フェローに会えなくてしょんぼりエステルと、何だか微妙に不機嫌なユーリお兄さんの話。


 

 甘い、花の匂いがする。ハルルのような重厚さはなく、空気に溶けるような微かなものだ。町の中に黄色く垂れ下がる花のアーチを見たから、もしかするとその薫りなのかも知れない。
 少し砂を孕んだ風に髪が揺れる。指先で前髪を抑えながら空を仰ぐ。雲もなく、遮るものの何一つない瑠璃色をした空は、わたしをほんの少しだけ落ち着かない気持ちにさせた。旅に出て、もうそれが当たり前であるようにすら思える程何度も目にした空が、異質に広がっている。結界のない空、その下で営まれる人々の生活、その異質さに胸が騒ぐ。
 もしも、とわたしは言った。つい数分前のことだ。口にした途端、わたしは酷く不安になった。その不安に、この穏やかな町は通じる気がする。
 世界の毒、フェロー、満月の子――お城の中でわたしが知らずにいたこと、知ってしまったこと、知らなくても生きてこれたこと、知らなくてもそこに在り続けた事実が、わたしに「もしも」と口走らせた。
 それを聞いてユーリは、少し怒っていたように思う。苛立っていたのかも知れない。隠そうとしているようだったけれど、解ってしまった。何にしても珍しいことがあるものだな、とわたしは思った。

 結界のない、不思議な、けれど平和な町を後にしてわたしたちは来た道を引き返した。フェローには遇えず、わたしの「秘密」も断片的にしか明かされず、成果といえば約束のものを、約束の場所の、約束の人に届けることが出来たことくらいだった。オアシスのほとりの町へと戻る途中、砂漠の水場でわたしは砂粒を掬ってはこぼしながら、そんなことばかりを考えていた。
 八方塞がりで、何も見えない。フェローにも遭えない。自分が何ものなのかも判らない。ままならない。
 強い陽射しにぼうっとする頭は、ろくなことを考えない。熱に浮かされたみたいに歪む視界に映るのは荒れ果てた岩砂漠ばかりだ。無価値な黄金がきらきら輝いている。わたしと同じ、役立たず――少し自棄になって胸の内で囁くと、気持ちは不思議と軽くなった。変なの、とわたしは笑う。
「お。楽しそうだな、エステル?」
「……ユーリ」
 暴力みたいな陽の光は、背の高い彼に遮られて弱まった。何となく、頭も少しすっきりとしている。
「もう水は汲んだのか?マンタイクまでまだあるぞ」
 はい、とわたしが応えるとユーリは満足そうに頷いた。流石にカロルやパティにするみたいに頭を撫でられたりはしなかったけれど、ユーリの眼差しは優しかった。もう、ヨームゲンのときのように怒ってはいないように見えた。
 けれど、わたしはまだ迷っていた。
 みんなを危険な目に遇わせて、辿り着いたヨームゲンでも多くのことは判らなくて、そうしてまた、わたしのせいでみんなも危険な目に遇ってしまうかも知れない。死なせてしまうかも知れない。考えると、怒るユーリの気持ちも、目を逸らしたくないと解っている本当の自分の気持ちも無かったことにして、城に帰るのが一番なのだとそう、思えてしまう。
 だからわたしは、どうしてもユーリを真っすぐに見ていられなくて、すぐに視線を砂の上に戻してしまった。けれどユーリは気付かない。砂の上に、わたしの興味を惹くものでもあったのか、というような様子で無価値なばかりの黄金を覗き込む。彼が屈むと、わたしと太陽を遮る影はますます大きくなった。
「でもまあ、良かったよな、エステル」
 腰を屈めたまま、ユーリが言った。言葉の意味を掴み兼ねて、わたしは思いがけず顔を上げる。でも、目は合わなかった。彼の視線はわたしが見ていた、耀くだけの金色に向けられたままだったからだ。
「……何が、です?」
「んー?いろいろ」
「いろいろ、じゃ分かりません」
「断片的ではあるけどエステルのことが少し分かったし、あの箱の中身も……まあ、取り敢えずは片付いた。全くの無駄足になんなくて良かった」
 わたしの落とした砂粒の山を、掻き混ぜて、崩しながらユーリは言った。わたしはというと、何だそのことか、と少しだけ落胆して肩を落とした。彼なら、もしかしたらこの鬱々とした気持ちを晴らすような言葉を掛けてくれるのではないか、と身勝手な期待をしてしまったからだ。
「……良く、ありません」
 とても小さな声だった筈なのに、ユーリは笑いさえ滲ませて、何でだよ、とやっぱり視線を合わせないまま言った。
「やっぱりわたし、みんなを危ない目に遇わせてしまいました。なのに、」
 言葉に詰まる。こんなことを、ユーリに言いたいわけじゃない。
 砂を掻くユーリの手が止まる。呆れただろうか、また怒らせてしまったのかも知れない。不安に駆られるわたしは、ユーリの指先ばかりを見てる。剣を握る彼の爪はいつも短く切り揃えられていて、そこに細かな砂の粒が入り込んでいるのが見えた。
「でも、お前が迷ってるお陰で、助かるやつだって居る」
 そこでやっと顔を上げたユーリは、わたしを擦り抜けてオアシスの水辺へと視線を投げた。追うように、わたしも振り返る。
 みんなもう水を汲み終わっているのに、水場からちっとも離れようとしない。リタもパティも素足を水に浸したままだし、カロルに到っては腰まで浸かっている。少し離れた木陰ではジュディスが微笑ましく三人を眺めていて、ラピードはそんな彼女に寄り添っていた。レイヴンだけは空に浮かぶ海月のような月が気になるのか、出発を促すように水辺から少し離れた岩の傍に立っている。ユーリが見ていたのは、その近くだ。岩の陰の、水辺に程近い砂地には疲労の色が隠しきれない男女が二人、立っていた。二人は夫婦で、マンタイクでは幼い子供たちが待っている。だから、熱中症の疲労感から快復しきれない身体を引き摺り、慣れない強行軍に戸惑いながらも、一刻も早く子供たちの許へ帰りたいのだろう。そんな彼らは、わたしの無謀な行動がなければ人知れず、乾いて死んでいったのだろうか、と思うと何だか不思議な気持ちだった。
 けれど、ユーリが言いたいことは、解った。本当は自分で気が付かなくてはいけなかったのだろうけど、今のわたしにはそんな余裕はなくて、それが少し、悔しかった。
 夫婦から視線をユーリに戻すと、彼はわたしがしていたみたいに砂を掬ってはこぼしていた。わたしの意識が自分に向いていることに気付くと、悪戯っぽく笑った。何もない砂地に、この人は何を見ているのだろう、とわたしはぼんやりと考えていた。

 ユーリが居ないことに最初に気が付くのは、いつもラピードだった。彼はいつも、その鋭い鼻でユーリを追っていて、そんなラピードをわたしはいつも目で追っていた。だからその夜、ユーリが居ないことに二番目に気が付いたのはわたしだった。
 扉を潜り、夜の深みに消えようとする長い尾を追う。帝国の圧制から解放されたスボクメーネの町の賑わいは、未だ眠るには早いことをわたしに伝える。その酒気を帯びた喧騒を、わたしは揺れる尾を見失わないよう縫うように追いかけた。ラピードは追いかけるわたしを知ってか知らずか、素っ気なく大通りから脇の茂みへと身を翻す。そんなところも飼い主にそっくりだ。
 腰にも届きそうな茂みと、夜空を覆うように黒々と聳え立つ棕櫚の間を分け入り進むと、すぐにラピードの姿を見つけた。そしてその視線の先には、ユーリと――ユーリの幼馴染みで、帝国の騎士でもあるフレン・シーフォが居た。
 ラゴウを殺した、キュモールを殺した――ユーリが、殺した。二人の間で交わされる、耳を塞ぎたくなるようなやり取りに、けれどわたしの足はまるで棒になってしまったかのように、動かない。目を逸らしたくなるような、ユーリの苛立つ背中が棕櫚の葉の間を縫うように、透かして見える。
 もしも、とわたしは言った。ついこの間のことだ。それを聞いてユーリは、少し怒っていたように思う。苛立っていたのかも知れない。隠そうとしているようだったけれど、解ってしまった。何にしても珍しいことがあるものだな、とわたしは思った。
 彼の怒りにも似た苛立ちが、今は分かる。もしも、なんて口にされて、不安だったのはわたしじゃない。ユーリだ。もしもの話、もしもの未来、もしも自分がラゴウを殺していなかったら――そんな可能性を考えてしまう、自分への怒りと、苛立ち、そして不安があのときのユーリからは滲み出ていた。わたしは、気付かなかった。
 わたしと、そしてラピードを見つけたユーリは動揺を隠せず、狼狽えた様子だった。それは、仕方がないと思う。けれど、そんな不安はすぐになりを潜めて、代わりに彼はわたしに問うてきた。不安を押し隠す為の、問いだった。
 今のわたしは明確な答えを持たない。わたしもまた、自分のことで不安で不安で仕方がないからだ。だからといって、フレンのような強さで彼を断罪することも出来ない。でも、わたしはユーリの傍で、ユーリ見てきて、ユーリのしたことを知った上で、それでもまだ彼の傍に居たいと思っている。彼の、味方であれたら良いと思っている。そんな気持ちが少しでも伝われば良いのに――そう思いながらわたしは、いつか出会って間もない頃にそうしたように、真っ直ぐ彼に手を差し出した。












く ら く ら と す な ち で お ど る 。
She danced on the sandsGiddily.
20100221






  

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2010年02月21日 02:54