ラスボス戦~後日談の間の話ですが、ひどいネタバレはないと思います。
書き終わった今も、気持ちだけはラムアスのつもりです。(笑)




 目が覚めた。
 窓から差し込む夜光で、灯りのない部屋は仄蒼く沈んでいる。薄い闇の中、サイドテーブルの上へと目を凝らせば、時計の針は日付が変わる直前に寝台へと潜り込んだときからそう進んではいない。
 疲れていない筈はない。そうは思っても、目が冴えてしまった。寝付けない。
 ウィンドルには王が戻り、各国の大輝晶石[バルキネアス]の機能も正常に戻った。役目を終えたラント領駐屯のストラタ軍総督は、本国への帰還を明日に控えている。
 世界には平和が訪れた。
 何もかもが元通りというわけではなかったが、それでも飢餓や国境紛争、そして内乱というものは緩やかにではあるが取り攫われ、リチャードの罪の跡と、夢を断たれた俺の未来とが残された。
 それらの結果に、後悔や感慨はない。ただ、自分たちの行動が導きだした答えとして、事実として、受け止めていた。だから俺には、確かに後悔も感慨もなかったが、同時に不安のようなものもなかった。
 暗い部屋の中、寝台の上で仰向けに天井を見上げたまま、左腕を持ち上げる。
 濃い暗闇の中、今までにないほど事物ははっきりと輪郭を浮き彫りにし、色彩を欠いた視界はけれど奇妙に全ての詳細を映し出していた。持ち上げた手で顔の左側半分を覆っても、目に映る世界は変わらない。
 胸が高鳴る。無意味な緊張が全身を支配していて、眠れない。
 俺は、眠る為ではなく、ただ目を伏せた。虫の声すら聞こえないほどの深い夜の底で、心音を辿った。心なしかいつもより速く、そして大きく響くように感じる。
 七年以上もの間、彼らはこんな夜を過ごしてきたのだろうか、と俺は思った。
 目を薄く開いても、視界は相変わらず鮮明だった。
 ゆっくりと、上体を起こすと寝台の脇に揃えて置かれた靴へと足を滑らせる。籠もっていた熱はすぐに夜気に消えたが、ガウンを羽織るほどの肌寒さもなくそのまま立ち上がった。隣り合うもう一方の寝台は空のままだったので、弟はまだ執務室に居るのだろうな、と思った。
 廊下に出ると、必要最低限以外の照明は落ちていた。それでも、部屋の中に比べると随分明るいのだが、その差異に目が眩むことはなかった。
 左目を擦りながら、静寂に沈んだ屋敷の中を歩く。
 そういえば弟は照明を落とすと眠れないのだったとか、だから何かしらの不安に駆られて彼が起き抜けて来ても、怖い思いをしなくて済むように屋敷はいつも、真夜中も、ほんの少しだけ明るいのだったとか、そんなことを思い出した。そして、照明は怯える子供が去って行ってしまった後も、父が戦死したその後も、変わらず屋敷の中に灯り続けていた。
 階段の踊り場まで来て、足を止める。壁に掲げられた額の中で笑う、九つの頃の自分と目が合った。あの時、幾らか休憩を挟んだものの足は相当に痺れていて笑顔は強ばったものになっていただろうに、旨く描いて貰ったものだなアスベル・ラント、と胸の内で呟いて口の端を上げ、笑みを返す。それから、記憶の中とあまり変わらない父の精悍な顔を一瞥した。けれどそれは本当に少しの間で、すぐに視線を外して俺は階段を下りた。
 固く閉ざされた執務室からは人の気配がする。明日もまた早いのにまだ起きているのか、と思いはしたが扉を叩くことはしなかった。今、俺が下手に声を掛けるよりも、このまま素通りした方が弟は早く眠れるだろう。
 だから俺は、足音を殺して扉から離れた。すると、執務室とは反対側の客間の扉がそろそろと開かれて、隙間からいつもは結っている長い髪を解いた姿の少女が、眠たそうに目を擦りながら顔を覗かせた。
「ソフィ。……すまない、起こしてしまったか」
 名前を呼び、声を掛けると少女は無言で首を左右に振った。
 正式に屋敷で暮らすことになったソフィは、部屋が用意されるまでは一階の客間に寝泊まりしていた。気配に敏感な彼女は、二階で眠っていた筈の俺が部屋から出たことに気付いて目を覚ましてしまったのだろう。
「アスベル、眠れない?」
 小さく首を傾けながら、ソフィが問うてきた。どう答えたものだろう、とほんの少しだけ逡巡する。眠れないのは誰なのだろう、と考える。
 けれど結局、俺はソフィの問いを軽く頷くことによって肯定した。眠れずにいるのが何ものであれ、こうして部屋を抜け出してきたのは俺だった。そしてその理由を上手く説明出来そうになかったので、ただ頷いた。
「ああ。すっかり目が冴えてしまったみいだ。それで、厨房で水でも飲もうかと思ったんだよ」
「……わたしも行く」
 柔らかく、癖のない髪を撫でながら言うと、釣り上がり気味の大きな双眸と共に、言葉が返された。
「でも、明日も早いだろ?本当にただ水を飲みに行くだけだし……」
「へいき。それにね、シェリアに教わってブレンドしたハーブティーがあるの。よく眠れるんだって」
 淹れてあげる、と言いながらソフィは俺の手を取る。細くて小さな指は温かく乾いていて、眠たいのだろうに無理をしているな、と思うと微笑ましくなった。
 本当はすぐにでも部屋に戻るよう言わなくてはならないのだろうが、不思議と絡めた指先の温もりにほだされて、厨房にまで来てしまった。使う者の居ない夜の厨房は少し冷える。そして暗かった。
「真っ暗……」
「うーん。流石にこの時間じゃ、厨房にまで灯りは点いてない、か」
 今度は俺が少女の手を引く形で、厨房の中へと踏み入る。記憶に頼るまでもなく、やけに開けた視界に照明のスイッチを捉えて入れると、周囲は徐々に明らみ始めた。輝石[クリアス]が完全に充填すれば、すぐに明るくなるだろう。
「アスベルは座ってて」
 そう言って離れて行く、少女の指先の温もりが名残惜しい。
「何か手伝おうか?」
「大丈夫。一人でも出来るよ」
 フレデリックにでも頼んだのだろう、棚の少し高い位置に置かれた包みに背伸びをして手を伸ばす少女に申し出ると、やんわりと断られた。
 そうなるとすっかりやることもないので、俺は厨房の中央に置かれた、使用人用のテーブル脇の椅子を引いて、腰掛けた。その間にもソフィは忙しなくケトルを火に掛けたり、ポットにハーブティーを掬い入れたりしている。
「ティーカップ、どれなら使ってもいい?」
「ああ、そうだな……いや、それは俺が並べるよ」
 言いながら、座ったばかりの椅子から立ち上がりソフィの脇に立つ。天井間近に備え付けられた棚は、俺も手を伸ばしてやっと届くくらいの高さだ。彼女の脚力を以ってすれば大したことはないのかも知れないが、厨房で跳んだり跳ねたりという光景はあまり見たくはなかった。
 少し埃掛かった戸棚は、あまり使われない食器が仕舞い込まれている。母が嫁入り道具と一緒に持ってきた花柄のティーカップとソーサーや、父と親交のあったというグレルサイドのデール公から譲り受けたという白亜の器などだ。俺自身はあまり器の見目に頓着はなかったが、折角のソフィの申し出なのだから、と花柄のティーカップに手を伸ばす。
「きれいだね。何の花かな?」
 ソーサーに伏せられたカップを一つずつ手渡すと、ソフィが言った。
「花のことは俺はちょっと……シェリアなら知ってるかもな。そういえば、ソフィが育てていた花にも似たようなのがなかったか?」
 蛇口を捻り、簡単にカップを濯ぎながら今度は俺がソフィに問うた。すると少女は逡巡するように首を小さく傾けて、それから左右に振った。
「ううん。形は似てるけど、うちの子とは色が違うみたい」
「そっか。それじゃあやっぱり、シェリアに訊かないと分からないみたいだな」
「今度シェリアが帰ってきたら、訊いてみるね」
「ああ。それに、もしかしたらヒューバートが昔読んでた図鑑なんかに載ってたりするかも知れないし……そっちも探しておくよ」
「ありがとう、アスベル」
 ティーカップとソーサーの水気を切って布巾で拭く俺の隣で、ソフィは沸いたお湯をポットに注ぎ始めた。肌寒い厨房の中に、薬草の匂いが湯気と共に広がって行く。ブレンドした、と言っていたので一種類だけということはないだろうが、何処かで嗅いだことのある匂いも混ざっているように感じられた。勿論、名前は出てこない。甘い匂いと、柑橘類を思わせる匂いが少し判る程度だ。
 その辺りも、幼馴染みの少女なら即答するのだろうな、と考えながらポットから視線を外すと湯気に霞む視界の向こうに、火にくべられた片手鍋を見止めた。
「……ソフィ、あれは?」
「ミルク。あったかくして混ぜるの」
 言われてみて納得する。そういえば騎士学校に在籍していた時分にも、疲れていない筈がないのに却って眠れない夜というものがあった。そういったときはホットミルクが良いのだと、同期の女生徒に教えて貰って飲んだ記憶がある。ただし、そのときミルクに混ぜていたのはハーブティーではなく、教官らの目を盗んで手に入れたブランデーやウィスキーだった。当時のルームメイトに口止めを兼ねてか半ば強制的に混入されたのだが、今思うとよく見つからなかったものだ、と背筋が薄ら寒くなる。
 それでもブランデーを入れたミルクの香りは、そう悪いものではなかった。今度、花のリキュールでも手に入ったらソフィにも飲ませてみても良いかも知れない。
 ソーサーにティーカップをセットすると、ソフィはそこにハーブティーを注ぎ、それから熱したミルクを流し込んだ。漂う薬草の薫りが、心なしか柔らかくなる。
「いい匂いだな。ソフィがブレンドした、って言っていたけど何が入ってるんだ?」
 名前を挙げられてもきっと分からないだろうな、と思いながら、それでも訊いた。
 ソフィは、何か新しいことを教えられるといつも嬉しそうに誰かにその内容を伝えていた。そうして、そんな嬉しそうなソフィの表情が俺は好きだった。
 「えっとね……カモミールと、マジョラムと……」思った通りに、ソフィは弾む声で指折りに薬草の名前を挙げていく。「あと、レモン……なんとか?」
 淀みなく流れていたソフィの声が揺れる。俺はというと、レモン何某が柑橘類の薫りの原因か、と得心がいった。
「何だか……酸っぱそうだな。と、いうより分離しそうだ」
 想像して、正直飲みたくないな、と思った。
「違うの、アスベル。匂いがレモンに似てるだけだよ。葉っぱはね、ミントみたいな形をしてるの」
 ソフィに促されてポットを覗いてはみたものの、一度乾燥させている上に他のハーブも混ざってしまっていて判別はつかなかった。辛うじて白く濡れた花弁と大きく黄色い花粉の部分とが見えたが、ソフィの言うミントに似てるというのは葉の形状のことだろうから、それは違うのだろうな、と思った。
「今度、ちゃんと現物を見せてもらうよ」
 諦めてポットから顔を上げると、丁度ソフィが蜂蜜の小瓶の蓋を開けるところだった。ラベルにはクローバーの絵が描かれている。蜂蜜をスプーンで掬いながら、ソフィは俺の返した言葉に嬉しそうに頷いた。
 改めて椅子に座り、ハーブティーを淹れて貰ったばかりのカップを手に取る。すぐに口に含むことはせずに蜂蜜と混ざり合った甘い薫りを嗅ぎながら、これは本格的にまた歯を磨かなければなあ、と俺はぼんやりと思う。そうする間に、自分の飲む分も用意を終えたソフィが、向かい合う椅子に腰を落ち着けた。
「アスベル、どう?美味しい?」
 テーブルから身を乗り出すようにして、開口一番に訊かれた。
「まだ飲んでない」
「早く飲んで。飲んで」
「折角ソフィが淹れてくれたのに、そんなに急いだら勿体ないじゃないか」
「いいから、早く」
 急かす少女の気持ちが分からないでもなかったので、それ以上焦らすことはせずに俺はカップに唇を着けた。口当たりの良いミルクと蜂蜜の甘やかさが先ず口内に広がり、遅れて果実にも似たハーブの薫りが鼻腔を擽った。
「うん。美味しい」
 素直に感想を述べると、少女はそこでやっと安心したのか「良かった」、とひとつ胸を撫で下ろしてからカップを手に取った。
 そんな彼女の所作を微笑ましく思いながら、そういえば、とカップをソーサーに戻して俺も胸元に手の平を押し当てた。奇妙な胸騒ぎは鳴りを潜めて、今はただ穏やかに脈打っている。
「アスベル、眠れそう?」
「……そうだな。ソフィのお陰で、よく眠れそうだ」
 破顔して、少女は頷く。つられて、俺も笑った。
 ソフィが嬉しそうに微笑むと、俺も嬉しい。そうした感情や、伝えたい感謝の思いは誰のものだろう、と俺は思う。どうかそれら暖かく優しい感情が、俺だけのものでなければ良い、そう思う。
 それから、俺とソフィはホットミルクを飲みながら、他愛無い話をした。ヒューバートはまだ起きてるんだろうかとか、教官とパスカルはもうフェンデルに着いただろうかとか、シェリアが帰ってきたら屋敷でもハーブを育てようだとか、不思議と話は尽きなかった。
「リチャードは……リチャードも、お城に帰ったんだよね」
 ソフィは、溢すように小さく呟いた。そのとき、同じくらい小さく、けれど強く、胸が脈打った気がした。それは本当に一瞬のことでしかなかったが、それでも確かに、俺自身とは一線を画す感情が過った。
「……ああ。これから、あいつも大変だろうけど、」
「うん。わたしたちにも、何か手伝えることがあるといいね」
 俺が言葉を続けるよりも先に、ソフィに言われてしまった。けれど、全くその通りだと思っていた俺は頷いて、彼女の言葉を肯定した。ただ、ソフィがそんな風に誰かを思いやる度――例えば、それは寂しさを拭うぬいぐるみだったり、ミルクと蜂蜜の香る薬湯だったり、とその時々によって形は違うけれど、そんな彼女の些細な変化に俺はその都度驚いて、そうして嬉しくもなる。
「アスベル、嬉しいときの顔してる」
「ソフィだって、似たようなもんだ」
 自覚がなかったのか、指摘されるとソフィは大きな目をますます大きく見開いて瞬いた。そんなあどけない仕草に噴き出す俺に、一転して少女は頬を膨らませる。こんな表情も、彼女はするようになったのだった。
 身を乗り出して、少女の頭を一撫でして、そうしてまたティーカップに手を伸ばす。そんな些細なことで少女はまた笑顔になって、同じようにカップに唇を押し当てた。
 不快ではない沈黙が、俺とソフィとの間に横たわる。
 時折、吹き付ける風に窓が揺れる音がする。鳥の声も、虫の声も相変わらず聞こえない。
 不意に、ソフィが顔を上げた。弾かれるように、と形容するには緩やかな動作だったが、指向性のある動きにつられて、俺も同じように顔を上げた。
「……誰か来る」
 呟く少女の声に警戒の色は滲まず、端的に事実だけを口にした、といった様子だ。だから、というわけでもなかったが、俺は一度だけ肩越しに扉を一瞥して、それからまた頬杖を突いてミルクを口に含んだ。恐らくはヒューバートだろう、と思ったからだ。根拠はなかったので、単なる希望かも知れない。
 ソフィより幾らか遅れて、俺も廊下から響く足音を知覚する。規則正しく響く几帳面さが滲む足音は、単なる希望を確信へと裏付けた。厨房の前を素通りすることなく、ぴたりと止まる。
 間を置いて扉が開いたのは、こんな夜更けに厨房から人の気配がすることを訝しんでいたのだろう。母譲りの薄い色の髪を揺らして、弟が顔を覗かせた。
「兄さん、ソフィ……まだ起きていたんですか」
 呆れ半分、労り半分、といった様子でヒューバートは言った。
「仕事は一段落したのか?」
「ええ。急ぎの案件は一通り終えました。あとは船に乗ってから、ゆっくり片付けることにします。引き継ぎの件もありますから、僕が発った後で構いませんので兄さんも一通り目を通しておいて下さい」
 義務的な弟の言葉は、けれど何処か柔らかい。ソフィと目を合わせて笑うと、ヒューバートは訝しげに眉を潜めて、それから肩を竦めて溜め息を吐いた。
「俺はちょっと眠れなくてさ。そうしたらソフィがホットミルクを淹れてくれたんだ。お前もこれから寝るんなら、淹れて貰ったらどうだ?」
 提案すると、ヒューバートは先ず納得したといった風に頷いて、それから小さく首を振った。
「いえ、僕は結構です。本当にもう、水を飲んで眠るところでしたから」
 言って流しへ向かうヒューバートに、拒絶の色はない。ただもう一人分、新たにホットミルクを用意するというソフィの手間を考えての、それは気遣いから発せられた言葉だった。対するソフィは俺に勧めたときと同様、ヒューバートにもハーブティーを飲んで欲しかったようで彼の不器用な心遣いを少し残念に思っているようだった。
「そうなのか?美味しいのに、残念だな。俺はもう一杯、飲みたいと思ってるくらいなのに」
 ソフィとヒューバート、双方が歩み寄る為の助け舟として、俺はティーカップに口を押し当てたまま言った。勿論、もう一杯飲んでも良いというのは本音でもあったから口にした。駄目押しついでに視線を寄越せば、俺の思惑を察したらしい弟は少し面白くなさそうに鼻に皺を寄せて、それでも「なら、僕も便乗させて貰いましょうか」、と眼鏡を押し上げて呟いた。
 ヒューバートの遠回しな歩み寄りの言葉に少女はその意味を一瞬掴み兼ねて、それから勢い良く立ち上がった。
「すぐに用意するね」
「ありがとうございます。でも、急がなくて良いですよ」
 入れ替わるようにして、ヒューバートは腰を落ち着ける。それから恨みがましそうな目で俺を睨んで来るものだから、今度はこちらが肩を竦めることになった。
 ヒューバートの視線をかわしがてら立ち上がると、ポットと片手鍋を再度火に掛けるソフィの横に立って、ティーカップとソーサーを取り出す。
ソフィは俺から一式を受け取ると、後は一人でも大丈夫だと言い張るので、結局またすぐに席に戻ることになった。
 先刻までソフィが座っていた椅子の、すぐ隣に腰を下ろしていたヒューバートは俺が席に戻ってもソフィの背中ばかりを視線で追い続けていた。それでもこちらの様子がまるで視界に入っていないわけではないらしく、視線はソフィの方へと向けたまま小さな声で「何だか、落ち着きませんね」、と呟いた。
 弟の意外な言葉に、思わず口元が緩む。
「それは……確かに。俺も」
 同意すると、今度こそヒューバートはソフィから視線を外して、真っ直ぐに俺を見た。表情は乏しいが、微妙に下がった眉尻が弟の困惑を如実に伝えてくる。でも、指摘することはしなかった。
 俺はヒューバートの言葉に確かに同意はしたけれど、彼の言葉だけが全てではなかった。成る程、と底に溜まって融け損ねた蜂蜜を流し込みながら、思う。
 落ち着かないけれど、悪い気はしない。誰かが誰かを、不器用にも想うその様子は、とても愛しくて、尊い。
「でもまあ、悪くはないと思いますよ」
「そうだな。……俺もそう思う」
「……兄さん、さっきからそればかりですね。適当に相槌を打ってるだけなんじゃないですか?」
 確かに弟の言葉全てをそのままに肯定していたわけではないので、指摘されて俺は曖昧に笑うしか出来なかった。更にヒューバートは口を開こうとしたが、ソフィが湯気のたつティーカップを彼に差し出すことで続く言葉は遮られてしまう。
「ヒューバート、お疲れさま」
 ソフィは俺に向けてくれたのと同じに、柔らかにヒューバートに微笑みかけて、労いの言葉を送った。
「……ありがとうございます、ソフィ」
 言葉を返すヒューバートも、ソフィに向き直ると同じように微笑を湛えてカップを受け取る。そこにはただ、慈しみや愛しさといったものが溢れていて、俺はそれがとても嬉しかった。
 この世界が、決して美しいものばかりではないことを俺は知っている。絶望や憎悪に彩られているということを知っている。けれど同じように俺は、命のない器に感情が宿るという奇跡を知っている。決して年月が奪えはしないものがあるという幸福を、知っている。
 だから、今もなお胎衣に眠る彼が世界に触れたそのときに、微笑むことが出来れば良い。かつては命がなかった器や、孤独と憎しみを募らせるしかなかった弟が今そうであるように、心から安らぎ、笑いあえる誰かが彼の傍に居れば良いと、そう、俺は願わずにはいられないのだった。


眠れぬ夜の小さなお話 NINNA NANNA
20100124



書き終わってみたらラムアスどころかラムダのラの字もありませんでしたorz
(20100124)




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最終更新:2010年01月24日 01:32