取り敢えず二人がラブラブイチャイチャちゅっちゅうふあはという目的だけは達成。

・砂糖吐くほどの甘々注意報発令。
・死にネタではないけど死亡フラグネタ注意報発令。
・寧ろじじベル注意。
・っつーかラムダも別人やん。


 今朝は、鳥の鳴く声で目が覚めた。寝起きであることを差し引いても霞みぼやける視界に色褪せた木製の窓枠を見留め、雪雲に覆われた空を背に羽ばたく二羽の鳥を目で追った。本格的な冬の訪れを前に暖かなストラタへと渡る鳥なのだろうな、とアスベル・ラントは思った。
 「歳をとりましたね」、とヒューバート・オズウェルに言われたのは今年の頭だ。幼い時分、遠い異国の地へ養子に出され、ラントの姓を奪われた弟はけれど変わらずアスベルを「兄」と呼び、お互いに所帯を持つようになった今も親交は続いている。アスベルは今年の春から軍学校に入ったのだというヒューバートの孫に、内定が決まってすぐに祝いの品を贈っていた。その為、伴侶の影響からか多少の融通は利くようになったもののまだまだ律儀な弟は、はるばる海を越えてこのラントの地にわざわざ足を伸ばしたのだった。だのに、開口一番のヒューバートの言い様に、アスベルは車椅子に腰掛けたまま肩を落とした。だが、弟の辛辣な言葉をただ受け入れるのも癪だったので「お互いな」、と言ってアスベルは彼の手にした杖を爪先で小突いた。
 かつて弟に言われたその言葉を寝台の上で反復し、アスベルは薄く笑った。本当に随分歳をとったものだな、と思ったからだ。最近風邪をこじらせてからは寝台を起き上がることも少なくなり、一日を窓から見える景色を眺めて過ごしている。アスベルの領主としての仕事の殆んどは概ね息子に引き継がれており、孫たちに囲まれ本を読み聞かせたりボードゲームに興じたりする隠居生活もそう悪くはないものだった。ただ、全く不満がないわけでもない。身体の自由が利かないもどかしさや、父親の墓参り一つ儘ならないもどかしさは確かにある。それでも、そうした不満は時の流れがやがて諦観を促していった。
 控えめに扉を叩く音が響き、アスベルは窓の中の景色から視線を外した。白塗りの天井が視界を横切り、一拍を置いて首を傾けた先に木の扉が見て取れた。枕の上でのただそれだけの動作が今のアスベルには酷く億劫だった。
「起きてるよ」
 冷たい朝の空気に寝起きの声は存外、凛と響いた。擦れて弱々しいよりはずっといい。
 アスベルの声を待って扉は薄く開かれて、その隙間からクロソフィの花の色をした長い髪が覗く。次いで顔を見せた少女は、夜の名残と朝の前触れとが混ざり合った、不思議な菫色の瞳を猫のように細めた。
「おはようアスベル」
「おはよう、ソフィ」
 少女――ソフィ・ラントは両手いっぱいに花を抱えて部屋に入ってくる。その足取りは軽やかで、出会った頃と何一つ変わらない。
「アスベル、具合はどう?」
 アスベル・ラントの「娘」としては簡素な白いワンピースを翻し近づいてくると、ソフィは指先を寝台に横たわるアスベルの額に押し充てた。ほっそりとした少女の指は直前まで冷水にでも触れていたのか、冷たくて気持ちが良かった。
「まだ少し熱いね」
 ソフィは気遣うように言って微笑むと、寝台脇の机に置かれた花瓶の水を取り換える為に部屋を出ていった。
 季節の変わり目にアスベルの老いた身体は不良を訴え初め、もう何日も微熱が続いていた。昔ならこのくらいの熱は風邪の内にも入らなかったのに、と苦々しく思う。ただ、儘らない身体で周囲に更なる迷惑を掛けることは勿論アスベルの本意ではなかったので、熱が下がるその時をこうして大人しく寝台の上で待っている。それがここ最近のアスベルの日常だった。風邪が伝染らないように、と部屋への出入りを禁じたアスベルに、ソフィだけはその人ならざる身を最大限に主張して毎日枕元に花を生けに訪ねてきた。お陰で、退屈に殺されることはないだろうな、とアスベルは思った。
 暫くするとソフィが戻って来て、今日の花を生けた花瓶を机に置いた。赤紫色をした、クロソフィの花だった。
 クロソフィ――温暖な気候のウィンドルの、特にラント地方に群生する花の一種で、ソフィの名前もまたこの花から取られたものだった。だからアスベルはこの花を見ると必ずソフィを連想し、それからラントの裏山を思い起こした。そこはソフィと初めて出会った場所であり、また掛け替えのない友人たちを得た場所でもあった。
「なに?」
 花の収まりを見ていたソフィが、自身の手元のクロソフィを眺めるアスベルの視線に気が付き首を傾ける。少女の様子にアスベルは微笑みを返した。
「今の季節にこれだけのクロソフィは珍しいと思ってさ」
 冬が近付き、最近は日増しに寒くなる一方だった。ソフィが世話をする庭の花壇も今では随分と彩りを欠いていた。
「庭の子たちは今シーズンはもうお休み。今日は裏山まで行ってきたの」
 分かってて言ったでしょアスベル、と少女は柔らかく目を細めた。
「裏山は、変わりなかったか?」
「うん。変わらなかったよ」
 アスベルが問うと、ソフィは穏やかに答えた。
 世界中のありとあらゆる色の元素[エレス]が混ざり合い充満する特異点である為に、裏山には季節を問わず様々な花が咲き乱れている。アスベルは目を伏せて、目蓋の裏に昔日の花畑を思い描いた。
「また、行きたかったな」
 色とりどりの花々や、羅針帯[フォスリトス]の揺れる空を背に枝葉を伸ばす誓いの大樹、髪を掻き混ぜては吹き抜ける大翠緑石[グローアンディ]から循る風――全てが色褪せることなく、アスベルの中に鮮明に刻まれている。それでも、寝台に儘ならない身体を横たえるアスベルは最近になって富みに裏山を懐かしく思うようになった。
 「また行けるよ」ソフィが、アスベルの手に自身の手を重ねて言った。「熱が下がったら一緒に行こう?」
 思いがけず近いところから聞こえた少女の声音に、アスベルは伏せていた目蓋をゆっくりと持ち上げた。寝台の傍らに膝を突き、アスベルの顔を覗き込むようにして見下ろすソフィの表情に笑顔はなかった。それだけで、眉根を寄せた彼女が何を求めているのかを理解したアスベルは、けれどその欲求には決して応えられないということも解っていた。だから、諦念の滲む笑顔で取り繕うと、節ばかり目立つようになった手指をソフィへと差し出して言った。
「じゃあ、約束しよう」
 アスベルの意図を理解した少女は一瞬、今にも泣き出しそうな顔を見せて俯いた。けれどすぐに笑顔になって「約束ね」、とアスベルの小指に自身の指を絡めた。
「……何だか、ソフィは凄く大人になったよな」
「そうだよ。わたしをいつまでも子供扱いするのは、もうアスベルくらい」
「そう言ってソフィは俺に子供扱いさせてくれるんだろう、大人だから」
「大人だから」
 言って、二人で声を潜めて笑う。こうしていると昔と何一つ変わらない気がするのに、どうしてもアスベルはソフィを置いていかなくてはならない。それが堪らなく辛かった。
 アスベルもソフィも、遠からず訪れるだろう別離の時を随分と昔に覚悟した。覚悟しなければ、一緒には居られなかった。アスベルは己が見ることの叶わない未来への系譜をソフィに託し、ソフィはアスベルの想いと共に生きていこうと決めた。
 「……ねぇ、アスベル」絡めた指を解いて、ソフィが問う。「わがまま、言ってもいい?」
 いいよ、とアスベルは言った。柔らかいクロソフィの色をした髪を撫で梳きながら微笑んだ。
 アスベルの返答の早さとは裏腹に、ソフィは小さく息を詰めて黙り込む。形の良い唇を固く引き結んでそれから、アスベルの横たわる寝台に顔を埋めた。肩を震わせ、声を殺す少女に掛ける言葉が見つからず、アスベルはただ長い髪を梳き続けた。「死なないで」とくぐもった小さな声が耳に届いても、沈黙を守り続けた。また、願望を口にした少女も返る言葉を求めてはおらず、窓を叩く風の音と嗚咽だけが部屋の中に響いていた。
 今回の別離だけではなく、全ての尊い出会いが何れは不可避の喪失に繋がる少女に、永遠を知らない生き物が語ることの出来る言葉はあまりにも少なかった。少女に対してだけではない。自身の身の内に取り込み、臓腑よりも深い場所で繋がった同居人に対してもまた複雑な感情ばかりが浮かんでは消える。半世紀以上の歳月を共有して尚、彼にどれだけのものを見せ、聞かせ、充たすことが出来たのだろうか、と後悔の念ばかりがアスベルには過った。星の憎しみを取り込み、解きほぐす道を選んだかつての暴星は未だにアスベルの身の内に巣食い夢を見続けている。
 会いたいな、とアスベルはソフィの頭を撫でながら思った。会って、話がしたかった。


カルテジアン劇場に巣食うパラビオーシスの悲哀 Love will tear us apart
20110103


 目を開けると、一面の花畑が広がっていた。見覚えのある、けれど名前は知らない花々はアスベルによく知る大切な場所を連想させた。膝頭にまで迫る花の海と、聳え立つ大樹が幼い誓いを思い起こさせた為かも知れない。
 遠く水平線が滲み、朱と青とが溶け合う様子がいつか見た夜明けに重なる。だが、アスベルはすぐに眼前に広がる光景を錯覚であると断じた。頬を撫でる大緑翠石の恵みはなく、鼻腔を突く湿った臭いもなく、何より危なげなく花園から伸びた自身の両足が全ての現実味を取り払った。まるで半世紀以上前に足を踏み入れたフォドラの虚構の楽園のようだな、とアスベルは思った。
 おもむろにかざした右手は硬く、厚く、見慣れた骨と皮ばかりのものではない。けれどそれは確かに、かつてはアスベルのものであり、また時の流れが徐々に奪っていったものでもあった。
 軽く拳を握り、開く。それから、手のひらを自身の胸元にあてがい、花畑へと視線を落とした。その一連の動作の中で、アスベルは若い時分に好んで着用していた白い上着や、袖口から覗く翠の折り返しを見留めた。
 夢を見ている。遠く、郷愁を帯びた夢を見ている。アスベルはただそれだけを理解し、静かに水面を湛える海を臨む崖の方へと歩きだした。切り立った崖の先端部には樫に似た巨木が菫色をした不思議な空へと枝葉を延ばしていた。その幹の、堅い皮にある傷にアスベルは触れた。刻まれた傷痕は名前であり、名前は誓いだった。アスベルは一つ一つ、指先で誓いをなぞり、唇で名前を型どった。
「……ありがとう」
 最後の一葉に触れ、アスベルは初めて声を発した。風もなく、波の音もない寂滅の中で然して張ったわけでもない声はそれでも大きく響いた。
 花が揺れる。潮騒が鼓膜を震わせて、髪を、頬をぬるい風が撫でていく。静止していた筈の領域が、ただアスベルの一声に動揺しわなないていた。手のひらに触れた硬く冷たい樹の幹だけが鎮座している。その幹に指先で触れたまま、アスベルは額を押し当てて彼の不器用な優しさに感謝し、言葉を重ねた。
「ありがとう、ラムダ」
 目を閉じて、名前を呼ぶ。それは、身の内に潜む暴虐の星の名前だ。
 彼とは半世紀以上、アスベルの人生の半分以上の歳月を共有してきた。口の端にも乗せず、またアスベル自身が意識すらしていない諦念を或いは魂のパラビオーシス――ラムダは、汲んでくれたのかも知れない。
 アスベルは大樹から離れると、その幹に描かれた一字一句を凝視したあとに堅く一度、目を閉じた。決して忘れることのないように、強く強く誓いを目蓋の裏に焼き付けておきたかったからだ。
 そうして目を開けて振り返った先には、ラムダが居た。出会った頃のような、臓腑から溢れだす血を思わせた赤黒い揺らめきでなく、紫焔に耀く不思議な煌めきは陽の光のように虚構の花々を照らしていた。
「ラムダ」
 紫焔を纏う、球形の名前を呼ぶ。だが、暴星はただ静かに揺らめくばかりだ。不快さを感じさせない沈黙に、アスベルは笑みを含む吐息を溢し、口の端を僅かに上げた。小さく首を傾けて、また異形の名前を呼ぶ。今までとは意図を違える声音で韻を踏み、そうして言葉を続けた。
「こういうのも、悪くないだろ」
 揺らめく紫焔から視線を外し、アスベルは周囲を見渡した。
 アスベルがラムダに初めて手を伸ばしたそのとき、この領域は決して交わることのない朱の空と、青く水を湛えた大地とが果てしなく続くだけだった。アスベルの中にラムダという異物が侵入することで生じた領域は本当に何もなかった。星の核[ラスタリア]へと至る間に垣間見たラムダの過去だけでなく、そんな寂寥とした空間にアスベルは彼の孤独を見出だした。だからそんなラムダの孤独を癒したいと思ったし、可能性や未来を与えたいとも思った。それはラムダに限らずソフィに対してもアスベルが望んだことだった。それくらい、アスベルにとっては当たり前に望まれるべき可能性や未来――或いは幸福と呼ばれるものが彼らには約束されていない、その事実がどうしようもなく悲しくて、悔しかった。
 だがそれが今、寂寞とした領域には花が溢れ、禍々しく仄昏く揺らめくばかりだった暴星は生命の耀きに溢れている。決して交じり合うことのなかった朱と青とは、夜明け前を思わせる菫色に燃えていた。
 例えこの光景がラムダの心境の変化の顕れではなく、ただアスベルの願望を投影させただけの虚像でしかないのだとしても、アスベルは嬉しかった。ラムダに人間の弱さや愚かさを容された気がしたからだ。どうしようもなく追い詰められた彼が、他者を許容することの出来る豊かさを身に付けられた、ただその事実が嬉しかった。だから、悪くはない、とアスベル思った。
「でも、何だかお前とこうして話すのも本当に久しぶりだな」
 時折その存在を感じることはあっても、ラムダがアスベルに語り掛けてくることはフォドラの一件以来なかった。
 半世紀以上前、アスベルがまだラムダを取り込んで間もない頃、フォドラの異変は衛星であるエフィネアにまで影響を及ぼした。原因は千年前、既にフォドラの中心で生まれていた。人の手による生態系のバランス崩壊に、母星であるフォドラが一つの意識体として牙を剥いたのが全ての発端だった。結果フォドラは亡びの惑星として枯渇し、その意志は千年の時を経てエフィネアにまで及んだ。その意志を収め、フォドラの憎悪を身の内に取り込むことで癒そうとしたのがラムダだった。アスベルはその時のことを、何となしに覚えている。フォドラの元素[エレス]を吸収し、星の核の活動を停止させる為にその身の主導権をラムダに譲ったアスベルは、彼の決意を聞いた。ラムダはフォドラと対話する道を選び、アスベルの中で夢を見ると言った。それが、ラムダの声を聞いた最後だった。
「あれからどうだ、フォドラは?俺も……まあ色々あったけど、皆に助けられて何とか今までやってこれたよ」
 ラムダは黙っている。最後に話したときと変わらず、けれど確かにその耀きを強めてアスベルの中に存在している。
「ソフィも元気だ。いつもお前のことを気に掛けてるよ」
 プロトス1――ラムダを滅ぼす為の兵器だった彼女が今は花を育て、滅ぼす筈だった存在を案じ、その目覚めを待っているという事実もアスベルには喜ぶべきことだった。
「一番下の孫なんて、ソフィと結婚するだなんて言い出しててさ」
 黙り込んだままのラムダを気にせずに、アスベルは話し続ける。揺らめく紫焔に目を細めて、言葉を選ぶ。
 動揺はしていた。緊張もあった。その全てはきっと、ラムダにも伝わっている。けれど彼はかつてのような悪態をつくでもなく、ただ沈黙を守った。だからアスベルは彼の中にも何らかの動揺、或いは緊張があるのだろうな、と思った。
 だから、迷っていた。決定的な一言をラムダに告げるべきか、思い悩んでいた。
「ラムダ」
 名前を呼ぶ。不思議な炎はただ揺らめくばかりだ。そして、沈黙は拒絶なのだということも或いは、アスベルは理解していたのかも知れない。
 星の焔の名を呼ぶことは、酷く容易い。舌先に乗せた名前は、口の端によく馴染む。けれど、その先が続かない。覚悟はあるのに、言葉に詰まる。ラムダ、とアスベルはもう一度呼び掛けた。言わなくては、と思った。
「その、孫のことなんだけどさ……」
『――…黙れ』
 重く、低く、声が響いた。領域の四方から降り注ぐような声は反響し、アスベルの鼓膜を震わせた。
 緩やかな沈黙を破り、拒絶の意を示した暴星の声音に、アスベルは急激に自分の気持ちが収まっていく心地がした。拒絶、或いはそこに滲む彼の怯えに揺らぐばかりの決意は確固たる意志へと転じた。
 アスベルは静かにかぶりを振り、続けた。
「その孫が、お前の次の宿主だ」
 告げると、星を取り巻く焔の勢いが増し、足元に咲き乱れる花が花弁を散らす。その花曇りの中に在ってもアスベルは微動だにせず、静かにラムダを見つめていた。
「ラムダ、俺だって悩んだ。出来ることならずっとお前と」
『黙れと、言っている』
「お前と居たかったさ。お前と、生きていたかった」
 望める筈のない永遠を、夢物語を、深い深い超自我の底で渇望する程度にはアスベルはこの奇妙な同居生活が気に入っていた。奇妙な同居人を誰の手に任せるでなく、出来ることならずっと同じ時を共有出来たらと望む程にはラムダという存在を得難く愛しんでいた。
「……あの子ならきっと」
 言葉にし、ラムダを受け容れる、と言った孫を思う。ソフィに懐いていて一人前に彼女の手を引く子供を、妻はいつも微笑ましそうに見ていた。これならソフィも寂しくないわね、と言って笑っていた。幼いながらも利発で聡明な子供でもあった。隣国の知将として名を馳せるアスベルの弟にさえ、真正面から自身の疑問を投げ掛けたこともあった。そして幼い時分のアスベルを知る誰もが皆、口を揃えて言った。
 「何か、俺によく似てるんだってさ」アスベルは頭を掻いた。「自分じゃよく分からないんだけどな。少なくとも、俺はあの歳で年上の女の子を口説いたりとかはしなかったし」
 もしかしたら記憶のないソフィを守る、と言う様が重なって見えたのかも知れない、とも思ったがそれは何となく言わなかった。
「だけどラムダ。あの子は本気だ。だから周りも、俺も折れた」
 揺らめく紫焔に目を細めて、アスベルは真実を言った。
「それに、俺じゃもう、お前を守ってやれないんだ」
 限界だった。声を、喉を、引き絞った。黙れ、と言うラムダの言葉はまるでアスベルの願望そのものだった。
 アスベルは、若く瑞々しい厚みのある手で顔を覆った。領域の虚構全てが、現実であったならどれだけ良かっただろう、と思った。
 死に、畏れはなく、厭いもない。だが、残していく不安ばかりが付き纏う。それは憤りにも似た、老いを重ねるアスベルに徐々に降り積もっていった澱にも似た昏い感情だった。
 息を詰め、言葉も失い、悲観にでなく悔恨に肩を震わせ、唇を噛み締めるアスベルの手に、何かが触れる。顔を被う両手を、更に包み込むような感触は人の手のひらに似ていた。
 アスベルは、被いを退けた。両手に触れる何かを見つめ、俯いていた顔を上げた。
「――……ラムダ」
 その姿を知っていた。赤みの強い鳶色の髪も、白と翠を主とした着衣も、若い時分のアスベルが全て持っていたものだった。ただ一つ、夜明けを待つ彼は誰時の空の色をした双眸だけがアスベルに違和感を抱かせた。その違和感の全容を形容することは難しい。ただ、歓喜にも似た感情が、アスベルの中に興ったのは確かだった。
『そんなものは要らない』
 ラムダは言った。感情の欠落した表情で、感情の籠もらない声音で、アスベルを突き放した。淡々と、絶対の拒絶の意を示した。けれど、手に触れるぬくもりがどうしようもなく愛しく思えて、アスベルは笑った。
「いいや。お前には必要だ」
 その言葉に嘘はなかった。畏れも、戸惑いも全てが消え去っていた。アスベルは酷く穏やかな気持ちで、若い時分の己と寸分違わぬ姿形をしたラムダの手を外し、その癖の強い鳶色の髪の跳ねる頭に手を乗せた。
「お前が、これからを生きていく為には必要なことなんだ」
『何が、これからだ……!』
 手は、振り払われた。拒絶の滲む言葉そのままに、彼はアスベルの胸元を強く押して突き放した。突き放して、そのまま頭を抱えるようにして俯いてしまった。
 落ち掛かる赤黒い前髪に隠れて、ラムダの表情はすっかり見えなくなってしまう。これは困った、とアスベルはいつもの癖で軽く頭を掻いた。
『お前は、我に生きよと言った』
「ああ、言ったな」
『我に、生きよと言ったお前が』
「……そうだな。酷い話だ」
 酷く、無責任な話だ。分かっている。分かっているさ、とアスベルは思った。
『……もう、良い』
 俯いたまま、ラムダは言った。そんなラムダに、アスベルはいつかそうしたように手を伸ばした。
『もう良い。我は、もう良いのだ』
 手を伸ばして、髪に触れる。頭を抱える、彼の手に手を重ねる。今度は拒絶されなかったことに安堵の息を吐きながら、アスベルは何だか懐かしいな、と思った。
 『このまま、お前と共に』くぐもった声で、ラムダは言う。『朽ち果てることも我は厭わぬ』
 だから、とラムダは続けた。続けた先は言葉にはならず、ただ膝を折った。アスベルは同じ姿形をした彼を追い、肢体を受け止め、その背中に腕を回した。ラムダはアスベルの肩に額を押し当てたまま顔を上げることはなかった。
「ありがとう」
 短い沈黙を破り、アスベルはラムダの髪を梳きながら言った。いつの間にかアスベルの腕を握り込んでいたらしい彼の手に、僅かに力が入った。だからきっとラムダには今の自分の心境などお見通しなのだろうな、とアスベルは思い小さく苦い笑みを浮かべる。
「でも、それは駄目だ。それは、出来ない」
 目を閉じて、抱き締めたぬくもりを思う。それは、手を伸ばし受け容れたそのときは、小さく今にも消えそうだった星の光だ。今や星の核を抱き、憎悪と孤独に寄り添う強い光となった彼を潰えさせるわけにはいかない。
「お前が必要なんだ。お前が居なくなったら、世界も、ソフィも独りになってしまう。お前にだから任せられる」
 目を閉じたまま、引き裂かれる痛みを思う。感覚を共有してどれだけの歳月を経ても、ただの一度も同一の存在になど成り得なかった半身を思う。卑怯な言い訳で凝り固めた枷で彼を縛り、逃げ道を奪い、そして置き去りにする。アスベルには一瞬の、ラムダにとっては永遠の痛みだ。
 卑怯者め、とラムダは言った。アスベルは、彼を抱き締める腕に力を込めた。ラムダは、腕の中で緩く頭を振った。
 『駄目だ。そんなことは、許さぬ……』呟くラムダの声は、酷く聞き取り難い。『死んでは駄目だ』
 幸せだな、とラムダを抱き締めたままアスベルは思った。こんなにも多くを望まれて、惜しまれている。悔恨も、恐怖も確かにあるのに今アスベルはただ穏やかな気持ちでそう遠くない未来を見つめていた。
 ラムダが、顔を上げた。紫焔を宿す双眸が、アスベルを見上げる。
『生きるのだ、アスベル・ラント……!』
 残酷な復讐の声に、どうしようもない程の幸福を感じながらアスベルは諦観を込めて星に微笑んだ。

 




あまりのラブコメっぷりに書いてて恥ずかしくなりました。とても。
(20110103)




タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2011年01月03日 01:13