今更のように、カロル先生がユーリお兄さんの髪をばっさり切る話。
ユーリお兄さんの魔導器は映画設定に準じる感じでオネガイシマス。


 

 濃く、黒い合間を銀色の鋭利な光が滑って行く。一房指で挟み込んでは慎重に刃をくぐらせ、宵闇にも似た流れる黒髪を削ぐようにして切り落とした。その単調な繰り返しにカロル・カペルは細心の注意を払い、全ての神経を集中させる。
 素朴だが、真新しい宿屋の一室に響くのはカロルの操る剃刀の音だけだ。カロルも、そして「髪を切ってくれ」と唐突に言い出した男も、口を開くことをしない。もしかすると眠っているのかも知れないが、男はカロルに背を向けているので判らない。
 天頂を僅かに過ぎた陽の光が、明かり取りの窓から鮮烈に差し込み木目調の床に突き刺さっている。その上に、蛇がとぐろを巻くように男から切り離された髪が散っていた。開け放された窓から時折吹き込む風が、散った髪を攫っては不可思議な文様を描く。
 大した手入れをしているわけでなしに、腰に届く程に髪を伸ばし続けたこの男の名前はユーリ・ローウェルといった。カロルが出会ったとき、既にユーリの髪は彼という人物を形容する際の特徴としてなくてはならない程に長く伸ばされていた。どれだけの歳月、髪に刃を通さずにいたのかは知れないが、その理由を彼は単なる惰性なのだとカロルに言った。だからその時、カロルは率直に彼の言葉を受けとめただけだった。その言葉の裏に例えば髪をただ伸ばす以上の、惰性の真意のようなものがあるとして、そこまで考えを巡らせることが面倒に思えたからだ。惰性に付き纏うのはいつだってカロルには理解の出来ない執着の類いで、彼がおぞましくも何一つ変わることなく執着するものなど、いつだってただ一人をおいて他にないことだけは嫌というほど解っていたからなのかも知れない。或いは、ユーリの抱く執着は常にカロルの心の片隅に居座る少女に対するものと似た感情なのだとも言える。だとしたらますます面倒臭いことだ、とカロルは剃刀を滑らせながら思った。
 それから、カロルは余計な思考を取り払い太陽が幾らかも移動しないその内にユーリの髪を切り終えてしまった。部屋に備え付けられた手鏡を差し出すと、鏡の中のユーリと視線を交えながら問う。
「こんな感じだけど、どうかな。襟足はまだ少し残してるんだけど、もっと切る?」
 ユーリは指先で二三髪を梳くような所作を見せたかと思うと、大して鏡を見て確認することもせずカロルに向き直り「いや、これでいいだろ。ありがとなカロル」、と言って笑った。以前誰かが「髪は顔という絵を飾る額縁のようなもの」、とカロルに言ったことがあったがユーリ・ローウェルという男の無個性に整っているだけの顔という絵は額縁を変えても劇的な印象の変化というものは見られないのだな、とカロルは思った。ただ、髪を切る為に座ったままの彼の、見上げてくる視線だけが少しだけカロルを落ち着かない気持ちにさせた。
「うっわ。こんなに切ったのか」
 ユーリはカロルから視線を外したかと思うと、床に散乱する髪を見下ろして何処か呆れたような驚嘆の声を上げた。
「ユーリ、どれだけ伸ばしてたと思ってるの?ほら、ボク箒取ってくるからユーリは椅子片付けて」
 軽口を叩きながらユーリはのろのろと立ち上がり、カロルはいつも通り僅かに血管の色の透けた双眸を見上げる形になる。その立ち姿に、やっぱりユーリはこうでなければ、と奇妙な安堵感を覚えてからカロルは背を向けた。
 ロビーで箒と塵取りとを借りてカロルが部屋に戻ると、部屋の中央に在った椅子はユーリの手で隅に片付けられた後だった。ユーリはカロルから箒を受け取ると、床に散った髪を手早く集め塵取りに収めた。
「よっし。こんなもんだろ」
「ちゃんときれいに集めた?ユーリって基本的に大雑把だからなぁ……」
「ったく。フレンみたいなこと言うなよ」
 口の端を吊り上げて、惰性を切り落とした彼は言う。カロルは少し、本当に一瞬だけ逡巡してから口を開いた。
「なら、ユーリこそボクにフレンみたいなこと言わせないでよ」
 ユーリは笑ったが、カロルはそれ以上言葉を続けることはしなかった。カロルの努めて自然な沈黙を気に留める様子もなく、ユーリは肩口にかかる毛先を揺らしながら首を傾げる。それから、虚ろな洞の覗く魔核[コア]の失われた魔導器[ブラスティア]をぶら下げた手首がカロルの視界を過り、手の平が頭の上に乗せられた。そのまま、いつもの調子に掻き混ぜられて、カロルはますます言葉を失う。人の気持ちなど素知らぬ顔で笑う男に腹立たしさを覚える一方、気の利いた言葉一つ浮かばない自分にどうしようもなく苛立った。
 もしも、自分がこの男にとっての幼馴染み――フレン・シーフォであったならば、もっと上手く言葉を続けられただろうか、などとは今更考えない。そんな思考はかつて嫌というほどに身の内に渦巻いて、カロルを苛んだ。そして何が変わったのかといえば、何も変わらない。ある日突然フレン・シーフォに成り代わることが出来るわけでなし、一足飛びに年月を重ねて彼の隣に並び立てるわけでなし、何一つ変わることなくユーリを見上げ続けることしか出来ないのなら無為な思考を重ねるのは不毛以外の何ものでもありはしない。
「……ユーリ」
 そうして、最近になってカロルは富みに思う。例えば節の目立つ荒れた指先が髪を掻き混ぜて頭を撫でていくとき、例えば労いとも労りともつかない調子で背中を押されたとき、例えば慰めのような、哀れみのような眼差しを向けられたかと思うと額や頬に親愛の情を示すような口付けが落とされるとき、思う。すべてがあるべきところに収まって、落ち着いて、和いだ心を自覚し、そうして安堵した。実際には武骨な魔導器をぶら下げた手が無造作に伸ばされる度に、情欲を孕んだ落ち着きのなさを感じるというのだから矛盾している。
 それでも、カロルはもう自分がフレンだったなら、とは思わない。ユーリの中の惰性とも執着ともつかないものの矛先が自分に向けば良いなどとは決して思わない。
「ユーリ」
 二度、名前を呼んで、そこでユーリはカロルの頭から手を離した。名前を呼ぶその声が、呼び掛けではないことを解っている、そんな調子でユーリは微笑み、それから口を開いた。
「さて、何か報酬支払わねぇとな」
「……何?」
「報酬。散髪代だよ」
 カロルから離れた手が、今度は切り立ての黒髪が揺れるユーリ自身の肩口を彷徨った。
「報酬、ってそんな……別にギルド間の仕事じゃないし、何よりユーリは凛々の明星[ブレイブヴェスペリア]の一員じゃないか」
 要らないよそんなの、とカロルは言った。
「そうは言うけどなぁ……多分、一回じゃ済まないぜ?」
「一回じゃ済まない、って?」
「また伸びてきたらカロルに切ってもらうことになりそうだし、ここは初回一括払いしときたいんだけど……って話」
 カロルの身勝手な葛藤など知らないユーリは、あっけらかんとした調子で言ってのけた。カロルはといえば、先ず提示された言葉の意味を理解することに努めた。それから提示された言葉が確約を意味することを理解すると、先ず最初に舞い上がらんばかりの喜びを覚え、それから言い苛立ちとも腹立たしさともつかない気持ちの悪い感情がどろりと身の内にのた打った。
 ユーリと居て、話して触れて、手を伸ばして口付けをしたりして、常ではなしにけれど時折、カロルはそうした感情を自覚するようになった。それは大抵ユーリへの浮ついた気持ちや、壗ならない情欲の影を縫うようにしていつもカロルの心の片隅にあった。
 常々、ユーリへと向く感情の中でもそれが面倒臭いことこの上ない類いのものである、ということは知っていた。だからカロルはこれ以上の意識を昏い方へ傾けることをよしとせず、ただユーリとの会話を当たり障りなく打ち切ってしまうことを選んだ。つまり、未だユーリ自身の肩口を彷徨う彼の手――正確には手首を指し示しながら言った。
「なら……それ、ちょうだい」
 ユーリの手首にぶら下がり、窓から差し込む午後の陽を照り返して光る魔導器がそこには在った。
 始祖の隷長[エンテレケイア]が精霊へと転じ、世界に循環するものがエアルからマナへと取って代わった今、装飾品程度の意味合いしか持ち得ない魔核のない筐体[コンテナ]をカロルは欲しい、と言った。ユーリより幾らも低いカロルの視界には、長く傷んだ黒髪と同じくらい彼の魔導器が写ることが多かった。だから、それは絶対的な執着というよりも、子供染みた思い付きに程近かい。嫌なら断られるだろうし、無理に食い下がるつもりもカロルにはなかった。
 ユーリは微笑みを浮かべた表情を少しも崩すことなく「いいぜ」と呟き、あっさりと左手首に収まった魔導器に手を掛けて外した。そうしてカロルの差し出した手の上にそっと置くと、両の手のひらで差し出した手ごと魔導器を包み込んでユーリは言った。
「大事にしろよ」
 そのときになって、漸くカロルは少しだけ後悔した。けれど受け取った報酬を突き返す明確な理由も浮かばず、カロルはただユーリの言葉に頷くことしか出来なかった。


死荷重 Dead load
20100806


 オルニオンの周辺に強力な魔物が出現した、という報せが駐在の騎士から凛々の明星へともたらされたのはカロルがユーリの髪に剃刀を当てた翌日のことだった。周辺に強力な魔物が出現するのは今回が初めてというわけでなく、ヒピオニア大陸を治めていた始祖の隷長が討たれた為、統制を欠いてしまっているのだ、と同じギルドのメンバーであるジュディスが以前言っていたことがある。魔物の規模や勢力の詳細を事細かに騎士から聞き出しながら、ユーリはジュディスへと目配せをし、彼女もただ頷いた。それから、ユーリはカロル――凛々の明星の首領から承諾を得る為に「いいな、カロル?」、と平坦だが低い声で言った。カロルはただ浅く頷き返し、「任せて」と言って笑った。
 ユーリはすぐにジュディスと共に、オルニオンに駐在する騎士の四分の一を引き連れてバウルへと乗り込んだ。カロルはラピードと、残った騎士と共にオルニオンの守りを固める為、町中を走り回った。
 不安がないわけではなかったが、不思議とカロルに焦りはなかった。ユーリが居る。ジュディスが居る。バウルも居る。彼らが魔物を倒しに向かった。騎士団も応援が来るという。だから、カロルはただ自分がするべきことを遣り遂げれば良い。その安堵感に突き動かされながら、カロルは手を動かし、駆け回り、指示を仰いだりした。
 そうしてユーリやジュディスと別行動をとって二日が過ぎた頃、騎士団の小隊が到着した。その中に、よくよく見知った顔を見付けたとき、カロルは漸く肩の荷が降りたような気さえした。
「――フレン」
 あからさまに安堵の色を滲ませただろうカロルに、フレンもまた柔らかく微笑んで見せる。それは、彼が決して線が細いばかりの男ではないことを知っているカロルでも、思わず溜め息が出てしまうような完成された笑顔だった。
「やあ。大役ご苦労さま」
「……って、騎士団長なのにこんなほいほい出歩いちゃっていいの、フレン?」
 するとフレンの完璧とも言える笑顔が、ほんの少しだが陰りを見せる。それだけで、彼がそれなりの無理を通してオルニオンに駆け付けたのだと悟ったカロルは馬鹿なことを訊いたものだ、と即座に後悔した。
「長くは居られないのだけどね。現場の状況を少しでも見ておきたいと思って来たのだけど」
 周囲を見渡しながら言葉を途中で切ったフレンに、本当はユーリかジュディス――いや、ユーリがこの場に留まっていれば良かったのだろうな、とカロルは思った。けれど、そんな思いを口の端に乗せることはせずに、騎士団の小隊長の名前をあげ、それからギルド幸福の市場[ギルド・ド・マルシェ]が個人的に雇っているという傭兵ギルドの首領の名前を伝える。今、この場で指示を出しているのは主にこの二人だった。
「……そうか。騎士団もギルドも、上手くやっているようだね」
「仲良く、ってわけには行かないけどね」
 肩を竦めながらカロルが呟くと、フレンは小さく声を上げて笑った。そんな何気ない所作の一つにも品があり、ユーリではこうは行かないだろうな、とカロルは思った。
「多分、その二人からもきちんと報告があるだろうけど、ユーリはジュディスと一緒に騎士団の人を何人か連れて、現れたっていう魔物を倒しに行ってる」
「成る程。名目は偵察なんだろうけど……」
「まあ、二人のことだからそのまんま全部やっつけてきちゃいそうだよね」
 そんなカロルの笑えない冗談にも、フレンは丁寧な受け答えをしてくれた。それから、カロルが自分は作業に戻ることを伝え、それから今の時間なら小隊長も首領も騎士団の詰所に居るだろうことをフレンに教えた。
 本当はもう少しでも、現場を把握出来ていれば多忙なフレンに二度も三度も手間を掛けさせずに済むのに、とカロルは奥歯を噛み締めながら思った。そうした歯痒い思いは、常々ユーリと接するときにも覚える。ユーリに対してだけでなくジュディスにも、そして時折だがレイヴンに対しても思うことがある。凛々の明星を創るより以前だったなら、カロルはそれを優れた他者へね劣等感だと朧気に断じ、見て見ぬふりを決め込んだだろう。だが、それとは少し違う気がした。
 一度は話し終え、背を向けようとしたフレンが足を止める。
「君と話が出来て良かったよ、カロル」
 微笑んで言うフレンに、カロルは少し呆れた。根底にあるものは確かにユーリと似通っている――というより同質のものであるというのに、どうしてこう何もかもが違う顕れ方をするのだろう、と意識がそちらへ逸れてしまったからだ。
 「本当だよ」カロルの沈黙をどのように受け取ったのか、フレンは念を押すように言葉を繰り返す。「君の意見が聞きたかったんだ」
 カロルはそこに彼なりの気遣いを感じながら、けれどそれに気が付かないふりをしてただ頷いた。
「ありがとう、フレン」
 するとフレンもその言葉にだか、カロルの表情だかに安堵した様子だった。
「じゃあ、僕は行くよ。ああ――でも、訊きたいことがあるから、後で少しいいかな?」
 同じように背を向けかけていたカロルは、一回り近く歳の離れた男の意外な申し出に一瞬、言葉を失う。それから彼の意図的に彷徨わせただろう視線の向かう先を辿り、得心がいった。
「構わないかい?」
 もう一度、フレンは丁寧に問うた。
「いいよ。暫くここで外堀の補強を手伝ってると思うから、終わったら声を掛けてくれる?」
 カロルは即答し、今度こそフレンに背を向けた。
 土嚢を取りに向かいながら、カロルは腰のベルトに手を当てがった。そこは先刻フレンが視線を彷徨わせた辺りだった。指先に、ユーリから譲り受けた無機質な魔導器の感触がした。

 どれだけの時間、その姿勢のままでいたのか定かでないカロルの頭上に「待たせたね」、という声が降ってきた。積み上げた土嚢から視線を外し、空を仰ぎ見るようにして顔を上げると金色の髪を王冠のように輝かせて立つ騎士がそこに居た。逆光に立ち眩むカロルに手を差し伸べる所作に一切の淀みはない。素直にその手を借りて立ち上がり、カロルは男に礼を言った。
「ずっと同じ格好してたから、足痺れちゃった」
 他愛もないことを言って、休憩がてら木陰へと向かう。フレンは微苦笑のようなものを浮かべながらカロルの後に続き、「大丈夫かい?」と背中に声を掛けてきた。
 木の根本の、丁度柔らかな草が生い茂り落ち葉の折り重なった上に腰を落ち着けると、いつもより更に低い位置からカロルはフレンを見上げた。青く透き通った冬空の色の瞳が思案深く瞬きを繰り返す様子に、彼のこういうところは解りやすくて良いな、とカロルは思った。その解りやすさは、ある種の美徳ですらあると思う程だ。
「……これのこと、だよね?」
 腰のベルトにぶら下げた魔導器の留め具に指を掛けて慎重に外すと、カロルはフレンへと向く自身の視線より僅かに上へと掲げるようにして突き出した。フレンは瞬きを思案から少しの驚きの色を含んだものへとその性質を変え、それから目を細めて小さく頷いた。白く、厚い鉄板に覆われた彼の指先が一瞬だけ動いた気がした。
「ユーリに貰ったんだ。欲しい、ってボクが言って」
 そこに、髪を切ったその報酬という意味合いがあることを、カロルはそれとなしに伏せた。何となく、ユーリ・ローウェルが髪を切ったという事実をカロルが口にすべきではない、と思ったからだ。
 「……その魔導器は」フレンにしては珍しい、風に紛れて消え入りそうなほどか細い声だった。「いや、ユーリは君に」
 フレンは頭を振った。木漏れ日の中、揺れる金色の髪は美しかった。
「大切なもの、だったの?」
 カロルは問うた。胸騒ぎはしたが、不快ではなかった。対するフレンはカロルから視線を外し、眉根を寄せていた。
 視線を外したのは、今フレンの中に渦巻く感情がカロルへと向くものでないからなのだろう。だから別段、柔和な男の珍しく険しい表情に思いを捕われることなくカロルは問いに対して返されるべき答えだけを待った。
「そうだね。少なくとも、僕はその魔導器がユーリにとって、特別な意味を持つものだと、そう、思っていた」
 フレンはカロルの差し出した、魔導器を掲げる手に自身の手を重ねながらしゃがんだ。けれど、魔導器そのものには決して、触れることをしなかった。
「いや。事実、この魔導器はユーリにとって特別なものなのだと思う。それは、僕の主観を抜きにしても確かだ。ただ、」
 フレンはまた、言葉を切った。先刻のように、言葉が見つからずに言葉を切ったというわけでなく、今度は本当に、ただ続けることが躊躇われた様子だった。
「……ボクが知っているのは、騎士団を辞めたとき餞別として貰った、ってことくらいだよ。それもユーリと会ったばっかの頃に聞いた話だけど」
「そうか。そうだね。知っていたなら、君は魔導器を受け取ることを拒んでいただろうし」
 フレンの手が離れて行く。魔導器はカロルの手の中で、変わらず鈍い光を放っていた。
「ボクは、この魔導器を受け取るべきじゃなかった?」
「いや?……君に責はない。責められて然るべきは君にそんな厄介なものを押し付けた、大人気ない男の方だよ。僕は君に心底同情するし、幼馴染みとして彼には腹立たしささえ覚えているんだけど」
 薄らと微笑みながら、珍しく早口にまくし立てて言い切ったフレンに嘘はないのだろうな、とカロルは思った。彼は裏表なく誠実でまっとうな大人だ。裏表がないが故に不誠実な彼の幼馴染みとは違い、フレンは魔導器もろとも面倒ごとを一回り近くも歳の離れた子供(カロルのことだ)に押し付けたという事実に少なからず腹を立てているのは本当なのだろう。そこに僅かにでも、嫉妬の色のようなものが滲んでいてくれたなら、カロルはもう少し違った気持ちでフレンに言葉を投げ掛けていたかも知れない。
「ねぇ、フレン。ボクは、訊くべきなのかな」
「そうだね」
 知っておくべきなんだろう、とフレンは言った。ユーリだったら、言いながらきっと頭を撫でているだろうな、とカロルは思った。けれど、フレンの手がカロルの頭に伸ばされることはなかったし、カロルもフレンの手が頭に伸びて欲しいとは思っていなかった。
「でも、それは僕から君に話すべきことじゃない。ユーリが君に何も言わなかったのなら、僕は君に何も話せない」
 立ち上がりながらそう言って、フレンは何故だか困ったような笑みを浮べた。その気持ちが少し解るような気がしたカロルは、微笑みを返す。きっと、見上げた男と似たような笑顔になった筈だ。
「そうだね。ボクも、そこまで甘やかす必要はないと思う」
 本当に腹が立つ、とフレンもカロルも同じことを考えていたからだ。

 その日の夕方、西の空に誰そ彼星が瞬く頃にユーリたちがオルニオンに帰って来た。カロルの、或いは町に残った全ての人々の予想に違わず、偵察部隊として魔物の発生源へと向かったユーリたちはその全てを殲滅し帰還した。人々が口を揃えて帰還した彼らに労いの言葉を掛けるその輪から少し離れた場所で、カロルはその光景を眺めていた。クリティア族でありナギーグを有するジュディスはともかく、武醒魔導器[ボーディブラスティア]もなしによくやるものだ、とカロルは何処か冷ややかな感情で以ってユーリを遠巻きに見つめる。
 世界の仕組みが変わってしまった以上、武醒魔導器一つあったところでユーリの戦闘スタイルの何が変わるということはないのだろう。だが、今はもうこの町を後にした彼の幼馴染みとした会話が思い出され、また短くなった髪を宵闇に揺らすユーリを見ていると、自分でも理不尽としか思えない苛立ちが込み上げてきた。
 やがて、カロルに気が付いたユーリが人々の輪を抜けて歩み寄って来た。よう、と気安い様子で無防備な手首を曝してカロルの名前を呼ぶ。それから、きっと彼なりの言葉でたった一人残して行ってしまった幼い首領に労いの言葉の一つも掛けようとしたのだと思う。けれど、その言葉より早くカロルは手にしていた金色の魔導器をユーリに向けて突き出していた。
「聞いたよ、フレンに」
 ユーリは、カロルの突き出した手を見てはいなかった。その存在をまるで気に留めた様子もなく、ただカロルの顔を見つめていた。見つめて、そうして、言葉をつぐんでいた。カロルもまた、続く言葉を持たなかった。だから、二人の間に流れたのは沈黙だけだった。
 確かに、カロルが今こうしてユーリと対峙する理由はフレンにある。フレンから、ユーリが二つ返事に寄越した魔導器がその実ユーリにとって、或いはフレンにとっても大切な「何か」であるということを教えられたからだ。だが、同時にフレンから聞かされたのはそれが全てだった。
 やがて、細くユーリが息を吐き出した。ため息というには重苦しさを感じさせない吐息に、笑みを孕んだ音が乗せられる。
 「……へぇ?」明確に、ユーリは口角を吊り上げながら言った。「で、それで?」
 喉を鳴らしながら、ユーリはカロルに問うた。その人を食ったように肩を震わせる様子だけで、彼が全て、カロルの稚拙な思惑などお見通しであるのだということが知れた。知っていながら、核心に触れることをユーリはしない。笑みを湛えて、カロルの言葉を待っている。出方を見ている。試されている。
 「それで、フレンに何を吹き込まれたんだ?」、と訊いてくれたらいい。カロルは、魔導器に纏わる事情を何一つとして聞かされていないと打ち明けてしまえる。そうでないなら、「それで、その魔導器をどうしたいんだ?」、と訊いてくれてもいい。カロルはすぐにでも彼の手を取って、大切な物なら簡単に手放すべきではない、とその手に魔導器を返すことが出来る。
 けれど、ユーリはそのどちらをもカロルに許さなかった。どちらをも許されないカロルは、突き出した腕を引いて定位置――腰のベルトに魔導器を戻した。今度は、ユーリの視線もカロルの指先を追っていた。だから、カロルはその隙を見逃さずユーリの腰の辺りを目がけ、全体重を乗せて体当たりをした。押し倒すつもりだったのか、突き倒すつもりだったのか、それは体を当てたカロルにも分からなかった。ただ、不意を突いて力いっぱいぶつかった筈のユーリの身体は、半歩ほど後退りよろめいただけでしっかりとカロルの身体を受け止めていた。形はどうあれ、ユーリを地面に引き倒してしまいたかったのに、その身体はカロルの意思ではどうにもならない程度には強靭だった。
「本当に、腹が立つ……ッ」
 引き摺り倒して、その上に乗って、滅茶苦茶に殴ってやろうと思っていたのに壗ならない。だからカロルはユーリにしがみ付いたまま、その胸を拳で強く叩いた。
「ああ、そうだよ。ボクがフレンから聞かされたのはこの魔導器がユーリにとって大事なものだった、ってそれだけのことだよ」
 顔を、上げていることは出来なかったので、俯いたまま何度も、何度も何度もユーリの胸の辺りを叩く。それでも、怒りのようなものは収まらずにいる。
「でも、だからって……」
 簡単に、何もかもを手放すユーリが腹立たしかった。フレンへの執着も、大切な筈の魔導器も、彼はもっと固執して然るべき筈だ。けれど、ユーリはそれを容易に手放してしまう。手放して、他者に押し付けて、それから笑う。オレが持ってても仕方ないしな、とでも言いたげに笑う。
「泣いてるのか、カロル?」
 頭の上から、ユーリの声が響く。俯いたままでいるカロルは、声だけでは彼がどんな表情でそう問うたのかまでは判らない。
 カロルは自分の怒りが理不尽だと知っている。そのくせ、理不尽を受け止めるだけのユーリに怒りは更に大きくなる。いつか、彼がまた何でもない顔をして自分の命を手放してしまうのではないか――そんな思いに駆られて、それが怖くて、許せない。許せないから、どうしようもなく腹が立って、カロルは俯いたままユーリを叩き続けた。

 


 

 



 

 

 


このサイトのユーリは、フレンやカロルに土下座して謝るべきそうすべき。
(20100806)





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最終更新:2010年08月07日 02:20