ALONEの後、A Socrates Gone Madの前のお話です。
モブキャラの死亡や暴力?描写と何故か虫とか出てきます。苦手な方はお逃げ下さい。
デュークとエルシフルが当サイト通常の、7割増しくらい駄目な感じです。酷いです。



 空が燃えていた。山の夜の闇は深く、濃い。その、闇色をした空を、大地から立ち上る炎が明々と照らしていた。空だけではない。舐めるように這う炎は、「敵」から身を潜めた岩肌をも朱色に染めている。秘め事を白日の元に曝け出すという容赦のない無垢な残酷さは、太陽の神性にも似ていた。
 身を潜めた岩肌に、こめかみを押し当てる。痛みにも似た鋭利な感触に目を細めた。
 大勢、死んだ。
 テムザ山中腹、報告のあった「敵」を視認し、キャナリ隊は攻撃を仕掛けた。兵器魔導器[ヘブローブラスティア]による遠距離攻撃だ。それは完全な奇襲で、「敵」の出鼻は挫かれる筈だった。だが、作戦は失敗に終わる。魔導器[ブラスティア]のエネルギー充填回路の異常による暴発と、その爆音から隊の位置を「敵」に知られた。
 「敵」――人を、滅ぼそうという明確な意志を持った彼らの名前を、デューク・バンタレイは知っていた。
 始祖の隷長[エンテレケイア]という、終わりの名を冠する旧い組織だ。種族、とは少し違う。彼らは、全ての生物の遺伝子に組み込まれた星との親和性が異常発達した一代種なのだという。その本能と能力――謂わば本質とは星への働きかけであり、万物の根源(アルケー)であるエアルの調停にある。
 デュークは、知っていた。「敵」は、彼らは、人を滅ぼすものではない。星という名の世界の守護者でしかない。
 その彼らが、人を明確な意志の許に襲う、その理由を、デュークは知っていた。
 星が、人を、「敵」と見なした。その事実に他ならない。知っていて、デュークは口をつぐんだ。誰に事実を明かすこともなく、ただ剣を手にした。迷いはなかった。だが、心の在処など知れなかった。
 行動を起こす、ただそれだけのことに理由が要る愚かさを嗤う声を思い出す。こんなときにばかり、嫌というほど思い知らされる。
 理由が欲しい。今、ここで剣を握る理由が欲しい。事実を明かさずにいる理由でも構わない。
 だが、そんなものは何処にもなかった。デュークの中に確固たるものなど一つも存在はしないのだった。
 人の輪に馴染めずに、境界に立ち続けることを選んだのは他ならぬ自分自身だ。それほどまでに、人という種に執着はなかった。それが今、デュークは確固たる理由など何も得られないままに人に身を寄せ、「敵」を斬り伏せている。確固たる理由など何一つ持たない為に、彼らの真実を告げられず何人もの見知った顔が物言わぬ肉塊に成り果てた。
 理由が、欲しかった。そうでなければ、デュークは今自分が何処に立っているのかすら分からない。
 鼓動の音が、いやに耳につく。鼓動だけではなく、呼吸の音すら煩くてかなわない。それなのに、耳鳴りが酷い。着込んだ軽鎧の下、膚を汗が伝うその感触が煩わしかった。周囲は「敵」の炎で腹が立つほど見通しが良く、これでは身を隠す意味すら疑わしいと思うのに、何故か、自分が今何処に居るのかデュークには分からなかった。
 鼓動と、呼吸――そして耳鳴り、それだけが全てだ。音が遠い。音だけでなく、何もかもが遠い。
「――デューク・バンタレイ!」
 呼ばれて、肩を掴まれる。息が、止まる。
「息を吐き出しなさい、デューク!」
 鋭く、女の声が飛んだ。その一声に全ての音が消失する。一瞬の錯覚の後、吸い続けて飽和状態になった酸素を逃がすようにして、吐き出す。すると、それが合図だったとでもいうようにして急激に周囲の音が認識された。
 ゆっくり、息を吸う。そして、吐き出す。
 ここは、デズエール大陸北部に位置するテムザの山だ。山の、中腹だ。クリティア族の町で、真っ先に「敵」の標的になった。だから、帝国が隊を派遣した。だが、町は既に壊滅的なダメージを受け、「敵」に奇襲を仕掛けるものの返り討ちにあった。それが現状だ。それが、今デュークの置かれている、戦場だ。
 応援はいつ来るとも知れない。デュークの所属するキャナリ隊は、これまでの戦いで既に五分の三が戦闘不能にまで追いやられている。壊滅するのは時間の問題だ。
 「敵」の数は多かったが、それは問題ではなかった。出鼻を挫かれたこと、それも隊長の冷静な判断が高じてすぐに体勢は立て直された。「敵」の過半数は始祖の隷長[エンテレケイア]に使役される魔物の類いでしかなく(勿論、デュークを除く他の隊員には、その辺りの判別はついていないだろうが)、始祖の隷長[エンテレケイア]そのものも単独での行動が多いせいか数人で取り囲んでしまえば力押しで罷り通ってしまうケースが殆んどだった。デューク自身、これでは例えこの中に「親友」が混ざっていたとしても知らぬ間に斬り伏せてしまうだろうな、などと考える余裕すらあった。
 だが、天から降り注ぐ光が全ての戦局を塗り替えた。
 まばゆい光が過ぎ去ると、そこには大地を舐め尽くさんばかりの炎が渦巻いていた。テムザの豊かな緑は燃え上がり、岩壁は削れ、抉られていた。
 溶けた鎧を肌に張り付け、またその肌すら肉ごと崩れ落ちそうになりながら、それでも苦悶の声の合間に誰かが空を仰ぎ、言った。
「花だ」
 輝く、炎の花だ。屍肉に咲く、死の花[トーテンブルーメ]だ。
 だが、デュークはその花の真の名前すら、知っていた。知っていて、言わずにいた。言わずに、ここに居た。
 空を仰ぐ。天を見据える。二つ目の太陽を睨み付ける。
「――ゾハート……!」
 戦禍のただ中で、デュークはその名を呼んだ。それは人を滅ぼそうとする星の意志、その先ぶれの中心に在るものの名前だった。



彼は誰 The blue hour
20090913



 蝗が地の面を覆い、地は見えなくなる。
 また、雹の害を免れて、貴方がたに残されているものを食い尽くし、
 野に生えている貴方がたの木をみな食い尽くす。
 

〈『出エジプト記』 十の災い 10:5〉

 


 明滅を繰り返す空が、遠く連なる山脈の陰を浮き彫りにする。破壊の音は、この岩場にまでは届かない。また、太陽が沈みいよいよ辺りを暗闇が支配しようというこの時間は、フェローの視界を陰影のない一色に塗り潰してしまっている。遠くの山々も、何れは目視出来なくなるだろう。
 風の音と、虫の鳴き声だけがフェローの周囲にあった。静かだった。
 穏やかな静けさの中に、羽音が雑ざる。自身のような翼の羽ばたきがもたらすものではない、それは翅が細かく震える音だ。
 塗り込められたかのような闇に、まとわりつく「虫」の気配を感じる。首を一振りするが離れず、尾で薙いで払い落とすとそれを踏み付ける。すると思っていたよりもずっと近い場所から、下品な哄笑が上がった。
「ひっどいなー。もっと優しくしてくれればいいのに!」
 明快な物言いとは裏腹に声はくぐもっていた。
 声のした方へと視線を向ければ、ひっそりとその人型はフェローの傍らに居た。この程度の距離なら、暗闇でも相手の輪郭を捉えることは出来る。
 その人型は、男だった。作りの粗末な日除けを頭に乗せ、フェローの鎮座する岩を見上げている。仕草にも物言いにも稚拙さの混じる、「人」としては若輩に分類される外見だということが見て取れる。
 だが、男は人ではなかった。フェローの座する岩山は、人の子の足では到底辿り着けはしない。自力で辿り着けるものとなれば、それはフェローと同様の有翼の種、ということになる。そうでなければ、これもまたフェロー同様、始祖の隷長[エンテレケイア]という可能性が高くなる。そして、この人型は後者だった。
「羽虫か……いつ来た」
「ノックしたけど返事がなかったので土足で失礼」
 男の声は、やはり何処か不鮮明で聞き取りづらい。何か口に入れて喋っているのだ、とフェローは思った。不可解さを隠す気もないフェローの様子を察したというわけではないのだろうが、男の姿をした始祖の隷長[エンテレケイア]は口内に含んでいたものを吐き棄てた。岩肌に、軽い金属音が響く。
「こっちは一仕事終わらせたとこでさ。ちょっと休憩」
 濃い闇に、目を凝らす。男の足元に吐き棄てられた金属片は、魔導器[ブラスティア]の一部であるように見えた。それも、恐らくは人間共が行使する中でも大量殺戮兵器に属するだろう強力な、そして始祖の隷長[エンテレケイア]が最も警戒する新型の魔導器[ブラスティア]だ。まだ空が明るい内に、最初に起きた派手な爆発はこの男が引き起こしたものらしい。
 男はフェローの踏み潰した虫と同じ、赤黒い飛蝗に似た虫を指先に這わせながら、鼻歌のようなものを口ずさみ北の空を眺めている。
「魔導器[ブラスティア]一つ潰したところで、早々に戦線を退いたのか、虫よ。よくも彼女が許したものだ」
「派手に動くのは趣味じゃないからさ。仕方がない。老体に鞭打って猿共の駆除を買って出たんだ、姫さまも労いこそすれど責めることはないだろ」
 男は肩を竦める。指先の虫が翅を細やかに振動させ、飛んだ。だが、男から離れることはなく、まとわりつくように一定の距離を保ったまま飛び回っている。
 そして、フェローの聴覚が捉えていたのはその一匹の虫の羽音だけではなかった。闇の中に、尚色濃く蠢く無数の羽音を感じる。瞬きの間に幾万回と繰り返される羽ばたきは、その圧倒的な個体数にしては控え目だ。それだけで知性のない、ただの「虫」ではないのだということが知れる。意識して耳を傾けなければ居るということにも気付かない、けれど圧倒的な質量を以ってそこに在るという矛盾を孕んだ、それは軍勢だった。
 遠方を見通す為に持ち上げていた首をフェローは岩肌に伏せる。閉じていても開いていても大差のない視界に目蓋を引き下ろす瞬間、また一つ大きな炎が夜空を明るく照らし出した。
「おおー……ゾハートはやることがいちいち派手だなー。やっぱパフォーマンスが込んでると、コッチの指揮は上がるし、アッチの指揮は下がるし、ってことなのかなあ」
 男は被り物の縁を軽く指で摘んで持ち上げてみせると、口笛を吹いた後に感嘆の声を上げた。その間にも、遠くの炎は幾人もの人間を灰に変えているのだろう。
「正直なところ、貴様が今ここに居ることが我には解せぬ」
「いや。解せんも何も、君とおれとはいつもこんなものだろう。で、さっきも言ったけどおれはあれです、休憩です」
 確かに、男の言う通りだった。フェローはどうにもこの始祖の隷長[エンテレケイア]としての矜持を著しく欠いたこの同胞に良い感情を抱いてはいなかったし、男も男で顔を突き合わせる度に辛辣な小言を投げ掛けるフェローを若干煩わしく思っているだろう節があった。そういった意味では、男の指摘は限りなく的を射たものだった。
 だが、フェローの意図したところは違う。真実取り違えていたにせよ、故意に男がはぐらかしたにせよ、そうなれば先の言葉は詭弁でしかない。
「デューク・バンタレイは人の子だ。いくら我らに身を寄せていようと、その事実は変わらぬ。そして、貴様はあれに対して、酷く心を砕いていたのではなかったか」
 目を伏せ、岩山に頭を預けたままに言った。だから、フェローの言葉に男がどんな反応を示したのか、それは判らない。だが、空気に揺らいだ様子はなく、少なくとも男が微動だにはしなかったのだということは知れた。
「居るのだろう?あの燃える空の下に」
「……居ましたねぇ」
 何故この場に、人を滅ぼす側に居るのだというフェローの最初の問いには答えず、男はただ相槌だけを寄越した。抑揚を欠いた声から、その心情を汲み取ることは叶わない。
「まあ……居るよな、うん。そりゃ居るさ。必要最低限の社会適合性すら持たない子だけど腕は立つし、猿共からすれば見目も芸術品。捨て駒には持って来いの逸材だ。ここで投入しない手はない」
 戦力面に容姿の美醜がどのように関係してくるのか、人間の集団心理に明るくはない上に興味もないフェローには分からなかったが少なくとも人間観察を趣味と自称するこの男には思い当たる節があるらしい。平坦な声の中に、僅かだが苦々しいものが雑ざり込む。
 デューク・バンタレイ――始祖の隷長[エンテレケイア]との盟約を反古にした満月の子の末裔、その軍門に下る、人の子だ。道化染みた同胞は、その人の子を観察することに楽しみを見出だしていた。それが今や敵と味方、滅ぼすものと滅ぼされるものに分かたれているのだから、その心境はどういったものなのか多少なり興味がそそられた。だから、フェローは訊いた。
「こうなる前に、何故こちら側に引き込んでしまわなかった」
 分かり切っていたことだ。所詮薄ら白いあの子供は人の子で、この男は「こちら側」の生き物だ。どれだけ互いに歩み寄ろうと、どれだけ他者から異端視をされようと、境界を越えない限り人の子は人のまま、男は始祖の隷長[エンテレケイア]でしか成り得ない。そうなれば行き着く先にあるのは、人の世の古典にありがちな悲喜劇でしかない。
「……フェロー」
 名前を呼ばれる。目を開けたのは、常に比べ男の声の調子が幾らも低かったからだ。
 岩山に頭を預けたまま、視線だけを下方に向ければそのままフェローを見上げる形の男と目が合う。
 虫の羽音はしない。周囲に蠢いていたものどもの気配も、やんだ。
 「……同じだよ」何処か投げ遣りな風に、男は言った。「おれに対する君の問いが由来するところも、おれがあの子をこちら側に引き入れなかった理由も……同質のものだ」
 男はフェローを見上げていたが、暗闇では彩度だけでなく鮮明さも欠くフェローの視界ではその表情を読み取ることは適わない。だが、平坦だが奇妙に突き放された物言いに次いで、一拍の間を置いてから空気が震えた。だから、フェローはまた男が得意な人真似に興じ、嗤っているのだろうな、と思った。
「澄ました顔して、君も大概好奇心が旺盛だよなあ」
 間違いない。男はわらっている。
 恐らく男は、フェローの問いの裏にあるものを察してそう言ったのだろう。フェローの問いには人の子の安否を気遣うものなどは含まれておらず、ただ長期に渡る実験の成果の質を問うような冷徹さだけがあった。その質を、男は好奇心だと称した。
「君の言うように、おれはあれに好意のようなものを抱いてるよ。憶測だけど」
 男の、弧を描いた口の端の片側が更に吊り上がる。
 好意を抱く、と言うわりにその笑顔は悪意を感じさせた。少なくとも、悪戯を成功させた人間の子供のするような、そんな邪気を孕んでいるように見える。
 「そんな大事な大事なあの子が、何かの間違いで死んでしまってみたりしたら、おれはどんな気持ちになるのだろう――とかさ、思うわけですよ」男の双眸が愉悦に細められた。「悲しみに呉れるのか、後悔に苛まれるのか、自身に憤るのか、はたまた大したことないやこんなもんかと肩を竦めるのか」
 指を折り、男は一つ一つ歌うように挙げた。
 わらう男が、フェローには不可解な存在だった。いつもそうだ。男はわらいながら他者を煙に巻き、欺く。彼の操る徒言は、人のつく「嘘」にも似ていた。
 遠く、記憶すら霞むほどの昔、まだフェローが始祖の隷長[エンテレケイア]になる前のただの鳥だった頃、息をするように嘘をつく人間が居た。
 その人間はただの鳥だった美しい羽を持つフェローを得意の嘘で商人から騙し取った。それから、フェローはその人間のものになり、誰よりも近くでその人間の動向を観察した。
 人間はフェローを籠に入れることも繋ぐこともせず、ただ傍に置いていた。フェローの傍で、ただ嘘をつき続けた。同種には決して悟られることのない、けれど人ではないものには確かに虚言と知れる言葉をただ吐き続けた。ただの鳥だったフェローにはその人間の真意は知れず、始祖の隷長[エンテレケイア]となった今も、やはり解らない。
 その人間と過ごした最後の記憶は、人間が政府の役人に腕を引かれて行くところだった。籠もなく、繋がれてもいなかったただの鳥のフェローは、本能が示すままに人間を残して飛び去った。
 その人間は、満月の子だった。
 今でも、時折その人間のことを考える。羽が美しいだけのただの鳥でしかなかったフェローを、繋ぎ止めるわけでもなくただ傍に置き続けたその理由を考える。満月の子の、吐き続けた嘘を思う。
 答えは、恐らくは永遠に得られないだろう。けれど、フェローは考え続ける。例えば、この嘘をつくように周囲を欺く同胞なら、何か答えのようなものを持っているのかも知れない。だが彼に訊くことは憚られた。
 だから、フェローは別なことを問う。
「虫よ、それは未練か?」
 投げ掛けられた問いに、男は珍しく少し驚いたような顔を作った。それから、未練、とおうむ返しに呟いた。
「未練……とは、違うかな、少し。そうじゃなくて、夢でも見てる、みたいな……」
「彼の人の子にか」
「そう、あの子に」
 正直なところ、未練と夢の区別がフェローには分からない。どちらもただ、言い方を変えただけの単なる憧憬ではないか、と思う。
「ああ、そうか。だからおれは、」
 男の呟きは、フェローへと向けられたものではなかった。呟きはただの呟きでしかなく、不自然に途中で打ち切られた言葉の続きをフェローは追求することをしなかった。
「うーん、やっぱ未練かも」
「ならばさっさとベリウスに倣ってしまえ」
「そういう未練じゃあないよ。あれと対峙することに後悔もない」
 言い切る男に、嘘はないように思えた。嘘を備えない始祖の隷長[エンテレケイア]をそう言い表わすのは矛盾を孕んでいたが、ことこの男に関してはそう言ってしまうのが却って自然なような気さえした。だから、フェローは今後悔のないと言い切った、男の言葉を信じた。
 男は頭に乗せた被り物を取り去ると、空いている方の手で前髪を掻き上げた。そしてまた、古びた麦藁帽子を被り直す。
「さて、と……そろそろ出番かな」
「行くのか」
「お姫さんは持久戦には向かないし、陽も沈んで大分経つからなあ。ま、頃合いだろ。適当に残飯でも食い散らかしてくるさ」
 愉しそうな男の物言いを、偽悪的であると人間は言ったりもするのかも知れないな、とフェローは思った。
 意識を傾けなければ存在の希薄な虫の羽音が濃くなる。その音はコゴールから失われて久しい、雨の音を彷彿とさせた。
 フェローは、目を閉じる。狭くなる視界が最後に捉えたのは、雨雲のようにも見える蠢く無数の虫が、空を覆い月を飲み込んでいく様子だった。虫は、月明かりの下で赤黒い輪郭を顕にする。
 そうして、世界は再び濃い闇を取り戻した。すると無数の羽音に、一層雨の気配を感じる。
「夜はおれの時間だ」
 雨垂れに、愉悦を滲ませた男の声が雑ざった。語尾は羽音に掻き消されて、最後まで上手く聞き取れない。ただ、羽音が遠ざかり周囲が静けさを取り戻したとき、もうそこに男が居ないだろうことは目を開けるまでもなく知れた。
 たった今、立ち去った男がフェローの考え続ける事柄の、その答えを知っているのではないかという錯覚に捉われるのは、彼が始祖の隷長[エンテレケイア]として良くも悪くも逸脱した存在だからなのだと思う。エアルの調停も、星と生命との仲立ちも、下らないと嘲笑混じりに断じる真実中庸を貫く彼の同胞は、そうして始祖の隷長[エンテレケイア]としての矜持のみならずアイデンティティーやレーゾンデートルといったものすら自ら否定し続ける。そんなことを続ければ、待ち受けるのは無為な破滅だと解らないほど愚かではないと思いながら、それでもどうしても、嘘をつき続けて破滅した満月の子が思い出されてならない。
 昔、満月の子がただの一度だけ美しい鳥に溢したことがある。それは、或いは自問だったのかも知れない。
 「何で人間に生まれたんだろう」と、満月の子は言った。恐らくはこれもまた永遠に答えの出ないだろう類いの疑念にあの人間すら捉われ続けていた。だが、フェローが今も思考を停止させず、増してゾハートに共鳴もせず静観を決めた理由は、もしかしたらそこにあるのかも知れない。
 遠い昔に打ち切られた疑念を孕む思考に、鳥はまた沈んでいった。



 炸裂音の後、炎が上がった。あの色は魔術の炎だ。ダメージより牽制の意味合いが強い。
 光の当たらない岩の陰、なるべくなら濃い闇を選んで身を潜める。障害物など気にする風でもなく、岩ごと身体を吹き飛ばす「敵」の攻撃を前に、どれ程の気休めにもならないことは分かっていた。だが、それでも無防備な姿を曝すよりは生存率も上がるだろう。
 炸裂音に応えるように、真昼の太陽のような白い炎が地を舐めた。対象を焼き払うというより、身を潜める物陰を均すような攻撃だった。
 「敵」の放った攻撃に、岩壁が削れる。デュークのすぐ隣で同じように岩陰に身を潜め、荒い呼吸を繰り返していた男の頭が衝撃に飛ばされた岩に根こそぎ攫われた。
 「体勢を立て直せ!」隊長が声を張り上げる。「二人一組で行動しろ、背中を見せるな!」
 駄目だ、とデュークは思った。「敵」は魔物ではない。知恵があり、知識がある。人語を解し、人の叡智を易々と上回る。
 合戦の場に置いて、指揮をとる人間は目立たなくてはならない。それは号令、或いは命令の伝達を容易にするという意図がある。だから、指揮官クラスの兵士は意匠の凝った鎧を身に纏うものだし、ときには優れた容姿すら昇格の理由になることもある。それは同時に、相対する者にも大将を知らせることになる。当然、他の者よりも標的になりやすい。
 だが、この場に居る殆んどの騎士は、それは人間同士の戦いにおいてのみ、言えることなのだと思っている。
 叫んではいけない。聞かれてしまう。目立ってはいけない。標的にされてしまう。「敵」は、彼らは、始祖の隷長[エンテレケイア]だ。自分たちは知性ある生き物を相手取っている。
 言わなくてはいけないことだった。けれど言わずにいた。言わずに、ここに居た。そして、デュークが口を閉ざし続けたことで、ある者の頭は砕け、ある者の膚は溶けて落ちた。死んでいった。
 低空を這うようにしていた光が、空高くに舞い上がる。耀きは一層強まって、周囲が真昼のような明るさで照らし出された。
 発光する中に、花のような肢体が浮き上がる。幻想的な神々しさを持つ「敵」が、一度押し拡げた花弁にも似た肢体を引き絞った。
 攻撃の予備動作だ。デュークはすぐに認識する。だが、この距離では阻止することもままならない。詠唱も間に合わない。
 周囲を暴きたてていた光が一点に収束され地上へと向けられ、突き刺さった。拡散し、辺りは風とも炎ともつかない衝撃に飲まれる。「退避しろ」と叫ぶデュークの声も、轟音に飲まれて消えた。
 包まれてみれば炎とも風ともつかない光は灼熱の質量を持つ暴力なのだと知れた。
 呼吸をしようと肺を引き絞るが、息が出来ない。辛うじて引き入れても熱風に身の内から灼かれる苦痛があるだけだ。だからといってその場から抜け出そうにも身動き一つ取れない。
 「敵」のかざした暴力は人類の叡智を以ってしてもなお、未だ為す術もなく過ぎ去るのをただ待つしかない、天災にも似ていた。或いは、天罰にも似ているのかも知れない、と薄れゆく意識の中でデュークは思った。だがすぐに、天罰を気取るほど傲慢でもなければ慈悲深くもないさ、と否定するよく知った声を聞いた気がした。

 先ず最初に、聴覚が戻った。身の内から響く鼓動は先程までの存在感とは打って変わり、弱々しい。それから徐々に風の音や炎のうねる音が戻り、そこから膚を這う感触に触覚もまた戻ったのだということが知れる。
 何が、どうなったのだという疑問は沸いた傍からすぐになくなった。「隊長!」と叫ぶ声が聞こえたからだ。
 デュークは、目蓋を押し上げた。目の下が引きつるのを感じ、それが乾いた血の為だと思い至ったとき初めて自分が出血していることを知った。
 開けた先は相変わらずの鈍色で、星のない空に切り取ったような満月がぽっかりと浮かんでいた。他に、光源は大地で燃え盛る炎以外は見当たらなかった。
 「敵」の、姿がない。
 身体を起こすと、途端に痛みが意識された。激痛に身を固くしながら、それでも五体満足であることを確かめる。腕の付け根に鎧のひしゃげた鉄板が突き刺さっているのが痛みの主な原因のようだ。今の状態で引き抜くのは難しそうだったが、幸い利き腕ではないのでこのままの状態でも剣は振るえるだろう。あとは頭からの出血に不特定多数の打撲、唇も切れているかも知れなかったがこれはあまり気にならなかった。
 一時的に痛みを和らげる程度の治癒術を施すと、デュークは立ち上がった。無防備が過ぎるか、とも思ったがすぐに無駄な警戒だと知れた。
 大きく抉れた大地に、デュークは横たわっていた。「敵」の攻撃は、身を隠す岩場ごと辺り一体を焼き払ったのだった。
 夜風が、焼け焦げて縮れた髪を揺らしてこめかみを擽る。指先で触れると、形を保てずにパラパラと崩れた。この分だと打撲だけでなく火傷も相当なものなのかも知れない。
 痛む身体を引き摺るようにして、炎に灼かれる大地を歩く。
 「敵」は去った。友人が過去に、「彼女」は太陽の神性を持つ、と言っていたことと関係があるのかも知れない。体勢を立て直す――というならまだ聞こえは良いが、要するに撤退を余儀なくされている今、これはまたとない好機だ。また、罠である、という可能性は考えづらい。あの圧倒的な火力を前に、人は尽く無力だ。
 だが、時間は掛けられない。砂漠の夜は冷える。それはコゴール砂漠に面したこの山も例外ではない。負傷者の回収を急がなくてはならなかった。
 炎の熱と、急激に冷え始めた空気との温度差に、全身の痛みは益々強くなる。急がなければ、デュークもいつまた意識が途切れるか分からなかった。
 呼び掛ける声、助けを求める声、意味を為さない呻き、励まし、そうした様々な声音が幾重にも響く。岩の下敷きになった者が居れば痛みを堪えて瓦礫を除け、血の止まらない者が居れば止血をしに向かった。そのときだけは、何故自分がここに居るのかなどという疑念は、浮かばなかった。「敵」が去った安堵感からか、デュークと一緒に負傷者の救出に掛かっていた騎士(同じ隊だが、名前は知らない)が「色男が台無しだな」と寄越した軽口にも笑みを返す程度のことは出来た。その程度には、デュークは必死だった。今、この場に居る人々を生かすことに必死になっていた。
 痛みを誤魔化す為に塞いだ傷がまた開き始める。だが、デュークはその傷を再び塞ぐことをせずに今も血を流したまま荒い呼吸を繰り返すだけの騎士に治癒術を掛け続けた。
 薬が足りない、と誰かが叫ぶ。デュークはかざした手から視線を外さないまま、俺が持っている、と同様に声を張り上げた。
「取りに来い、手が離せない!」
 淡く光る手の平の下で、傷口が塞いだそばからすぐにまた広がる。治癒術が肉体の崩壊に間に合わない。専門的に治癒術を学んだことのないデュークでは、限界がある。
 無駄だ、と誰よりもデューク自身がよく解っていた。無駄だと解って尚、精神力ばかりを消耗させる行為は無為を通り越して愚かですらあった。それでも、今自分が手を下ろせば目の前の命は容易く失われてしまう。その恐怖が、痛みも理性も焦燥も、デュークから奪い去っていた。
 それでも、限界は訪れる。所詮人の精神力などというものは高が知れており、そうでなくてもデューク自身激しく消耗していた。
 手の平から光が失せ、堰をきるようにして傷口が盛り上がり血が溢れ出る。その傷口を、デュークは強く押さえた。治癒術の維持が無理でも、せめて止血だけはしなくてはならない。
 傷口を押さえながら、腕の付け根の痛みを堪えて自身の外套を片手で引き裂く。それを、血濡れた手の上から更に傷口に押し当てた。
 「替わろう」声が降ってきた。「僕は治癒術師だ。衛生兵だよ」
 デュークの両手に重なるように添えられた手が、治癒の光を放つ。
 傷口がゆっくりと塞がっていく様子に安堵の息を吐き出しながら、デュークは手を下ろした。同時に、全身が脱力し突いていた片膝からは完全に力が抜け落ちた。結果、思わずその場に座り込んでしまう。
「動けるかい?」
 治療の手は止めないまま、治癒術師はデュークに問うた。光に照らされた彼の髪は盛大に焼け焦げて尚、美しい金色をしていた。
「問題ない」
「よし。じゃあ君、薬を向こうに回してもらえるかな?さっき持ってるって言ってただろ」
 治癒術師の出した指示にデュークは浅く頷いた。消耗から、声を出すことすら億劫だった。
 痛みと疲れを訴える正直な身体を叱咤し、力を入れたところで呼び止められる。
 「待って」治癒術師は手を休めずに言った。「今、何か……」
 彼に促されるまま、治療を受ける騎士の口元を見遣る。先程から言葉らしい言葉を紡げずに、呼び掛けにも反応することの叶わない彼の唇が動いた。
「何だって?」
「駄目だ。聞こえない」
 仰向けに横たわる騎士の口元に、デュークは耳を寄せた。耳元に掛かる吐息は荒く、依然不規則だ。その息に、擦れた声が雑ざる。
「……し、が」
 聞き取りづらい。騎士に寄せていた上体を起こし、頭を振る。
「駄目だ」
 もう一度呟いて、肩越しに治癒術師へと視線を向けた。だが、目は合わなかった。
 彼が治癒術に集中している為ではない。彼の視線は遠く、虚空へと縫い止められていた。倣い、デュークも空を仰いだ。
「何だ、あれは……」
 治癒術師が何処か愕然とした響きで以って言った。月が、見えなかった。
 昏い夜空を、尚深い闇色が覆っていた。雲とは違う。闇色は、細かな粒子のように、流動し、蠢いていた。雲の動きではない。何より、流動体の途切れた隙間から時折覗く月の光が浮き彫りにする輪郭が、赤く滲んでいた。
 雲に似た流動体は、群集だった。小さな、一つ一つはとても小さな、敵意の群れだった。
 耳鳴りがする、とデュークは思った。だが、すぐに違うと気付いた。それは、無数の羽音だった。
 敵意は、認識から行動へと移る時間を傷付いた騎士たちに与えはしなかった。彼らだけではない。「敵」がどのような存在であるのかを理解していた筈のデュークでさえ、赤黒く蠢く群集にただ釘付けになっていた。
 あんな始祖の隷長[エンテレケイア]は知らない――喉元まで込み上げた悲鳴(紛れもない悲鳴だ)を嘔吐感もろとも飲み下す。
 視界が赤黒く塗り潰された瞬間、足元で荒く呼吸を繰り返すばかりだった騎士が叫んだ。
「蟲が……!」
 彼の言う通り、デュークを呑み込んだ流動体は無数の羽虫の群集だった。
 細かな振動を繰り返す翅の密度に、目を開けていられずに強く瞑れば無数の羽音に聴覚すら侵された。方向が全く判らず、デュークは顔――正確には頭を庇いながらしゃがみ込む。だが、蟲がデュークたちを呑み込んだのはほんの十数秒のことだった。こめかみや手の甲を掠め、或いはぶつかるままにひしゃげて潰れる感触が過ぎ去ると、聴覚も正常に周囲を認識し始める。
 デュークは伏せていた頭を上げて、腕を外した。
 何ともない。先の「敵」に受けた圧倒的な暴力の痕跡は確かにそのままだったが、それだけだ。ゾハートの猛攻の後で幾分感覚が麻痺しているのかも知れなかったが、それを差し引いても手緩い。
 デュークの横で傷付いた騎士に覆い被さるようにしていた治癒術師も低い姿勢を保ったまま、僅かに顔を上げた。
「行った?」
「いや、すぐに戻ってくる」
 確信めいた予感に突き動かされるまま、デュークは言った。その言葉には答えず、治癒術師がデュークの目線に合わせて拳を持ち上げた。
 拳が開かれる。
「……蝗に似てるけど、どうかな?あんな飛び方だし、相変異の飛蝗かも知れない」
 厚い手袋に覆われた手の平の上で、潰れかけた虫(に似た生き物)が脚の先だけを細かに震わせていた。その様子は憐れな死にかけの羽虫にしか見えなかった。
「蝗ではない。……飛蝗とも、違う」
「だよねぇ」
 言いながら治癒術師は再度、握り潰す強さで拳を固めた後、肩越しに手の中のものを放った。
「……じゃ、質問変えようね。君は今のとさっきまでの眩しいの、関係あると思うかい?」
「両者は本質を同じくしている。俺たちを全滅させる為の次の手が今の蟲共だろう」
「やや、言い切るね君。でも他の人の前では気を付けた方がいいよ」
 しまった、とデュークは思った。だが、治癒術師はそう言って気付かないふりをする者の笑みを浮かべただけだった。
「お前は……」
 口を開き掛けたデュークを遮るようにして、悲鳴が上がった。蟲が、と誰かが叫んだ。
 デュークも、治癒術師も、即座に空を見上げた。だが、空は晴れ渡り静かに月を湛えている。
 すると、また別のところで悲鳴が上がった。こちらは言葉にすらならない、文字通り耳を塞ぎたくなるような絶叫だった。そんな悲鳴が、そこかしこから上がり始める。
 苛烈な攻撃でデュークたちを苦しめた「敵」はもう居ない。蟲共も、飛び去ってしまった。だが、再び周囲は苦悶の声で溢れ返り始めた。それは、とうとうすぐ足元からも聞こえた。息も絶え絶えだった瀕死の騎士からも、苦痛を訴える叫び声が上がった。
 尋常ではない苦悶の声と、何処にそんな力を残していたのかという暴れように治癒術師は慌てて騎士の身体を抑えに掛かる。これでは塞いだ傷が開いてしまう。
「君、そっち抑えて!」
 デュークを促しながら、治癒術師は暴れる騎士の口に指を差し入れて舌を押さえ込んでから、もう片方の手で傷口を探る。彼に指示されるまま、デュークは騎士の肩と腕とを抑えつけた。
 力は、強い。これだけの力を込められるような状態ではない筈だ。
「攻撃、か?」
「だろうね。……拍子抜けするほど呆気ないと思えばこれだ」
 舌を押さえ込んだときに歯を立てられたのか、治癒術師は微かに固い口調で言った。そして傷口を探っていた手が差し出される。僅かな光源を頼りに目を凝らすと、その手は黒く濡れていた。羽虫が握られている。
「傷口に潜り込んでた。内側から食い破ろうって辺り、眩しいのに比べて地味なくせに嫌らしいね」
 そう言って、治癒術師は横たわる騎士の傷を塞ぐと立ち上がった。
「出血を感知してそこから体内に潜り込むみたいだから、負傷者には逃げ場がないな」
 「君も傷口には気を付けて」と言い残し、治癒術師は去って行った。
 デュークは騎士の、再生したばかりで柔らかい患部に強く布を巻き付けると岩場に凭れ掛けさせてから立ち上がる。
 治癒術師が副隊長を呼び止める姿が目に入った。これなら、指示が行き渡れば的確な対処もされるだろう。
 遠目にも分かる程、副隊長もかなりの痛手を負っている。その場から動かすのは難しそうに見えた。だが、彼は治癒術師の言葉に問題なく受け答えしているようだった。
 蟲が、反応していない。
 デュークは双眸を鋭く引き絞った。他の騎士と異なり、副隊長は蟲に潜り込まれていない。何かが彼らの明暗を分けたのだろう。
 だが、苦痛に顔を歪めながら治癒術師と会話を続ける男に他の騎士と違うところは見受けられいように思えた。それどころか、岩肌を焼く微かな炎で辛うじて視界が確保出来るような夜の闇にあっては、いくら目を凝らしたところで見つかるものは何もない。それ程までに、人という種は視覚に頼るところの大きな生き物だ。また、自分たちの物差しで戦況を判断し、自分たちから見えなければ相手にも見えはしないだろうとう思い込みや集団心理に突き動かされることもしばしばだ。先のゾハートとの戦いがいい例だろう。
 そこまで思考を巡らせて、引っ掛かった。
 デュークは、副隊長が重傷であると、そう思った。遠目にも分かる程彼の顔色は褪せ、大量に出血をしているようだった。そこで、疑問が芽生える。見通しの悪い、この夜の闇で何故彼の詳細を知り得たのだろう、とデュークは思ったのだった。
 周囲に巡らせていた視線を、再び副隊長と治癒術師へと移す。
「避光性――……炎を避けたか……!」
 確信に至り、デュークが声を張り上げたそこで、足元が大きく揺れた。踏み止まることの出来ない強い揺れに、思わず膝を突く。先のゾハートの攻撃でそこかしこと地盤が緩んでいるのか、馬車ほどの大きさの岩が斜面を滑りながら落ちてきた。
 「敵」の攻撃だ。そう判断すると、デュークは大地の揺れが収まるのを待たずに立ち上がり、駆け出した。未だ続く落石を潜り抜け、治癒術師と副隊長許へ走る。細かな石は気にせず、拳大程度は手の甲で払い落とすが、どうしても足は遅くなる。そうしていると、手の甲で払い落とすには大きい岩が降ってきた。
 舌打ちを一つして、デュークは足を止め、払うのではなく頭を庇う目的で片腕を上げた。もう一方の腕は相変わらず鉄板が突き刺さっている為に上がらない。
 だが、落石はデュークに届く前に弾かれて飛ばされる。投石のような指向性を持つ放物線が視界を遮ったのだが、石よりも大きく、軽い音だ。弾かれた岩でなく、投げられた物を辿れば、それは頭頂部が幾らか溶けた鉄兜だった。
「むっちゃするねぇ、君!」
 治癒術師が投擲のかたちで手を固めたまま笑う。デュークは答えず、足早に彼らへと近づいた。
「打開策かい?」
「一足遅かったがな」
「いいよ。言ってみて」
 促す治癒術師に頷いてみせたあと、副隊長の様子を伺う。彼もまた、口を押し開くことはせずただ顎を引いた。
「あの蟲は避光性だ。火を炊くか、魔術で光を確保して負傷者を集めろ」
「うっわー、やっらしー。眩しいので一掃出来なかったのを、今度は真っ黒いので炙り出そうってんだー。やらしーのに合理的なとこがムカつくね!」
 治癒術師の皮肉は正にその通りだった。この戦いで、人類は気が付いた筈だ。この場に生きて、状況を把握し始めた者たちは気が付いた筈だ。人が相手取っている「敵」は、ただの強力な魔物ではない。「敵」は知恵あるもの、明確な敵意或いは殺意を以って人類に対峙している。対峙するものを、かつて人は畏怖の念を込め、終わりを冠する名で呼んだ。
「……始祖の隷長[エンテレケイア]」
 呟いたデュークに、治癒術師は眉をひそめた。だが、そうしただけで言及はしてこなかった。出来なかった、という方が正しいのかも知れない。
 治癒術師の意識は、別なところへ向いていた。彼だけでなく、副隊長も、他の騎士たちも、凍り付いたようにただ一点だけを見つめていた。
 苦悶の声が、止んでいた。蠢くものの気配も、なりを潜めた。静かだった。
 デュークは振り返る。そこには、蟲が居た。群集でなく、一つの、巨大な個体として存在する、蟲が居た。
「司令塔か……ッ」
 治癒術師が低く叫んだ。デュークは答えず、ただ眼前の巨大な体躯を見据えた。
 違う。
 夜の闇に溶け込むような、深い赤色をした輪郭を凝視したまま、断じる。
「この一帯の何処に、あの図体を隠す場所がある」
 ゾハートの放った光熱によって、今デュークたちが「敵」と対峙するテムザの中腹は山と形容することが難しいほどに均されてしまっている。いくら夜の闇が深いとはいえ、あれだけの存在感を放つものを包み隠すには頼りない。
 デュークの逡巡を余所に、蟲が動いた。炎の定常光圏を避けるように耳障りな羽音をたてて空へと舞い上がる。煽るように見上げると、その異形の詳細を見留めた。
 大きさこそ違うが、その蟲も先の羽虫と同じように蝗や飛蝗を連想させる姿態だった。だが、長く伸びた尾の先の鋭い針のせいか、不恰好に翅をくっつけた蠍のようにも見える。耳障りな羽音の他に、時折顎を鳴らす仕草を見せるが、それ以外には音らしい音を発する様子はない。
 滞空する蟲は、見るともなしに地上を見つめている。観察するものの視線だ。それだけで、「彼」が知性を有するのだと知れる。始祖の隷長[エンテレケイア]だろうという憶測は、最早疑いようのない確信へと変わる。
 デュークは、鞘から剣を抜き放った。その動きに反応するかのように、蟲は上空から一気に距離を詰めてきた。
「そう長くは稼げない。さっさと行動に移れ!」
 言い放ち、腰に下げた道具袋ごと薬を治癒術師に押し付けると、返る言葉を待たずに走りだした。
 時間を、稼がなくてはならない。それでも、どれだけの負傷者を退避させることが出来るかは分からない。
 治癒術師がデュークの背中に向けて何か叫んだ。だが、聞こえない。聞こえる筈がない。
 蟲の尾が、大地を薙ぎ払う。デュークが距離を詰めるより先に、攻撃を始めていた騎士の何人かが掬われて、そのまま岩壁に叩きつけられる音を聞いた。その衝撃で、再び岩が崩れて注いだ。
 蟲の動きは、速い。緩慢な動作であるようなのに、恐ろしく「巧く」身体を使う。大仰な動きに織り交ぜて、人より多い脚でその隙を補うように攻撃をしてくる。その脚が、尾の振られた後の隙を突いて攻撃に転じようとした騎士の頭を踏み砕き、硬質な音を響かせる顎が別な方向から剣を振りかぶる騎士の胴を食い千切った。頭をもたげ、騎士の半身を吐き捨てる。
 蟲が、多過ぎる脚を蠢かせ上体を起こすと、その姿は百足にも見えた。顎が、血に濡れている。「化け物め」、と誰かが唸った。
「個々に仕掛けていたらその都度潰されるぞ」
 デュークは押し殺した声で傍に立つ騎士に言った。
「だが、隊長は居ない。副隊長もあのざまだ。統制なんてとれない!」
 そう大きな声ではないのに、騎士の言葉はまるで悲鳴だ。そして、彼の言葉は尤もだった。
 司令塔を失えば統制は崩れる。それは、理性を振りかざす人間の未だ動物的な部分だ。彼の言うように隊は統率者を欠き、伝達しようにも声を張り上げれば思惑は相手にも筒抜けになる。始祖の隷長[エンテレケイア]は、人語を操ることが出来ず、クリティアのナギーグなどでしか意志の疎通が叶わなくても、その意味を理解している個体というのは数多く存在した。恐らくは、今対峙する「敵」にも当て嵌まる。
 戦況は、絶望的だ。ゾハートのような圧倒的火力で短期に殲滅を狙うのではない。その巨躯に反し、蟲は緻密で、細やかな駆逐を成そうとしている。
 それでも、デュークには責任があった。誰に責められるわけではない。だが、それでも、デュークが口を閉ざし続けたことで死ななくても良い人間が、死んだ。沈黙に理由はなく、理由はなく人は死んでいった。死んでいったのは、沈黙の為だ。その、責任がある。
「……動ける何人かは、負傷者の移動に回した方がいい。お前はそっちの指示を出せ」
「あんたはどうする?」
「このまま足止めに回る。居残り組に声を掛けてから、一斉攻撃を実行する」
 それでも、勝機はないに等しい。万一成功しても、犠牲は避けられない。頭が良いとは言えない作戦だ。それでも、
「それしかない、か」
 溜め息混じりに、騎士が言った。
「それと、あまり声を張り上げるな。恐らく何を話してるか、向こうは理解している」
「虫風情が人間様の言葉を理解してるなんざ考えづらいが、一応覚えておくよ」
 彼が嘲り半分の軽口を返しながらも、完全に否定しなかったのは先の戦いといい、今の蟲といい、こうも簡単に自分たちが窮地に追い込まれている為だろう。
 走りだした騎士の背を見送ることなく、デュークもまた次の行動を開始した。

 地表を這う炎は、未だ燃え続けている。明る過ぎる大地は夜空に瞬く星を潰し、薄ら白い月だけが奇妙に浮き上がって見えた。
 薙ぎ倒され、炎の宿る樹の陰に身を潜めてデュークは蟲の様子を伺った。
 あの後、デュークは散り散りになり個々に攻撃を仕掛けていた騎士たち一人一人の許へ向かい、作戦を話した。作戦とすら言えない、稚拙で小賢しい小手先に誰もが渋面を作ったがそれでも策もなく司令塔とも欠き、疲弊しきった自分たちにはその方法しかないのだろう、と諦め半分に同意した。ここで負傷した仲間を見捨てて逃げる、という選択或いは提示を誰一人としてしなかったのは、元よりそんな考えが頭の中になかったのだというより、騎士の矜持の邪魔するところが大きいのだろう。彼らの患いは騎士団に名を連ねても尚、デュークには理解し難いものだった。
 だが、彼らの病的な騎士道がなければ作戦は成り立たない。「敵」は、デューク一人で撃破出来るような相手ではない。
 蟲の知能の程度は知れない。始祖の隷長[エンテレケイア]だろう、というのも憶測に過ぎない。一言も、人の言葉を発しないからだ。デュークの目論見を見抜いているのかどうか、それすらも分からない。急に止んだ攻撃の手を訝しむ様子もなく、巨体は静かにたたずんでいた。
 だが、そこまでだ。他に策はない。限られた時間と兵力と情報とでは、これが限界だった。
 小さく、デュークは詠唱を始める。慣れない治癒術を立て続けに唱えたせいで精神力は疲弊しきっていた。何とか下級呪文を一回放てる程度には回復したが、術に頼る戦いは出来そうにない。何より、致命的な傷を負った際、回復する手立てが今のデュークには一切なかった。
 それでも、この術を完成させなくてはならない。
 巨体が、微かに尾を揺らした。気付かれたか、と舌打ちを堪えてデュークは最後の一葉を乗せ、炎の陰から躍り出る。蟲はデュークの姿を捉え、跳躍した。予備動作を欠く急な動きは、それでも巨躯に反して俊敏だった。だが、デュークは既に詠唱を完成させていた。
 闇の中、閃光が弾けた。鈍色の空に異形の蟲の姿が浮き上がり、暴かれる。魔術の光は爆ぜて、そのまま蟲の翅を焼き焦がし大地へと叩きつけた。この「敵」との戦いの中で、初めて有効な攻撃を仕掛けられたということになる。
 だが、不意討ちの好機はただこの一度きりだ。本来なら、この一度の好機に高威力の攻撃を仕掛けて大方の戦力を削いでから止めをさすべきなのだろう。だが、その作戦をよしとするには、隊はあまりにも消耗が激しかった。
 デュークの放った光の合図に続くようにして、属性を問わず様々な魔術が蟲を襲う。どれも下級の呪文で、放つ騎士たちの精神力もそう残されてはいない。それでも、今は体勢を崩した「敵」の足止めをすることが最優先だった。
 剣の柄を、握り直す。向き出しの刀身を、鋭く炎が走った。
 もう魔術は使えないデュークは剣を握り締め、「敵」へと駆け出した。
 巨躯は、煩わしいばかりの魔術に、身動きをとれないでいる。そこへ、剣を振りかぶり、下ろした。硬い。だが、叩きつける強さで以って、斬るのではなく砕くようにして「敵」の外殻を突き破り、内部を抉る。
 蟲は咆哮のようなものこそ上げなかったが(というか、この蟲は人の言葉どころか鳴き声のようなものさえ口にしなかった)、デュークの一撃に身悶えるように身体を震わせると、打ち払うようにして翅を大きく動かした。後方に跳んで躱すと、魔術を撃ち尽くしたらしい何人かの騎士がデュークに続いて蟲に攻撃を仕掛け始めた。
 追撃を、と舌に詠唱を乗せそうになる衝動がもどかしい。まだだ。まだ、再度魔術を放てるほどに精神力が回復していない。
 攻撃を加えては、「敵」の反撃が届く前に下がる。下がったその隙を埋めるように、他の騎士が攻撃を仕掛けて反撃を潰す。その繰り返しだ。合間に浴びせ掛けていた下級魔術も騎士たちの精神力が尽きたことで打ち止めになり、離れた場所から詠唱し、援護に回っていた騎士も剣を手に、或いは弓を引き、「敵」に攻撃を仕掛け始めた。
 誰もが疲弊し、消耗しきっていた。それでも、攻撃を仕掛ける手は衰えを知らなかった。終わりが見えているからだ。
 デュークは彼らに指示を出したとき、一時間だけ持ち堪えれば良い、と添えた。終わりを提示されれば、「そこまで」は戦い続けることが出来る。人間は、「そういう」生き物だ。
 それは、「敵」の避光性を考慮した作戦だ。一時間経てば、夜明けだ。例えばデュークの友人である避光性の始祖の隷長[エンテレケイア]は、陽が高いと随分調子を崩していた。多少なりとも弱体化してくれさえすれば、デュークたちの戦いの幅も広がる。ゾハートが舞い戻るその前に、退却することも出来るだろう。だが、デュークには一つだけ気掛かりなことがあった。
 「敵」は、始祖の隷長[エンテレケイア]だ。智恵ある生き物だ。それが、浅はかともいえるデュークの即席の作戦に、気が付いた素振りもなく戦いを続けている。増して、こちらが相手の弱点を突こうとしているのは火を見るより明かだ。なのに、「敵」からは早期に戦いを終わらせてしまおうという焦りも、退避しようという気配も見ては取れなかった。
 嫌な、予感がした。或いは、気が付いていながら、それでも尚、気付かないふりをしているのではないか、という懸念がデュークの脳裏を掠めた。
 攻撃に向かおうと、再度「敵」へと向かいかけた足が、止まる。その瞬間、「敵」の巨体が膨張した。
 息を飲む。デュークだけでなく、その場に居合わせた誰もが足を止めた。
 夜明けを待つ暗色の空に尚濃く浮き上がった巨体へ、一人の騎士の剣が振り下ろされた刹那のことだった。切っ先を吸い込むようにして渦を巻き――「敵」が飛散した。
 飛散した「敵」の細かな粒は、無数に蠢き、その一つ一つが耳障りな羽音をたてている。夜の闇に蠢く無数の影は、その一つ一つが蟲の形をしていた。傷口に潜り込み、内側から食い破ろうとした、あの蝗に似た羽虫と、同じ形をしていた。
「不定形か……ッ」
 蟲は、その巨体を隠す必要はなかった。この場に「大群」となり、飛来したそのときから「敵」はただの一度も姿を隠すことなく在り続けた。
 拡散し、収束し、そしてまた分散する。そうした生態を持つ魔物は、居る。魔物にそうした生態が在るのなら、様々な生物から派生した始祖の隷長[エンテレケイア]にも同様の形質を持つものが存在するのはおかしくはない。
 だが、何故「今」なのだ、と暗雲のように再び月を飲み込もうと拡散を続ける「敵」を睨み上げながらデュークは考える。
 これでは、剣戟に因るダメージは期待出来ない。弓に因る攻撃も、意味を成さないだろう。「敵」は小さく捉え所がない。それこそ、魔術のような一定の空間を纏めて攻撃出来るような手段でなければ通用しない。なのに、「敵」は「今」、拡散した。ダメージを最小限に食い止めず、自身の弱点である(と思われる)夜明けが迫るこの時にまで、ただ攻撃を受け続けたその意味は――裏を、かかれたという事実に他ならない。相手は、最初からこの時を狙っていた。
 退却を命じようにも張り上げた声はたちどころに羽音に掻き消される。微かに青みを帯びた暗色の視界は、一転して赤黒い闇に飲み込まれた。
 「敵」は隊を、デュークたちを殲滅するつもりだ。だから、デュークが立てた作戦に乗った。先に戦力を削ぎ落とし、それから退避した負傷者を追撃しに向かう。それが狙いだったに違いない。だからこそ、現存戦力を集結させたデュークたちの攻撃を誘い、精神力が尽きた騎士たちが白兵戦を仕掛けに、根こそぎ暗がりへと出てくるのを、待っていた。
 だが、それはあまりにも危険が伴う賭けだ。合理性や確実性を重視する始祖の隷長[エンテレケイア]にしては、あまりにも人間的過ぎる。そしてまた、人間の習性を識り過ぎている。
 そこまで考えてから、赤い闇の中で何かが引っ掛かった。だが、その思考も、肩からの出血を嗅ぎ付けたらしい蟲の気配に、すぐに中断される。鉄板と帷子の境に潜り込もうとしていた小さな身体を抉り出せば、痛みは幹部から背筋へと突き抜けていく。
 闇雲に剣を払いながら、詠唱出来る程度には回復した精神力を頼りに口を開こうとすれば、蟲はそこからも中へ侵入しようとしてくる。口だけではない。鼻や耳、目の僅かな溝さえも針のように細い脚で押し開こうとしてくる。
 詠唱は駄目だ。そう判断して口を固く引き結んだデュークの脇で、炸裂音が響いた。爆風に、砂ぼこりや蟲の焼け焦げる臭いもろとも吹き飛ばされる。
 強かに岩肌に肩を打ち付ければ、飛びかける意識を必死に引き戻し、身を起こす。誰かが爆薬を使用したのだろう。爆発は蟲の一群を蹴散らしただけでなく、爆炎がそのまま蟲に燃え移っていく。密集した粒子の弱点だな、とデュークは思ったと同時に、あるならさっさと使え、と鉄錆の滲む口の中で毒づいた。
 赤い闇が晴れると、口内に溜まった血を吐き捨てて立ち上がる。周囲を見渡すが、夜明けは未だ遠い。連なる山脈の輪郭が、仄蒼く光るばかりだ。
 だが、デュークが遠く地平線へと意識を傾けていたのは、そう長い時間ではなかった。拡散し、焼け焦げながら墜ちるばかりの羽虫が再び収束を始めた。密度を増し、また一体の巨大な蟲が姿を顕わす。
 まるでダメージなど負っていないかのような動きで、「敵」は大きく尾を振った。現存戦力は、今正に「敵」の周りに集結していた。その一撃の重さを理解してはいても、避けられない。体力は勿論、「敵」の攻撃は、綿密に計算し尽くされた不可避の一撃だ。
 逆手に剣を持ち直す。振り下ろされた一撃に、身体を庇うように剣を盾にすれば、そのままの姿勢で引き摺られるようにして吹き飛ばされた。「敵」の尾と接触する刃が、摩擦で耳障りな硬い音をたてる。そのまま、為す術もなく何度目になるか分からない岩肌の衝撃を背に受けると、息が詰まり、意識が飛び掛けた。だが、激痛に引き戻される。骨が折れた。
 大地に崩れ落ち、咳き込む。血を吐くようなことはなかったが、込み上げる嘔吐感に視界が滲む。
 肋だ。息が苦しい。肺に、刺さったかも知れない。
 だが、いつまでも膝を突いているわけにはいかない。追撃が来る。「敵」は、デュークたちの殲滅を意図し、この時を導いた。好機を逃がすわけがない。
 肺をなるべく刺激しないように、浅い呼吸を繰り返しながら、立つ。空は黎明の深い闇から、徐々に濃紺へと変わり始めていた。それでも、朝日が登りきるよりも先に、この底知れない夜の「敵」はデュークたちを殲滅し尽くすだろう。
 昏く、圧倒的な質量で以って、「敵」はそこに在った。それだけだ。他の誰もが、「敵」の一撃の下に大地に叩きつけられ、苦悶の声を上げて倒れていた。意識はあっても起き上がれない、そんな者たちが殆どのようだった。
 肩で息をしたい、その衝動を必死に押さえ込みながらデュークは「敵」を見据える。
 この局面において、再びデュークの胸に自分の居場所に対する疑問が去来した。駄目だ、考えるな、と念じても無駄だった。剣を握る手から、急激に力が抜けていった。
 死にたくない、そんな不安から、疑問が再び頭をもたげたのだった。
 例えば今ここで、名乗りを上げたらどうなるだろう、とデュークは思った。名乗りを上げ、「敵」を、彼らを、始祖の隷長[エンテレケイア]を知っていると叫んだならどうなるだろう、とデュークは考えた。この場に居る全ての仲間を見捨てて、友人の名前を唱えたなら或いはこの化け物は、デュークを見逃してくれるかも知れない。
 奥歯が鳴った。「敵」への恐怖からでなく、さもしく、浅ましい思考を廻らせるばかりの、自身への怒りから、震えた。震えたが、剣の柄を引っ掛けた指先に力が戻ることはなかった。
 やがて、少しずつ青みを増してゆく世界で、「敵」が大きく翅を広げた。巨体が、音もなく宙に浮いた。
 「敵」の予備動作が何を目的とするのか、デュークには分かった。何故か、分かってしまった。あれは、攻撃ではない。
 その瞬間、デュークの指先に力が戻った。取り落としそうな剣を握り直し、肺が痛むのも構わずに大きく息を吸い込んだ。大地を蹴り、駆け出す。
 逃げる。逃げてしまう。――何故か、そう強く思った。確信していた。
「逃がすか……ッ」
 怒りから、デュークは低く唸るような声を吐いた。巨大な翅が大気を震わせる。
 「敵」が逃げ出そうとしなければ、デュークは仲間を見殺しにしただろう。否、既に見殺しにしていた。仄青い闇に浮かび上がった、昏く巨大な体躯を前にしたとき、脳裏を掠めたのは打算と保身の二点だけだった。見捨てた。見殺しにした。
 深追いはするな、と息も絶え絶えな声が、それでもデュークの身を案じて背中に投げられる。デュークは、唇を噛む。やめろやめてくれ、と念じた。そんなことを言うな俺はお前たちを見殺しにしたんだ、という言葉を飲み下して、走るデュークは空を仰ぎ、吠えた。
「逃げるな……!まだだ、まだ……ッ」
 裏切った。縋ろうとした。その事実がまだ、そこに在る。
 逃がすわけにはいかなかった。だから、デュークは走った。
 蟲は、そんなデュークの意図を知ってか知らずか、収束と拡散を繰り返しながら濃い青の中を低く飛び続けていた。沈黙していた。
「聞こえているのだろう?中庸の徒よ、星の触覚よ!」少しずつ彩度を取り戻し始めた世界は、未だ青く、昏い。「俺はお前たちを知っているぞ!」
 陰影ばかりが深く、明度の遠い世界にデュークの荒い息遣いと翅の音ばかりが煩く響いていた。砂漠から吹き込む、砂を含んだ風が目に痛い。だが、それでもデュークは蟲から視線を外さなかった。
 隊長は、今回の招集がなければ半年後の結婚式の招待状を婚約者と書くのだと言っていた。あまり話したことはなかったが、マーカスは同じ年頃の弟が居ると言って、何かとデュークを気に掛けてくれた。デュランは呼ばれる度に一緒になって返事をするデュークを変な顔をして見ていた。理由を話したら笑われて、以来自分の名前が呼ばれる度にデュークに対して返事をしなくて良いのか、と言ってはからかうようになった。
 顔は出てくる。名前は出てこない人間も居る。それでも、知らない人間は誰一人居なかった。
「何の為に在るのか、その目的も正当性も、俺は知っている……!」
 皆、死んだ。
 死んだ。例えば、光を放つ美しい花に灼き殺された。例えば、蠢く闇のような醜い蟲に喰い殺された。例えば、自身の立ち位置も分からない愚かな子供の沈黙に因って、見殺しにされた。例えば、或いは、突き付けられた「死」という現実を前に打算ばかりに思考を廻らせた、一人の人間に因って、見捨てられた。
「それでも、それでも俺は、お前を」
 訳の分からない感情に突き動かされるままに、デュークは思った。殺してやる、と念じた。呪咀のように、繰り返し繰り返し、空を仰ぎ、夜明けを焦がれながら、殺してやる、と叫んだ。
 青く沈黙した世界に、羽虫が昏く渦を巻く。滞空し、デュークを見下ろしている。
 やがて羽虫は拡散をやめ、収束を始めた。一体の、巨大な蟲のような生き物が顕れる。
 そうして、蟲はその巨体に反して、驚くほど静かに、テムザの焼け焦げた大地に降り立った。砂礫を孕んだ風が舞い上がり、デュークの髪を微かに揺らす。
 理由は、最早必要がなくなっていた。ただ強い殺意だけが、デュークを突き動かしていた。つい先刻、仲間を見殺しにして永らえさせようとした命と引き替えにしても良いとすら、思っている。理由はないのに、揺らぐことはなかった。
 巨大な影を中心とした空間が赤黒く明滅する。始祖の隷長[エンテレケイア]が行使する魔術に似た、しかしよりダイレクトに星の力を引き出す攻撃だ。詠唱も必要とせず、シフトタイムはないに等しい。
 その攻撃を前進することで躱すと、デュークが立っていた大地を闇色の閃光が抉る。攻撃は一撃だけでは済まず、雨のように降り注いだ。それらを寸でのところで躱し、ときに手足に引っ掛けては血を流しながら、デュークは「敵」との距離を詰める。
 振りかぶり、引き下ろした切っ先を「敵」は身を翻して躱し、片手間とでもいう様子で尾をしならせてはデュークを引っ掛けて硬い岩の上へと転がした。衝撃に息を詰まらせながらも、反動を利用して素早く起き上がる。臓腑の引きつる痛みを受け流し、逃げる尾に剣を持たない空いている方の手で掴み掛かった。腕の付け根に走る激痛に、手はすぐに離れてしまう。跳ね上がった尾から引き離されたデュークの視界は、天地を真逆に捉えた。
 重力に引き寄せられて尚、身体を捻り剣を振りかぶる。剣先に光を乗せ、蟲の硬い身体を砕くようにして叩きつけた。外殻を斬り分け、肉に及ぶ。その感触が腕に伝わる。
 一際大きな脚の付け根を斬り裂くと、砕けた外皮と外皮の隙間から、「敵」の体液が吹き出した。薄らいだ闇の中、吹き上がる飛沫がどす黒く落ち窪んで見える。それでも尚、「敵」は苦痛らしい苦痛の様子を見せることもなく、ただ身体を大きく一振りしてデュークを払い落とした。突き立てていた剣が外れて、宙に放り出される。受け身をとることも適わずに、デュークは肩から大地に叩きつけられた。
 だが、大した高さではない。すぐに身を起こすと剣を杖に立ち上がる。その頬を、鎌に似た形状の一際大きな脚が横殴りにしてきた。軽い脳震盪でも起こしたのだろう、今度こそ意識が途切れる。だが、それも数秒のことだった。口の中に入った砂を血と一緒に吐き出すと、手を突き、俯せた身体を起こす。そこにまた追撃が来た。
 駄目だ。反撃の隙が見出だせない。体勢を立て直そうとする傍から潰される。
 それでも、不思議とデュークは絶望はしていなかった。明らみ始めた空に黒く霞のような雲が流れてゆく様子を、眺める余裕すらあった。
 息の根を、止めることさえ出来ればいい。この巨体を、滅ぼすことが叶えばそれでいい。今、それがここに居る理由だ。ここに居られる理由だ。
 仰向けに、流れる雲を眺めながらデュークは口を開いた。精神力は、それなりに回復した。先刻は詠唱する暇がなかったが、今は違う。幾らかましな威力の魔術を、練り上げることが出来る筈だ。だから、デュークは出来るだけ丁寧に詠唱し、術を紡いだ。高位の、光に属する魔術だ。暗がりを好むらしいこの強固な蟲にも、それなりに通るだろう。
 「敵」がデュークの意図に気付いたか、それは分からない。発動に伴いエアルが術式に基づき変換されていく。変換反応に、デュークの周囲の空気が淡く発光を始める。
 もうすぐ、術が完成する。その間際に、デュークは羽ばたきを聞いた。身を起こす。
 「敵」は、一直線にデュークへと向かってきた。今度の反撃も、封じるつもりでいる。だが、それでいい。
 術の発動を遅らせる。二発は放てない。だから、デュークは「敵」をぎりぎりまで引き付けなくてはならなかった。
 まだだ。まだ遠い。
 喰らいつけば良い、とデュークは念じた。自身が展開した術式に巻き込まれることも、厭わない。ただ目の前の「敵」を葬り去ること、それだけを、デュークは思った。
 眼前に、血濡れた顎が迫る。デュークは最後の一葉を、舌に乗せた。
 この距離であるなら、外さない。
「貴様も道連れだ……!」
 展開した術式が、エアルを光子へと再構築していく。流石に「敵」も気付いただろう。だが、もう遅い。この距離では魔術の余波が術者にも及ぶだろうし、「敵」は追撃の勢いそのままにデュークを圧し潰すに違いない。それでも、デュークは術の発動を止める気はなかった。
 「敵」は、動きを止めた。顎はまだ、デュークには届かない。止めたように見えたのは一瞬で、翅を大きく震わせて後方へ飛ぶが、遅い。
 閃光が「敵」を貫き、爆ぜる。光熱に、巨大な翅は片方が焼き切れ、空に留まることがかなわないのか、「敵」はゆっくりと大地に降り立った。
 デュークは、自身の放った術式に巻き込まれることもなく、傷を負った巨躯に圧し潰されるようなこともなく、ただ荒く、息をしていた。
「頑丈な、虫だ」
 呟いて、大地を指先で探る。視線は、未だ「敵」へと向いたままだ。
 無傷、だとは思わない。だが、蟲は焼け焦げた自身の翅を煩わしいと言わんばかりに喰い散切り、吐き捨てると、天明を待つ青い空を背に、静かにデュークと対峙した。鳴き声も、呻くこともせず、ただ翅を震わせ、顎を鳴らす。
 魔術の行使に、手放した剣を探る。まだ終わっていない。終わらない。
 「敵」から視線を反らすことは適わず、手探りに剣の柄を握り、引き寄せ、デュークは立ち上がる。「敵」は、前方へ大きく跳躍すると轟音をたてて着地し、その勢いを殺して翻る。上体を低く倒し、滑るように横凪ぎに払われた「敵」の脚が容易く手にした剣を弾き飛ばした。宙に舞う銀色の刃が朝日を照り返す様子を目で追う暇もなく、デュークは硬い岩場へと叩きつけられる。
 斜めに傾いた世界で、「敵」が大きく尾を振るうのが見えた。遠く、金属音が響き渡る。
 駄目だ。もう駄目だ、とデュークは思った。詠唱は間に合わない。間に合ったとしても、もう魔術を放つだけの精神力がない。武器もない。もう、駄目だ。
 振り下ろされた「敵」の凶器に、死を覚悟する。先刻、あれほどまでに恐怖し、仲間を見捨ててまで回避しようとした死が、すぐ目の前にまで迫っている。
 これが報いか、とデュークは笑った。口を閉ざし、仲間を見捨てた男の、これが末路だ。お誂え向きの惨めな最期だ。全ては徒労に終わり、結局自分は誰一人救うことも適わない。
 だが、恐怖は既にない。デュークは強く、迫る凶器を見据えた。そして、その切っ先が僅かに反れて、デュークが倒れこむ脇の岩肌を抉る様を見た。
 外れた。外した。デュークには「敵」の攻撃を避けるだけの余力は残されていない。それなら、攻撃が外れたのは「敵」が見誤った為に他ならない。
 手を突き、上体を起こす。その合間に、「敵」は尾を引き戻して空間を歪め始めた。去りつつある闇が、また濃くなる。直接攻撃にぶれが生じる程度には、「敵」も消耗しているのかも知れない。もう少し早ければ、とデュークは苦く笑う。もう、それが解ったところで何の意味もなさないことを、知っていたからだ。
 「敵」の練り上げた暗黒がデュークへと放たれる。今度こそ外しようはない筈だ。ない筈だった。
 だが、暗闇はそびえ立つ岩を砕き、根元から抉り倒された巨木を腐らせはしたが、デュークには届かなかった。
 外すわけがない。そう、愕然とデュークが「敵」を見上げる間にも、攻撃は続いていた。そしてどの攻撃も、デュークを掠めることすらしなかった。砕けた岩や木片が腕を擦り、肩に落ち掛かり、デュークに苦痛をもたらすことはあっても、ただの一度も、「敵」の攻撃は届かなかった。
 遠景に連なる山脈は輪郭を菫色に滲ませ、全ての陰が青く浮き彫りになった世界に沈黙を破り、咆哮が響く。
 攻撃は止まない。けれど、デュークには届かない。唐突に理解した、その絶望を持て余す。
 武器をなくした手で顔を覆ってしまえば、始祖の隷長[エンテレケイア]の、苛立ちと焦燥が鼓膜を震わせる。
 誰だ。彼は、誰だ。
 答えは、知っている。もう、ずっと知っていた。知っていた筈だった。夜襲や避光性、緻密さ、そしてこちら側の動きを完全に読んだ攻撃に、本当ならもうずっと、気付いていた筈だった。けれどその予感が脳裏を掠める度に、例えば船の中で交わされた下らない会話や、熟れ過ぎた柘榴のように潰された人の頭や、昼食後に渡された焼き菓子の味、破れた膚から溶けて落ちる肉片、そういったとりとめのない記憶の断片が呼び起こされて、デュークの邪魔をした。
 けれど、気付いてしまった。可能性は、確立されてしまった。それでも尚、彼は誰だと白々しい耳鳴りがする。
 デュークは、血の味のする乾いた口の中、上顎に張り付いた舌を引き剥がした。耳鳴りを塗り潰すように、繰り返す問いに答えるように、ただ目の前で叫び続ける友人に呼び掛けるように、名前を呼ぶ。
「エルシフル」
 目の上を手の平で覆い、俯いたまま呟かれた呼び掛けは、咆哮と轟音の中に溶けてデュークの耳には届かなかった。けれど、それで、全ての音は止んだ。
 腕を下ろす。顔を上げる。そこにはただ、昏く巨大な陰が佇んでいた。陰は一度散り散りに、小さな羽虫へと姿を変えると、密集して、人型を作った。
 静止した青の中、彼は居た。見知った顔が、見知らぬ顔で、そこに居た。だから、デュークは混乱してもう一度確かめるように「エルシフル」と、もう一度、名前を呼んだ。彼は、頭を振った。
「どうして」
 彼は、問い掛けにはない強さで、呟いた。それは絶望だ、とデュークは思った。或いは、自問なのだとも、思った。
「どうして……ッ」
 闇の中、尚色濃い黒髪が風のそよぐ中に揺れていた。いつも日差しから彼を守る帽子は、まだ夜明けの最中に居る為なのか力なく持ち主の指先に引っ掛かっていた。
 いつもの、人を喰ったようでいながら超然とした笑みはそこにはなく、彼はただ自分自身にすら解らない苛立ちと焦燥に顔を歪めていた。どうして、と繰り返す。意味のない問いだ。
「それくらい、自分で考えろ……クソッ」
 考えるのも疲れた。その無意味さに、ただどうしようもなく絶望した。それだけのことだ。
 見知った顔が、見知らぬ顔を覆って「どうして」、と無為な問いを繰り返す理由も、怒りも、殺意も、自分が何故こんなところで血を流しながら狂っているのかも、何もかもどうでもいい。どうでもいい、と即座に思考を放棄してしまえるほどに疲れ果てているのに、疑問は口をつくから不思議だった。
「何なんだ、お前は……ここで、何をしている?誰なんだ。何だ、俺たちは……ッ」
 彼がどうして、と繰り返すように、デュークは何をしているんだ、と繰り返した。途方に暮れていた。絶望していた。
 デュークは奥歯を噛み締めて、無為な問いを堪えようとした。男は、顔を覆ったまま沈黙していた。口を開けば、また答えのない問いを繰り返してしまいそうだった。
 何故こんな風に血が流されなくてはならなかったのか、自分は何処に立っているのか、彼は此処で何をしているのか、どうして自分たちが殺し合わなくてはならないのか――そんな、答えが出たところで失われたものが戻ることも、事態が好転することもない、ただ不毛な問いが頭の中で渦巻いた。
 「――ッ始祖の隷長[エンテレケイア]!」声を張り上げれば、顔を覆う男の肩が小さく跳ねる。「答えろ……答えろ!」
 答えは、恐らくは返らない。そうでなければ、今デュークが彼に問いを投げ掛けているという事実そのものが、彼の答えだった。
「お前は、こんなところで何をしているんだ……ッ」
「黙れッ」
 俯いたまま、男が叫ぶ。黙れ、ともう一度繰り返して、顔を上げる。
 彼の発した言葉にではなく、まるで聞いたことのない声音と、いっそ憐れなほどに憔悴した表情にデュークは声を詰まらせた。
「……何だ、その情けない顔は」
「うっさい黙れ!煩いんだよ、さっきっからお前!」
「そんな、顔をして……」
 何をしているんだ、とまた言いそうになる。言えばまた、男は声を荒げるのだろう。
 そんな、まるで人間のような、泣きそうな顔をして、と思った。言えないのは、男が声を荒げるからだ。そのせいだ。言えば、全てが終わってしまうからだ。彼は、始祖の隷長[エンテレケイア]で居られなくなってしまう。
 煩い、と男は繰り返す。繰り返して、デュークへと近付いてくる。そして、延ばされた腕と、その両手の、指先が、デュークの首筋に絡んだ。指先に、殺すものの強さで、力が込められる。息が詰まり、肺の痛みが急速に遠退いていった。
 当たらないから、もっと直接的で原始的な方法で来たのか、とデュークは思った。馬鹿だな、と思った。この辺り一帯を攻撃してしまうことも、もっと間接的な方法を用いることも、他な始祖の隷長[エンテレケイア]に任せることもせずに、この男は自分に手を伸ばすのか、と思った。
 痛みは、遠い。先刻までのように、怒りで恐怖を捻じ伏せるまでもなく、直面した死に何の感慨もなかった。何だこれは、とあまりの滑稽さに笑い出したいという衝動はあったかも知れないが、息が詰まり呼吸もままならないこの状態では分からない。ただ、思考すら曖昧になっていく意識の中に、これで自分を殺した後に彼はどうするつもりなのだろう、と過った。
 すると、無意識的にデュークは男の胸の辺りを強く、押していた。強く、とは言っても殆んど力は入っていなかったに違いない。それでも、デュークは確かに拒絶の意を示した。
 指先の力は緩んで、驚くほど呆気なく、始祖の隷長[エンテレケイア]の手は剥がれた。
 酸素を求めて肺が膨らむ。次いで眩暈がするほどの痛みが胸に走った。咳き込みたいという衝動があっても、痛みがそれを許さない。生理的に滲む視界に、表情を欠いて座り込む男が映る。男はただ座り込んで、藻掻くデュークを眺めていた。
 やがて呼吸が落ち着き痛みにも慣れた頃、砂埃や唾液で汚れた口元を無造作に拭いながらデュークは口を開いた。
 「何て顔を、している」それしか言うことがないのか、と自分で言っていて呆れる。「始祖の隷長[エンテレケイア]が」
 男は、片方だけ微かに目を細めた。獣性が深くなる。煩い、と声を荒げることもなく、ただ言葉の先を促すような視線だった。
「俺の無様を嘲ればいい。得意だろう、お前?だからお前は愚かな猿なのだと、そう断じて嗤え。人に未練がないと言いながら、こんなにもお前が憎くいこの俺を」
 人であることを捨てきれない。目の前のこの男が、始祖の隷長[エンテレケイア]が憎い。憎くて、憎くて堪らない。それなのに、殺して終わらせてしまうことも出来ない。
 人にもなれず、始祖の隷長[エンテレケイア]にもなれない。自分が何ものであるのか分からない。
 男は、ぼんやりとした様子でデュークを眺めていた。そしておもむろに手を伸ばし、ひしゃげた肩当ての鉄板を掴むと無造作に引き抜いた。激痛に、調えた呼吸が乱れるが、男は気にした様子もなく肩越しに鉄板を放り投げる。傷口から血が滲み、溢れ出す感覚に血の気が退いた。
「何をするッ」
「八つ当たりだよ!」
 男は鉄板を引き抜いたばかりの幹部を力任せに押さえ付けてきた。圧迫されて出血は止まるが、痛みにデュークは声を上げて身を捩る。だが、傷口を押さえ付ける手はすぐに治療光を帯びて、たちどころに痛みは退いた。治癒術に似ているな、とデュークは思った。
「……八つ当たりか」
 細く、長く、息を吐き出しながらデュークは呟いた。眉根を寄せた男は、酷く忌々しそうに「八つ当たり以外の何だって言うんだ」と吐き捨てた。吐き捨てられた言葉の乱暴さとは裏腹に、表情出血した頭や唇、目に留まる限りの傷や、呼吸音の異常を察したのだろう内臓の損傷を治療する男の手つきは、酷く丁寧だった。
 デュークは男の好きに治療をさせながら目を閉じる。そしてまた、彼は誰だろう、と考えた。
 こんな男は、知らない。この男を、人間以外の何ものと呼べば良いのか、デュークには分からなかった。



 空に瞬く彼は誰星が薄らぎ、青い時間が終わる頃、後発のシュヴァーン隊が到着した。傷は塞がったものの失われた血にふらつく足を引き摺って、デュークは彼らを迎えた。身体中が未だ引きつるように痛むのも、治療が十分ではない為だろう。それでも事情を説明出来る者は必要だったし、エルシフルのこともある。
 負傷者の救助中だったシュヴァーン隊の小隊長に声を掛け、足止めの為に割いた戦力が他に居ることを伝えた。彼らにも救助は必要だ。
 その後、デュークは隊長のところへと通されて、更に詳しく状況の報告をした。投入した魔導器[ブラスティア]を最初に叩かれたこと、その混乱に乗じて大幅に戦力を削がれたこと、その後更に「敵」が追い討ちを掛けてきたということと、それらの切り替えが容易に成される程度に人類の「敵」が知性と連携を備えた生き物だということを伝えた。「よく生き延びたものだ」と暗に先を促す感歎の声には、大暴れした本人を引き合いに出して誤魔化した。
「私ももう駄目だと思ったところを、友人が救ってくれたんです」
 言いながら舌でも噛んで死んでしまえ俺、と心底思った。だが、結局生まれて初めて吐いた嘘らしい嘘は詰まることも絡むこともなく、舌の上を滑って終わった。
 それ以上喋り過ぎてもボロが出るだけか、と早々に隊長との会話を切り上げて救助の輪にデュークは戻った。途中、エルシフルをあのまま置き去りにしていたことを思い出したが、別に子供ではないのだから放っておいても問題はないか、と思い直す。そもそも自分に嘘まで吐かせたのだから、そこまで面倒を見る義理もないだろう。
 血が足りていないせいかあまり回転の良くない頭で、事務的に怪我人の治療をしていると人の近付いてくる気配がした。顔を上げると焼け焦げた明るい金髪に、澄んだ空色の眼をした男が立っていた。
 人の美醜には疎いデュークだったが、品のある整った顔立ちと物腰から貴族の騎士だろうか、と判断する。だが、デュークには貴族の知り合いは居なかったし、男の左手に装着された、ひび割れた盾にも紋章は刻まれていなかった。
 デュークの視線に気付いたらしい金髪の男は、空いている右手を顔の前で振った。
「違う違う。僕は騎士じゃないよ」
 少し特徴的な男の喋り方に、デュークは小さく顎を引いた。
「治癒術師か」
「そうそ。ホントは貴族ですらない、ただの町医者だよ」
 この髪のせいでよく間違えられるんだけど、と男は笑った。あのときは暗がりだった上にお互い酷い有様だったが、こうして陽の光の下で見る男はデュークよりも一回り以上歳が離れているように見えた。
「先ずは、お互いの無事を喜ぶべきかな?しっかし……君も無茶をする」口の端を吊り上げて喉を鳴らす男は、確かに貴族には見えなかった。「いや、英雄殿に向かってこれは失礼、かな?」
 茶化すように付け加えた男に、怪我人の治療を終えたデュークは眉根を寄せて立ち上がる。デュークの目線は、丁度男の額の辺りを彷徨った。
「……英雄?」
 男の、奇妙に引っ掛かる物言いをおうむ返しに問う。すると彼は少し同情するような、それでいて何処か嘲るような両極端な感情の滲む溜め息を吐き出した。
「無茶で無謀が過ぎたとして、そりゃ死ねば単なる犬死にだけどね……生き残っちゃえば今度は英雄なの。分かる?君がしたのは、そーいった類いのこと」
 御愁傷様、と男は乾いた笑い声を上げて手を振った。
「俺はそんな気はない」
「だと思うよ。でも、君の思惑なんて関係ない。お偉いさん方っていうのは都合の良いように選定して味付けして、それから小綺麗にデコレーションしてからでないと人前には出せないことが多過ぎる」
「つまり?」
「今回のことにしてみても噛ませ犬だの、当て馬だの、言い方は色々あるよね。それこそ未曾有の危機に対抗する手段として、僕らには情報が圧倒的に少ない」
 治癒術師は他人事のような口振りで言うと、肩を竦めた。デュークは小さく舌打ちをする。
「捨て駒か」
「そうそう。そういう言い方もある」
 だから、自分たちがテムザに送り込まれたのだと、男は掴み所のない薄ら青い双眸を細めた。
 その決定を何ものが下したのか、それはデュークには分からない。だが、キャナリ隊の隊長は結婚を控え、治癒術師は貴族でもなければ騎士ですらない。デュークも貴族とはいえ養子でしかない。他の隊員については分からないが、似たようなものだろう。つまり、帝国が失っても大きな痛手にはならない、と判断した人員で構成された部隊がキャナリ隊だった。テムザの町を襲撃した謎の「敵」の討伐と住人の救出というのは建前でしかなく、デュークたちは始祖の隷長[エンテレケイア]の程度を測る為の捨て駒だった。
 「ま、実際君はよくやったと思うよ。でも、」治癒術師はデュークから視線を外し、周囲を見渡す。「ここで命を拾った僕らは、果たして幸運だったと言えるのかな?」
 悲観的な治癒術師の言い草を、デュークは鼻で嗤った。それは嘲笑ではなく同意を示すものなのだと、治癒術師も察したらしい。視線をデュークへと引き戻して、口の端を吊り上げる。
「別に自殺願望持ち、ってわけでもないんだけどね。家に帰ればかみさんも子供も待ってることですし!」
「成る程。家庭に問題ありか」
「違います!何でそこに行っちゃうかなあ。最近の若い子の思考回路って皆そんなもんなの?」
 生憎と彼の期待するような親しい「若い子」が周りに居ないので、デュークは曖昧に首を傾けた。
「細君の惚気話も子供の自慢話もないとあれば、恐妻家なのか、はたまた素行が悪い問題児なのかの二択しかないような……」
「あります。他にも選択肢は沢山いっぱいしこたまあります。何なのその両極端な偏見は。括り方乱暴だよ君!」
 つい数ヶ月前、似たようなことを友人に言った記憶がデュークの中で呼び起こされる。
「……多分、俺のせいではない」
「何処に責任転嫁してるんだい、君?」
 何故だか非常に嫌な気持ちになった。
 会話の流れから思い出したというわけでもなかったが(一応頭の片隅の方には留めていたので)、治癒術師との会話もそこそこにデュークはエルシフルを迎えに行くことにした。
 シュヴァーン隊長に連れて来るようにも言われていたが、既に色々と面倒臭くなっていたデュークはこのまま居なくなっていれば良いのに、という淡い期待を胸に、負傷者の治療で時間を潰していた。そして、その期待は今も胸にある。だが、デュークの淡い期待を尽く裏切ってくれるのがエルシフルという友だった。
 生々しい血の跡(デュークのものだ)がこびり付いた岩場に、エルシフルは居た。
 砂を孕んだ風に、彼がいつも好んで被っている日除けの帽子が攫われていても気にした風でなく、血痕の傍らに座り込んでいる。その前にはケルンが出来ていた。
 エルシフルは、おもむろに周囲に手を伸ばしては小石を拾い上げる。そうして手にした石を緩慢な動作で積み上げていく。それは何かの儀式にも、彼の得意とする人真似のようにも見えた。
 彼の不可解な所作は、何故か酷くデュークの神経を逆撫でた。
 風に巻かれて舞い上がる帽子を腕を伸ばして捉えると、座り込む男へと足早に近付く。そして歩み寄る勢いのまま、高くもなければ低くもない、中途半端なケルンを蹴り崩した。次の石片を積み上げようとしていたエルシフルの手を掠める。手から蹴り出された小石は少し離れた場所で硬質な音をたてた。
「隊長がお呼びだぞ、救世主殿」
 治癒術師の皮肉を真似て、黒い頭に言葉を落とす。エルシフルは蹴り飛ばされた石片から視線を外し、のろのろとデュークを見上げ
てきた。黒い髪が揺れて、その毛先が踊る血色の悪い薄ら白い肌と鳶色の羽織との間が赤茶けていることに気付く。
 どうして気付かなかったんだ、と舌打ちをしかけては堪え、代わりに髪を交ぜるようにして掻き上げた。焦げた髪がぱらぱらと落ちる。
「痛むところがあるなら、診て貰え」
 言いながら、デュークは自分の肩の辺りを軽く叩いた。丁度エルシフルの赤茶けた肩口と同じ位置だ。始祖の隷長[エンテレケイア]としての形態のときの部位が人型であるときにどう対応するのか、その辺りは解らなかったが面倒臭そうに翅を喰いちぎっていた巨体は記憶に新しい。
 意図が正しく伝わったのだろう、エルシフルはデュークに倣うように自身の肩口を見遣った。それから、埃でも払うかのように無造作に赤茶けた箇所を叩くと立ち上がり、デュークの目の高さにまで手を持ち上げて振った。
「手が痛い」
 ケルンを崩したことを根に持っているのか、冗談とも本気ともつかない声音と表情とでエルシフルが言う。その手を、捻り上げるようにしてデュークは掴んだ。
「エルシフル」
「……もう治った。夜の間は調子いいから」
 特に振りほどこうとする素振りも見せず、けれど何処か不機嫌さを滲ませてエルシフルは言った。念のため、掴み上げた手が特に腫れてなどいないことを確認してから、突き飛ばす強さでデュークは彼の手を解放する。
「で、救世主が何だって、ぼうや?」
 朝焼けが辛いのか、気だるそうに前髪を掻き上げながらエルシフルが問う。
「デウス・エクス・マキナだ。流せ」
 その一言でデュークがどういった類いの英雄憚をでっち上げたのかを理解したらしい人外は、今まで目にしたことのないような渋面を作った。物珍しいを通り越して最早別人のようにすら感じる。
 舌打ちを一つして、崩れたケルンに視線を落とすエルシフルを眺めながら、最近妙な癖がついたのは人真似気取りの人外のせいかな、とデュークは思った。
 「自業自得だな。さっさと尻尾を巻いて逃げてしまえばいいものを、いつまでもぐずぐずと座り込んでいるからだ」お陰で面倒が増える、という言葉は飲み込んだ。「逃げるなら今の内だぞ下手物」
 暗にさっさと居なくなれ、と促すがエルシフルは顔半分を歪めて喉を鳴らしただけだった。
「馬鹿が。程度の低い嘘に回す頭があるなら、おれの首でも差し出して、とっとと昇進しとけよ」
「自分に出来ないことを俺に押し付けるな」
 始祖の隷長[エンテレケイア]に昇進などというものはないだろうし、自分一人殺したところで彼の立場に変化が顕れるということはないだろうが、取り敢えずエルシフルは口を閉ざしたのでよしとした。
 何故、逃げてしまわなかったのだろう、と思う。例え朝の光に灼かれることがあっても、エルシフルは逃げるべきだった。それは間違いない。だが、彼は逃げなかった。だからといってデュークを待つでもなく、ただ無為に、石を積んでいた。
 考えても分からない。同じ人間の機微にさえ疎い自分が始祖の隷長[エンテレケイア]の思惑に手が届くとも思わなかったが、それでも、今は何故か彼の不透明さが腹立たしく思えてならなかった。
「……それで、これからどうするんだ、お前は」
 気持ちばかりが、急ぐ。
 地平から太陽は覗いて久しく、後は天頂へと昇るのを待つばかりだ。隠し続けてきたものは、白日の下に曝け出されるしかない。それは、時間の問題だ。
 エルシフルに問いながら、何処かで答えられる筈がないのだとデュークは思っていた。矮小な人間の考えなど及びもつかないところに居る「彼ら」なら或いは、という考えすらなかった。殊エルシフルに関しては、確信していたと言っても良い。
 だから、朝の日の光の下で、不思議な紫色に揺らめく彼の眼がデュークを捉えたときでさえ、特に何を思うことはなかった。彼が口を開いたその瞬間でさえ、何一つ変わらなかった。
「花の種でも蒔こうかな」
 花――言われて思い出すのがゾハートである辺り、大概自分も疲れている、とデュークは思った。それだけだった。ただ、矢張り虫の変化は掴み所を微妙に欠いた、冗談とも本気とも取れない口調で話すものだから本来示すべき反応を見失っただけなのかも知れない。
「どうせなら食えるものにしてくれ」
 そういえば無性に空腹を感じる。途端に、黄金色に耀く雲が焼きたてのパンに見えてくるから不思議だ。
「こういうときだからこそ、美しいものは必要だろ」
「二元論(ディコトミア)だ」
「正義(ディカイオシュネー)と言う名の闘争(ネイコス)が先行してるから仕方ない」
「花(アントス)は愛(ピリア)だと?始祖の隷長[エンテレケイア]も意外と俗物だな」
「せめてロマンチストにしてくれないかな。それに厳密に言えば二分法(ディコトミー)は所詮望ましいもの(プロエーグメノン)と望ましくないもの(アポプロエーグメノン)でしかない」
 こんなどうしようもないところにまで来た今、人外の掘り返しす言葉遊びに付き合っている場合ではない、とデュークは思いながら、それでも言葉を重ねた。
「ホルメーに基づき、人はカテーコンに準ずる。だが、お前の求めるカロカガティアとは、カトルトーマに属するものだ」
 人は感情論に引き摺られ万物を二分する性質を持ちながら、その実、善美なるものに直面すればそれは理想論でしかないのだと断じ、忌避する。その矛盾をこの人外は嗤いながら、けれどその主張の根幹には常に彼の否定する二元論が見え隠れするのも確かだ。
「矛盾しているんだ、お前は」
 言いながら、それは自分にも言えることなのだが、とデュークは苦く思う。そのことにエルシフルが気が付かない筈もないのだが、彼は何故かデュークの矛盾を指摘することをしなかった。
 だから、つい先の言葉を続けてしまう。
「エルシフル、お前、本当は人間が、」
 言い掛けて、詰まる。口にしかけてから、迷う。迷いは後悔にも似ていた。口にするべきではない。そう、確信があった。
「怖い」
 デュークの途切れた言葉の先は、エルシフル自身によって補われた。彼は穏やかに、くつくつと喉を鳴らしてわらっていた。デュークの迷いや後悔を、自身の矛盾と恐れを、彼はただ静かにわらった。
 何故、と喉元にまで込み上げる。だが、今度こそデュークは言葉の全てを飲み下した。
「これからどうする、って訊いてたな親友殿」
 エルシフルはおもむろに崩れたケルンの一片を手に取った。積み上げるでもなく、ただ手にしただけだった。
 「えーっと……少し、な。少しだけ、生きてみることにした。生きる全てとして」言葉を選ぶような間を置いて、エルシフルは口を開いた。「だから、その為の理由として大義名分に縋ることは許されるのかな、とか」
 そんな感じ、と締め括ってエルシフルは視線をデュークへと戻した。だが、デュークには彼が何を言いたいのか少しも理解出来なかった。エルシフルもまた、デュークから理解を得ようとは思っていないようだった。
「お前が何を言いたいのか、俺には全く解らない」
「うん。そう思う」
「だが、それで構わないのだとお前が思っているのは、解る」
「解っちゃうんだ……」
 デュークは手にしていた帽子をエルシフルに差し出した。彼はその意味を判り兼ねるとでも言うように、帽子に視線を落としてから、デュークを見た。
「その上で敢えて言う。理由など引き合いに出すな。大義名分に縋る必要もない」
「何か実感籠もってるなあ」
「茶化すな。立ち位置を気にしだせば、それだけで泥沼だ。そんなものはなくても、人は生きていける」
「人はね」
 だから茶化すなと言っている、とデュークが言い掛けたところでエルシフルは差し出された帽子を掬って行った。頭に乗せて、口の端を吊り上げる。
「いいじゃないか、英雄ごっこ。大義名分に世界の安寧とか誂えておけば完璧だし」
 彼の言い様は意趣返しにも開き直りにも思えた。どちらにせよ、結局はこうして揚げ足を取られて終わる。だが、それはとてもエルシフルらしい物言いだし、自分たちはこれで構わないのだろう。多少苛立たしかったり煩わしかったりすることはあっても、焦燥や困惑に顔を歪める姿よりは幾分ましなのだと、そう思うからだ。
「始祖の隷長[エンテレケイア]が世界を相手取り、大した嘘をつくものだ」
「嘘じゃないって。ほんとのことを言わないだけだよ。ただの詭弁だろ」
「その言い様そのものが詭弁だろうに」
 指摘すれば、彼はいつもの人を食ったような笑みを張り付けて肩を竦めた。そうして、デュークはいつも通りの溜め息で以って締め括ろうとした。けれど、吸い込み掛けた呼気が詰まる。
「エルシフル」
 溜め息を吐く代わりに、デュークは彼の名前を呼んだ。笑みを浮かべたエルシフルの双眸が先を促すようにして細められる。
「理由は、不要だ」
 そうだろう、と同意を求めた。自分で口にしておいて不思議な話だが、そこにはまるで、懇願でもしているかのような必死さがあった。
 それでも、彼がそれとなしに逸らそうとした「何か」を引き戻さなくてはならなかった。同じくらい、自身を正当化する為に肯定の言葉が欲しかった。それが理由になると信じた。その矛盾を、デュークは認めた。
 「まあ、許されはするだろ。……でも、おれはだめ」デュークが飲み込んだ溜め息が、男の口から零される。「理由ないと頑張れない」
 突き放したような、諦めたかのような、そんな口振りでエルシフルは言った。それは、例えば人間のような、果てを識るものの言葉だ。
「……随分な俗物にまで、成り下がったものだ」
 彼の言葉を否定したかった。けれど、言わせたのは、自分だ。溜め息を飲み込んだ為でなく、エルシフルがデュークを殺さなかったという事実が、彼に諦念めいた言葉を口にさせた。或いは、何かに彼は気付いた。
 最早始祖の隷長[エンテレケイア]ではなく、況して人間でもないこの人間に似たこの生き物に、デュークは否定以外には掛ける言葉を見つけられずにいた。なのに、ここに来てエルシフルは言った。
「いいさ、別に。おれはもうだめだけど、きっと、お前はそのままがいい。取り敢えず、今はな」
 この期に及んで、デュークを肯定した。そうだろ、と懇願を響かせてわらった。何故、彼が付け足すように「今」と言ったのか、その理由も分からずに(考えも及ばずに)デュークは顔を覆う。腹立たしさに、眩暈がした。
 エルシフルは「今」と言った。それは未来を前提としての「今」だ。そこに、自身を括ることをしなかった。理由など及びもつかない。反射的な感情としての怒りだった。
 後はもう、突き動かされるようにして顔を覆っていた手を外して固めると、感情に任せてデュークはエルシフルを殴った。だから結局、彼の言う「今」がどんな意味を含んでいたのかは、分からないままだった。









色々すみません……!

結局無難且つありがちなところに収まりました。
ありがちついでに、この後傷口が化膿、熱出して寝込むデュークさんなオチ付き。
(20090913)









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最終更新:2009年09月13日 02:27