デュークさんとエルシフルさんが再会する話です。
ちょっとだけ注意書きを失礼して……。

※ いつものことながら模造・捏造っぷりがひどい
※ 便宜上固有名詞が付いてるモブキャラが多数出演
※ モブキャラだけど男女間で数行だけ性描写がある
※ 人死に・流血表現がある
※ 嘔吐表現がある
※ デュークさんがヤニ食ってる

大したことはないのでソッチのセン(笑)で期待?されると肩透かしかも知れませんが、
一応免罪符として注意を促しておきます~。





 

 下町の一画、赤い街頭に彩られたその通りが売春街と称されるようになったのは十数年ほど前のことだった。メゾン・クローズ(閉じられた家)乃至はメゾン・ド・トレランス(認可の家)と呼ばれる娼家の語源はクルノス十四世即位と前後して芽生え、アレクセイ・ディノイアの騎士団長就任を期に完成を見た規制主義(レグルマンタリスム)にある。
 規制主義は、どんな厳罰を以ってしても、またどれほど精神的な教育を徹底させても売春を根絶させることは出来ないという現実的な認識に起因していた。一方に強い需要があるなら、もう一方に自ずと供給が発生する。故に完全に禁じることは不可能であり、ならばこれを必要悪として容認した上で厳重に監視し、法の網を被せて規制しなければならないという考え――これが規制主義の根幹にあたる。
 それまではボルデルやリュパナールなどと呼ばれていた娼婦の家が、近年メゾン・クローズやメゾン・ド・トレランスの呼称を得たのは規制主義の原則によるところが大きい。つまり、「子供、娘、貞淑な妻たちの目の届かない隔離された場を設けることが重要である。囲ってしまえば、婚外性交渉を世間から最も遠くに追いやり、この囲いの中に閉じ込めてしまうことが出来る。囲いは風紀の乱れをことごとく防ぐ防波堤となる(※1)」という考え方だ。
 「囲う」も、「閉じ込める」も語源を同じくしており、メゾン・クローズを示し合わせるには打って付けだった。つまり、メゾン・クローズとは良風美俗の支配する世間一般の目――とりわけ、真っ当な女性の目に触れない範囲に「囲い込まれ」、娼婦が中に「閉じ込められ」て、外には出てこないようになっている家という意味になる。
 しかし、囲い込み、閉じ込めて、絶対に外部の目にさらされないようにするのは、あくまで監視と規制・管理という行政目的の為だった。この娼家を「行政の監視下」に置くというもう一つの原則から生じたのが、メゾン・ド・トレランスというもう一つの呼び名だ。
 この規制の主軸は法律が認める娼家であり、その理想とするところは、指定区画のみに営業を許可することだった。そうすることで垣根は一層強固になり、一般の女性から建物自体を隠すことが出来る。このように、十数年前に突如として出現したメゾン・クローズだとかメゾン・ド・トレランスといった娼家の呼び名は、娼婦を一定の家に囲い込み、閉じ込めた上でこれを容認・許可し、監視を厳しくして、無秩序と混乱とを回避しようとする風俗行政側の発想から来たものだった。
 これらの下町に設けられた区画(売春街)と規制とは、人魔戦争の勃発とその後のクルノス十四世崩御――正確には、皇位の空白による混乱がもたらした財政難の到来と共に廃止されるまで、二十年以上にもわたり守られ続けていた。

 



わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻き声も聞いてくださらないのか。

ダビデ 「詩編」





いらないもの One and Only
20100531

 



 騎士養成学校に在学していた最後の年の夏のことだ。デューク・バンタレイは実に十数年ぶりに、懐かしい友との再会を果たした。
 その男を友と形容するのは、もしかすると語弊があるのかも知れない。現に彼はデュークを友だとは思っていないことが後に知れたし、デューク自身あまり自信を持って断言は出来ない。だが、親子以上に歳も離れ、共に育った兄弟程には気心の知れた、それでも一滴の血も繋がらなければ種族意識すら大きく隔たれたあの男が、己にとってどのような存在であったのか、そこに名を与えなければならないとしたら、それは友で正しいのだと思う。例えそれが一方的な思い込みでしかなく、双方の意図するところが見事に掛け違われていたのだとしても、それでも、デュークとあの男とは友だった。
 晴れ渡った青い空と、そびえ立つ雲堤の白さとのコントラストが美しかったのを覚えている。夏のこの時期ともなるとありふれた青と白の比率が、この日に限っては強く記憶に残っていた。或いは、この日であったからこそ、強く記憶に刻まれたのかも知れない。
 夏期休暇に入って三日も経つと、学生寮は普段の喧騒がまるで嘘のような静けさに包まれる。外界の熱気から隔絶され、魔導器[ブラスティア]の恩恵から清涼な空気と温度とが保たれた寮内はその静けさも相まって奇妙に季節感を欠いていた。ただ虫の忙しない鳴き声だけが外の暑さと季節とを伝えてくるだけだ。
 夏期休暇とは主に避暑を目的とした、主に上流階級の慣習でデュークも今の養父母に引き取られ、騎士養成学校に入ってからその概念を知った。寮も学院も郊外とはいえ帝都内にあり、そう実家も遠くない生徒たちの大半がそれでも帰省する理由は避暑によるところが一番大きい。一週間もすれば、寮内の魔導器は完全に止められてしまうからだ。それでも、貴族の子息のような贅沢な習慣のないデュークは、毎年のことながら人気のない寮にだらだらと居座り続け、寮母から帰省を促されると漸く重たい腰を上げた。
「騎士試験、一般の方で受かったんでしょう?良かったじゃない。親御さんも喜んでるわ」
 だからとっとと出て行って部屋を空けろ、と笑顔のまま寮母は付け加えた。彼女自身、デュークが騎士試験に合格したことを嬉しく思っているのだろう。帰省時期になってもずるずると居座る厄介者が漸く出ていくのだから、嬉しくない筈がない。
「それと、少しずつだけどね、寮の改装をすることになったの。今のままだと維持費が掛かり過ぎるんですって」
 どうせ貴方のことだから掲示板も通知書類も見てないのでしょ、と寮母はデュークの背中を叩いた。貴族らしからぬ彼女のこうした所作には好感が持てる、とデュークは痛む背中をさすりながら思った。
 一言、二言と実のない言葉を残して彼女が消えた後、デュークはおもむろに荷造りを始めた。だが、学校側から指定され、支給された鞄を開けてすぐに諦めた。騎士学校の必須科目の殆んどは実技であり、生来の不精も手伝って学舎の友である鞣し革の黒々とした鞄は、デュークにとっては持ち運び自由な道具入れと化していた。名ばかりの教科書は折れ曲がり、粗雑に入れ込んだ書類の類いは鞄のそかしこでくたびれて丸まっている。極め付けはいつ食べたのかも定かではない、かじりかけのパンの存在がデュークに鞄を捨てる決意をさせた。確かに、高等部も半ばを過ぎた頃には鞄を持ち歩くことをしなくなっていたし、実家に帰るにしても、いつも身一つだった。今回はたまたま寄宿舎の改装工事があり、また漸く騎士試験に合格したこともあって、荷物を今からでも少しずつ持ち帰ろうとしたのだが、それがいけなかった。心なしか、うっすらと鞄周りを白い粉のようなものが覆っている。
 どうせ後は卒業するだけなのだ、とデュークは読みかけの本と紙煙草の包みだけ一緒くたにしてズボンのポケットにねじ込んだ。それから、黴の生えた鞄は適当な袋に放り込むとすぐ様その口を閉じてしまう。寄宿舎を出るときに、ついでに焼却炉へ投げ入れていこう、とデュークは考えた。
 魔導器の加護から外れると、そこにはうだるような暑さが横たわっていた。堅苦しいばかりの騎士服は部屋に置いてきたので、今デュークが身に付けているものは、下町でも流通している既製品の麻のシャツと木綿のズボンだった。風通しの良いものではあったが、それでも袖の長いシャツが肌に張り付く感触は暑さを一層強く意識させる。肘の辺りまでべたつく袖口を捲り上げるとデュークは正門とは逆の、裏庭の焼却炉へ向けて歩きだした。
 人の出入りの少ない裏庭は、鬱蒼と生い茂る人工林と寄宿舎の陰とで風のない炎天下でも心なしか空気が澄んでいるように思えた。あまり手入れが行き届いているとは言えない、延び放題の芝生を踏み締めて、苔むした石造りの塀に手を突いたそこに、焼却炉はひっそりと在った。脇には脚の腐った椅子や黴臭い毛布、果ては残飯の類いまでが一纏めに置かれていたので、デュークもまた先客に倣い手荷物を放った。寄宿舎の改装ついでに不要になった尽くを処分してしまおうという算段は、皆同じであるようだった。
 黴びた鞄を手放してしまえば、いよいよ身一つになったデュークはその足で正門へと向かうことはせずに、塀によじ登った。学校側からの立ち入りは禁止されていたが、人工林を通った方が正門まで引き返すよりも大通りに近かいからだ。
 陽樹の立ち並ぶ明るい林を足早に突っ切ると、すぐに緑と静寂は薄れて大通りの賑わいが耳に届く。雑貨屋のすぐ裏手に林は続いていて、大人の背丈程の高台から飛び降りて石畳の上に着地すれば、そこはもう大通りだった。
 靴底にこびり付く湿った土や苔の類いを、意図的に石畳に擦り付けるようにして歩きながらデュークは雑貨屋の脇を抜ける。長期休暇とはいえそれらは貴族の、それも一部にだけ言えることだったので商店街や市街地には目立った変化はなく、正午が近いこともあってか人数はまばらだった。貴族のように道楽まがいの避暑など出来ない帝国市民は、暑さも盛りを迎えるとあまり外には出なくなる。良質の魔導器が設備されている家など先ずなかったが、それでも日差しを凌げる分、外を出歩くよりはましなのだろう。
 閑散とした大通りを歩きながらデュークは下町へと延びる下り坂にまで来て足を止めた。売春街も下町を抜けたその向こうにある。揺らめく逃げ水を眺めたまま、そう短くはない時間逡巡した後、デュークは踵を返して坂道に背を向けた。まだこの時間では「母親たち」は眠っているだろうし、先に実家へ顔を出すべきだろう、と思ったからだ。
 デュークの家は貴族街にある。
 「今日からここが貴方の帰る家になります」、と異母兄の遣いだという騎士に連れられて来たのは十二歳になる少し前のことだ。そのときの印象は薄い。興味がなかったせいもあるが、目の前の非現実的なまでに絢爛な邸よりも、「母親たち」にぶつけられたトマトや生卵を兜から滴らせる騎士の頭の方に気が向いていた為なのだろう、と思う。
 それからデュークは邸の中へと招き入れられ、酔狂にも「貴族の不始末」の受け入れを申し出たという養父に引き合わされた。先の戦で名誉の負傷をし、騎士爵の爵位と共に騎士団を退役したという下級貴族のこの男は、哀れな私生児を喜んで引き取る慈善家にはとても見えなかった。初対面のときの印象は今でも変わらない。退役の直接的な原因となった傷の後遺症からなのか、車椅子に乗った姿も、白髪混じりの頭髪も、枯れて痩せ衰えた四肢も、か弱い老人を演出するには充分な筈なのに、彼はそうした一切の弱さから最もかけ離れた人種であるように思えた。火傷で爛れ、皺のくっきりと刻まれた顔にはしみすら浮かんでいたが、落ち窪んだ眼孔からは何か執着のような、意地のような野心的なものを感じ取ったりもした。世襲制の爵位を持たない彼の息子が尽く戦死したことや、後に聞いた話だが末の息子(どうやら三人兄弟だったらしい)がこの養父に反発して家を出ていってしまったことが、養父にデュークを引き取らせるきっかけになったらしい。だが、幸いなことにそうして相手の手の内が知れてしまうと、却って気持ちは随分と楽になった。下心のある相手は扱いが簡単だったし、総じて先手も打ち易くなる。少し違うかも知れないが、「母親たち」と彼女たちに言いよってくる男とのやり取りを見ているとそう思えてしまう。
 寧ろ問題は、多少の煩わしさを感じるだけの養父とは別に在った。
「まあ!やっと帰って来てくれたのね、ゴードン」
 磨き上げられた大理石の廊下を歩きながら、養父の居るであろう執務室へ向かう背中に、自分のものではない名前を呼ぶ、しかし明らかにデュークに向けられた声に足を止める。振り替えれば、白髪混じりの赤毛を緩く結い上げた女が少女のようにヘイゼルの瞳を瞬かせていた。弾む足取りデュークへと歩み寄ると、レースに縁取られたクリーム色のドレスの裾が窓から差し込む光の中で煌めいて見える。
 この邸の主――つまり養父の妻なのだから、デュークにとっては養母にあたる女性だ。息子二人を立て続けに亡くし、末の息子は家を飛び出したという状況で、養父のように縋る野心もなく、また生粋の貴族でしかなかったこの母親という生き物は、デュークを末の息子と思い込むことで正常さを保とうとしていた――更に正確に言うならば、デュークが引き取られた当時既に彼女は「壊れて」いたので、出ていった息子が帰ってきたということになっているらしい。因みに、肖像画を見た限り、彼らの息子は三人共に母親譲りの赤毛をしていて、デュークとは似ても似つかなかった。
 デュークは養父以上に、彼女のことが苦手だった。本来ならば自分ではない相手に向けられる筈の好意に多少の腹立たしさのようなものを感じていたのは最初の内だけで、今では「母親たち」とはまた異なるかたちの無償の愛というものをどう扱えば良いものか、デュークは決めかねていた。その戸惑いが養母への苦手意識へと繋がってはいるものの、別段彼女を嫌っていたり、憎悪の念を抱いているわけでもない。
 デュークの手を取って、デュークのものでない名前を呼んで、養母は朗らかに笑う。「フィナンシェを焼くわ。好きでしょう貴方」と嬉しそうに養母が告げれば、デュークの鼻腔には甘いバターとアーモンドの香りが蘇る。好きでも嫌いでもない皿いっぱいの焼き菓子を平らげるのは、毎度のことながらそれなりに苦痛を伴う。それを解っていて尚、彼女の申し出を断われないのだから、空いた皿を目の前にしたときの嘔吐感など自業自得以外の何ものでもない。
 彼女からの好意或いは愛情のようなものを本来甘受すべき会ったこともない「誰か」を憎悪し続けるには七年という年月は長く、また持続させるに足るだけの理由もない今、デュークには不満も胸焼けも飲み下して、ただ口をつぐむことしか出来ない。それら苦痛と比較すれば、養父の可愛らしい自尊心や小言など然したる苦ではないのだった。


 開け放した窓から吹き込む風に、音もなくカーテンが揺れる。魔導器による空調をきってしまった部屋の中は暑かったが、不快ではない。
 寝台に仰向けになったまま、立ち上る紫煙越しにデュークは天井を見上げていた。寮から持ってきた本は半ばまで読み進めたところで目が滑り出したので、今は枕元に放ってしまった。しおりも何も挟まずに投げ出してしまったので何処まで読んだのか判らないだろうな、と思ったのは咥えた煙草に火を着けて暫く経ってからのことだった。
 白地に、金色の唐草が渦巻く天井には、均一な模様が規則正しく連なっている。真四角に程近い部屋は騎士道や帝王学、宮廷作法などの蔵書が多く本棚に納まっているのは、デュークにあてがわれるより以前の部屋の主の趣向だ。デュークがそれらの本を手にしたことこそ一度もなかったが、だからと言ってたまの休みでもなければ利用しないこの部屋に私物を置く気にもならないので、わざわざ労力を割いてまで故人の遺物を処分しようとも思わない。
 所有するものなど何一つない部屋の中、帰省の度に少しずつヤニの色を濃くしていく天井だけが、確かにこの部屋におけるデュークの存在を主張している。年老いた夫婦に仕えるのは同じように年老いた使用人ばかりであったから、どうしても手が行き届かないところが出てしまうのは仕方がないのかも知れない。それでも自身の痕跡が目に見えて明らかに残る様子は、デュークをひどく落ち着かない気持ちにさせた。
 誰かに必要とされる生き方は楽だ。誰かに道を指し示され、望まれ、期待されるのは、自身の思考を放棄するというのは、責任の多くを他者へと押し付けてしまえる生き方だ。名前らしい名前も持たず、血縁もなく、幾らかの金銭で以って容易に受け渡しが出来てしまう程度の重さしかない存在には誂え向きだ。それでも優しい「母親たち」の日々の糧の足しになれば喜ばしいことではある、と十二の冬にデュークが思ったのは確かだ。自己犠牲だとは思わなかった。だから「母親たち」の内の何人かが泣き喚きながら引き止めようとする理由がデュークには解らない。壊れた養母が代替品に愛情を注ぐように、彼女たちも消耗品と割り切ってしまえば楽だろうに、と不思議に思うばかりだ。
 咥えることをやめ、指先に挟んでいた煙草から灰が落ちる。死んだ花弁のような白い灰は、窓から吹き込む風に舞い上がって、何処へともなく攫われていった。その行方を視線で追うこともなく、デュークは紙煙草を唇に寄せて、吸う。たったそれだけで元から随分と短かった煙草は、それだけで持っていることが難しくなった。上体を起こしてサイドボードの上の灰皿に押し当てて潰してしまうと、そのままの手でシガレットケースを開ける。だが、中身が空だと知ってデュークは小さく舌打ちをした。これで暇を潰すものが何もなくなってしまった。自分のものでない本棚の中身も、何処まで読んだのか分からなくなってしまった男女間のセックスをただひたすらに綴った本にも、手にする気にはなれない。
 寝台から足を下ろして立ち上がると、デュークはそのまま扉へと向かった。まだ日は高いが、そろそろ「母親たち」が起きだしても良い時間だ。煙草を買い足しがてら彼女たちの顔を見に行っても良いかも知れない、とデュークは空調の効いた廊下を歩きながら考えていた。
 外に出て一番、手を翳して空を仰ぎ見る。天頂から僅かだが傾いた太陽に、熱気も幾らか和らいだように感じた。門をくぐり屋敷を後にするとき、水を撒く使用人と目が合う。あまりに暑いものだから仕事に格好をつけて水に触っているのだ、と言われてデュークは納得した。
 使用人たちにあてがわれた部屋は何処の貴族の屋敷にも言えることだが、あまり質の良い魔導器が備え付けられていない。寧ろ使用人の部屋に魔導器を備え付けている貴族の方が稀なくらいだが、生ぬるい風ばかりが流動する室内よりもこうして外で水に触れている方が涼まるらしい。デュークが屋敷内の自室の魔導器を使用しないのも似たような理由なので、使用人の言い分は何となく解る気がした。
 使用人と別れて、デュークは閑散と静まり返った貴族街を歩く。このまま大通りの商店街に行こうかとも思ったが、今日は週に一度の露天が下町で開かれている筈だ。この時間帯ならばまだ幾らか商品も残っているだろうし、どうせ後で立ち寄ることになる。歩きながら判断すると、雑貨屋の前を素通りしてデュークは下町へと続く下り坂へと向かった。
 貴族街とは違いひしめき合うように乱立する下町の町並みに挟まれるようにして伸びる、不揃いな石畳を踏み締める。建物と建物との間を吹き抜ける、特有の強い風が青い空を背にした頭上の洗濯物を揺らしていた。そうやって上を眺めながらデュークが歩いていると、坂道を駆け上がってきた子供とぶつかりそうになる。遅れて坂を上ってきた、どうやら父親らしい男が謝罪の言葉を口にして子供を嗜めると、デュークもまた自分がよそ見をしていたことを告げて謝った。子供は父親に怒られたことが気に入らなかったのか、始終口を尖らかせて黙り込んでいた。
 親子連れとすれ違い、デュークは下町の広場へと出た。広場の中心に位置する水道魔導器[アクエブラスティア]から汲み上げられる流水が、陽の光を照り返して輝いている。その周りには露天での買い物も一段落して、紙袋から駄菓子を取り出して休憩する人々で賑わっていた。
 水道魔導器の更に外周に展開する出店を、デュークは暇を持て余す者の足取りで見て回った。目当ての紙煙草を見つけると、それを一箱買うことにした。店を出す男は五箱買えば安くなる、とデュークに勧めてきた。だが、外を出歩く口実は多い方が良いのだといううまを伝えて丁寧に断ると、違いない、という同意の言葉と共に男は煙草の入った紙袋にファッジを二つ投げ入れ、寄越してきた。
「お兄さん、今日の用事はこれで終わり?」
「いや、もう少し外に居る」
 売春街を快く思わない者は下町にも多いので、行き先を濁してデュークは答えた。
「……どんな用事かは知らないが、さっさと家に帰った方がいい。最近は物騒だからな」
 男の言葉を否定する要素はなかったので、デュークは軽く顎を引いて同意し紙袋を受け取った。
 煙草の他、「母親たち」の手土産にと、デュークは異国の絵柄が描かれた葉書を数枚と、シガリロを一箱を買って店を離れると、広場から少し離れた植え込みへと向かい腰を下ろした。まだ売春街へ行くには少しばかり陽が高い。「母親たち」の中にはぎりぎりまで眠っている者も多く居るので、デュークはその少しばかりの時間をここで潰すことにした。
 紙袋から手探りで煙草を出そうとすると、ファッジの包み紙に触れた。口寂しささえ誤魔化せれば何でも良かったので、デュークは包み紙を取り出すとミルクとバターの塊を口に放り込んだ。ファッジはチョコレート味だった。
 夜気を帯び始めた生温い空気に融けるようにして、忙しなく鳴くばかりの蝉たちも大分静かになってきた。聞き慣れない虫の鳴き声に戸惑っていると、今年の夏は十三年の周期蝉が一斉に地表に這い出て来たのだ、とデュークが盾持ちをしていた騎士に教えられたことを思い出す。それから騎士は、十三年毎のことだと慣れようもなく耳障りなことこの上ない、とも言っていた。
 口の中のファッジを舌先で転がしながら、デュークは虫の鳴き声に耳を傾ける。騎士の言うように耳障りだとは感じない。ただ、もう随分と昔にこの虫の鳴き声を、誰かに手を引かれて聴いていたことが思い出される。それが「母親たち」の誰かだったのか、もっと別な誰かだったのか、それは分からない。デュークはまだ物心をつくかつかないかの頃、血の繋がる「母親」と共に帝都を出た。その頃の記憶は酷く曖昧で、「母親」と別れた(状況から察するに死に別れたようだが、その時の記憶に至っては全て抜け落ちてしまっていた)後、奇妙な集団に保護されたことは何となしに覚えている。その奇妙な集団というのは、人間の男やクリティアの女のみならず、人語を解する鳥や獣まで居て、彼らは入れ代わりたち代わりデュークの前に現われては、世話を焼いたりよく解らない言葉を投げ掛けて来たりした。彼らの言葉の大半は幼いデュークに理解出来るものではなかったが、そこに悪意のようなものを感じて取ることはなかったので然したる不安もなく彼らと共に居たのは覚えている。中でも、何かにつけて構い倒してくる黒い男――黒い髪と褪えた眼を持つ奇妙に浮ついた男の存在は強く、印象に残っている。
 奇妙なコミュニティ、或いは入れ代わりたち代わる保護者と過ごした時間がどれほどのものだったのか、正確には分からない。一週間にも満たない短い時であったような気もするし、半年以上共に在ったような気もした。時の流れをまるで感じさせない彼らと過ごすことで、幼いデュークの感覚もまた停滞するような錯覚があったのかも知れない。
 今でも、こうしてふとしたきっかけに、彼らを思い出すことがある。そこに悪い感情はなかったので、苦はなかった。ただ――物事の分別のつく歳になって思うところが増えたのもまた確かだった。例えば、彼らは人ではないものではないのだろうかとか、彼らは何故デュークを保護したのだろうだとか、一転して何故人の環に還されたのだろうかとか、そういった様々な疑問が答える者のないままに浮かんでは消えていく。非生産的だとは思うが、不毛だとは思わないのは記憶の中の彼らが優しく暖かく、特に黒い男がいつも笑っていたからなのだとデュークは思う。例え他者から理解が得られなくても、夢のように曖昧なそれらの記憶はデュークの中で確かに良い思い出に分類されるものだった。だからこそ、何故彼らと共に在ることが適わなかったのか、疑問はいつもそこに帰着するのだった。

 太陽は地平に沈み、人々と虫の喧騒から解放された町並みは周囲が闇に包まれるにつれ、静けさを取り戻していった。入れ替わるようにして家々に灯る明かりを横目に、デュークは腰を上げる。
 夏の陽は、高く長い。薄く暮れた帝都の外周を人波に逆らって歩いて行くと、やがて下町から更に外れた売春街に出る。社交の家の立ち並ぶこの通りこそデュークの故郷であり、また帰省の際に帰るべき家でもあった。
 市街地や下町が静けさを取り戻すこの時間、デュークの故郷は息を吹き返すかのように賑わう。立ち並ぶ家々からは絶えず色とりどりの花弁が降り注ぎ、足元の石畳一面に広がると、路上の至るところから歌声が響きだした。
 歩いていると「お帰り坊や」、とバルコニーから身を乗り出して見知らぬ女から声を掛けられる。デュークが向こうを知らなくても女の方が「母親たち」の「息子」を知っていることは珍しくはない。だからデュークは肩越しに高い位置のバルコニーを一瞥すると、特に言葉を発することなく手だけを振った。
 その後も歩く程に見知らぬ誰かから声がかかったり、中にはデュークを男娼だと勘違いしたのか腰に腕を回してくるような「紳士」に遭遇したりもした。勿論、帰省する度に似たようなことはあったので今回もデュークは、足払いを掛けて「紳士」をひっくり返し丁重に誘いをお断わりした。以前、まだデュークが幼かった頃同じような調子で身なりの良い「紳士」に路地裏に引きずり込まれ、訳も分からない内に衣服を剥かれたとき、駆け付けた「母親たち」の手で「紳士」が半殺しにされ身ぐるみを剥がされたことがあったので、以来そうした二次被害を防ぐ為にも必要最低限の危機意識は持つようにしている。
 ビロードのスーツに安い足跡を着けた「紳士」の背中を見送ると、デュークの周囲にはいつの間にか人集りが出来ていた。石畳をガルド硬貨が叩く軽い音までする。悪乗りし過ぎたか、と手にした紙袋を持ち直すデュークの耳に、聞き覚えのある女の笑い声が届いた。
「相変わらずモテるのね、高位貴族(デューク)さま」
 振り向くと、散り始めた人集りの中に見知った女の姿を見留める。ブラウンの髪を結い上げた女は、赤いドレスの裾を軽くつまみながら前屈みに石畳の硬貨を拾い上げた。大きく開いた胸元から、白い谷間が覗いている。
「全くだ。いつまでも巻き毛のかわいこちゃんで通るのは問題だな」
「そう思うなら、少しは危機意識を持って。騎士候補生はこんなとこをうろついてちゃ駄目」
「前にも言ったが俺を引き取ったバンタレイは、世襲制からはみ出た成り上がり貴族だぞ。お前の言うような公爵(デューク)からは程遠い」
 今でこそ当たり前のようにデューク・バンタレイの名前で呼ばれているが、そもそもが娼婦の私生児であり帝国の市民権を持たなかったデュークは、実のところ自分のはっきりとした本名というものが分からない。デューク自身も覚えていなかった為、「母親たち」は皮肉と親しみとをない交ぜにして、高位貴族の爵位を当てはめ愛称のような感覚でデュークを呼んだ。それが、騎士爵であるバンタレイの家に引き取られる際、いよいよ名前がないのは不便だということになり、デュークは正式にデューク・バンタレイになったのだった。
「それでも、私から見たら雲の上のお人ね」
 落ち掛かる前髪を掬い上げながら女が笑うと、結い上げた髪の花飾りもつられて揺れた。暗に再度釘を刺されたことには、気が付かないふりをする。
 女の名前はロクサーヌといった。家名は分からない。バンタレイの家に引き取られる一年ほど前に、周旋屋(クルティエ)に連れられてデュークが身を寄せるメゾン・クローズにやってきた。そばかすまみれのすきっ歯に、痩せぎすの身体の少女は当初「商品」には向かず、デュークと共に裏方を担うことが多かった。歳が近いこともあってすぐに打ち解け、こうしてお互いの立場が酷く違えてしまった今でも気安い言葉を交える程度には親交も深い。ただ、彼女はデュークが売春街に出入りすることを快くは思っておらず、顔を合わせる度にこうして苦言を呈するので、デュークもまたそんなロクサーヌの物言いを聞き流すのは一種恒例の挨拶のようなものなのだ、と割り切ることにしてしまった。
 「俺のことをどうこう言う前に、お前の方こそその手癖の悪さをどうにかすべきだろうに」石畳の上に光る最後のガルドをロクサーヌが拾い上げたのを見計らい、デュークは言った。「物乞いであるまいに」
 だが、デュークの苦言を彼女は小さく肩を竦めただけで躱してしまう。
「いいじゃない。店の前だわ」
 彼女のしなやかな指先が指し示す先には、ガス灯の赤々とした明かりの下、「ムーサ・パラディシアカ」と綴られた看板が宵闇に浮き彫りになっていた。店の名前の書かれた看板を堂々と掲げていられるのは、このメゾン・クローズが居酒屋(エスタミネ)を兼ねているからだ。
「チップなら尚のこと、メトレスに見つかったら事だろうに」
「見つからないでしょ。貴方、黙っていてくれるもの」
 悪戯っぽく片目を瞑って微笑むと、ロクサーヌは最近ザーフィアスで流行り始めたという、ヒールの高い靴を片方脱いでガルド硬貨を隠した。バランスを崩さないように、と手を貸してやる。
「ありがと。で?本日はどのような赴きかしら高位貴族(デューク)様?」
 差し延べたデュークの手から、女の指先は然したる未練もなく離れていった。
「何、貢ぎ物を幾らか」
「相変わらずまめな男ね。入るなら裏口から入って。今、丁度馬車が入ったばかりなの。初めての客みたいだったから、今頃『ぐず』は片隅のサロンで酒代ばかり搾り取られてるわ」
 デュークが「家」に居た頃にも何度か鉢合わせた光景が目に浮かぶ。メトレスの「ドアを閉めて」という甲高い叫び声と、波が引くような娼婦たちの大移動を思うと、自然と笑みがこぼれた。
 紙袋を振ってからロクサーヌに寄越すと、彼女は袋の中身を早速物色し始める。中身は露天で購入したシガリロとポストカードだ。
「あら、ハルルの樹ね。こっちはカルボクラムかしら?建物が綺麗……一度本物を見てみたいわ」
「河岸変えしたらどうだ?お前ならもう、ここでなくても稼げるだろう」
 現に彼女は「ムーサ・パラディシアカ」の台帳に名前を記載されてはいたが、原則である「住み込み」に反し「通い」で働いている娼婦だった。私娼同然だが政府から交付される鑑札があった為、合法的な街娼として認められている。
「簡単に言ってくれるわね。結界の外に出ようにも、ガルドが掛かるって解ってるのかしらこのお貴族様は」
「護衛の騎士なり、ギルドなり、雇う蓄えくらいはあるだろう。愛人もヒモも居ないわけだし」
 遠ざかる赤いガス灯の明かりを背にデュークが言うと、裏口の前に立つロクサーヌは笑う。
「言わないでよ。メトレスにも枯れ女呼ばわりされてるんだから!」
 確かに、愛人なりヒモなりに貢ぐ方が、娼館としては商売の回転が良くなるのが解っているデュークは、メトレスの言い分は尤もだ、と思った。ロクサーヌの言い様に一向に言葉を返さないデュークに、彼女は快活な笑みの中に苦笑のようなものを忍ばせる。
「いっそ貴方が恋人のふりをしてくれたらいいのよ」
「高位貴族が売春街をうろつくなと苦言を呈したその口で、良家の子息を誑かすな。第一に、俺が相手じゃすぐにバレる」
 彼女とデュークが、それこそ姉弟のように同じ時を過ごしてきたことを「母親たち」は当然知っている。何より「母親たち」はデュークを「男」としては決して見ないことを、暗黙の了解にしているようでもあった。その鉄則は自らの肉体――性器を商売道具とせざる得ない彼女たちなりの、矜持に基づいているようにデュークには感じられた。
 ロクサーヌは曖昧な笑みを浮かべるばかりで、それ以上は何も言わなかった。重厚な鉄製の扉を開け、デュークに道を開ける。
「入らないのか?」
「私、もう帰るとこだったのよ。新顔に興味がないから。家に帰りがてら、楽そうなのが居たら適当に相手するわ」
 手渡した紙袋から、花の咲き誇る大樹の描かれた絵葉書を一枚抜き取ると、彼女はデュークの胸元に袋を突き返してきた。
「……通いは関心しないな。最近物騒だと聞くぞ」
 露天の主人が言っていた言葉が思い出され、デュークは紙袋を受け取りながら呟いた。
「ここらが物騒なのは今に始まったことじゃないわ。娼婦の失踪に子供の誘拐、物取りなんて日常茶飯事でしょう?色ボケ陛下の御前試合で優勝しただか何だか知らないけれど、新しく騎士団長になったええっと……アレックス・ディ、何だったかしら?」
「アレクセイ・ディノイア」
「そう、それよ。その騎士団長閣下が規制主義(レグルマンタリスム)気取って変に頑張るから、周りが大袈裟に騒ぐようになっただけでしょう。こっちにしてみたらいい迷惑」
 確かに、昨年の御前試合で優勝が皇帝クルノス十四世の目に止まり、首席隊長としての数々の功績も手伝った質実剛健と貴族にも平民にも評判の良い騎士の、異例の若さでの騎士団長就任は記憶に新しい。そういえば娼婦の取り締まりが厳しくなったのも、その頃からだったかも知れない。
「貴方からも言って頂戴。身に余る肩書き貰って気張るのも結構だけれど、それで私たちみたいなのが皺寄せ喰うのはごめんだわ」
「馬鹿を言え。俺だって遠目に何度か観たことがある程度だ。向こうは名前どころか、俺の顔も知りやしないさ」
 デュークが言ったことは本当だ。年齢的には間に合ったが騎士学校に入るには他の貴族の子息に比べ幾らも学力――特に字の書き取りの遅れていたデュークは、半年遅れての中途入学だった為に当時既に首席隊長であったアレクセイ・ディノイアが入学生へと送った激励の言葉とやらは聞きそびれていたし、そうでなくても時の皇帝クルノス十四世と同じ程に遠い存在だ。彼女の言うように、気安い言葉を交わすような間柄では決してない。だからデュークはロクサーヌの軽口を、そのまま彼女の得意とする冗談として受け取った。
「それに、身に余る肩書きだなんてこともない。それこそ俺なんて及びもつかないだろうよ」
「そんな消極的なこと言ってないで出世しなさい」
「私生児上がりの成り上がり貴族の養子が出世出来るようなとこじゃないだろ、騎士団は」
 規制主義にとどまらず新任の騎士団長が意識改革を進めているという噂はデュークも何度か耳にするものの、保守派とも言える貴族至上主義の塊である評議会の発言力は騎士団内にも及ぶ。だからデュークは、彼女の期待するような出世は無理だろう、と思っていたのでそのままを口にした。
 けれどふと、何処かで彼女の抱く期待と同質のものを、確かにデュークも彼に抱いていたということを思い出す。言葉を交わしたことも、遠目にしか姿を垣間見たことしかない程度の、雲の上の男に、それでも確かに、自分は期待をした。だが、それがいつ何時、どのようなきっかけの下に成されたのか、そこまでは思い出せなかった。
「……まあ、いいわ。大丈夫よ、貴方は強いわ。見てる人はちゃんと見ていてくれる」
「そいつはどうも。……それより、」
「解ってるわ。住み込みの件でしょう?……考えておく」
「……ロクサーヌ」
 妙に聞き分けの良い素振りを見せる彼女に、デュークはつい低く唸るような声で名前を呼んでしまう。
「本当よ。最近変なのが増えたのは確かだし。この前だって、店に気味悪い男が来たとかでちょっとした騒ぎになったらしいし」
「冷やかしか?」
「酒代も絞り取れない文無し。何か、前に店で働いてた女に会わせろ、とかそういう、ね。私はその場に居なかったから、詳しいことはよく知らないんだけど」
「別に、大して珍しくないんじゃないか?そういうのは」
 寧ろ、デュークが店に居た頃には日常ともいうべき光景だったように思う。
「規制が厳しくなったのは、何も私たち娼婦の側ばかりじゃない、ってことよ」
 ロクサーヌは言いながら、白く剥き出しになった華奢な肩を竦めて見せた。自然と、デュークの視線は今は遠い、表通りの赤い街灯へと向かう。そういえば、昨年店を訪ねた頃と比べると、騎士の姿が心なしか目立つようだった。
「他にも、シュイヴールと見せ掛けた奴がそのまま素人娘が連れ去ったり、色々聞くわ」
「で、そんな危険な噂が行き交うようになっている今でさえ、通いをやめないわけか」
「仕方ないでしょう。メゾン・クローズだとどうしたって店側に差っ引かれちゃうし、住み込むとなると借金だって増えるもの」
 言い張る彼女は頑なだ。店の女たちが諦観とある種の絶望から現状の不条理なサイクルに甘んじているのに対し、ロクサーヌには今の生活から抜け出そうという貪欲な意志がある。それが彼女の、子供の頃から抱く慎ましやかな夢に起因することをデュークは知っている。また、他者の指し示す道を外れようという意欲も、何ものにも変えがたい夢も持たないデュークは、そんな彼女を羨ましく思う。だからこそ、金に汚いとすら取れる彼女の物言いにも、それ以上何も言えなくなり口をつぐむしかないのだった。
 赤い街灯に細い影が溶け込むのを見届けると、デュークもまた社交の家の扉をくぐる。裏口なので勿論仕事場やサロンに面しているわけではないが、独特の匂いはすぐに鼻腔へと届いた。女たちの好むミント酒やシゾンタニア・リキュールの香り、ザーフィアスで流行りのハルル産の香水に、シガリロの紫煙が混じる。
 手土産は「母親たち」に手渡すより、メトレスかスー・メトレスに渡すべきだろうか、と逡巡していると、積み荷を抱えた男が今し方デュークの入って来た裏口から顔を覗かせた。彼は「ムーサ・パラディシアカ」専属の周旋屋だ。
「おっと。デュークか。驚いた」
 両手が塞がり不自由な男を手伝って、中から扉を開けてやる。すると、背の低く、気の良さそうな笑顔を張り付けた小太りの男がデュークに礼を言いながら入ってきた。積み荷を抱える無骨な左手の薬指に納まった指環が、シンプルなデザインに反して恐ろしく値が張ることをデュークは知っている。指環だけでなく、男が身を包む一見してシンプルな衣服の全てが一級品だ。それもその筈で、多くの同種の男がそうであるように、彼もまたメトレスの伴侶にあたる。この店で働く数少ない「男」であり、ヴィシー・フレーズが好物であることから皆親しみを込めて、彼をフレゼットと呼んでいた。フルネームはデュークの記憶にない。
「こんばんは、フレゼット。夏期休暇に入ったので挨拶に。……でも、忙しそうなので手土産だけ置いて帰ろうかと」
 デュークがサロンへと目配せをすると、男は漂う酒気と喧騒に得心がいった、という様子で苦笑を浮かべる。手土産を渡す相手もフレゼットなら心配はないだろう、とデュークは判断し、漸く紙袋を手放すことが出来た。
「少しくらいゆっくりして行って、顔を見せていけば良いのに。その方が女たちも喜ぶ」
「誘惑しないでくれ。帰りたくなくなるから」
「相変わらず上の生活には馴染めない、か。なぁに、そのお綺麗な顔がありゃ何処ででも上手くやっていけるさ」
「フレゼット、あんたいつもそれだ……」
 養子に出る前はフレゼットもデューク本人も、何れは周旋屋として生計を立てて行くことになるだろう、と考えていた。特にフレゼットは、デュークには才能があるのだと、多大な期待を寄せているようだった。その期待がメトレスや女中たちのみならず、「母親たち」も褒めちぎるデュークの顔立ちに起因しているのは先ず間違いない。彼自身はこのような職に就いているとはいえ、決して悪い男ではないのでデュークも特に何を思うこともなかった。
 軽快に声を上げて笑う男に、悪怯れた様子はない。だからデュークも小さく笑みをこぼして返した。
「でもまあ、やっぱ早く帰った方がいいだろうな」
 笑みをひそめて、フレゼットは呟いた。それから最近物騒だと、露天商やロクサーヌが言っていたのと同じようなことを話した。
「店にも変なのが来たって?」
 ロクサーヌの言葉をなぞり伝えると、フレゼットは大したことはないさ、といつも通りの人の良い笑顔で言った。
「余所者なら、規制が厳重になったことに疎い奴も少なくはない。現にそいつも、随分前に居なくなった女を訪ねてきた。大方ギルドの人間か何かが、昔遊んだ女の顔を見に来たとかそんなとこじゃないか。デュークも知ってるだろ、ユーリヤだよ」
「ユーラ……」
 よく知っている。濃い鳶色の髪に、珍しい菫色の眼をした娼婦だ。一度は帝都を離れたデュークを、以前店で働いていた娼婦の子供だ、と覚えていたのも彼女で率先して幼いデュークの世話を焼いていた。「母親」と称するには歳が近かったので、デュークは歳の離れた姉のようにユーラを慕っていた。だが、デュークがバンタレイの家に引き取られた翌年、彼女は姿を消した。
「あれから、もう八年か……」
 フレゼットの呟きに、デュークは言葉を返さなかった。それが彼の独り言だということを、知っていたからだ。
 ユーラは、デュークの前から姿を消した。店にも、仲間にも何も告げることはなく、僅かばかりの借金と、男たちからせしめた高価な装飾品の類いに、使いかけの香水、それから安物のブローチと、誰が父親とも知れない子供が一人、残されていた。
 デュークがユーラの子供に会ったのは一度だけだ。子供が出来てからは彼女もロクサーヌと同じに、店には通いで勤めていたので、借金の返済にあてる為に遺品を整理しに行ったときに会った。本当の目的は彼女が失踪した、その真相の手掛かりを求めてのことだったが、結局何の成果も得られなかった。
 記憶の中、ユーラの部屋は生活感に溢れてはいたものの質素で、そこに夜の女の気配は一切持ち込まれてはいない。その部屋の、陽の当たる窓際に置かれた寝台に子供は寝かされていた。母親の失踪などまるで意に介した様子もなく、ただ微睡む子供は酷く奇怪な生き物あるように思えてならなかった。また父親の髪がそうなのか、柔らかなブルネットから、ユーラを思い浮かべるのは無理だろうな、と思ったのは覚えている。
 部屋にあった衣服や装飾品を手持ちの袋に納め、母子が暮らす仮屋の管理人に合鍵を渡す頃には陽は大分傾き始めていた。ユーラの子は、子供の居ない管理人夫婦が引き取るらしく店側もその申し出を受け入れている。彼らは下町の人間だが市民権を持つ、まっとううな帝国市民だ。デュークがかつて母親と共に追われたようなことにはならないだろう。
 デュークは合鍵を渡すとき、一緒に店から預かったガルド袋を管理人に渡した。その金で部屋に残る家財や、使いかけの日用品の処分を頼み、下町を後にした。ただの一度も子供に触れることをしなかった、とデュークが気付いたのは店にユーラの私財を受け渡し、気鬱な帰路に着いたときだった。
 八年経つ、とフレゼットが呟くものだから、デュークはついあのときの子供は何歳になっただろう、と考えてしまう。そして、その不毛さに我に返り、眉根に皺を寄せながら思考を中断すると、何故かフレゼットに思いきり強く、頭を掻き混ぜられた。


 店から出ると、外は宵の口からすっかり陽が暮れて番地を示す赤い街灯もいよいよ鮮やかに、デュークの目に映りだした。
 来たときと同様に裏口から出ようとしたデュークを引き止め、サロンへと通したのはフレゼットだ。客を放り出した「母親たち」に抱擁され、化粧の施された白い頬に唇を落とし、もみくちゃにされ、言葉を交え、酒をすすめられそれを断り、シガーを差し出されそれを制し、卓上の葡萄を一粒摘むことでやっと解放されたと思ったら、随分と時間が経っていた。「ムーサパラディシアカ」を覗くといつもこれだ、とデュークは小さく溜め息を溢す。溜め息を溢すと同時に、こうも誘惑が多いとロクサーヌの忠告を聞き入れないわけにはいかないような気がしてきた。訪問を重ねる度に、家路に着く足取りは間違いなく重くなっていたからだ。それでもデュークの家は確かに貴族街に在って、養父母が息子の帰りを待っている。屋敷の窓からは暖かな灯りが溢れ、甘いバターとアーモンドの薫りが仄かに漂っている様子を脳裏に浮かべることは容易だった。
 帰らなくては――そう胸の内で呟くと、デュークは石畳に敷き詰められた花弁を踏み締めて歩きだした。それでも足取りは緩やかで、何か適当な理由を付けては自身に言い訳をしながらデュークは度々その足を止めた。以前訪れたときには工事中だった建物が香水屋になっている様子を外から眺めたり、夕食時が重なっているせいか飲食店の前に出来た行列を見遣ったりした。それでも帰路に着いた時点で、どれだけ時間が掛かろうと何れ通りは切り替わる。気が付けば赤い街灯も疎らに、デュークはあと数歩も歩を進めれば下町に差し掛かるところにまで来ていた。自覚したのは、そこで声を掛けられたからだ。
 メゾン・クローズを出てから何度目になるかも分からないが、帰宅を先延ばしにしたいデュークは特に何を思うでなしに足を止めた。呼び掛けがあったのは、通りの脇にある串焼きの出店の傍らからだった。小太りの男が、魚介の串焼きを片手にデュークへと手を振っている。デュークは僅かに顎を引き、それから半歩、男に歩み寄った。男の名前は知らない。だが、顔は分かる。
「やあ、お兄さん。広場ではどうも」
 広場で店を出していた露天商の男だ。
「確かに、あの時間じゃあこの界隈はちょっとばかし寂びれてるだろうなあ」
 広場では濁したデュークの行き先を邪推(間違ってはいないが)し、男は酒気を帯びた息を吐きながら笑う。だが、見たところ男もまたこの通りに居る目的はメゾン・クローズにあるようだった。だからデュークはわざわざ気を遣って行き先を濁す必要はなかったかも知れないな、と思いはしたが男の物言いには特に何を思うことはなかった。
「しかし、だとしたらちょっと帰りが早くないか?まっさか俺みたくアバタージュ通い、ってわけでもないんだろ?」
「知人を訪ねた」
 間違ってはいない。端的な事実だ。だが、口に出してみるとどうにも言い訳じみた響きになってしまった。
 デュークの言葉に、男は「ははあ」と奇妙に一人納得した様子を見せた。だが、問い質す気にはなれずそのまま男から離れようとすると腕を掴まれる。そこで漸く男が何かしらの勘違いをしているのではないか、という所謂「危機感」というものに思い当たる。だが、デュークが行動を起こすより先に男の方が口を開いた。
「ちょっと待ってろ」
 そう言って男はデュークをその場に留まらせると、出店の方に足を向けた。男はすぐに戻ってくると、両手に一つずつ持ったボックの一つをデュークへと差し出した。
「奢りだ。遠慮すんな」
 デュークは先ず男の手の中のボックを見、それから男の顔を見て、また視線をボックへと戻した。グラスの中の麦酒は夜空と街灯の赤色とを映し込んで、ゆらゆらと揺れている。
「……貰う理由がない」
「目の保養」
 アバタージュで性病持ちの女を掴まされて、金だけは支払わされ店を出てきたのだという。田舎者だから馬鹿にされたのだ、と言って憤る男に、デュークはボックを受け取りながらその店は不認可――非合法である可能性がある、と言った。
「へぇ。そんな規制があるなんて知らなかったよ」
「一応前々からあることはあったんだが、騎士団の上が新しくなった」
「新任の騎士団長閣下は潔癖なベイガンってことかね」
 ボックを呷る男に、デュークは何も言わなかった。ただ、政府が社交の家を必要悪として認めている以上、性病の管理なども兼ねて「安全な娼婦」を提供するには規制はなくてはならないものだ。近年おざなりにされていた娼婦登録制度の見直しというのは新任の騎士団長の着眼点としては、悪くないようにデュークは思う。ただそれを、例えば文明社会のバロメーターとしての必要悪――娼婦の提供のからくりを一から十までこの男に説明してやるのは面倒だったので、結局デュークは男の言葉を否定も肯定もせず手の中のボックを早々に飲み干すと男に礼を言い、その場を後にした。
 男と別れてから幾らも歩かない内に、下町の広場に出る。貴族街や市民街と違い、下町には街灯の魔導器が備え付けられていない(売春街の街灯もみなガス灯だ)ので、家々の窓から溢れる灯りしか光源のない広場は暗く沈んでいるように見えた。特に、今の今まで売春街の赤い街灯の下に居たので、余計に強くその沈んだ様子が意識されてならなかった。それでも全く人が居ないわけでなく、広場のシンボルとも言うべき水道魔導器の周辺には夕食用の野菜を洗う女たちの姿が入れ代わり立ち代わり見て取れた。
 水仕事に勤しむ女たちの脇を抜け、市民街へと続く坂道に差し掛かる。夕方、親子連れとすれ違った坂道の頭上の洗濯物は、全て取り込まれており邪魔をするもののない夜空には誰そ彼星を筆頭に、星々が瞬いて見えた。
 空を見上げるデュークは、少し離れたところから聞こえた子供の声に意識を引き戻された。これが昼間の喧騒にあってのことだったら、気にも留めなかっただろうが、時間が時間だった。更に、今日は行く先々で最近物騒だと忠告を受けたばかりだ。
 子供の声がした方――広場の水道魔導器の方を見遣ると水仕事をしていた女たちの姿はいつの間にか消えており、代わりに十に届くかどうかの年頃の子供とその傍らには、男が一人、立っていた。男はデュークの立つ坂に対して背を向けていたので顔は見えなかったが、麦わら帽子から覗く髪が傍らの子供と同じに、濃いブルネットだったので親子かそうでなくても血縁関係にある二人なのだろう、とデュークは遠目ながらもすぐに判断し、安堵した。だから、デュークがいつまでもその二人組へと視線を向けていたのは、陽が沈み、夜もふけて大分経つというのに、男が陽射し避けの帽子を深々と被っていることが気になったからだ。そうして、眺めている内に違和感を覚える。例えば子供――少年は、デュークがそうであるように夏の暑さに耐え得る、風通しの良さそうな薄手の着衣を身に纏っているのに対し、麦わら帽子を深々と被ったその男は鳶色の羽織りの下に、重ね着をしているようだった。
 季節感がないな、とデュークは思った。すると、また別な子供(こちらは貴族以外には珍しい、明るい髪色をしている)が現れて、男と言葉を交えると傍らに居たブルネットの少年の手を取り、連れて行ってしまった。残された男はというと、ゆるゆると手を振って二人の子供を見送り、そうして、踵を反して市民街へと続く坂の方へと向き直った。
 そこで、男はデュークの存在に気が付いた。帽子の下から覗く、暗い色をした眼と視線が絡み、そうしてある記憶が呼び起こされる。昔の記憶だ。照りつける陽射しと、虫の鳴き声ばかりが鮮明で、そこに時折、調子外れの奇怪な歌が男の声で混じる――遠い過去、それでも確かに、デュークはその男を知っていた。今の今まで、顔も思い出せなかった記憶の中の男は、今こうして目の前にした途端、確信を以って断言出来る程に鮮明に実像を結ぶ。
 だが、名前が思い出せない。知らないのかも知れない。それすらも判らない。だが、それでもデュークは男に呼び掛けようと口を開いた――瞬間、男はデュークに背を向けて、赤い光の溢れる売春街の方へと歩いて行ってしまった。
 その場に一人残ったデュークは開き掛けた口もそのままに、男の背中を見送っていたが、我に返ると遅れて売春街へと引き返した。
 赤い光の中、街並みは賑わい人々で溢れている。その中に、遠目に見ただけの男を見つけ出すのは困難であるように思えた。だが、風変わりに奇怪な麦わら帽子は人々の波に紛れるには目立ち過ぎた。
 鳶色の薄汚い背を見留めると、デュークは人混みを縫い、掻き分けるようにして歩を進める。呼び止めて、どうするのかそこまでは決めていない。分からない。何を問う訳でなく、思い出話に花を咲かせるつもりもない。自身の出自も、男が――彼らが何者であるのかも、どうだって良かった。ただ、会って何か、何でも良い。言葉を交してみたいと思った。
 赤い光の中、人混みの向こうの背中に距離を詰めることはなかなかに難しかった。見失わずに後を追うだけ精一杯だった。そんなとき、視線の先の男が僅かにだが麦わら帽子を被りこんだ頭を傾けた。肩越しに背後を伺ったのだ、とデュークは思った。思った途端に、再び確信する。彼は追う者の存在――デュークに気が付いている。気が付いた上で、こうして人混みに紛れる、追う者をまき、逃げおおせようとしている。
 思い至ると、何故だか無性に業腹であるように思えてならなくなったデュークは、歩を進める足を早め、半ば強引に人混みを押し退けた。非難の声が幾度となく上がるが、耳を傾けている暇も余裕もデュークにはなかった。男が脇道に入ったからだ。デュークも慌てて男の消えた脇道へと入るが、暗く細い道の奥、角に翻る鳶色の裾を僅かに視界に留めただけだった。後を追い、路地裏を突き進み角を曲がると、走る男の背を見留めた。
 気付いている。そして、逃げている。デュークは自身が先刻感じた怒りを正当なものとして、追う者の速さで暗がりへと駆け出した。だが、最初から男とデュークとにはかなりの距離があり、また男の足は速かった。複雑に入り組み、時には資材や生活用具の積み上げられた細い道を、男は器用に走り抜け、時として通り抜け様に傍らの樽を倒し、走って行く。
 騎士学校では比較的不名誉な謂われで有名なデュークだったが、足に関しては速さも持久力も群を抜いている。その自分が、全力で追っても一向に距離が縮まらないどころかどんどん引き離されていくという事実に、デュークは焦りと共に素直に驚きを感じていた。そしてばか正直に後を追うばかりでは距離を詰めるどころか見失う――判断し、デュークは男の背から視線を外すと、路地裏を抜け出て赤い街灯の下へ舞い戻った。
 人混みを分け入り、二ブロック先の居酒屋に入る。カウンターの中でグラスを磨いていた主人が何事か、と顔を上げるとデュークは視線を合わすことなくただ片手を上げた。店の主人はデュークの顔を見留めると、特に声を掛けることもせずグラスを磨く作業へと戻る。その前を突っ切り、整列した座席の間を縫いデュークは裏口へと向かった。デュークが娼館で下働きとして住み込んでいた頃から顔馴染みの主人は「厄介ごとも程々にな」、と背中に声を掛けてきた。
 裏口から外へ出ると、また薄暗い路地裏へと抜けた。そのまま扉の脇の積み荷に足を掛け、二階の窓枠を掴むと壁を蹴り上げて一息に屋根の上によじ登る。それから隣の集合住宅のバルコニーに飛び移ると、今度は手摺りに足を掛けて上り立ち、更に上の階へと向かった。
 眼下に赤い街並みを見下ろし、それから路地裏の暗がりへとデュークは目を向ける。幼少時の山育ちもあって、夜目には自信があった。
「見つけた……」
 暗がりの中に、小走りする男の背中を見留めるとデュークはバルコニーから身を乗り出し、滑り落ちる勢いをそのままに裏手の木に飛び移った。枝を鷲掴みにし、勢いを殺すと路地裏の向こう、売春街より一層高い市民街の裏地に降り立つ。
 正直に真後ろから追って追い付けないのなら、地の利を生かすしかない。デュークは判断し、市民街から回り込むことに決めたのだった。幸い、この帝都は上層から下層にかけて、多段状に展開している。騎士学校が貴族街と同じに上層に位置しており、市民街の表通りに出るには裏手の人工林を突き抜ける方が正門に回るより距離的に近いというのと同じ理屈だ。お陰で、赤い街灯の点る売春街の大通りへと出るには、男が必ず通らなくてはならない地点の見当がついた。
 市民街の裏手を抜け、下層を逃げる男を先回りすると植え込みと積み荷との陰にデュークは身をひそめた。眼下では、通りの喧騒を避けた私娼が客の男と睦み合っているので、逃げる男は彼らの営みの脇を擦り抜けることになるのだろう。
 ぬるい夜風が黒々とした木々や、植え込みの葉を揺らす。その傍らで、デューク乱れた呼吸を整え、頬から顎にかけてを流れ伝う汗を拭った。だが、視線は下層――買収街の路地裏から離さなかった。やがて、幾らか速度を落とした小走りの男が角を曲がり、現れる。既に私娼の背中を石壁に預け、事に及んでいた男女を見留めると男は何事か謝罪の類いを小声で告げ、脇を通り抜けようとした。その、男が彼らの営みの脇を擦り抜けたところを見計らい、デュークは自身が身をひそめる傍らの積み荷を男の進行方向――大通りへの行く手を遮るようにして蹴り落とす。
 男の動きは素早かった。もともと男の上に積み荷を落とす気はなかったが、それでも緩やかに半歩、後退してから身を翻すと、そこで漸く男を銜え込んだまま悲鳴を上げた女に「失礼」、と微笑み掛け来た道を引き返した。だが、その行く手にデュークが下り立ち遮ったと知ると、またしても素早く踵を返し、派手に散乱した積み荷を飛び越えて大通りへと駆け出す。
 往生際の悪い男を舌打ちの後、デュークは再び追跡した。だが、その背中は酷く近く、また道が入り組んでいることもあって手を伸ばせばすぐに届きそうな距離に在るように思えた。届くのは、手でなくても良かった。言葉一つ、男を呼ぶ声が届く、ただそれだけでのことでこの馬鹿馬鹿しい追跡劇が終わるように思えた。
 手を伸ばす。指先は宙をきる。それは解っていた。だから、デュークは喉を震わせ、声を引き絞った。記憶の海に沈む、男の名前を引き上げて、呼んだ。
「――エルシフル!」
 そしてもう一度、と伸ばした手は今度は宙をきることはなかった。デュークの伸ばした手は確かに男の手首を掴み、捕らえた。
 デュークも、男も、互いに肩で息をしていた。そして、正面から見据えた男は矢張り、周期蝉の鳴く最中にデュークの手を引いていた男――エルシフルに、間違いなかった。
「ひ、人違いです!」
 息も絶え絶えな中、引きつって悲鳴じみた声で男は言った。
「……この期に及んで何を言い出すんだ、貴様」
 怒りを通り越して半ば感心していたデュークだが、それが声に出ないように意図したところ酷い言い様になってしまう。それには男も気が付いたようで、わざとらしく眉根を寄せると右側の眉だけを器用に上げて、目を細めた。
「口の利き方のなってないガキだね、君。あのね、おれはそんな舌噛みそうな名前じゃなくって、ニコライ・ハーティっていう親から貰った立派な名前がだね……」
「よし解った。いいだろう、ニック。向こうで詳しく話を聞いてやる。来い」
 男の言い分もそこそこに聞き流し、デュークは掴んだ手首を引いて表通りへと向かう。追跡が終わったのなら、いつまでも薄暗い路地裏に居る必要はないからだ。
「痛い!痛い痛い痛い!」
「お前が大人しく着いて来れば痛くないだろう」
「お、大人しく着いてっていかがわしいトコ連れてく気なんだろう!騙されないぞ」
 暴れる男は本当に性質が悪かった。
「お前、少し黙らないか。……第一に、やましいことがないのなら逃げる必要はないだろう」
「だってお兄さん、すごい形相で追っ掛けて来るから……」
「……お前が逃げるからだ」
「違います。君が追っ掛けて来たからです。……都会って怖い」
 そう言って男は溜め息混じりに俯いてしまったが、大分大人しくなったのでデュークは言葉を返さず黙って男の手を引いて歩いた。
 表通りの赤い街灯の下は相変わらずの賑わいだ。その道の隅で男の手首を掴み上げたまま、デュークは逡巡していた。この男から話を聞くとして一体何処で問い詰めたものか、と考えあぐねたのだった。最初から屋敷へと連れ帰る選択肢はなかったので、そうなると顔見知りの居酒屋か、「ムーサパラディシアカ」の一室を借りるかの二択だが、どちらにせよエルシフル――自称ニコライ・ハーティが騒ぎそうな話ではある。
 考えながらも歩きながら決めれば良い、そうデュークが判断し一歩を踏み出したところに、突然女の悲鳴が上がった。デュークと男とが騒ぎを起こした後方の路地裏でなく、声は正面向かいの別な路地裏から聞こえた。
 実際のところ、売春街において老若男女問わず悲鳴は然して珍しくもなく、すぐさま喧騒を前に掻き消えてしまう類いのものだった。それは物取りや誘拐が日常茶飯事であることからの人々の「慣れ」は勿論、何よりそれらの犯行は一瞬の内に済んでしまう為に悲鳴も罵倒も継続はしない。
 だが、今聞こえたものは違った。「誰か来て」、と叫ぶ声が暗がりから聞こえた。何度も、繰り返し繰り返し、聞こえた。何より、普段から悲鳴や罵倒を聞き慣れたデュークたち売春街の「住人」だからこそ、その質が常とは大きく掛け離れていることにもすぐに気が付いた。
 「……血の臭いがするな」向かいの路地裏へと視線を向けたデュークの傍らで、男が呟いた。「引き裂かれた雌猿の臓腑の臭いだ」
 薄ら笑いすら浮かべて、男もまたデュークと同じに暗がりを見遣っていた。だが、その目にはデュークとはまるで違うものが映っているようであり、男の言うような臭いも嗅ぎ取ることは出来なかった。ただ、男が悪戯に冗談を口にしているわけではないことだけは直感的に感じ取れた。だからデュークは酷く端的に、暗がりの向こう――デュークには見えず、男には見通すことの出来た先の闇で血が流されたのだ、という事実だけを把握した。
「腹を割かれてるかなぁ。それに――獣臭い」
「ザーフィアスに野犬は居ない」
 男は口に出すと、今度は明らかに喉を鳴らして笑った。だが、デュークは何も言わなかった。それどころか、既に男の方を見てもいなかった。
「だったら野猿かな……って、あれ?」
 男の手首を掴んだまま、デュークは向かいの暗がりへと歩を進める。デュークだけでなく、ただ事ではない悲鳴を聞き付けた人々が吸い寄せられるかのように一人、また一人と路地裏へ足を向けた。
「え?見に行くんだ?」
 後に続く男は不満というよりかは、意外だというような様子で声を上げたが、先程までとはうって変わって素直な足取りで着いてきた。
 辿り着いた暗がりの奥の路地裏は、既に小さな人集りが出来ていてその中心まではデュークの背丈では見通すことが出来なかった。だが、踏み締める石畳には点々と血の跡が続き、人集りのその向こうに拡がる惨状を想像させる要素としては充分だった。何より、ひしめく人々が密やかに囁き合うその声が、全てを雄弁に語っていた。
「娼婦が殺されたみたいだな」
 すぐ前で背伸びを繰り返し、何とか人集りの向こうを垣間見ようとしていた男がデュークに肩越しに言った。知らない顔だが、同類だとでも思われたのかも知れない。
「騎士団には?誰か通報したのか?」
「さあ?ま、これだけの騒ぎだ。その内来るだろ」
 それだけ言うと、諦めたのか男は身体を退いて人集りから離れた。その分空いたスペースに、デュークはすかさず滑り込む。人一人分とはいえ先程より幾分も距離を縮めた為、見通しは随分良くなった。
 血の流された路地裏は袋小路になっている。表通りの喧騒も明るさも、殆んど届いてはいない。石畳と同じ色の石壁にも血が飛び散っているようだったが、灯りもなく見通しの悪い暗がりでは鈍く黒光りするばかりだ。
 結局、デュークの立つ場所からでは何も見えず、判らない。だからデュークに出来ることと言えば、店の方に忠告をし、出来ればさっさとこの男から話を聞いて、そして一刻も早く屋敷へと戻って知らぬ存じぬを貫き通すことくらいの筈だった。だがふと、壁に飛散した血飛沫や、路地裏の暗さばかりに気を取られ向けていた視線を足元に落とし、気が付く。デュークの足元には、娼婦の流したらしい血が石畳の目に添い、流れだしていた。その、滲む血溜まりの中に踏み荒らされ、薄汚れた花弁を見付けた。売春街に溢れかえる色とりどりの生花の花弁とは違う、それは作り物の白い花だった。
 声もなく、デュークは目の前の人集りに分け入った。動作は緩慢で、ただ行く手を遮る人間を押し退ける力だけが酷く意識された。決して離すものか、と強く握り締めていた筈の男の手首は気が付けば手の内から失われていたが、そのことに構っている余裕はデュークにはなかった。
 辿り着いた人集りの向こうには、血の海とでも形容すべきなのだろう、黒い水溜まりが拡がっていた。その中心に、肉塊が転がっている。かつては女の形をし、命を宿していただろう肉の塊は顔を潰され腹を引き裂かれていた。腐食したホースのような臓物が、娼婦特有の薄布と割れた肉の間からはみ出て周囲にだらしなく散らばっている。そんな中その薄布の、元の色も判別出来ない程に流された血の海に在って、デュークは、肉の纏っていた着衣の色を鮮明に思い出し、言い当てることが出来た。
 色は、赤い。鮮やかでない、乾いた血の色にも似た鈍い赤色のドレスだ。胸元が大きく開いていて、始めて着たときに酷く恥ずかしそうな様子だったのも覚えている。だからデュークは花を――常に生花を髪に飾る程の金の無かった彼女に、白い花をかたどった髪飾りを送った。もう随分前のことだ。今ではそれなりの蓄えもあって、自分で花を買う余裕もある筈なのに彼女が髪に作り物の花を飾り続ける理由を察していなかったわけではなかったが、それでもその理由に触れたことは一度もない。
 目を逸らすことも、その場から立ち去ることも出来ず、デュークはただ肉塊と成り果てた女の、潰れた顔の辺りを凝視し続けていた。小さく見える、白いものは歯だろうか、頭蓋か顎の骨が砕けたものだろうか、などとも考えた。だから、手を離した筈の男がいつの間にかすぐ傍らに立っていて、デュークと同じものを見ていたことにも気が付かずにいた。
「あらら。これまた随分と潔い脱ぎっぷりだ。商売女冥利に尽きるね」
 小さく口笛を吹き、男は言った。だが、デュークは言葉を返さなかった。聞こえていないわけではなかったが、出来なかった。
 だからなのか、男は血溜まりの中心へと向けていた視線だけをデュークの方へ向けた。そして、小さく抑揚を何処か欠いた声音で問うて来た。
「……知ってる顔か?」
 その問い掛けにも、デュークは答えなかった。ただ、自分でも気が付かず震えていた唇で、肉塊に成り果てた女の名前を形作ろうとし、遮られた。遮ったのは隣に並び立つ男の言葉に因ってではなく、行動に因ってだった。先程とは立場を逆に、男がデュークの手首を掴み、人集りに分け入り、血濡れた肉塊から遠ざけたのだった。それから、人混みも疎らになると、自身の被り込んでいた薄汚い麦わら帽子をデュークに被せ手を引いて走りだした。「離せ」とも、「何をする」とも言えずにデュークはただ男に手を引かれて走った。
 手を引かれ、走りながら、最初は死んだ女のことを――ロクサーヌのことを、考えていた。何故追っていた筈の、そして逃がすまいと手を離した筈の男に、手を引かれ走っているのだろうとか、何処へ向かっているのだろうとかという、今自分の置かれている状況には全くといって気が回らずにいた。脳裏に浮かび、思い出されるのは、血や肉の赤みを帯びた黒やドレスのエンジ、白い花と乳白色の骨のコントラストと鼻の奥にこびり付くようにして残る臓腑の臭いばかりだ。それらはデューク自身の抱く感情のどれとも程遠い、事象の反復に過ぎない。
 混乱しているのだろう――そう、自分の現状を断じようとして、すぐ様に「否」と声には出さずただ頭を振った。混乱は、していない。現状も把握している。顔見知りの女が死んだ。名前はロクサーヌだ。デュークと歳が近くて、仲が良かった。いつか身体を売る商売から抜け出して、小料理屋をやるのが夢だと言っていた。そのときには、デュークの贈った白い花飾りを髪に飾る、とも言っていた。そんな安物やめてくれ、とデュークは言った。彼女は笑っていた。けれど、それももう叶わない。訪れない未来だ。彼女は死んでしまった。デュークは男に手を引かれるままに、逃げていた。
 不意に、デュークは気が付く。走る自分は、逃げているのだった。そう、明確に男の意図を理解する。理由は知れない。だから、デュークはそこで漸く男に問おうとした。流れていく見知った筈の風景から目的地を察することも放棄して、ただ男に声を掛けようと口を開いた。けれど、言葉にはならなかった。デュークの手を引く、男の力があまりにも強くて、強くて言葉を詰まらせた。言葉にするべき考えが、何一つ纏まらないまま、ただデュークは男に手を引かれて走った。
 自分が全力で走っていたのだということに気が付いたのは、足が縺れて男の手を逆に強く引き返した為だった。肺を引き絞り、全身を使って呼吸をしているような錯覚を起こしながら、デュークは肩で息をした。掴まれていた手はいつの間にか解放されていて、すぐ傍らに立つ男は息一つ乱さず、街灯の少ない夜道を眺めていた。呼吸が落ち着きを取り戻したデュークも、男が見つめる先へと視線を向ける。そこには、男の姿を見留めた為に結局上ることをしなかった、下町と市民街とを繋ぐ細く曲がりくねった下り坂が伸びていた。デュークは男に手を引かれるまま、この坂道を駆け上がって来たのだった。
「君、このまんまお帰んなさい」
 男が言った。デュークが視線を戻しても、男は坂道へと目を向けたままだった。
「……馬鹿を、言うな」
 舌先が縺れる。理由は呼吸が乱れている為だけではないのだと、解っている。「馬鹿なことを言うな」、とデュークは繰り返した。
「……もう逃げないから、今日は帰れ」
 的外れであるようにも聞こえる男の言葉が、言葉通りの意味合いだけでないということはデュークにも解っていた。だから、デュークはそれ以上男の言葉を切り捨てることをせず、ただ人気のない、下町へと伸びる坂道を見下ろした。
「戻るなよ。それくらいの頭はあるだろ」
 背後から聞こえる男の声は硬い。反論を許さない強さで男はデュークの腕を掴むと、下町へと続く坂から引き離し、市民街の半ばにまで引き摺ってきた。男は突き放すようにして掴んでいた腕を解放し、デュークはその反動でよろめいた。だが、そんなデュークを気にする風でなく男は帝都の更に高みを指し示して言った。
「行け」
 デュークはのろのろと顔を上げ、男の示した方を見上げた。帝都の高みには連なる貴族街と、城とがあった。宵闇を過ぎた空を背に、家々に灯る魔導器の強い光が揺れている。その光景に以前、まるで煌びやかに飾り付けられた焼き生菓子のようだ、と思ったことがある。下層で暮らしていた頃には飾り付けのされた菓子の類いとは無縁であったので、デュークがそうした連想をするようになったのはバンタレイの家に引き取られて以降だ。ロクサーヌに話したら「そんな大層なものがあるなら、今度食べさせてよ」、と言われたことがあった。あの時、自分は彼女に何と答えたのだったか、そんなことを考えながらデュークは随分と長い間、帝都の煌びやかな上層を眺めていた。気が付けば男の姿はなく、頭に被せられていた、薄汚れた麦わら帽子だけがデュークの手元に残った。
 それからは、ロクサーヌの殺された現場に戻ろうという気も起きず、デュークは漸く屋敷に戻る為、貴族街へと続く階段へと足を向けた。階段を上り切った先には売春街のような喧騒や、下町の沈んだ静寂もなく、安穏として閑静な空間が広がっていた。あれほど煩く空気に融けていた虫の鳴き声も鳴りを潜めている。風にそよぎこすれる木々の騒めきと家々から洩れ聞こえる談笑だけが降り注ぐ、そんな静けさの中にデュークは在った。
 屋敷に戻ったところで食事をする気も起きず、使用人には体調の不良だけを告げた。本当は意識も足取りも薄情なほどにしっかりとしたものではあったが、今養父母と顔を付き合わせたところで上手く噛み合う会話など出来そうになかった。その程度にはデュークは疲弊を自覚していたし、また自己分析が出来る冷静さもあったので、そう思うとまた知人一人死んだ後だというのに何て自分は酷薄で打算的なのだろう、と笑みすら浮かんだ。
 部屋に戻り、湯を使うと一日の疲れは幾分も和らいだ。洗面所には精油の小瓶が置かれていたが、デュークがその蓋を開けたことはない。透明な容器の中の液体は、誰に使われるわけでもなく無為に蒸発していくばかりだ。そのことについてメゾン・クローズの女達に話したこともある。すると彼女達は勿体ないだの、宝の持ち腐れだのと口煩くデュークを責め立てたので、以来屋敷内のことは口にしないことにした。ただ、いつかはこの精油を正しく役立てることの出来るらしい彼女達に譲ってしまおう、と思いはしたものだ。
 塗れそぼった髪もそのままに、デュークは緩慢な動作で部屋を見渡した。いつもの部屋だ。デュークの私物とも言える物の何一つない部屋は、不思議に浮ついた頭をゆっくりとだが確実に現実へと引き戻していく。手を付けたことのない本棚の中身や、極力触れないようにしている机の上の細々としたもの、引き出しの中のこと、使われない精油の小瓶、読みかけの借り物の本――そうした諸々をなぞり、そこに何一つ自分のものがないことにデュークは安堵した。そして最後に、天井の隅から少しずつ広がっていくシミを思う。それで終わりだ。終わりの筈だった。床の上に点々と脱ぎ散らかした衣服に目を落としたその時に、煙草の箱を見留める。この部屋に在って唯一、与えられるでなくデュークの意思で以って持ち込まれた私物だ。その傍らに、落ちたデュークの物でない借り物の帽子に視線は釘付けになる。私物など皆無に等しいこの部屋において「他者の物」と括ってしまえるだろうその薄汚れた帽子に、デュークは急に先程までの熱病に侵されたかのような浮つきとは真逆の、けれど言い知れない底冷えにも似た不安を覚えた。その感覚を、デュークは知っている。知っていた筈だ。
 手繰り寄せようとした感覚は記憶の海に沈んでから久しく、それでも尚デュークは帽子を凝視したまま思考を巡らせ続ける。何としてでも思い出さなければならない――そんな強迫観念にも似た落ち着きのさを覚えた。だから、デュークの思考が中断されたのは自発的なものでなく、外部から干渉を受けた為だ。
 四回、丁寧に扉を叩く音がする。弾かれたようにデュークは顔を上げ、それから反射的に床の上の帽子を拾い上げる。そのままの勢いで脱ぎ散らかした衣服を掻き集めながら扉の向こうへと声を返した。
「ゴードン、具合が優れないと聞いたのだけれど大丈夫?」
 養母だ。その声は我が子を案じる母親そのものの調子で、他意を感じさせはしない。だから余計にデュークは、今一番聞きたくない声だ、とも思った。
 丸めた汚れ物の中に帽子を押し込み、寝台脇に投げる。備え付けのクローゼットからいつの間にか補充されている清潔な衣服を無作為に選び取り手早く身に付けると、漸くデュークは養母を迎えるべくドアノブへと手を掛けた。
「お待たせしてすみません。私なら問題ありません、お母さん」
 開いた扉の隙間から先ず覗いたのは息子の不調を心底案じる母親の顔で、次いで目が合うと安堵からか養母は硬かった表情を崩し、少女のように笑った。帰りも遅かったようだし、食事にも顔を出さないから心配していたの、と言う彼女にデュークはそこでやっと、外で食べてきた、と言ってしまえばいいだけの話だったのだと思い当たり出掛かった舌打ちを口元を覆うことで誤魔化した。
「お父さまは放っておけと仰っていたのだけれど、それではあまりにもゴードンが可哀想。だって貴方は、まだこんなにも小さいんですもの。お父さまは厳し過ぎるのだわ」
 彼女の細く華奢な指先がデュークの頬を辿り、そのまま幼子をあやすような手つきで背中に腕を回される。ただ、成人男子の平均よりやや高めの身長を持つデュークの背中に腕を回すとなると、小柄な養母は半ば背伸びをし縋るような格好になってしまった。それでも彼女にとってデュークは「小さなゴードン」以外の何ものでもなく、その事実に対してデュークもまた思うところは何もない。ただ、手入れの行き届いた養母の髪から漂う甘い香りが鼻腔をくすぐり、それが花や石鹸といった類いのものでなく彼女が「息子の為」に焼く菓子の匂いだとそう意識された途端、デュークは縋る女の身体を丁寧に押し遣った。
「ゴードン?」
 訝しげな彼女の視線を避けるように、デュークは顔を反らす。大丈夫です平気です問題ありません、その何れかの語を唱えようとして、声にはならずに口を覆った。飲み下した傍から胃液が迫り上げる感覚に、口元を覆う手の力が強まる。
「ゴードン、貴方……」
「……大丈夫、です。本当に」
 そう絞り出して言うのが限界だった。
 デュークは養母の肩を極力丁寧に、しかしはっきりと拒絶の意を示して押し遣ると扉を閉め、鍵を掛けた。扉の向こうからはデュークのものでない名前でデュークを呼ぶ声がする。その声に応えるだけの余裕は最早なく、また己のものでない名前を呼び続けられる異質さを気に留めることすら出来ず、デュークはバスルームに駆け込んだ。
 浴槽の脇に備え付けられた便器を抱え込むようにして蹲ると、迫り上げる衝動に任せて胃の内容物を吐き出す。胃液に喉が焼ける感触と、唾液が鼻に回る感覚とに、目の前が薄ら白く染まった。胃の中身を全て吐き出しても嘔吐感は収まらず、透明な胃液ばかりをデュークはその後も吐き続けた。
 半ば意識も薄れかけ、衝動に任せて抱え込んだ便器に胃液を垂れ流す中、脳裏に浮かんだのは養母の顔でもなければ、引き裂かれて死んだ幼馴染みの肢体でもなく、況して十数年ぶりに再会した男の姿でもかった。陽の沈みかけた色味の薄い青空と、一日の終わりを名残惜しむように鳴く周期蝉の鳴く声が、目蓋の裏と耳の奥とで頼りなく甦る。男に手を引かれ、帝都への道を歩いた。
 そんな些細な情景を鮮明に覚えている自分に呆れ、それから空の手の平を握ると、デュークは口の端を吊り上げ意識を手放した。完全に意識がなくなるその瞬間、何故かデュークは手を繋いで歩いた男に、文句を言いたくなった。手放して棄ててしまうのなら、最初から手の平のぬくもりなどくれてくれるな、と思ってしまった。


 一日の始まりは最悪だった。
 先ず、意識を手放した最後の記憶をそのままに、デュークはバスルームで目覚めた。頬に感じる床の冷たさと、異様な姿勢で眠った為に痺れる手足に舌打ちしながらデュークは上体を起こしに掛かる。吐き出したものは便器に溜まったまま、一晩中悪臭を放っていたらしい。一瞥してから水で流し、口の周りに付着したままだった吐瀉物を手の平で拭った。蛇口を捻り手をすすぐと、洗面器に水を張って顔を洗うと拡散していた意識が少しずつまとまっていく気がした。今更ながらに彼女が、ロクサーヌが死んだのだとそう、現実味を帯びて自覚に至った。だが、思考は自覚に至るだけで、そこに付随する筈の嘆きも憤りもデュークに喚起させることはなかった。その事実を、デュークは何故か少し残念に思いながら首を傾けた。
 いつまでもバスルームに閉じこもっているわけにいかず、デュークは手早く顔に剃刀を当ててしまうと部屋に戻った。ダイレクトに足の裏へと伝わる石の床の冷たさに、履き物を履いていないことに思い当たる。部屋の中を見渡すと、寝台から少し離れたところに左右ばらばらに脱ぎ散らしたブーツを見留め、次に寝台の脇に綺麗に揃えて置かれた室内履きの靴を見付けた。だからデュークは昨夜、あれからこの部屋に入った者が居なかったのだとそう判断し、窓際に程近く寝台を挟み、扉側からでは死角にあたる方へと歩いて行った。揃えて置かれた靴を素通りし、窓を開けると熱気と共に乾いた風が部屋の中に吹き込んできた。まとわりつくカーテンを脇へ退け、腰を屈めると丸められた衣服へと手を伸ばす。一緒くたに丸め込まれた帽子を取出し、窓際のサイドテーブルへと放ると、デュークは身なりと衣服とをそこそこに整えてから漸くブーツを履き込んだ。部屋履きにしなかったのはサイドテーブルに置かれた時計の示す時間から、部屋で長居をしている暇は無さそうだと踏んだからだ。斯くしてデュークの投げ遣りな見当は的中しノックの後、扉一枚隔てた向こうから名前を呼ばれた。その声が使用人の声であることに安堵する自分がおかしく思え、デュークは笑みを噛み殺しながらドアノブへと手を伸ばした。
 使用人の伝えた内容は至って簡潔なもので、デュークに客人があったことを報せるものだった。今は応接室に通され、「旦那様」――つまりはこの屋敷の主である養父が対応している、とのことだ。身支度は殆んど済んでいたので、デュークもまた客人が通されたという応接室へと足早に向かった。
 昨日の今日だったので自分を訪ねてきた、という客人にデュークは心当たりがあった。早ければ昼、遅くても明後日には来るだろう、と踏んでいたデュークは職務怠慢で有名な彼らがこの時間にやって来たことは快挙だな、と思いながら応接室の扉を開けた。中には車椅子に座ったこの屋敷の主である養父と、ソファに座る二人の騎士とが居た。一人はフルフェイスで顔は見えず、もう一人は褪せたブルネットとエフミドの丘から見下ろした海の色に似た眼の、デュークとそう歳の差のなさそうな男だったが見覚えはなかった。
 部屋に入るなりソファから立ち上がった二人を片手で制し、デュークも机を挟んだ向かい側のソファへと腰を落ち着ける。机の上には三人分のティーカップが置かれていたが、中身が減っているのは顔を曝している騎士のものだけだった。
 客人の用向きは概ねデュークが予想した通り、昨夜売春街で起きた娼婦――ロクサーヌの殺害に関する事柄だった。話をする黒い髪の騎士(話は始終彼がしていたので、フルフェイスの騎士の上官なのかも知れない)の口振りに澱みはなく、養父も口を挟んだり驚きを顔に出す様子がなかったのでデュークが部屋を訪ねる前に既に大まかな話は通ってしまっているのかも知れない。騎士は昨夜、現場付近でデュークの姿が目撃されていると言い、デュークは彼の言葉を否定しなかった。それから、自分がバンタレイの家の養子であることと、娼館で幼少時過ごしたこと、昨日から騎士学校が夏期休暇に入り、昔馴染みである彼女たちを訪ねたのだということを、簡潔に伝えた。
「概ね、事前に仕入れた情報と一致はしていますね」
 一通りデュークの言い分を聞き終えた騎士は、特に表情を動かすことなく言った。同意を求めるような内容でもなければ、相槌を打つのも適当ではない気がしたデュークは、ただ黙って視線を騎士から机の上のティーカップへと移した。
「こちらへ来る前に、私どもも聞き込みの真似事は一通り終えていましてね」
 そう言って、騎士は「ムーサ・パラディシアカ」の娼婦の名前をあげ、それからボックを奢ってもらった露店商の名前(こちらは聞いても分からなかった)をあげた。
「良かったですね。取り敢えず、娼婦殺しの犯人候補から貴方は外れそうです」
 デュークが騎士学校に在籍していることを知っているのか、騎士は気安い調子で笑う。それから、養父の方に向き直り「すみません」、と言いながら頭を掻いた。養父は何も言わす、ただ目を伏せただけだった。
「……もとから、私に疑いなどかけられていなかったのではないですか?」
 デュークが声を発すると、養父に向かっていた騎士の視線が引き戻された。
「分かりますか?いえ、全く疑いが掛かっていなかったわけじゃないんですがね。何せ、貴方は被害者の知人だ」
 被害者の知人、と騎士はデュークを指して言った。そこには他意はなく、また悪意のようなものも感じては取れなかった。だからデュークは文字通り被害者の知人として、その言葉を肯定し頷いた。ただ、例えば友人であったり、例えば恋人同士であったり、そこに強い絆があっても全てが知人という一言で済まされてしまうのだろうな、と思った。不要なもの、無駄を略いた便利な言葉だ。そうした思いと同じくらい、随分と素っ気ない関係に落ち着いたものだな俺たちは、と死んだ女に言ってやりたくなった。
「今回が初めてではないんです。もう何人も、似たような手口で殺されている」
「だが、下町や売春街での失踪や殺人はそう珍しい話じゃない」
「……そうです。お恥ずかしい話ですが、一部の上の者など見て見ぬふりをする始末です」
 有力貴族を筆頭に、上層の腐敗は騎士団にまで及んでいる。今まで黙っていた養父が小さな声で「腐ったものだ」、と呟いた。
「ただ、今回は目撃者が多過ぎる……だから、騎士団が調査に乗り出したということですか?」
「それもありますが、一番はやはり閣下のご意向ですかね」
「騎士団長が?」
「ええ。過去十数年前にまで遡って色々と見直しているようです。するとですね……いや、これ以上はマズイですね、流石に。すみません」
 騎士は何か核心に差し迫ることを言い掛けたが、結局それ以上言葉を続けなかった。デュークも養父も、彼らにも守秘義務があるのだろうと察し、深く追求することをしなかった。ただ、騎士が応接室を退出し少し広くなった部屋で天井を見上げながら、騎士団長が上手く真相を明らかにしてくれたのならロクサーヌも浮かばれるのかも知れない、とデュークは思った。或いは、失踪したユーラの行方も知れるものかも知れない。
「……デューク」
 養父に名前を呼ばれ、思考は中断された。「何です?」と返すと、黙る子供も堰をきったように泣き出しそうな相貌を歪めに歪め、言った。
「お前が外で何をしようと構わないが、厄介ごとを家に持ち込むな」
 今度は返事をしない代わりに、デュークは胸中で養父に罵りの言葉を吐いた。
 それから、デュークは少し遅い朝食を摂った。昨日の今日なので胃の不快感は消えなかったが、焼きたての白パンと目玉焼き、ブラック・プディング、焼きトマト、レンズ豆のスープを目の前にすると何の苦もなく口にすることが出来た。養父母は客人が訪ねてくる前に朝食は済ませていたようだが、養母は「息子」と食卓を囲みたいらしくデュークの座る向かい側(彼女の定位置だ)に座り、紅茶を飲んでいた。食事をする息子の姿を見守る彼女の、何処か掴み所を欠いた微笑みはあまりにもいつもの通りだったので、養母の中で昨夜の「息子」の異変はなかったことにされているのだろうな、とデュークは思った。
 一通り出されたものを胃に詰め込んでしまうと、待っていたかのように運び込まれた養母の焼き菓子を珈琲で流し入れ、デュークは早々に自分の部屋へと戻って行った。甘いバターとアーモンドの香りが漂っても、昨夜のような吐き気はなかったな、とデュークが思ったのは履いていた靴を脱ぎ捨てて寝台に寝転んだそのときだった。
 陽の高くなり始めた外では、一層虫たちが煩く鳴いている。鳥の囀りは、塗り込めるような虫の声の合間に僅かに聞こえる程度だ。今日は暑くなりそうだな、とデュークは思った。
 清潔なシーツの上に手足を投げ出すと、不意に節々の痛みが強く意識された。一晩中、変な寝方をしたせいだろう。そこまで考えてから、昨日追いかけた男のことを思い出した。もしかしたら、彼を追う過程で何処か痛めたのかも知れないと思い、すぐにそれはないか、と思い直した。
 騎士たちに、デュークは男のことを話さなかった。理由はない。上手く説明出来そうになかったからなのかも知れないし、変な疑いを持たれたくなかったからなのかも知れない。言わずにいたことが良かったのか悪かったのか、それも分からない。ただ、知人とすら形容することの難しい男のことを不用意に話すのは躊躇われた。
 知人ですらない、ならばあの男は何なのだろう――そう考えかけて、デュークは不意に奇妙な違和感を覚えた。寝台に寝転んだまま、思わず詰めた息をそろそろと吐き出す。それから、身体は極力動かさずに視線だけを彷徨わせた。特に変わったところはない。それでも明確に覚えた違和感を探る為にデュークは神経を尖らせ、目を凝らし、耳を澄ませながら上体を起こし掛けて、気が付いた。
 音がしない。正確には、虫の鳴き声と、合間に聞こえていた筈の鳥の囀りとがやんでいた。代わりに、吠えたてる犬の声が外から幾重にも鮮明にデュークの耳に届き、それを諫める飼い主らしい女の声がした。時計が秒針を刻む音は、部屋の中に滞りなく正確に響いている。外から聞こえる喧騒も、風が木々を揺らす騒めきも、生活音も、何もかもが正常であって、異質だ。
 人々の多くは十数年に一度だけ、夏に鳴く虫の声を「雑音」としてしか捉えていない。だから、この異常に気が付いたのはこの帝都において、デュークだけかも知れない。勿論、デューク自身にも確信があるわけではない。ただ、何か、酷く異質なものが付近に在って、周囲はその「何か」に怯え、奇妙な沈黙に沈んでいるのだということは解った。まるで隠す気のない露骨な気配は、周囲を怯えさせると同時に自身の到来を予告しているかのようでもある。
 起こし掛けた上体を今度こそ明確に起こし、デュークは迷わず窓辺へと視線を遣った。開け放したままの窓から入る風に、カーテンが揺れている。その絶えず揺れ動く衣由羅の合間に、前触れなく人影が踊った。デュークはそこで、視線を反らす。反らした先には、薄汚れた帽子があった。
「……あれ、寝てた?ごめんごめん」
 手を伸ばし、無造作に帽子を掴むと窓辺から声がした。無言で掴んだ帽子を投げて寄越すと、声の主は危なげない手つきで受け取ってみせた。風に揺れる濃いブルネットを受け取ったばかりの帽子の下に押し込め、血管の色の透ける色味の薄い目を細めて笑うその様子に、記憶の中、逆光で顔の知れない、幼いデュークの手を引く男の姿が重なる。
 お前は一体何者だ――当たり前の疑問を声に出さず胸中でデュークは呟いた。その声にならなかった疑問に重なるように、窓辺の訪問者が口を開く。
「会いに来たよ、愛しい子(アストロソス)」















※1) アラン・コルバン著、杉村和子監訳 「娼婦」より


風呂敷を広げるだけ広げたけれど、回収するかどうか予定は未定。。。
(20100531)









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最終更新:2010年08月24日 21:31