31歳フレユリの皮を被った全くの別物的変な話を通り越した気持ちの悪い話。
そして恐らくは俗に言う死にネタなので自己判断でオネガイします。


 

 執務室で一通りの報告を聞き、手渡された書類の束を小脇に抱えてフレン・シーフォは私室へ向かう。磨き上げられた大理石の廊下に映り込む伸ばされた背筋と少し早めの歩調は差し迫った用があるわけでなく、彼が一人で歩くときの癖だ。寧ろ私室の一見しただけでは机と形容し難いあの一角の密度が、今小脇に抱えた書類に因って更に上がるのかと思うと気鬱ですらある。それでも、少なくとも今日の報告を聞く限りあとは部屋で書類と格闘すればどうにかなる範疇で、評議会の小言も部下の愚痴も耳に入らない自分の部屋にさっさと引きこもってしまいたいというのも、またフレンの本音だった。それくらいフレンは疲れていたし、眠たかったし、独りになりたかった。
 代々騎士団長にあてがわれる部屋の前に立つ。物にあまり執着のないフレンの私物は殆んど置いていない。せいぜい以前使っていた部屋の壁に貼っていた下町の子供たちが描いてくれた絵と衣服の類、昔から愛用しているマグカップ、とこれくらいのものだ。あとは前騎士団長の置いていったものをそのまま使っている。城住まいの騎士団長に凡そ似付かわしいとは思えない簡素な家具の多く――陽に焼け、手垢に汚れ、ささくれだった傷跡を指先でなぞる度、フレンは口の中に苦いものが広がるのを抑えられずにいた。もっと別の未来もあった筈なのに、誰にともなく呟いたとき、たまたまその場に居合わせた黒い髪の幼馴染は否定も肯定もせず、ただ肩を竦ませると背を向けた。その背中に、君には分からないよ、と唇だけを動かしてフレンは言葉を投げ掛けた。彼は騎士ではなかった。フレンのように騎士団長の、前騎士団長の姿を間近で見ていたわけではなかった。だから彼に同意を求めようという意図はなく、本当にそれをただの独白に留めておきたかったからなのだとそう、思う。
「ユーリ」
 扉の前に立ったとき、既に隠そうともしない見知った気配が漂っていた。フレンは扉を開けると、その姿を見留める前に名前を呼ぶ。暗闇に目が慣れず、闇に融けるような彼の姿は見当たらない。笑い声が上がるわけでもなく、真っ暗な室内の、一層黒色の濃い一角が笑みの気配を帯びた。
「照明くらい点ければ良いのに」
 相変わらず不明瞭な視界の中、それでも記憶を頼りに難なく照明まで辿り着くとスイッチを入れる。灯された明かりは魔導器を使用していた頃に比べると随分と心許なかったが、それでも先程までの真っ暗闇よりましだった。
 照明の置かれた、その傍らの壁にもたれ掛かり、口の端を持ち上げてフレンを見下ろす幼馴染との思った以上に近しい距離に、フレンは様々な感情がない交ぜになった溜め息をひとつこぼした。
「無人の筈の騎士団長閣下殿の御寝所に明かりが点いてるのも変な話だろ」壁から背を浮かせながらユーリは言った。「さすがにもういい歳して、騎士団っつーか地下牢の世話にはなりたくないんでね」
 オレンジ色の、落ちた照明の中で彼は今度こそ軽快に笑うと、フレンにウィンクをひとつ寄越した。この城では騎士団長の部屋にない筈の気配、となった時点で不審者より先に彼の存在が連想されることが最早暗黙の了解になっているというのに、という言葉は飲み込んだ。別な言葉を被せられ、結局は流されてしまうということが分かっていたからだ。だからフレンは飲み込んだ言葉の代わりに、とびきりの笑顔を張り付けて、言った。
「やあユーリ、久しぶりだね」
「……何か、怒ってる、よな?」
「そうかな。まあ、君がそう思うのなら、僕は怒っているのかも知れないね」
 数度、ユーリは瞬いた。その表情はあどけなく、これが自分と同じ、三十路をとうに越えた男のするものか、とフレンは呆れた。すると彼は顎を引いて、僅かに笑みを深くした。それは相変わらずの小言に対する苦笑のようでもあったし、自嘲めいた苦笑のようでもあった。ただ、このことに関してはフレンの正当性を推してくれる心算らしい彼に、正しく自分の意図する怒りが伝わったことに満足するとそれ以上フレンは何も言わず、甲冑や外套を外しに掛かる。
 フレンの記憶が確かなら、彼と最後に会ったのはまだお互い二十代も漸く半ば過ぎといった頃だ。それを騎士団長部屋の不審者とイコールしてそのままユーリ・ローウェルに繋げてしまうこの城の身贔屓に由来する警備の緩さも問題ではある。或いは、長く彼の出入りを許容し過ぎたその時点で間違っていたのかも知れない。
 彼の視線を背中に感じながら、身軽になった身体を翻して簡易キッチンへ向かう。フレンはこれからまだ幾らかの書類に目を通さなくてはいけない。流石に飲むわけにはいかないか、とグラスではなくカップに手を掛けたところで肩越しに寝室の方へと視線を巡らせた。
「ユーリ、珈琲でいいかな?眠れなくなるから嫌だとか言わないよね」
 声を張り上げると「おー」、と気のない返事が聞こえてきたが、それを待たずにアルコールランプに火を点ける。サイフォンの中の水が沸騰したのを見計らい、珈琲粉を入れて掻き混ぜると部屋に戻った。
「ってか、それしかないんだろ」
 ブーツを脱ぎ捨て、ベッドの上で胡坐をかいた男に曖昧な笑みを返すと椅子を引き、溜め込んだつもりもないのにいつの間にか積みあがっていた書類の前に座り込む。
 「あれ何分?」ユーリが顎をしゃくってキッチンを指す気配がする。顔は上げず、書類に目を落としたまま「一分くらい」、フレンも短く返す。
 そのまま、二人の間に沈黙が流れた。或いは、それを人は心地の良い静寂と呼ぶのかも知れない。規則正しい時計の音、一定の速度で読み進められる書類の、紙と紙とが擦れる音と、時折万年筆が紙面を引っ掻く音――それらが調和し、緩やかにこの仄昏い部屋の中を支配している。途中、静寂を破りユーリがキッチンに向った。彼から自分の姿が完全に見えなくなった確信を得て、漸くフレンは溜息にも似た笑みを溢した。まみえずに居た年月とそれに反して何の前触れもなく姿を見せた彼、そして彼が居ない日々が当たり前になってしまった自分に怒りすら覚えるほどの絶望を感じていたというのに、その何もかもがこうもあっさりと覆されてしまった。全く以って自分の怒りの下らないこと、絶望の浅いこと、そう思い笑みが零れたのだった。
「お前が仕事溜め込むなんて珍しいな」
 フレンにマグカップを手渡しながらユーリが言う。彼自身はというと、勝手に客用のコーヒーカップを引っ張り出したようだった。
「溜め込んだんじゃなくて、気付いたら溜まってたんだよ」
「何だそりゃ」
 はは、と傍らに立つ彼が楽しそうに笑う。だからフレンも紙面に落としていた顔を上げた。カップに唇を寄せ、何?と視線が降って来る。証明の関係か、少しやつれたような、疲れたような顔をしている、と思った。
「疲れてるのか」
「え」
 一瞬反応が遅れたのは、それが自身に向けられたものなのだと判断するのに時間が掛かったからだ。ユーリはカップを持たない右手で、フレンの顔に手を伸ばし涙袋の辺りを親指の腹で押して笑う。
「隈、凄いよ、お前。酷い顔」
 どっちが、そう思うとフレンもまた笑みが零れた。ユーリは目の下に隈こそなかったが、目元が少し腫れていて瞼が重たそうに見える。
 フレンは積み上げられた山の一つを手で押し遣ってスペースを作るとそこに珈琲の入ったマグを置いた。それから指を組んで、腕を上に伸ばす。引き伸ばされた筋が悲鳴を上げるように軋んだ気がした。
「下町には?」
 フレンの斜め後ろに大きく取られた窓枠に、浅く腰掛けたユーリに問う。
「ああ、先に寄った」
「テッド、彼女が出来てただろう」
「は?ちょっと待て。俺、それは聞いてないぞ」
「ああ、言ってないんだ。まあ、僕も結構前に聞いた話しだし、案外もう駄目になっちゃったのかもね」少し意地悪く言ってやる。「何だったかな。初恋は実らないんだったっけ」
 音信不通に加えてまめに顔を出すこともない薄情者にはこれくらいが丁度良いだろうと言外に臭わせると、ユーリは珍しくそのまま黙り込んでしまった。その様子が可笑しくて声を上げて笑うフレンの隣で、それでも納得がいかないのか「覚えてろテッド」、と物騒な呟きが聞こえて来くる。
「全く、君がいい歳なのは勿論ラピードだってもう結構なご老体なんだから、そろそろ一箇所に落ち着いてみても良いだろう、」
 騎士団なり、ギルドなり、君が君らしく、君のしたいことが出来る場所に――言おうとして、言葉に詰まる。それはフレンが意図したものではなかった。半ば強制するように、柔らかかった筈の周囲の空気がすとんと色を無くしたように落ち込むのがフレンには分かった。だからフレンの言葉が最後まで紡がれなかったのはフレンが躊躇ったのではなく、彼が、ユーリが戸惑ったからだった。
 重たいばかりの沈黙が、二人の間に流れた。ユーリはカップを両手で包み込んで、温くなった黒い液体を揺らし、見つめている。フレンは、自分の発した言葉の何に彼が反応したのか、反復し、探っている。そして、探るまでもないじゃないか、そう、諦念にも似た感情を押し遣りながら、口を開いた。
「…………ラピードは」
 言ってから、語尾を上げるのを忘れたことに気付く。けれどユーリは何でもないように、ん、と小さく短い返事をして顔を上げた。視線はフレンと絡み合い、少し疲れてはいたがいつもの、綺麗で真っ直ぐな瀝青炭に似た眼差しを向けられる。穏やかで、柔らかな、フレンの好きな眼の色だ。
「うん……連れて、来ようかとも思ったんだけどな……」
 穏やかに、言いよどむ。平坦な声音は酷く優しい。
 彼は城に居るフレンを訪ねるとき、いつも窓から一人で現われた。ラピードは窓のすぐ下で待っていることもあれば、城下に住む犬猫の輪の中に入っていることもあったし、下町で子供たちの相手をしていることもあった。けれどただの一度も、ユーリは「連れて来ようと思った」、なんて無茶を言ったことはなかった。
 彼が、探るように、選ぶように、逡巡し、次の言葉を紡ぐため薄い唇を開くのをフレンは制止する声も忘れてただ眺めていた。聞きたくない、と自分とよく似た声が遠くから聞こえた気がした。同じように、聞かなければならない、という声も重なった。
「――……本当はお前を連れ出せれば一番良かったんだけど」抑揚のない、単調な声音なのに、彼は穏やかに微笑んですらいる。「まあ、その有様じゃあ無理だし、な」
 フレンから書類の山へと視線を移すと、少し吹き出す様にして笑ってから彼は喉と肩を震わせた。そんなユーリにフレンは苛立ちを覚え、苛立ちを覚えた自分に怒りを感じた。薄情なこの幼馴染みが数年ぶりに、何食わぬ顔をして自分の部屋に居座っていたときに感じた怒りとは比較にならないほど、純然たる怒りがふつふつと沸きあがってきた。そして、それを持て余す。捌け口など何処にもありはしないことを、フレンは知っている。だから、苛立つ。穏やかに、優しく微笑むユーリに、酷く苛立つ。
「ユーリ」
 低く、唸るような声だった。違う、フレンは胸の内で叫ぶ。違う、もう一度、けれど口から零れるのは吐息ばかりで、彼に掛けたい筈の優しい言葉はちっとも出てこない。
「ユー、リ」
 涙なんて、出る筈もない。なのに声ばかりが詰まって、震えて、聞き難い。
 フレンは、視線を床に落とした。言葉なんて、見つからなかった。
「フレン」
 呼ばれる。フレンは、力なく左右に頭を振って応えた。聞こえているという意思表示と、話しかけないでくれという拒絶とを滲ませる。「しゃーねぇなぁ、お前」、そう言いながらユーリの手がそっと髪に触れた。懇願するような気持ちで、俯いたままフレンはその手を制止するように柔らかく退ける。するとユーリの笑みの中に少しだけ苦いものが混ざって、何故だかざまぁみろ、と思う。思う自分が可笑しくて、笑みが零れそうになる。
「フレン」
 少しだけトーンを落としたユーリの声に、フレンはゆるゆると顔を上げた。笑みの退いた、表情の抜け落ちているくせに穏やかなばかりの眼差しで、ユーリはフレンを見つめていた。
「……何?」
 フレンも微笑を返す。上手く、出来たと思う。
「――……これ、やるよ」
 渡されたのは短剣だった。磨き上げられた刀身は手入れが行き届いた業物だったが、新品ではない。この流れと、このタイミングで手渡すのだから、持ち主など訊くまでもない。柄に刻み込まれた持ち主が人間だったなら在り得ない傷跡をなぞりながら、からからに乾いた口の中に言い知れない苦みのようなものが広がっていくのを噛み締める。
「いいの?返してくれって言われても返さないよ」
「言わねぇよ。俺には重過ぎる」
「そう。……ありがとう、ユーリ」
 平坦だったユーリの顔がほんの僅かに歪む。
「……悪いな、押し付けて」
「いや……」
 失敗した、とフレンは思った。そんな顔をさせて、そんなことを言わせたいわけではなかった。ユーリの表情が沈んだのは本当に一瞬で、今はまた少しぼんやりとした様子で手の中の黒い水面に視線を落としている。フレンは少し迷って、それから口を開いた。
「ユーリ、ごめんね」
 返事はなかった。フレンの言葉が意図するところを噛み砕くように一拍間を置いて、それから緩慢な動作で彼は顔を上げる。宵闇の色をした視線がフレンへと向けられる。言葉はなく、先の言葉を促すような静かな視線だった。
「うん……何て、言えば良いのかな。分からないけど……僕は、君が辛いとき、いつも側に居ないから」自分の思っていることを整理しながら、フレンは言葉を選び口にした。「多分、これからも」
 だからきっと、彼が「重い」と言ったそれを持つということに何ら不自由も不自然さも感じはしないのだとフレンは思った。彼が自分に謝る必要はない、そう伝えたかったのだと思う。
 ユーリはフレンが向ける真っ直ぐな眼差しと真摯な言葉を大人しく受け止めると、静かに瞼を伏せた。弧を描いた睫毛が、色濃く陰を落とす。そして、吹き出した。そのまま堪え切れない、といった様子で前屈みに肩を震わせて蹲る。
「笑うところかなあ、ここは……」
「笑う、ところだろ……ここは……!」
 窓枠から滑り落ちて、しゃがみ込んだまま笑い声の合間にユーリが言う。
「あー、笑った!ったく、お前俺を笑い死にさせるつもりか?何で居ないんだよラピード!お前の主人が変なこと言い出してんぞー」
「失礼な。でもまあ、ラピードの不在が不満なのは僕も同意見かな。彼は賢いから、君よりずっと空気を読んでくれるし?」
「いや、あいつはあんま空気読まないぞ、敢えて」
「ああ、敢えて、ね」
 お互い思い当たる節があって、そのまま苦笑に似た表情を貼り付けて視線を逸らし合う。
「…………ラピード、雌だったら良かったのになぁ」
 すっかり温くなった珈琲を思い出したように飲んでいたら、ユーリがぽつりと言った。
「それ、ラピード聞いたら怒ると思うよ」
「うん。俺もそう思う」
 それでも言わずにはいられなかった彼の虚[うろ]を思うと、そこで漸くフレンは目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「ほんっと……尻尾くらい、幾つに裂けたってこっちは全然構わないんだから…………もっと一緒に居てくれりゃ良かったのに」
 どこか虚ろな、乾いた声でユーリが言う。それは猫か狐の魔物の間違いではないのか、と訂正すべきか迷って、今口を開いたら震える声で、言葉以外の諸々も溢れ出そうな気がしたので、カップを唇に押し当てて苦い液体を呷って全てを飲み下してしまうことにした。あまり上手くいかなかった。


土を食む sit tibi terra levis
20081128


 ラピードは変な犬だ。あまり犬らしくない。少なくとも十年余りの時を共に過ごしてきたユーリはそう思っている。
 容姿は逞しく正に大型犬といった風体、血統はというと軍用犬疑惑が浮上したこともあったが真偽のほどは不明のまま終わった。当のラピード自身にはそんなことはどうでも良いだろうし、ユーリもまた彼の出生だとかに自分たちの関係が左右されるとも考えにくかったので、それは一つの可能性として保留にしてある。話は逸れたが、ラピードが犬らしくないというのは取り敢えず容姿や能力、習性の話ではない、ということははっきりさせておきたい。だから、ユーリの思う、彼の凡そ犬らしからぬ箇所というのはその気質だったりする。気分屋というか、とにかく彼は気紛れで自分に好意を示す者には背を向け、逆に怯える者には尻尾を振る。一匹狼とはまた違う、人を食ったようなところがユーリの相棒にはあってその気質は寧ろ猫寄りなのではないか、と何度か思ったことがある。
 だから、彼と過ごした年月が十年を越え艶やかだった毛並みが少しずつ色褪せて行くのを間近で見ていて、きっとこの孤高で気紛れな相棒が逝くときは、ふらりと何処か遠くに消えてしまうのだろう、と思った。その最期を人に見せることはせず、ひっそりと誰に看取られることなく冷たくなってゆくのだろう、そんな予感がしていた。
 犬の老化は人間の何倍だったろう、ラピードは今何歳くらいなのだろう、そんなことを考えながら彼の背を撫でることが多くなった。老化と共に聴覚や嗅覚が衰えつつあるのか、彼の死角である右側から手を伸ばして唸られたこともある。そしてその手がユーリのものであること気付くと、申し訳なさそうに小さく鳴いた。以来、ユーリはラピードの右側から彼に手は伸ばさない。そうすれば二人は、今までと変わらずにいられる。
 些細な、暗黙の約束はそうして少しずつ積もり、重みを増していった。煩わしさは感じない。その重みこそが彼との絆なのだから、とユーリは思った。ただ、時折酷く、辛い。枯れた背を撫でるとき、浮き上がった肋骨の上を擦るとき、いつの間に彼はこんなにも小さく、弱々しくなってしまったのだろうと、胸が締め付けられる。
 「その時が来たら」、とユーリの覚悟は決まっていた。誇り高く高潔な彼だから、少しもそんな素振りを見せずある日突然消えてしまうに違いない。けれど同じくらい彼は優しかったから、不様に――勿論、ユーリはそんなことを少しも思っていなかったが、衰えていくという醜態を曝しながらでもぎりぎりまで寄り添っていてくれるのだろう。だから、引き留めることはしない。不様に追い縋るなんてしない。そうでなくても、ラピードは今までユーリの我が儘に充分過ぎるほど付き合ってくれた。最後くらい、彼の好きなようにさせてやりたい、そう思ったからだ。なのに。
(なのに、気付くと目で追ってる)
 ラピードが視界に入っていないと落ち着かなかった。意識したわけでなく、気が付くとユーリはラピードの姿を探していた。彼の自由にさせてやろうという決意を、感情が否定し続けた。

 前触れはなかった。予感も、虫の知らせもなかった。あったのはいつも通りの旅の空の下、いつも通りの野宿の夜と、いつも通りの温もりだった。けれど朝、ユーリが目を覚ますとそこには既にラピードの姿はなかった。
 寄り添っていた筈の草むらは朝露に濡れ、冷たくなっていた。気配に聡い自分を起こさずに立ち去るなんて芸当がまだ出来たのか、感心して浅く笑う。
「ラピード」
 寝起きの擦れた声で呼ぶ。遠くに、鳥の囀りが聞こえた。
 来てしまった。彼が居た草むらを撫でながら、ユーリはその言葉を思い浮べる。油が抜けて指に絡まり、抜けることが多くなった、それでも柔らかく暖かな感触は掌に返らない。
「ラピード」
 彼の持っていたものだ。身体中の傷と、魔導器と、煙管――そしてこの名前。ユーリとラピードが出会ったとき、彼が持っていた全てだ。
「ラピード」
 期待は、していない。覚悟は、していた。多分、そんなユーリの覚悟を彼も知っていた。
「ラピード」
 覚悟は、していた――していた筈だユーリ・ローウェル、そう、頭の中で呪咀のように繰り返す。
「……ッ、ラピード」
 けれど口から、まるで祈りの言葉のように零れて落ちるのは、彼の名ばかりだ。
「ラピード、ラピード」
 無駄だ。錯乱し、取り乱したふりはやめろ、と何処か冷めた部分が言った。ユーリは覚悟をして、ラピードは去った。結果がこれだ。理性は冷徹なまでに的確な答えを返すばかりだ。だから、緑の絨毯からユーリの膝を離し、立ち上がらせたのは感情だったのだろう。
 土を蹴り、走り出す。野営の後もそのままに、荷物も剣も放り出してユーリは走った。死に掛けた動物の向うあてなんてなかったし、連れ添った年月もこの極限状態では何の役にも立たなかった。
 緑一面の視界が目まぐるしく移り変わり、後方へ飛んでいく。
「ラピード、ラピード……ッ……ラピード……ッッ」
 聞き分けばかり良い理性を、感情が捻じ伏せた。叫ぶ。張り上げた声は最早呼び掛けではなかった。
 朝の、冷たい空気が急激に肺を冷やして息が苦しい。苦しいのは、その所為だと思いたい。呼吸を整えようと忙しなく動かしていた足の動きを緩め――それでも立ち止まることはしないで、空を仰ぐ。青々とした新緑に縁取られた、高く清廉とした蒼穹が広がっていた。
 世界は、美しい。彼が寄り添っていた今までの朝と変わらず、美しくそこに在り続ける。ユーリの絶望は不恰好でちっぽけで、月に手を伸ばす子供のようだった。
 思考が急激に冷えて行く。感情は諦念を示したのに、理性は力なく伏せたままだった。
「――……ラピード」
 空に、喘いだ。ユーリは諦めた。
 だから、珍しく――というより、彼にとっては恐らく初めてとすら言えるほどに取り乱した相方の姿を見兼ねたらしいラピードが、背後の繁みから顔を覗かせ、片足を引き摺るようにしてユーリの方に歩いてきたときはどんな反応をして良いのか分からなかった。言葉を失い、呼吸と瞬きを忘れ、思考を停止させたまま呆然と、探していた筈の、もう二度と見ることはなかった筈の、その姿を凝視する。
 口を開いても、発せられるべき言葉が見つからない。名前は、駄目だ。諦めてしまったから、呼べない。それでも、唇だけは彼の名前を確かに辿った。そんなユーリの身勝手な葛藤など知らぬ顔をして、漸く手を伸ばせば届く距離にまでラピードは近付いてきた。ユーリの方にこそ駆け出したい衝動があったのに、何故か足は頑なに動くことを拒む。
 濡れた鼻先を、ユーリの左手の甲に押し当ててラピードが小さく鳴く。手は震えて、けれど彼の鼻筋を辿り、頬に手を滑らせて、耳の裏の毛の柔らかいところに差し込むという一連の動作は、すんなりと行動に移すことが出来た。頑なに動こうとしなかった足は、膝はあっさりと折れて、屈んだユーリとラピードの視線が交わる。それは一瞬のことで、ラピードはそのままユーリの肩に頭を乗せて力を抜いた。珍しい、甘えているような仕種だったが、逆にユーリが甘やかされているようでもあった。
 ユーリは、その場に崩れ落ちるようにラピードを抱えたまま腰を下ろした。右手も持ち上げて、痩せて乾いた身体を抱き込んだ。乾いた毛並みに鼻先を埋めると、慣れ親しんだ動物臭さが鼻を突く。嬉しくて、笑った。ただ、何故か涙も一緒に溢れて引き攣るようになってしまった。
 最後の最後だと言うのに、また自分の我が儘に付き合わせてしまった。彼は信念を押し曲げて、慣れたものだとでも言うようにユーリに寄り添うことを選んでくれた。
「ラピード」
 背中を撫でながら、名前を呼んだ。結局、他にもう彼に掛けるべき言葉は見つからなかった。
 その身体が冷たくなるまで、ユーリは名前を呼び続けた。


フレンは味オンチにせよ、珈琲くらいはちゃんと淹れて欲しいよな、というお話です。
あと、ユーリがTORのヴェイグ並みに名前連呼し過ぎてキモイよね、とか。
(20081128)






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最終更新:2008年11月28日 03:47