五年後?六年後?なカロユリ。
村の子供A的なポジのモブの死に表現がありますので、苦手な方は回れ右推奨。


 

 冷たく乾いた風に、首を竦めながら襟元を正す。浅薄な青空からは、今にも雪が降りだしそうだ。いっそ降って積もって、辺り一面を銀世界に変えてくれたならこの寒さも和らぐだろうに、とカロル・カペルは思う。
 冷たくなった鼻を擦りながらオルニオンの空を見上げると、すっかり葉の落ちた丸裸の木々の枝が、格子状に重なって頭上を覆っていた。ひしゃげた黒々しい肢体は昔話の魔女を連想させる。落とした視線の先の木の根元に、薄ら白く艶めかしい腕だか脚だかが蠢く様子を思い描いて、カロルは小さく噴き出した。
 そうして、今一度空を仰ぎ見る。薄ら氷に似た色の空に、細く、長く、黒煙が立ち上っていた。カロルは、あの煙を知っている。だから、歩みを早めてオルニオンに急いだ。



サイモンのうしなわれた世界 Kindertotenlieder
20100304


「世界で一番汚いものはなんだか知っているか?」

W.G.ゴールディング 「蝿の王」


 ギルドに身を寄せていた子供が死んだ。十二歳だった。
 身を寄せているといっても完全な非戦闘員で、ギルドの仕事に直接的な関わりは一切なかった。孤児院の延長のようなかたちで、身寄りのない子供たちの一人で、ギルドに入ったときには既に肺を患っていた。
 カロルはそれを知っていて子供を受け入れ、子供も自分の命がそう永くはないことを理解していた。病が原因で親に棄てられたのだということも、気付いていた。
 魔導器[ブラスティア]を手放した代償が徐々に、けれど確実に浮き彫りになり始めたのは、凛々の明星[ブレイブヴェスペリア]が星喰みを討ち取ってから三年目に差し掛かった頃だった。結局、魔導器文明の放棄を納得し、受け入れることが出来たのはエステルの言うところの首脳勢と、彼らから直接的に事情と事態とを通達された一部の人間――つまり、オルニオンに住む極少数の人々だけで、言うなればその首脳勢と極少数とを除く全ての人間は、ある日突然訳も解らず日々の生活を引っ繰り返されたことになる。
 人は、事後報告に理解を示すのは難しい。それでも凛々の明星のような弱小のギルドが不満の標的にされなかったのは、ヨーデル陛下やハリーたちが公の場における全ての責を負い、カロルたちの名前を一切出さなかったからだ。
 だから、日に日に増していく人々の不満や、魔導器文明に代わる新たな生活ラインの確保の遅れが世界を蝕み、風の噂で飢饉や疫病の蔓延を耳にすることはあっても、その首謀者であるカロルは顔を隠さずに外を歩くことが出来た。ただ、後ろ暗さだけは何処にでも、何処までも、付いて回った。
 カロルが、ただでさえ飽和状態の孤児院が受け入れを渋る、何かしら問題のある子供をボランティア同然にギルドに受け入れるのにはそういった背景があった。「私たち、慈善事業でギルドをやっているわけではないのよ?」、と子供の受け入れを決める度、ジュディスに言われた。それでも釘を刺すに止まり、受け入れに反対することも、ギルドを辞めずに居てくれるのも、何となしに彼女がカロルの罪悪感のようなものを汲んでいてくれるからなのかも知れない。或いは、同じような欝屈を抱いているからなのかも知れない。
 贖罪というより、これはただの罪滅ぼしなのだろう、とカロルは思う。果ての、終わりの見える贖いなど、不要に思われて仕方がない。ゆるされたくなどない。その一点だ。
 それは罪の意識からというより、自身の心の平穏を求める故だ。結局、何処までも利己的な心の有り様にカロルは呆れた。
 棺の中に横たわる子供の表情を欠いた中、ただ一つ眉間に苦悶の跡が残っているのを見留めても、感傷めいた胸の締め付けさえカロルには訪れなかった。それどころか、引き取った子供の名前さえ思い出せない。
 愕然とした。同じくらい、あの頃の――絶望と希望とがない交ぜになった、それでも何よりも毎日が充実していたあの頃の自分と、同じ歳の子供が喪われたという事実が、奇妙に現実味を欠いて突き付けられたことが不思議だった。
 肺病みの子供にも夢があって、それは聖歌隊に入ることなのだと語っていた気がする。そうだ。声高に、騎士を鼓舞する歌を歌いながら、この国を支えるのだと言っていた。瞳を耀かせて、何を傷付けることもなく、ただ優しい未来を思い描いていた。
 きっと、十二歳のあの頃、カロルはそんな風に未来を見つめてはいなかった。それを悪いとは思わない。後悔もない。今も、子供たちの思い描く先の世界が、暖かいものであったり、優しいものであったりすれば良いとは思うが、自分にそういった未来を望んでいるわけではない。
 それこそが、贖いであったり、罪滅ぼしといったものなのかも知れない、と思うこともあったが少し違う。そうして、そのことを考えるときは決まってユーリの姿が脳裏を掠めた。
 まだカロルが、愚かで浅慮な子供だったとき、彼はどんな思いで自分の言葉に耳を傾けていたのだろうか、と考える。その時の彼の眼差しや、頭を掻き混ぜるようにして撫でる手の温もりを思う。
 圧倒的に完成された大人としてカロルの前に現れた男は、今や純然な憧憬の対象ではなくなっていたが、それでも、きっかけと始まりとしての意味は、変わらず彼に起因していた。或いは決意だ。
 憧憬を抱いてはいても、彼のように生きたいだとか、彼のようになりたいだとか、そういった思いはカロルにはなかった。寧ろ、彼のようにはなりたくない、という思いの方が強いかも知れない。そして男自身、そう望んでいるようにすら感じる。それらは、ユーリへ向くものが美しいばかりではないことを自覚するよりも、またユーリにその仄昏い劣情を示すよりも以前から、カロルの身の内に燻っていた。
 感傷で片付けるには、少し疲れ過ぎている。そう、水泡のように浮かんでは消えていく、取り留めのない思考にカロルは溜め息を吐いた。
 ギルドは慈善事業ではない、というジュディスの言葉が耳に着いて離れない。当たり前だ。入ってくるものより、出ていくものの方が圧倒的に多い。魔導器が失われて久しく、またその代替品の開発も滞っている今、魔狩りの剣ほどではないにせよ魔物の討伐に重きを置いている凛々の明星は、仕事に焙れるということこそないが、それでもこれだけ非戦闘員ばかりの大所帯ともなると儲けは少ない。少ないどころか、ここ半年は間違いなく赤字続きだ。
 ギルドを立ち上げて間もない頃、少人数でやっていきたい、とユーリが言っていたのを思い出してカロルは口元を緩めた。彼の言い様とは意味合いは違うが、確かに今の自分なら賛同するだろう、とそう思ったからだ。

 

 

 


 町全体に漂う香りは、雨の名残に融けて和らいでいる。それでも鼻腔の奥に絡む甘い匂いに眩暈がした。
 見下ろした男は今しがた噛み付かれた口の端を一舐めすると、下手くそ、と言って笑った。挑発的な笑みだったが、カロルがその誘いに乗ることはなかった。そんな余裕はなかった。
 男が小首を傾げれば、惰性で伸ばされた髪が肩を滑る。髪は、黒く長く、鬱々と流れた。
「……可愛くないからね、ユーリ」
「ひっでーな」
 今度は快活に、男は笑った。この方がいつも見ている彼に近い気がしたので、カロルは何も言わなかった。
 長い黒髪を掻き上げて、掻き毟り、ユーリ・ローウェルは一つ大きくて長い欠伸をした。締まりなく開いた口と、その周りに寄った皺は、それなりに整っている筈の男の顔を台無しにした。
「……?あんだよ?」
「痘痕も笑窪、ってスゴいと思って」
 カロルの意図するところを瞬時に理解したユーリは、次に声を上げて笑う。笑う男を、カロルはぼんやりと見下ろしていた。
「お前、人のこと二回も襲っといてそりゃねぇだろ」
 ユーリに倣って、寝台に腰を下ろしたカロルはささくれ立った床の木目を見つめながら、言われた言葉を頭の中で反復する。一度目はヘリオードの宿で、二度目はたった今、この場で彼に口付けた。
「……だよね。何でユーリなんかに……ありえない。絶対、絶対、ありえない」
「失礼だな、カロル先生。……ったく、よしよし。可哀想になぁ」
 心地よく擦れた声は確かに成人した男のもので、カロルの髪を掻き乱す指先も確かに、節ばかり目立つ男のものだ。体躯も、経験も、何もかもが及びもつかない。だのに、カロルはこの男に欲情している。我ながら、気が触れているとしか思えなかった。そして、そんなカロルの気持ちを、きっとこの男は察している。だからこそこんなにも満面の笑みを以って、哀れみの言葉を吐くことが出来る。最悪だ。
 ユーリは栗色の頭を解放すると、その手を開いてカロルの目の前に突き出した。近過ぎて、焦点がぶれる。
「五年だ」
「……な、なにが?」
「猶予、かな?――ちょっと、お互い落ち着こうぜ。そうじゃなくても、星喰みだの何だのと忙しいんだ」
 彼が告げた瞬間、文字通り血の気が引いた。握り込むようにして自身の二周りは大きな男の手を払い除けると、カロルは身を乗り出す。
「ちょっと待って。五年、って何!」
「落ち着こうぜ、って話。五年」
「それは、分かるけど……」
 星喰みのことを言っているなら、そこまで長期的な考えをしなくて良いのではないか、とカロルは思う。何より、五年も経ってしまったら他の誰かに彼を取られてしまうかも知れない。もしかしたら凛々の明星を去り、カロルの隣には居ないかも知れない。
「……何で、五年も……」
 こんな男に欲情するなんて、と絶望した矢先、突き放されてこの慌て様だ。カロルは自分で自分が情けなくなった。けれど、それ以上に必死だった。
「五年は長いよ、ユーリ」
 抗議する声まで情けない。男の少しも揺るがない笑みも気に入らなかったが、それ以上に状況の打開策が彼に泣き言を言う以外何もない、という事実がカロルを更に惨めな気持ちにさせた。縋る以外、何も手立てがないというのはそのまま彼と自分との差――力だけでなく、意識や立場の隔たりを否が応にも自覚させられる。
「……そう、か。長いか、五年は」ユーリは人を食ったような笑みを張り付けたまま、言った。「確かに、そうかもな。何せ、お前が今まで生きてた時間の半分近いんだもんな」
 改めて口に出されると、ますます途方のない時間を告げられた気がする。冗談じゃない、とカロルは思った。このまま時間の流れを言い訳に、反古にする算段ではないか、と疑いたくなる。
「い、一時的な気の迷いだから、って……ユーリはそう言いたいの?時間が経てば、何もかもなかったことになる、って思うからそんなこと言うの?」
「何だ、一時的な気の迷いなのか?」
「ちっ、違うよ!ボクの気持ちは変わらない。五年経ったくらいじゃ、絶対、絶対変わらない」
 変わらないのでなく、変われないのではないかとすら思う。それ程までに強い感情は、確かにここにある。そうでなければ自分のような臆病で口先ばかりの子供が、どうして自ら進んでモラルから外れることが出来るだろう。
 だから、それだけは解って欲しくて、カロルは力強く言い切った。受け入れて貰えないにしても、なかったことにだけはされたくなかった。必死だった。
「なら、いいじゃねぇか。騙されたと思って五年待ってみろよ?んで、ついでにオレに証明してみせりゃいい」
 してやったり、といった風体でユーリは笑うとカロルの鼻先に指を押し当ててきた。対するカロルは――しまった、と固まるしかない。やられた。
「それに、五年っつってもお前が思ってる程、長くはないと思うぜ」
「……ユーリにとっては、四分の一だもんね」
「おう」
 力なく、カロルが呟くと自分の主張が通ったことに満足した様子で、ユーリから快活な返事が寄越された。腹立たしい。
 カロルが拗ねて顔を逸らしても、ユーリは機嫌を損ねるどころか寧ろ一層楽しそうに笑って、栗色の髪を掻き混ぜる。
「……一つだけ、訊いていい?」
「うん?」
「ユーリは、やっぱりボクの気持ちが変わってしまうと思ってる?だから、答えを先延ばしにしようとしてる?」
 ユーリからどんな答えが返されても、一度決めたからには五年、待つつもりではいる。確信はあったし、自信もあった。ユーリへの想いは変わらない。けれど、その想いを信じてくれていない相手に対しての五年は、少し長い。
 ユーリは、カロルの頭を掻き混ぜるのを止めて顔を近付け、覗き込んできた。唇を重ねるときと同じくらい近い彼との距離に、カロルは驚いて身動いでしまう。
「いいや。きっとお前は変わらない。変わるのは世界だよ。お前のな」
 そう言って、ユーリはカロルの目尻に唇を落とした。カロルは、今度は身動ぐことなく男の行為を受け入れた。視界は、黒く長い髪に覆われていった。

 


 星喰みを倒して、世界をマナと精霊が満たして、魔導器の尽くが役目を終えて――彼と約束した、五年が過ぎた。あと三ヶ月も経てば、六年になる。
 あれほど待ち望んだ筈の五年が過ぎ、約束の日が訪れたというのに、カロルはこうして凛々の明星の本部で一人で居た。
 カロル自身、オルニオンに本部を構えたものの、どうしても馴れ親しんだダングレストの空気が性に合うものであまり出入りはしていない。ユーリなど間借りしていた帝都の部屋まで引き払ってしまって、カロルから彼の消息を知ることは出来ない状態だ。それでも、旅先で鉢合わせることもあれば、ユーリがダングレストに来ていることもあった。五年経って、全く会わなくなった、ということはない。今も彼は凛々の明星に籍を置いていて、仕事もよくこなしてくれている。何より、彼が誰かと所帯を持った、ということもなかった。けれど、顔を合わせ
てもユーリは勿論、カロルもまた五年前の約束を口にはしなかった。触れることすらしなかった。
 町全体が喪に服しているせいか(小さな町なので町人同士の結びつきは強かった。オルニオンの良いところだと思う)、珍しく静かな執務室で今月の帳簿を眺めながらカロルはぼんやりと考えていた。どうせ何度目を通したところで、赤いものは赤いのだから、と欠伸すら交えながら、本当にただ、無機質に並ぶ数字の羅列に目を滑らせていた。
 死んだ子供の親が、葬儀に出向いた様子はなかった。思うところがないわけではなかったが、子供の死をギルド側の不始末として金を請求しに来なかっただけましだとも言えた。
 やがて灯り取りの窓から差し込む光に促されて、部屋全体の陰が大きく位置をずらしたころ、廊下から足音が響いてきた。蝶番を軋ませ、少し癖のある立て付けの悪い戸を難なく開けてみせたのはユーリ・ローウェルだった。
「お。何だ、一人か?」
 肩口で、黒い毛先が揺れている。少し前、偶然鉢合わせたときに彼に頼まれて、カロル自らが切り揃えた。そのときでさえ、二人が五年前の約束を話題に上げることはなかった。
「見ての通り。……珍しいね、顔出すなんて」
「そっか?ちょくちょく覗きに来てるぜ、オレ。たまたまカロルが居ないだけだろ」
 カロルから視線を外さないまま、扉を閉めて彼は言った。からかうような軽い口振りに、何か安堵のようなものを感じ取って、カロルは数列に落とした筈の視線を再度ユーリへと向ける。だが、黒尽くめの長身の男は双眸の片側を緩く細めるだけだった。
「何だよ?」
 垣間見た安堵のようなものは、その一声でなりを潜めてしまう。だから、カロルには解った。
「……ん。顔を見せた、ってことは何か用があるんだろう、と思って。今はジュディスも出てるから、ボクじゃ簡単な経理しかこなせないけど」
 用件があるならどうぞ、と付け足して、カロルは手元の書類に目を落とした。ユーリは肩を竦めたようだった。もしかしたら、「可愛くない」などと考えているのかも知れない。
 ユーリから返事は得られないまま、カロルは数列を追い続けた。彼が扉から離れて、執務室と言うにはあまりに簡素な部屋の中央まで歩を進めても、もう顔を上げることすらしなかった。面倒だったからだ。
 やがてユーリはカロルの手元を覗き込むでもなしに、角の取れた机に浅く腰掛ける。左右の脚の長さが違う机は、掛けられた重さの分だけ男の方へと僅かに傾いた。
「幾つか案件片付けたんで、報酬を納めに来たんだよ」
 一通り目を通して脇に避けた書類の上に、ユーリは重たそうな皮袋をぞんざいに放った。そういえば、以前会ったときに厄介な案件が入ったことを彼に告げた覚えがある。そのことだろうな、と見当付けてカロルは顔を上げないまま頷いた。
「ありがと。ユーリ、取り分は?」
「もう貰った」
「そう。ならいいけど」
 報酬の総額や、彼がどれほどの額を取り分として差し引いたのだとかは、訊かなかった。半ば履行を諦めていた案件が彼のお陰で片付けたのなら、それだけで充分だった。
「いや、良くねぇだろ」
 ユーリは否定の言葉を吐いた。無理に笑おうとして結局失敗したような、そんな曖昧さの滲む声だった。カロルも微かに苦笑を溢して返すと、引き出しから判を取り出す。書類の中に、幾つかギルド印の必要なものがあったからだ。
「聞いたよ。****が死んだんだってな」
 朱肉に判を押し当てていた指先の力が弱まる。彼が口にしたのは、子供の名前だ。死んだ、子供の名前だった。理解することも、認識に至ることも、カロルにとっては容易だ。
 けれど、そこで漸くと言って良い程に、確かに、カロルは顔を上げてユーリを見た。
「……なに?」
 カロルは問うた。何を問うたのか、それは判らない。
 机に浅く腰掛ける男は、肩越しにカロルを見下ろしていた。見上げてくる視線には微笑みを返して、けれどカロルの投げ掛けた問いには、何も返すことをしない。何を問いたいのかカロル自身判らずにいたので、ユーリが答えを返さないことに思うところは特になかった。
「お前、ちゃんと休めよ。顔ひでぇ」
 手が伸ばされて、親指の腹の部分がカロルの目尻を軽く押した。彼の指は硬くて乾いていて、少し冷たかった。
「んー?まあ、それなりに疲れてはいるから、これで元気はつらつと清々しい顔してたら、それはそれでボク自身びっくりかも」
 目を閉じて、彼の指先が少しずつぬるくなっていく感触を追う。目蓋の裏側に、黄昏を透かした影が蠢く。
「自覚あるとかどんだけマゾなんだよ、カロル先生……」
「誤解のないように言っておくけどね。別に仕事してれば嫌なこと考えずに済むからとか、忘れていられるからとか、そういった理由じゃないから。必要だからやってるの、本当に」
 目を開ける。宵闇の気配が漂い始めた部屋の中、ひっそりと笑うユーリと目が合う。
「……まあ、そうお前が言うんなら本当だとは思うけどな」
「本当だよ。あの子はもう死んでしまって居ないけれど、ボクや、他の子供たちは明日も生きていかなきゃいけない」
「そう言って、割り切れるようになったのか?」
「大分ね。上手くなったと思うよ」
 言いながら、こんなことを口にしたらユーリは怒るかも知れないな、とカロルは思った。けれどもう長いこと彼の激昂した声を聞いていないので、それもいいかも知れない、とも思った。
「薄情だよね」
「だな」
「ひどい話だし」
「違いない」
「だってボク、あの子の名前も覚えてなかったしさ」
「忙しかったんだな、カロル」
「…………疲れたから慰めて。目一杯、甘やかして」
 親指に込められていた力が緩む。彼は言葉を失ったように口をつぐんだけれど、絶句というのとはまた違う様子だった。
 ユーリが何か言う前に、また押し当てられた指先が離れていく前に、カロルは硬くて乾いた、生ぬるい親指を握り込んだ。
「キスしていい、ユーリ?」
 深く考えずに口にしたのが、駄目だった。言ってからすぐに笑いが込み上げてきてしまって、結局カロルはユーリの指先を握り込んだまま額を机に押し当て肩を震わせる。だから、そのときユーリがどんな顔をしていたのか、それは知れない。ただ、子供にするように頭を掻き混ぜて慰めるようなことも、絡め取られた手を奪い返すことも彼はしなかった。
 ひとしきり肩を震わせて笑ったあと、カロルは額を浮かせて、代わりにこめかみを机へと押し当てた。
「もう、五年経ったよ。ユーリ」
 握ったままでいた指を離しながら、カロルは言った。ユーリはそのままの手で、漸くカロルの頭を緩く撫でた。机に腰掛けたまま、彼は上体を捻ってカロルを覗き込むようにしている。
「……覚えてたのか」何故か、ユーリは心底意外であるかのような口振りで、言った。「いや、違うな。忘れたことにはしないのか」
 彼の確認するような独白に、カロルは喉を鳴らして笑った。
「何それ?」
 甘やかされているのだろうな、と思う。狡い大人の曖昧さで、選択を押し付けられているのかも知れない、とも思う。どちらでもいい。
 好きにすれば良い、とユーリは思っていたのだろう。そこには期待も、諦念もない。カロルの出す、或いは選択する答えに、彼は一切の感情を持ち込む気が最初からないらしい。それこそ、五年前に約束を持ちかけたあの頃から既に、カロルの感情面における凡その選択権は譲り渡されていた。
「なかったことにしたいのかと思ってた」
「それ、ユーリの希望じゃないの?」
 ずっと、そう思っていた。今でも、半分くらいはそうだと思っている。ユーリは綺麗なばかりの人間ではなかったし、その方がカロルも楽だった。
「……楽だとはね、思うよ。確かに」
 けれど、なかったことには出来なかった。
「五年前、ユーリはやっぱり正しかった。ユーリが言った通り、思ってたよりずっと五年は短くて、」
 カロルの世界は変わった。五年前のあの頃でさえ、ナンを中心に廻っていた世界はユーリたちとの出会いで目まぐるしく移り変わっていった。それでも、ユーリに抱いた気持ちは偽り様のない本当のものであったし、その気持ちが変わってしまったとは、今も思わない。
「ユーリのことだけ考えていられたら良かったのに、今のボクにはそれが出来ない」
 死んでいった子供のこと、ギルドのこと、ナンのこと、ユーリのことも、世界のことも、同じだけの重さで頭の中に循っている。何一つ疎かには出来ず、手放せない。
 ユーリが意図した五年とは少し意味を違えてしまったかも知れない。それでも確かに、彼の言葉通りに世界は変わって、五年前に答えを出してしまわなかったことに、カロルは安堵していた。
「……オレなりに、逃げ道は残しておいてやろうと思ったんだけどな?」
「解るよ。でも駄目」
 言葉がまとまらない。成り行きのように話し出したせいで、何を言えば良いのか分からない。ただあと少し、時間が足りない。そう思ったら、口は自然に動いていた。
「だからね、ユーリ……あともう五年、待ってみてくれない?」
 口にして、言葉に出して、何かがすとん、と胸に落ち着いた。上体を勢い良く起こして、再度カロルは言った。
「そうだよ、ユーリ。あと五年、今度はユーリが待って。今のまま、こんな中途半端な状態じゃ、ボクはユーリに何も言えない」
 言葉よりも急に起き上がったカロルに、少し驚いたようにユーリは身動いだ。けれどカロルの言わんとするとろを即座に理解したらしく、その顔にはすぐに呆れた色が乗った。
「おいおいカロル先生……今から五年、っつったらオレもう三十の大台に乗っちまってるぜ?」
「うん、大丈夫。ボクは二十二歳で、とびっきりイイ男になってる」
「……そうじゃなくてだな?」
 ユーリの言いたいことも解ってしまったけれど、カロルは気が付かないふりをした。結局、彼がそれ以上の拒絶の言葉を口にすることはなかったからだ。或いは、先のカロルの要望に応えて甘やかしてくれているのかも知れない。
「ったく、好きにしろ」
 苦笑交じりにそう返して、ユーリは机の上から腰を浮かせた。
「そのつもり。五年なんてあっと言う間だよ。覚悟しておいてね、ユーリ」
「言うねぇ」
 くつくつ、とユーリは喉を鳴らす。気付かないふりをしているのはお互い様だ、とでも言うような、そんな笑い方だった。
 渡すものは渡したし、首領に挨拶もした。世間話も済んだ――そういった風体で、ユーリは机から滑り降りたそのままの足で、扉へと向かう。その後姿を、カロルは言葉もなく見送った。扉を開ける彼が、「じゃあな」とか、「また今度」だとか、そんなありふれた言葉を残して立ち去るのを待った。
 けれど、ユーリはドアノブに手を伸ばすことこそ途中でやめて、立ち止まってしまった。髪が揺れて、宵闇の中に薄ら白く浮き上がったうなじが覗いたことで彼が首を傾げたのだと知れる。何かを逡巡するかのような所作はそれだけで、ユーリは踵を返して改めてカロルに向き直った。
「ユーリ?」
 男はカロルの呼びかけにも応えず、口の端を吊り上げた。
 扉へ向かったときよりもほんの少しだけ歩調を速めて、けれど何処か緩慢さを感じさせる動きでユーリはカロルの座るに戻ってきた。そうして机越しに腰を屈めながらカロルに向かって腕を伸ばす。カロルはといえば、一連の気だるげな所作をぼんやりと眺めるばかりで特に彼の動きを妨げるようなことはしなかった。彼が何をしようとしているのかも、よくは判らなかった。だから、後頭部に腕が回ってユーリが唇を啄ばむまで、その意図するところを理解出来ずにいた。
 触れていた唇を僅かに離すと「わすれもの」、と言ってユーリは肩を震わせた。カロルは一度、ゆっくり瞬きをした後に離れた彼の唇を追った。

 

 



 

 

 


副題は、「カロル先生のプロポーズ☆大作戦」、でオネガイシマス。
(20100304)





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最終更新:2010年03月04日 03:20