を滲ませて、死を眺める男の横顔をジュードは見つめていた。
「やめて」
 人の手の加えられた岩は、墓標だ。彼の言うような精霊信仰にまつわるア・ジュールの埋葬方法は知らなかったが、それでも聞きかじりの知識や馴染みのあるラ・シュガルの埋葬を都合良く継ぎ接ぎしてこの夢が成っていることは容易に知れる。何より、岩に刻まれていたことごとくの死者はアルヴィンに縁ある人々だった。彼の母親や、彼を想い続けた女、彼を疎み続けた彼の叔父――それら死者の傍らで男は穴を掘り続ける。その意味を、辿り着く先を考える。ここはジュードの夢の中だ。夢は、深層の代弁者だ。その意味を、考える。
「やめて……やめなよ、アルヴィン!」
 叫ぶようにして声を張り上げるが無駄だった。ジュードは決して浅くない彼の掘った穴へ躊躇なく身を踊らせると腕に掴み掛かる。それでも尚、手を動かし続けるアルヴィンを力ずくで制止した。そのままの勢いで、彼を自分の正面へと向き直らせその顔を睨み上げた。
「何やってるんだよ。何を、やってるんだよ!」
 アルヴィンは何も言わなかったが、それでもジュードを見ていた。裏切り者の酷薄な笑みも、大人の顔色を窺う子供のような卑屈な笑みも、その顔には浮かんでいない。ただ平坦に凪いだ赤褐色の中に、ジュードは自分の焦燥に駆られた表情を見留めた。
「……ち、違う。僕は」
 戦慄く声で、ジュードは言った。アルヴィンは瞬きもせず、ただジュードを見つめていた。
「違う!そんなこと、思ってない」
 頭を振る。けれど、乾いた土の色をした彼の双眸から視線は外せなかった。だったら彼に何を求めていたの、という声が聞こえた気がした。誰の声なのか考えを巡らせるより先に、目の前のアルヴィンが瞳を閉ざしてしまう。ただそれだけで、ジュードの伝えるべき全ての言葉を拒絶されたように思えた。
 違うんだ、とジュードは繰り返した。こんな結末だけは求めていなかった。それだけは確かなんだ、と語り掛けた。許すでも罰するでもなくただ、彼の信頼と誠実さが得られたらそれだけで良かった。けれども、本当に伝えたい筈の気持ちは夢の中ですら言葉に成らず、ジュードが目覚めるまでとうとうアルヴィンは瞳を閉ざしたままでいた。


 目覚めは最悪だった。夢見が悪かったということもあったが、それよりも頭が痛かった。ア・ジュールはラ・シュガルに比べると標高も高く、つい昨日まで雪深い高原を歩いていた。一度ミラの治療の為に帰郷はしたものの、慣れない環境での強行軍に身体が悲鳴をあげはじめているのかも知れない。
 着替えて顔を洗い部屋を出る頃には気分も幾らか良くなっていた。階下に降りると、既にレイアとエリーゼがロビーで待っていてジュードの姿を見つけると大きく手を振ってきた。
「おはよ。ジュードが私たちより遅いなんて珍しいね」
「そうだね。疲れてたのかも?」
「えー?大丈夫?」
 顔色悪いよ、とレイアに言われてジュードは曖昧に笑う。見たところレイアはいつも通りの様子で、エリーゼも元々この辺りに住んでいただけあって元気そうだ。ならばこれ以上話を長引かせる必要もないだろう、とジュードは早々に話題を今日の二人の出立へと切り替えた。
 宿を出ると、三人で朝食を取ることにした。ラコルム海停まで歩かなくてはいけない二人はまた暫く携帯食ばかりになるので、今の内に暖かいものを食べるのだと随分張り切っていた。ジュードも二人と同じものを頼んで食べたが、ブウサギの腸詰めウィンナーを一本残してしまった。食べている途中で、また少し頭が痛み出した為だ。レイアとエリーゼには訝しがられたが「二人の食べっぷりを見てたら食欲なくなっちゃって」と言ったらティポに顔面に吸いつかれた。人目はひいたが、話は逸れたようでそれ以上の言及もなくジュードの残したウィンナーを二人は仲良く切り分けて食べていた。アルヴィンのようなはぐらかし方をしたな、と思ったら少し頭痛が増したようだった。誤魔化すように、ぬるくなった野菜ジュースを飲み干すジュードの前に追い討ちをかけるようにピーチパイの乗った皿が出てきて今度こそ頭を抱えたくなる。甘ったるいばかりのこのパイは彼の好物だ。旅を始めるようになってから過去に二度、作ったことがある。
 一度目はエリーゼの為に作った。旅慣れない内気な彼女に、優しい味を食べさせたくて選んだのがピーチパイだった。フィリングは缶詰めの桃で簡単に済ませてしまったがエリーゼはとても喜んでくれた。だから今度作る時はフィリングから作ろう、とジュードは思った。エリーゼも一緒に作りたい、と言ってくれたので約束をした。アルヴィンは出掛けていて、その時は居なかったように記憶している。大方アルクノアか、取り引きをしたというア・ジュールの参謀と連絡を取り合っていたのだろう、と今にして思う。シャン・ドゥで彼の好物がピーチパイであることを知る前の出来事だ。
 二度目は、エレンピオスでアルヴィンの従兄が住むアパートの台所を借りて作った。約束通り、エリーゼと一緒に水と塩を加えた小麦粉にバターを挟んで伸ばして生地を作り、フィリングも桃を煮詰めるところから始めた。途中で少しバターが溶けてしまったがそれでも初めてにしてはよく出来た、とエリーゼと二人で手を合わせて喜んだ。ローエンの淹れてくれた紅茶と共に舌鼓を打ちながら、ミラはいつも通り一口食べて「美味しい」と顔を綻ばせ、後は口を開く間も惜しいといった様子で黙々と手を動かしていた。今度作る時は私も呼んでよ、と言うレイアをティポがからかう。その様子を楽しそうに笑って見ているエリーゼの隣で、ピーチパイをアルヴィンも突っついていた。ジュードの視線に気が付いて顔を上げた彼は、控え目に微笑みながら「美味いよ」と言った。だから、返す言葉をなくした。隣に居たエリーゼが、嬉しそうに「本当ですか?」とアルヴィンに訊く。彼女がこのタイミングで約束のピーチパイ作りを提案したのは、アルヴィンを思ってのことだと薄々気付いていたジュードは息が詰まる思いでいた。恐らく、アルヴィンもエリーゼの優しさに気付いていたのだと思う。彼女の頭を撫でながら、同じ言葉を繰り返したからだ。その後、一人トイレに籠もって嘔吐を繰り返す扉の向こうの彼を、ジュードは責めることが出来なかった。彼の嘘を、咎めることが出来なかった。

 食事を終えると、シャン・ドゥを発つ二人を街の出入り口まで見送った。「カラハ・シャールにまた遊びに来て下さいね」とエリーゼに言われたので、彼女の頭を撫でながら頷いた。レイアにも源霊匣の本格的な研究に入る前に一度ル・ロンドに戻るのか、と問われたのでイル・ファンに戻ったら寮にある荷物の幾つかを送るので整理を手伝って欲しいと頼んだ。
「全部が全部必要なものでもないからね。イル・ファンを研究の拠点にするにしても、一度綺麗にしておきたくて」
 寮の住所を書いたメモをレイアに渡しながらジュードは言った。
「そーいうとこ、ホントきっちりしてるよねぇジュードは」
「そうでもないよ。普通だって」
「まぁいいや。ジュードの恥ずかしい物とか見つかるかもだし、任せといて!」
「あくまでも整理整頓を手伝ってもらうのであって、探し物が目的じゃないからねレイア?」
 頼む相手を間違えたな、とジュードは少し後悔した。
 川沿いの路に建ち並ぶ巨像の脇を抜けると街道が見えてきた。レイアは「それじゃあまた、イル・ファンでね」と言った。エリーゼも「また会いましょうね、ジュード」と言って笑った。ジュードも二人に「またね」と言った。そして二人の背中を見送ると、少し遅れてエリーゼの後に浮いていたティポがジュードに向かって「ばいばいジュード!」と叫んだ。そんなティポにレイアは「どうしたのティポ、いきなりそんな大きな声出して」と言って苦く笑ったようだった。エリーゼはジュードに背を向けたまま、レイアにもティポにも何も言わず真っ直ぐ前だけを向いて歩いていた。そんな彼女の背中から目が離せなかったジュードは、二人の姿が見えなくなって随分経ってから「さよなら」と呟いた。

 人々の喧騒の合間を縫って、橋を渡る。いつか宿の窓から覗いた水辺には、祈りの旗は揺れていなかった。
 対岸の日陰に足を踏み入れると、意識が鮮明になって少し頭痛が和らいだ気がする。ジュードの目指す船着場へと向かう道の人通りは少ない。湿地に棲息する魔物は強く、忘れられたマクスウェル信仰の聖地に人々の足が遠退いて久しい今、当たり前といえば当たり前の光景なのだろうな、と流れる水面に揺れる巨像の陰を見るともなしに眺めながらジュードは思った。だが、ジュードもまた魂を清め導く川へは向かわず、その脇の階段を上る。その先の昇降機に乗り込むと、記憶の中から一つの数字を拾い上げて該当するボタンを押した。
 昇降機から下りると、強い風が頬を撫でた。開けた広縁の手摺りへと近付く。石造りの手摺りに手を這わせて階下を覗き込むと、街を彩る長い祈念布の合間に先程眺めていた川が見えた。
 ガイアスの説得へ向かう前に、一度だけ異世界エレンピオスからリーゼ・マクシアに戻ってきたことがあった。もともとあまり自分から進んで先の提案をすることのなかったアルヴィンは、ハ・ミルでの一件以来更に輪をかけて自己主張らしい自己主張をしなくなった。それが、珍しくシャン・ドゥへ行きたいと彼が言ったのでジュードは二つ返事で了解し、仲間と共にこの昇降機に乗り込んだ。その時はまだ彼の母親が亡くなっていることをジュードは知らなかった。だからこの広縁に姿を見せた女性――アルヴィンが母親の世話を頼んでいた闇医者であるイスラに「母さん、死んだんだってな」と平坦な声で告げたときジュードは文字通り言葉を失った。それは一緒に居たエリーゼも同じで、ただ一人ミラだけが思案深げに目を細めてアルヴィンの様子を伺っていた。だからジュードは、既にミラは彼の母親が亡くなっていたことを知っていたのだろうな、とその時思った。
 手摺りから手を離して踵を返すと、ジュードはアルヴィンの母親が亡くなった家の扉の前へと立った。彼の母親は亡くなった。ここはもうアルヴィンの帰るべき場所ではない。現に、今はもう違う人間に貸し与えている。だから遺品の整理の為立ち寄ったとしても彼がいつまでもここに留まる道理はないし、増してジュードがこうして扉の前に立つ理由もない。ただ、ふと、イル・ファンの自分の部屋のことや、最近また立て続けに視るようになった不可解な夢――そうした些末な引っ掛かりが積み重なってジュードをこの扉の前に立たせた。
 アルヴィンのリーゼ・マクシアでの二十年は母親の為にあったと言っても過言ではない。それなのに彼は母親の亡骸が何処へ埋葬されたのかすら知らない。母親の最期を看取ったであろうイスラが、今やまともに受け答えの出来る状態ではなかったからだ。彼は部屋の物にはあまり執着もないようで、イスラと彼女の婚約者この部屋を譲り渡してしまった。だが、あの時は状況が状況であったし、そうでなくても自分の我が儘に付き合わせてしまったという負い目が彼の中にあっただろうことは想像に難くない。本当はアルヴィンは、あの場でもっときちんと遺品を整理したかったのではないだろうかとか、母親が何処に埋葬されたのか知りたかったのではないかとか、とジュードは思った。
 少し迷ってから呼び鈴を鳴らす。ややあって扉の向こうから耳に馴染んだ声が聞こえた。ユルゲンスだ。訪問者がジュードであることを知ると、彼は驚いた様子で扉を開けてくれた。
 彼が招き入れてくれるままに部屋に入ると、かつて来たときより心持ち黄昏の薄らいだ室内は少し雑然として見えた。アルヴィンの母親が伏せっていた寝台の上では、イスラが安心しきった穏やかな顔で寝息をたてている。
「……アルヴィン、来たんですよね」
 窓を開け換気をするユルゲンスの背中に声を掛けた。ああ、と彼は肩越しにジュードを見やって頷いた。
「今日の朝まで居たんだがね……丁度君と入れ違う形で出掛けてしまったんだよ」
「まだシャン・ドゥに居るんですか?」
 改めて部屋の中を見渡す。開け放された引き出しに衣服が無造作に引っかかっていたり、無造作に積み上げられた本が半ばで崩れていたり、確かに遺品を整理する目的で彼が訪ねてきたというわりには、何もかもが中途半端だ。
「イスラがね、アルヴィンさんのお母さんを埋葬した場所のことを話したんだよ」
 穏やかに、ユルゲンスは告げた。エリーゼの生家のことがあったのであまり驚きのようなものはなかったが、それでもすぐに言葉が出てこなかった。目を閉じて、唇を引き結び、頭を垂れる。ここには居ない男を、酷く罵倒したい衝動に駆られた。
 肩に温かいものが触れて、それが人の手であるということは目を閉じたままでも知れる。顔を上げるとユルゲンスが、柔らかく微笑んでいた。
「きっと、まだ彼はそこに居るんじゃないかな」
 本当にユルゲンスは良い人だな、とジュードは思った。
 

 

 



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最終更新:2011年12月03日 01:38