こちらで書かせて頂いた小話と微妙にリンクしていたりいなかったり……
TOGfの系譜でケリー母さんにお姉ちゃんが二人居ることが判明=ラント兄弟にいとこが居る?となった勢いの何か。
いつも通り乙女思考の純情眼鏡×人の話を聞いてない領主のこれまたいつも通りラブコメでいつも通りモブ死に描写がございます。お気をつけてー。


 傾聴、清らかな祈り、うぬぼれ屋――





 兄が騙された。
 わかっている。この言い方は少しばかり誇張が過ぎる。本当はそんな大袈裟なことでは決してなく、笑い話にしていい範疇の出来事だ。だから今、執務室の扉を開け放し見覚えなどある筈もない豪奢な壺を小脇に抱えた兄が、ことのあらましを語るそのものの数秒すら耐え難く苦痛であると断じ得ないのはぼくが少しばかり人より神経質で、僅かばかり心が狭いというだけの話なのだろう。
 わかっている。そんなことはわかっている。けれど、わかっていながらも尚ぼくは、海を渡り砂漠を越えて正に遠路遥々やって来た兄をどうしても手放しで迎えてやる気が起こらないのだった。
 訪ねて来るなどという便りもなく、忽然と執務室に姿を現した異国の男は「壺を買ったんだ」と開口一番、ぼくに告げた。それから、煌びやかな装飾の施された壺を小脇に抱えて兄は少しだけ誇らしそうに胸を張った。聞くに、流れの行商――そういったネットワークを持つインフォーマルセクターはエフィネアにおいてはかめにんくらいのものなので、恐らくは彼らから購入したという壺は、兄曰く降り掛かる禍いを吸い込み溜め込む有り難い代物なのだという。それを、破格の一〇〇万ガルドで譲ってもらったのだ、と兄は声を弾ませた。
 深く、深い溜め息をゆっくりと吐き出す弟を目の前に、兄は扉を後ろ手に閉めると部屋の中を突き進んでそれで、見るからに重たそうな壺を執務室の机の上に置いた。その衝撃でサインを終えた書類の数枚が音もなく床に落ちる。だが、ぼくは床に落ちた書類にも、目の前に置かれた壺にも目を向けることをせず、ただ静かに机を挟んだ向こう側に立つ兄を見上げていた。そのぼくに、兄はぼくと同じ勿忘の花の色と縁の色――左右異なる色をした双眸を柔らかく細めて言った。
「ヒューバート、オル・レイユに行こう」
 その言葉に、ぼくは強く奥歯を食い縛った。業腹だったからだ。耳の奥で、不快に歯と歯が擦れる音がする。
「どうぞ、お一人で」
 ない交ぜになった不愉快さから、それでも努めて押し殺した声音を装いぼくは漸くそれだけを兄に告げた。

 ことの発端は少しだけ前に遡る。けれど、何処まで遡るべきなのかはっきりとしたことはぼくには解らない。ただ、ユ・リベルテの大統領府のぼく宛てに届いたラントからの手紙には、グレルサイドに住む母方の従妹が血液にまつわる病に掛かり、そう長くないことが書かれていた。だが、それだけだ。ラントからの、兄からの手紙には「戻って来い」とも「会ってやってくれ」とも書かれてはおらず、ただ事実だけが抑揚を欠いた調子で淡々と綴られていた。まるで無機質な手紙は、部下からの報告書にも似ていた。
 正直、ぼくは従妹のことを殆んど覚えていない。そもそも母の姉二人というのはそれぞれバロニアとグレルサイドに住んでおり、年に一度会うか会わないかといった程度の面識しかなかった。ましてぼくは十の時分にはオズウェルの家に養子へと出されたわけなのだから、僅かばかりの血の繋がりが長く記憶に留まる筈もない。
 それでも、こうして数年ぶりに彼女の名を目にすれば懐かしさが込み上げ、曖昧ながらも生まれたばかりの赤ん坊の手に強く手指を握り込まれたことなどがいとも容易く思い出される。兄と二人並んで、肩を寄せあい頬も触れ合わんばかりに懸命に、寝台の上の小さな命を覗き込んだ。それだけの記憶に、無性に、胸が痛む。
 手紙を最後の一葉まで読み切ってしまうと、ぼくは封筒に丁寧にしまった。それから、副官である血の繋がらない従兄――レイモンド・オズウェルを呼び仕事の予定を訊いた。その時にはもう、ぼくはウィンドルへ向かう気でいた。つい数分前まで数年間もその存在を忘れていた従妹に、会いに行こうとそう思った。
 それから半月程して、ぼくはウィンドルの大地を踏みしめた。急ぎの仕事を片付け、ストラタの首都ユ・リベルテから東の海の玄関口に辿り着くのに思ったより時間が掛かってしまった。
 従妹の住むグレルサイドへは兄の治めるラント領を経由する必要があったので、ぼくは白い花を付けた林檎の木の下に立つ警備兵と軽い挨拶を交わすと迷うことなく領主邸へと足を向けた。庭には色とりどりの花が咲き乱れ、ぼくの知るどんな花壇や庭園よりも手入れが行き届いていた。甘やかな香りが鼻腔を突き、穏やかな風に花弁が揺れている。きっと兄の娘は、変わらずここの花々の良い母なのだろう。殺風景な大統領府の執務室を思い出し、花に目を向けたままぼくは苦く笑った。
 先に手紙で訪問する旨を伝えていた為か、屋敷に入るとすぐに白髪の執事を伴った母が出迎えに現れた。
「おかえりなさい。また少し背が伸びましたね」
 母はぼくの肩に手を掛けて、頬に一つ口付けを落とす。同じように、母の頬にぼくが唇を寄せていると、階段の踊り場から名前を呼ばれた。
「ヒューバート、おかえりなさい」
 菫色の長い髪を揺らして、少女が階段を駆け下りてくる。兄の娘、ソフィ・ラントだった。
 ただいま、とぼくはソフィに向き直り言った。彼女は嬉しそうに頷いた。その隣で、母はぼくや兄と同じ勿忘の花の色をした双眸を所在なさげに揺らしながら口を開く。
「ヒューバート、戻って来たばかりで悪いのだけれどアスベルはもうグレルサイドに行っているの」
「ソフィを置いて、ですか?」
 呆れたというより、純粋に驚いてぼくは語尾を上げた。
「わたしはお花のお世話がしたくて残ったの。それに、デール公とお仕事の話もあるからって」
 二人に言われて得心のいったぼくは、一日だけラントに滞在すると翌日には徒歩でグレルサイドへと向かった。
 ウィンドル国内最大の湖に面したデール公の治めるグレルサイドに到着すると、ぼくは早速病床に臥せっているという従妹を訪ねた。彼女はグレルサイド郊外の専門病院に入院している、と手紙には記されていた。ぼく自身佐官となった今も職業柄なのか入院や通院は絶えず、つい先月にも国内での暴徒鎮圧の任務の際負傷し病院に運び込まれたばかりだった。暫らくは厄介になることもないだろうと思っていたのにと、その皮肉を笑う。
 豊かなグレルサイドの湖を見渡せる小高い丘の上に、病院はあった。ぼくの居た軍病院とは違い、そこは既に命の限りの見えた患者ばかりが入院している特殊な病院で、その花に彩られた絢爛な外観は王侯貴族の別荘のようにも見えた。
 病院に入ると、ぼくはすぐに兄の姿を見留めた。兄とデール公とは物資流通の取り決めと関税の話し合いをしているらしく、また明日屋敷に出向くらしい。本人の口から直接聞いたわけではなかったが、兄はストラタ、フェンデル両国との交易拠点としてのラント展開を視野に入れているようで、そのことも話題に上がっているのかも知れない。だが、あくまでぼくは他国の軍人であり彼は領主という責任ある立場である為、それ以上の込み入った話に発展することはなかった。
 「長くかかりそうだ」とぼくの隣で兄は肩を竦めた。何がですか、と訊く前にぼくと兄は病室の扉の前に立っていた。
 それから一ヶ月、ぼくと兄は嘘を吐き続けた。痩せ細っていく病人に、庭の樹の蕾が膨らむ頃には元気になる、と言い続けた。兄はデール公の屋敷と病院とを毎日行き来し、ぼくと顔を合わせる度に「もう帰った方がいい」と言った。
 悪いことは続くもので退院したばかりで体力の落ちていたぼくは、温暖であるとはいえストラタより幾らも肌寒いウィンドルに来て体調を崩した。最初は軽い風邪程度だったものが、最終的には気管支炎にまで進行し兄はデール公との約束にと従妹の見舞いとに加え、宿で寝込んだぼくの看病まですることになった。こんなことなら兄の促すようにさっさとストラタに帰るべきだった、とぼくは随分後悔した。だが、兄は嫌な顔一つせず、また弟の頑愚を責めるでもなく「こういうときくらい甘えてくれよ」と言って笑った。
 一週間、ぼくはグレルサイドの一室から離れられなかった。漸く体調が快復し外に出歩けるようになると、兄に取りに行って貰っていた薬を自分で取りに出た。その足で、ぼくは従妹の見舞いに行った。病室の彼女の寝台脇には、伯母と兄とが付き添っていた。兄はぼくに気付くと立ち上がり、自分の座っていた椅子を譲って入れ違いに廊下へと出て行った。
 ぼくは伯母の隣に腰を下ろし、従妹と話をした。か細い声で、彼女はぼくの体調を訊いてきた。だからぼくはすっかり良くなったことを伝え、それから彼女もじきに良くなると嘘を吐いた。ウィンドルから出たことのない従妹はストラタやフェンデルの話に喜んで耳を傾け、ぼくは退院したらストラタに遊びに来ると良い、と言った。
 そんな些細な約束をした三日後、従妹は息を引き取った。まだ十にもならない幼い子供がこんな病にかかり、死んでいく理不尽にぼくは酷く疲れた。けれど、病など関係なしに理不尽も不条理も存在していることもまた確かなのだと知るぼくは、諸々の憤りを飲み下しストラタへ帰った。

 入院と短くはない休暇が続いたぼくはストラタに戻ると大統領府に泊まり込み、溜まりに溜まった仕事を片付ける毎日を送っていた。そこへ、訪ねてきたのが兄だった。
「馬鹿なことを言わないで下さい」
 日を置かず、顔を合わせた兄にぼくは思いがけず荒々しくなった声音で言った。見るからに怪しい壺について、挨拶もそこそこに問いただしたところ、兄がその壺を決して安価ではない額で半ば騙されるように購入したのだということを知った。
「何故そんな物にお金を使うんです。貴方は領主なんですよ?」
「だってさ、ここのところ悪いことが続いただろ。……心配なんだよ」
 兄は、目を反らしながら言った。半分は従妹のこと、半分はぼくのことを言っているのだとすぐに理解し、言葉に詰まる。
「……だからといって、そんな下らない物を買わないで下さい」
 その時は兄の不安を咎める気にもなれず、ぼくはただそれだけを告げた。

「兄が、馬鹿になりました」
 翌日、執務室に報告書を提出しに顔を出した血の繋がらない従兄に、ぼくはそう切り出した。兄が騙されて壺を買ったことに加え、ぼくの吉方にあたる東の地――オル・レイユにまで赴き、そこで塩と砂とを壺に入れて持ち帰らなくてはならないのだと言い出したことを伝えると、従兄は眉根を寄せた。
「貴方の兄上がそうしたある種の病持ちなのは昨日今日に始まったことではありませんが、それは確かに度が過ぎているというか……異常、ですね」
 従兄の言い様には話を振ったぼくも閉口したが、そもそも彼にとって兄は憎き恋仇でもある。多少の棘は仕方がない。それに、第三者からの意見を聞くことが出来たのは良かった。
「何にせよ、断固としてオル・レイユ行きは拒否することですね。我々は曲がりなりにも軍人だ。そのような迷信に惑わされるようなことは、あってはならないでしょう」
 全く以って彼の言う通りだ、とぼくは思った。従兄は浅はかで愚かな面も多々あるが、それでも優秀な男だった。そうでなければ副官として傍らに置いたりはしない。だからぼくは彼から同意を得られたことに幾らか安堵し、改めて兄の申し出を断る為に市街地の視察がてら兄の泊まる宿へと向かった。
 宿屋へ向かう途中、ぼくは軍学校の同期生で今は研磨職人として店を出しているマーレンを訪ねた。グレルサイドへ向かう前に、彼女に宝飾品の研磨を頼んでいたことを思い出したからだ。帰って来てからというもの、仕事に追われてろくに私用で外には出ていなかった為、すっかり忘れていた。
 ユ・リベルテの商業地区に、マーレンの店はある。表通りに面しており、また宿屋も近いことから最近では国外からも彼女に宝石を任せる客が来るようになったらしい。ぼくの依頼は急ぐものではなかったので、そうした他の依頼の片手間にでもこなして欲しい、と頼んでいた。
 ぼくが彼女の店に顔を出したのは、丁度正午を一時間程過ぎた頃だった。
「ごめんなさい。例の石、まだなのよ」
 手土産のブドウのコンポートを受け取りながら、マーレンは言った。
「以前も言いましたが、別に急ぐものではないので構いませんよ」
「そう?なら良かった。でも貴方、入院に帰省にって立て続いて仕事もたまってるじゃない。何だか、申し訳なくて」
「そのことでしたら……まあ、今回も宿に居る兄を訪ねに行くついでのようなものですしね」
「あら、お兄さん来てるの?」
 領主なのにそんなに簡単に出歩くものなの、とマーレンは悪戯っぽく笑って言った。その様子に、毒気を抜かれたというわけではなかったが、ぼくは従兄に話したように彼女にもことのあらましを話して聞かせた。
「――本当に、あの人には領主としての自覚が足りていないとしか……」
 何だか、頭も痛くなってきた気がしてきてぼくはこめかみを強く押さえた。
「確かに、それは問題ね。ヒューバート、何を言われてもオル・レイユに行っちゃ駄目よ?一回言うこと聞いちゃったら、後は際限なくなるんだからこういうことは」
 従兄に続いて、マーレンも兄の言葉を否定した。だからもうこのときには、ぼくは自身の中に確固たる正当性を見出だしており兄と会うことに何の不安も抱いてはいなかった。確かに、ぼくは彼に甘く多少の無理も無茶にも目を瞑ってしまう癖があったが、今回は話が別だ。
 明日には研磨も終わるので執務室に届ける、と言うマーレンと別れぼくは決意を新たに宿へと向かった。
 肌を溶かすような外の熱気から一転して、宿のロビーは輝石[クリアス]によって快適な温度に保たれていた。
 兄の滞在する部屋番号は知っていたが、先ずはフロントに向かう。受付で兄の名前を出すと小一時間程前に兄は出掛けた、と言われた。その時、何故だか解らないけれどぼくは酷く落胆した。当たり前に兄がぼくからの答えを待っている、そんな己の根拠のない自信に裏切られた気がして訳もなく情けない気持ちになる。
 宿のロビーで兄を待つ、といった選択肢もあったがいつ帰るとも知れない相手を待つ程暇を持て余してはいなかったので、大統領府への道すがら兄の姿を探すことに決めた。
 ユ・リベルテは他のストラタ国内の街に比べれば比較的市街地の外気は過ごしやすい温度と湿度に保たれている。それでも降り注ぐ苛烈な陽射しは容赦なくぼくの肌を焼いた。
 棕櫚の葉のそよぐ街並みを見渡し、逡巡する。勿論、視界がすぐに兄の姿を捉えることはなかった。
 あてどなく、と形容するには確かな足取りでぼくは人気のない街を歩いた。この時間は一日の中で最も気温が高くなるので、余程差し迫った用事でもない限りストラタ国民は外を出歩かない。ならば、ぼくが今こうして歩いている理由は何なのだろう、と考えると可笑しくなった。それがぼくの中に流れる血の為なのか、彼の暴君に己の意志を示すことが自分の中で差し迫った用事であるのか――理由らしい理由がその二択しかないことと、そのどちらもが不毛でしかないことに気が付いたからだ。
 逃げ水の踊る街中を彷徨う足を、ぼくは不意に止めた。視線の先には出店の花屋がある。週末になると切り花や鉢植えだけでなく、種や球根の販売もしているその花屋を見掛けるのは今日が初めてではない。ただ、ぼくは今日初めてその花屋に興味を惹かれ足を止めた。
 理由は知れている。兄の血の繋がらない娘――ソフィ・ラントだ。ぼくから見れば姪にあたる彼女は、花がとても好きだった。だから、兄に彼女宛ての花の種でも押し付けてさっさとラントに追い返してしまおうと思ったのだ。
 花屋に足を向け、店先に並ぶ色とりどりの花を見下ろす。昔好んで読んでいた図鑑の中には花にまつわるものもあったので、遠い記憶と照らし合わせながらぼくは彼女の喜びそうな花はどれだろう、と考えていた。
 そこに「ありがとうございます」と声が聞こえる。反射的に顔を上げるが、すぐにその声がぼくに向けられたものではないと知れた。声を発したであろう店の主人と、その前にはストラタ人にしては肌の色の薄い客――ぼくの兄が立っていたからだ。左右色合いの異なる不思議な兄の虹彩はぼくを捉えたが、店の主人への支払いを優先させ視線はすぐに逸らされた。受け取っているのは紙袋一つと、小さな苗の覗く袋が三つだ。それが彼の愛する血の繋がらない娘への土産だと解ってはいても、先の散財を知るぼくは込み上げる苛立ちを抑えられない。
「……信じられない」
 店から少し離れたところで、ぼくは先ずそう言った。
 「そうだな。少し買い過ぎたかも」兄はずり落ちそうになる手提げ袋の具合を直しながら呟いた。「庭の花も大分窮屈そうだしなぁ」
 苛立ちに突き動かされ、ぼくは兄の腕を掴む。その衝撃に、手に下げられた袋から薄紫に赤黒い斑が浮かぶ奇怪な花が顔を覗かせ、ささやかに揺れた。だが、ぼくはただ兄の花色の眼と赤黒い虹彩の浮かぶ薄紫の眼とを見つめた。
「そうじゃないでしょう。貴方が馬鹿になって、どれだけのガルドを無駄にしたのか解っていますか?……ソフィへの手土産を無駄な買い物とは言いませんが、それでももっと己を省みるべきだ」
 そこまで言ってから、知らず知らず兄の腕を掴む手に力が入っていたことや、思いがけず近い彼の吐息にぼくは慌てて身体を退いた。こんなに近しい彼との距離は、幼い時分の無邪気な思い出か、或いは互いの孕む熱を煽り合う行為の中にしか存在しなかったからだ。
 けれど兄はぼくの焦燥にまるで気が付いた様子もなく、ただ「これからは気を付けるよ」と素直に反省の言葉を告げた。毒気を抜かれ、ぼくはゆるゆると緩慢な動作で兄の腕を解放する。
「何かごめんな。俺の勝手のせいで、随分と困らせたみたいだ」
「……いえ。自覚があるのなら、いいんです」
 言いながら、努めて自然な所作を装いぼくは兄の手にしている袋を一つ手にした。本人も反省しているようだし、量も量なので彼の部屋まで手分けして運ぼうと思ったからだ。手にした袋からは素馨に似た爽やかな甘い香りが漂ってきた。もう一つくらい持つつもりでいたぼくが手を伸ばそうとすると、兄は「もう大丈夫だから」と言った。
 ぼくは小さく、息を吐き出す。それから、意を決して口を開いた。
「反省しているなら、ぼくは何も言いません。今回のことは何もぼく一人が意固地になって、貴方を否定してるわけではないんです。レイモン従兄さんやマーレンも、貴方の行動は愚かだと言っていました。……もう、変なものにお金を使ったりしないと約束出来ますね?」
 兄は、ぱちりと音がしそうな程大きく、一度まばたきをした。それから、少し困ったように笑って「本当に悪かったって」と言った。
 だから、ぼくは油断していた。
「もう変なものは買わないからさ、オル・レイユには行ってくれるだろ?」
 朗らかに言って、彼は笑う。
「あっ、なたは!人の話を聞いていたんですか!」
「聞いてたよ」
 思わず、ぼくは声を荒げた。兄に、こんな風に詰め寄るようなことをしたくはないのに、と思った。だのに兄には少しの悪怯れた様子もない。
「……ッッ何を聞いていたんですか、貴方は!」
「聞いてたさ。そういうお前こそ、俺の言ってることを聞いてるのか?」
 一転し、兄は笑みを潜めて静かな声で言った。
「兄さん!」
 ぼくは兄を咎めた。声を荒げて責めた。だが兄は淡々と口を開く。
「オル・レイユに行こう」
「くどい!仮に、ぼくがそこへ行かなかったら何だっていうんです?」
「……良くないことが起きる」
「良くないこと?そんな曖昧な返答で、ぼくが納得するとでも?」
 兄は口をつぐんだ。言い淀むというより、言うべき言葉を敢えて飲み込んだようなそんな不自然さの滲む沈黙に、ぼくは苛立ちをますます募らせる。
「ぼくは軍人です。そんな根拠のない迷信に踊らされるわけにはいきません。もし、ぼくがオル・レイユに行かず、結果貴方の言う良くないこと――例えば、命を落とすようなことになっても、ならば殉職で片付ければ良いだけの話です」
 とうとう、極論を口にした。それくらい言わなければ、馬鹿になった兄には届かないと思ったからだ。
 兄は眉根を寄せながら、ぼくに向けていた視線を反らした。唇を固く結び、ぼくの方を見ようともしない。
「兄さん」
「……オル・レイユに、行ってくれ」
 もう何度目になるとも知れない要求を突き付けると、兄はそれきり何も言わなかった。
 宿に着いても固く口を閉ざし続ける兄に、ぼくは預かっていた花を返そうと声をかけた。そんなものはただのきっかけでしかなく、ただこのいつになく気まずい沈黙を破りたかった。だが、兄は差し出した袋に手を伸ばすことをせずただ一呼吸を置いてから「それ、やるよ」と言い残し、背を向けた。

 窓辺に置かれた小さな鉢に、水を注いだ。昨日、兄に押し付けられた花だ。白く小さな蔦の花は殺風景なぼくの執務室を彩るばかりでなく、ささやかながら甘い芳香を漂わせ張り詰めた空気を和らげてくれてもいる。慎ましやかな白い出で立ちは、同じく白を基調とした服を好む傾向にある兄を否が応にも連想させた。きっと彼のことだから、他意も裏も無いのだろうと解ってはいたが、つい深読みしたくなる。その時点で兄よりも余程、ぼくの方が馬鹿であるに違いない。
 今日の仕事が一段落着いたら、改めて兄に己の意志を伝えなくてはならないな、とぼくは思い溜め息を吐いた。憂鬱だ。
 先に折れた方の負けが込んでいるのに、ぼくはあの兄に対してとことんにまで甘い。幼い時分から今日に至るまでヒューバート・オズウェルの暴君足り得る彼を相手取るには、まだまだ分が悪いことは充分分かっている。
 重苦しく私事に頭を悩ませながら、それでも仕事を捌く手を止めずに居ると扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。ぼくは手を止め、時計を見、それから訪ねてきた相手を見当付けてから「どうぞ」と言った。
 扉を開け、健康的な小麦色の肌をした女が顔を覗かせる。マーレンだ。
「早かったですね」
「とんでもない!お待たせして申し訳ありませんでした、オズウェル少佐?」
 そう言って彼女は悪戯っぽく片目を瞑った。それから、布貼りの木箱をデスクに置く。ぼくはそれをすぐに引き出しの中に入れた。頼んでいた宝石だ。
「いいの、確認しなくて?」
「信用していますから」
 引き出しを閉めながら言うと、何がそんなに可笑しかったのかマーレンは噴き出して肩を震わせ始めた。そんな彼女の反応に多少なり困惑はしながら、けれど胸中を悟られることのないよう平静を装いぼくは椅子を立った。せっかく来てくれた彼女に、不味い珈琲を振る舞う為だ。
 珈琲を手に戻ると、マーレンは窓際の花を見ていた。ぼくに気が付いて顔を上げ、指し示す。
「何か部屋の雰囲気変わったな、って思ったらこれね。いいじゃない?」
「気に入ったなら差し上げますよ。押し付けられたものですから」
 珈琲を手渡しながら言った。マーレンはカップの端に唇を押し当てながら笑う。
 「貰えないわ。押し付けられたっていうなら尚更」指先で掠めるように花に触れ、彼女は言った。「花嫁花でしょ、これ」
 指先を視線で追いながら、マーレンの言葉を聞いていたぼくは一拍置いたところで引っ掛かりを感じ、彼女を正面に捉えた。
「花嫁が、何です?」
「花嫁花?もっと長いちゃんとした名前があるけど、形も匂いもいいからってブーケに良く使われるから、そういった俗称が付いたのね」
 宝石の研磨なんてしてると花と組み合わせた注文も来のよ、とマーレンは言って笑った。ぼくはといえばこの花の苗を寄越した人物を知るだけに、すぐにでも頭を抱え込みたい衝動に駆られていた。
「素馨ではないんですか?」
「違う花よ、確か。匂いも花も似てるけどほら、花びらの形が少し違うの」
 再度彼女の指先が示す先を追うが、やはりよく判らない。昔は野草や動物といった図鑑を読むのが好きで、微細な違いにも目ざとく気が付いたものだが、もう何年もそうした感覚を忘れていた。
 ――違う。忘れたのではなく、無用のものと断じてぼく自身の手で切り捨てたのだった。
「花言葉は何だったかなぁ。傾聴とか、純粋とかそういう?」
「花嫁の為の花だというのに、随分ですね」
 傾聴という単語に、まるで聞く耳を持たない自分を責められたように感じぼくは思わず言った。
 「いいじゃない。花嫁の為の花だけど、花嫁の為の花言葉じゃないんでしょ」ぼくの胸の内の後ろめたさなどまるで気が付かないまま、マーレンは笑う。「興味あるなら、詳しく載ってる本でも持ってきましょうか?」
 そう指摘されても、ぼくはすぐに返事をしなかった。珈琲を口に含み、それから一呼吸置いて首を横に振る。
「結構です。仕事もたまっていますしね。娯楽に耽っている暇はないんですよ」
 それに、たかが花だ。それも女子供が気紛れに興味を惹かれる花言葉の類いに、何をこんなにむきになる必要があるのか、と奥歯を強く噛み締める。
 自問すれば、答えなどすぐに掬い上げられた。兄だ。兄の所為だ。兄が馬鹿になった為、その全ての皺寄せがことごとく来ている。
 ぼくが深く溜め息をつくと、マーレンは困ったように眉根を寄せて笑ったがそれだけだった。彼女との付き合いは長く、昨日の今日でぼくが何に頭を悩ませているのか、その察しがついているのだろう。だが、敢えて話題に上げずにいてくれる彼女の聡明さに、ぼくは感謝していた。

 低く、唸るような雷の音が遥か上空で響いていた。雨こそ降ってはいないものの、頭上を覆うアクアバリアは厚い雲に隠れて見えない。ストラタではあまりない湿った風に、そう間を置かず雨が降りだすだろう、とぼくは亀車の窓から乗り出して外の様子を伺っていた身を退いた。
「雨があんまり強くなるようだと、出発が遅れるかも知れないッス」
 外で亀車を引くトータスを宥めていたかめにんが言った。構いませんよ、とぼくは言い、向かえの席に座る兄も急がないから、と外に声をかけた。ぼくはこのまま土砂降りのひどい雨になって、シムーンが吹き荒れてしまえばいいのに、と思った。そうすれば亀車は出発しないだろうし、出発しなければストラタ極東の町オル・レイユに着くこともない。
 ぼくの不機嫌を察したのか、窓の外を眺めていた兄が眉尻を下げて見つめてくる。
「本当に、ごめんな」
「……これっきりです」
「分かってる」
 それ以上は話し掛けてくれるな、との意を込めてぼくは荷物袋から本を取出して開くと目を落とした。兄もぼくの意図を汲んだのか、もう話し掛けてはこなかった。
 本を読むふりをしながら視線だけを兄に向けると、彼は窓枠に肘を突いて外を眺めていた。縁の色だけが覗くその横顔に、ひどく落ち着かない気持ちになる。ぼくは焦燥を押し込めて再度視線を本へと落とすと、綴られた文字を追うことに集中した。
 ぼくがオル・レイユに行くことを決めたのは、何も兄の言い分に納得したからでも、下らない迷信を信じる気になったからでもない。ただ、誰の口から耳に入ったのか(十中八九従兄の口からだろうが)、ストラタ大統領ダヴィド・パラディがわざわざぼくの執務室へと顔を出して言ったのだ。
「オル・レイユへ行くくらい、何だと言うんだね?それで兄上が安心するのなら、行ってあげれば良いではないか」
 その言葉を聞いて、ぼくはもう何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。大統領の言うことは最もだったし、ぼくもいつまでも下らない兄の主張に付き合い、不毛な考えに捕われてなどいたくなかった。
 いつの間にか亀車が走りだしたことにも気が付かないほどに、本に集中していたぼくは岩にでもトータスが躓いたのか車内が大きく揺れたそこでやっと顔を上げた。今の衝撃で椅子から荷物袋が落ちる。ぼくが手を伸ばすより先に、兄が拾い戻してくれた。
「ありがとうございます」
「いや。……面白いのか、その本?」
 言われて、ぼくは少し返す言葉に迷った。
「――そう、ですね。面白いと思います」
「何だよ、それ」
 兄は笑った。
「花の……本です。道中の暇を潰すのに、買ってみたんですが。読み終わったら、その……ソフィにでも回そうかと」
 歯切れも悪く、言う。言葉を選んだからだ。理由は分からない。
 兄は、何も言わなかった。ただ、緩く目元を和らげてぼくを見ている。沈黙に以前のような居心地の悪さこそ感じはしなかったが、それでも落ち着かない気持ちになった。だが、今度はその沈黙を破る言葉がまるで見当たらない。彼が、何故そんな目でぼくを見つめたのか、その理由が解らないからだ。否、解りたくないからだ。
 「兄さん」とぼくの唇は容易く彼を形容した。だが、音に成る前に兄の指先が辿る行方に気取られる。
「……何です?」
 兄の手指が、ぼくの手の中に在る本を指し示した。
「それ、読み終わったら俺にも見せてくるないか」
 どうせソフィへの手土産として買ったもので、ラントに帰る彼に持たせようと考えていた本に何の断りを入れる必要があるのか――解らずに、ぼくは開きかけた口を再度閉ざす。「どうぞ」とも、「好きにすればいいでしょう」とも、否とすら言えずにいる弟の様子を、兄は声を上げて笑った。

 セイブル・イゾレを経由して数日、道中に降りだした雨はオル・レイユに着いても止まなかった。ぼくは亀車の窓枠に片肘を突いたまま、遠ざかっていく兄の背を眺めていた。彼の目的である「真実の塩」は街の入り口付近に在ったが、兄はその塩と浜の砂とを壺に入れて持ち帰らなければ気が済まないのだという。
「ぼくは行きませんよ。こんな雨の中」
 暗に、もう充分だろう、との意を込めてぼくは兄を突き放した。すると、彼は「じゃあ、ちょっと待っててくれ」と言い残し、壺を小脇に抱えて颯爽と雨の中へと飛び出して行ったのだった。
 白く煙る視界から兄の背中が完全に消えてなくなると、ぼくはまた花の本を膝の上で開き視線を落とす。二度、三度と大まかに紙を捲り、目当ての花が描かれたページで指を止めた。花嫁花だ。
 この花を本の中に見留めたのはユ・リベルテを出てまだ半日も経たない頃のことだった。花嫁の為の、この白く小さな花はマーレンの言った通り素馨とは異なる種で、正式な名前をステファノティスといった。成る程、「耳」に似た「花冠」だから花言葉が「傾聴」になるわけか、と奇妙に納得をしたりなどして続く言葉を辿る。そうして、小さく引っ掛かるものを感じた。
 今また、ぼくは同じページで、同じ一文を凝視している。あの兄は、この花を何を思い寄越したのだろうか、と考える。だが、兄がこの花の謂われを、纏ろう言葉を識っていたとは思えない。偶然を笑い、ならば兄に教えたら彼はどんな顔をするだろう、と思った。それから、ふと気付く。
 ぼくは、小さく拳を固めた。
 違う。この花を選んだのはぼくだった。兄がそれと知り、渡したわけではなかった。
 風の音が強い。降る雨は、少しばかり激しさを増したようにも見えた。
 ぼくは本を閉じて、亀車の外へ出た。生温く張り付く空気が、肺の底をさらっていく。こめかみから頬を伝い、顎を滴る水滴を袖口で拭うと、港へと歩きだした。
 波止場から浜辺を見下ろすと、砂地の上に丸まった兄の背中を見留めた。白い上着の裾は、水を含んだ砂に汚れている。それを気に掛ける素振りもなく、しゃがみ込んだ兄は砂を掻き集めては傍らに置いた壺へと掬い入れていた。
 「兄さん」ぼくは、兄の背中に声をかけた。「もういいでしょう。もう、充分でしょう」
 兄は顔を上げ、肩越しにぼくを見た。その頬も、矢張り水を含んだ砂に汚れていた。
 迂廻して、下の浜へと続く階段を見付ける。気乗りはしなかったが階段を降りて砂地に足を踏み入れると、靴底を通して冷たく湿った感触がした。
「雨足も強くなってきました。亀車へ戻りましょう」
「ごめんなヒューバート。でも、あとちょっとだけ」
 そう言って兄はまた俯き、砂を掬い出した。彼の小さくて丸い爪の中にまで砂が入り込んでいるのを見て、あれは少し洗ったくらいでは落ちないだろうな、とぼくは思った。
 空を仰ぐ。曇天からは、惜しみなく雨が降り注いでいた。
 眼鏡を外し、軽く振ってからまたかけ直すと、ぼくは兄の脇を通り過ぎた。そうして彼の正面に位置取ると、同じようにしゃがみこむ。長く垂れた軍服の裾が、重たく水を吸うのが分かった。
「……手伝います」
 冷たく湿った砂に、手をさらす。ぼくはろくに顔を上げることもせず、手を動かした。
 兄を信じたわけではなかった。こんなことをしても何も変わらない。ぼくも変わらない。人は、ときに圧倒的な暴力の前に限りなく無力だ。その身の内に人知を超えた暴力を内包し、また「娘」の願いを叶えることはままならないと知る彼が、その事実に気が付いていない筈はない。それなら、何故兄は目に見えて明らかな迷信に縋り、ぼくをこんな所にまで連れてきたのか――それが、不思議だった。
 濡れた砂を掬うという、ただそれだけの作業に没頭していると不意に、兄の所作が緩慢であることに気付く。長く雨に打たれて身体を冷やしたのだろうか、と不安になり顔を上げると左右異なる奇妙な色の虹彩にぼくの顔が映り込んでいた。
 兄さん、と呼び掛けようとして口を塞がれる。兄は手でなく自身の唇で以ってぼくの言葉を封じた。両手が汚れているから口を使ったのだろうな、とぼくは思った。
 離れようとする唇を追ってついばむと、逆に下唇に噛み付かれた。ぼくも大概酷く両手を汚していたので、手を伸ばし引き寄せられないことをもどかしく思ったりもしながら口付けを返す。だが、砂地に置いたままの手に兄の指先が不意に触れ、ぼくは思わず顎を引いた。長い間雨に打たれていた為か酷く冷えきった彼の指先に、自分ばかりが熱を煽られているように思えたからだ。
 兄は急に顔を反らした弟に不審な眼差しを向けることも、つい先刻まで交わしていた口付けの余韻を感じさせることもなく、ぼくを見ていた。雨曇りの闇の中で、彼の睫毛に溜まった水滴が奇妙に浮いて見えた。そして、兄の冷えた指先は未だぼくの火照った手指を絡めて離さずにいる。
「兄さん」
 今度こそ、ぼくは彼を呼んだ。兄もぼくの言葉を阻むことをしなかった。
「……これで、満足したでしょう」
 ぼくが言うと、たった今まで口付けていた兄の口の両端が釣り上がる。本当に業腹だ、とぼくは苦笑混じりの吐息をこぼした。
「兄さん。あの花の花言葉、知ってますか?」
 だから、せめてもの意趣返しにと、ぼくは兄に問うてみた。


二人で東へ旅を The man from the Land of Nod
20110525


 




実は兄さんの壺は王城地下のディスカバリーの壺で、リチャードに頼んで貸してもらったというオチがあって、この後リチャードに返しに行く話も書くつもりでしたが蛇足な気がしたのでやめましたん。
(20110527
)




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最終更新:2011年05月27日 00:22