相変わらずなユーリしか書けません。
すみません。


 

 月はなく、星々も瞬きを忘れたような夜だった。市街地は昼間の喧騒が嘘のように静まりかえり、水路を流れる水の音と、虫の鳴き声だけが夜の街並みを支配している。必要最低限の灯かりに彩られ、陰の浮彫りになった家々は沈み、そんな中でユーリの手にしたカンテラの仄昏い光だけが奇妙に揺らめいていた。
 太陽が天頂に差し掛かるよりも大分早い頃、ユーリは帝都を経った。朝靄に包まれた早朝の街並みは、今と同じくらい静かだった。流石に、市街地と街道とを繋ぐ正門の前には衛兵が立っていたが挨拶らしい挨拶もせず門をくぐった。帝都を出て幾らも歩かない平野に行商の荷車を見留める。夫婦と、二頭の馬とで世界を巡る彼らの護衛が、昨日ユーリが個人的に引き受けることになった仕事だ。個人的に、とは言っても凛々の明星[ブレイブヴェスペリア]としての名前を出し、後に首領から事後承諾を貰う予定だった。先ずは、花の町ハルルまでの護衛、という契約で仕事への姿勢如何に因ってはトリム港までに延長しても良いという話だったが、結局ユーリと彼らとの旅路はデイドン砦で途切れた。エアルの乱れによって季節外れの暴走を繰り返していた魔物の群れが、今度はマナによる環境変化で混乱し、斯くして砦の門は重く閉ざされることとなったというのがことの顛末だ。夫婦はこればっかりは仕方がないと言って、暫く足止めされることを笑って受け入れた。ユーリは森を抜けて迂回する道も知っていたし、あの手の魔物が頭を叩けば落ち着くことも識っていたが、武醒魔導器[ボーディブラスティア]も失われて久しい今、無理に危ない橋を渡ることもないか、と沈黙を守った。特に後者の場合は結果的に騎士団に協力した形になる。面倒臭い。幸い行商の夫婦も急ぎではなかったようなので、そのまま一緒に残ることを選択せずに砦までの護衛料を丁重に断ってからザーフィアスへととんぼ返りしたのだった。橋を渡り、漸く帝都が一望出来る頃には夜もすっかり更けていた。
 正門をくぐると、矢張りそこには衛兵が立っていた。流石に朝立っていた兵士とは別人だろうが(フルフェイスで顔がよく判らない)、何となく面白くない、とユーリは足早に市街地の中心部へと向かった。
 空と同様、街を彩る灯りも随分と少ない。昼から何も食べずに歩き通しだったので何か腹に入れたいという願望とは裏腹に、恐らくこの時間では酒場か売春宿くらいしか開いていないだろうな、とユーリは肩を落とした。
 カロルとギルドを結成して以来、根なし草に拍車の掛かったユーリはいつまでも宿の一室を間借りしていることを申し訳なく思い、少しずつ家具や日用品を処分している。勿論食料品の類いは真っ先に処理したため、部屋には食材はおろか干し肉や缶詰めさえない。もう少し早い時間であれば宿の女将が文句を溢しながら、それでも野菜くずのスープと固くなったパンくらいは賄ってくれたかも知れないが、明日の朝も早い夢の住人を叩き起こすほどの非常識ではないつもりだ。そこまで餓えてはいない。
 結局、たまには綺麗なおっぱいでも拝みながら食事と洒落込むかな、と時間帯にそぐわぬ明るさの漏れる方へと向けた足が止まる。水路の上に掛かる石造りの橋に、今にも身投げしそうな暗い顔の女が居ればそれも仕方がない。その上、それが知らない顔でないとあれば寧ろ足を止めずに居る方が人でなしだと思う。
 幽鬼のような青白い顔をした女は、何か思い詰めているようでもあった。女は身一つで飛び出してきたのか、とても仕事中には見えないのに相変わらずの無骨な甲冑で女性特有のまろみを包み隠してしまっている。明るい陽の下なら暖かな夕焼け色をした髪は、夜の闇に呑まれると奇妙な緑色をして見えた。元フレン隊の小隊長、今は女性でありながら騎士団長付きの副官という肩書きを持つ、女だ。名前は――忘れた。初めて顔を突き合わせたときに紹介されたし、幼馴染みも何度か女の名を呼んではいたが記憶にない。ソフィアとかナディアとか、その辺りだったと思う。
 ユーリと女の相性は、あまり良くない。性格や性質、思考、そしてタイミングまでもがものの見事に噛み合わない。最悪、と言い換えても良い。少なくとも、ユーリはそう思っていた。だが、もしここで背を向けて何もかもを見なかったことにして暖かい食事と甘く柔らかな肉とを楽しんだ翌日、見知った女が水路に浮かんでいた、というのは問題だ。良心の呵責のようなものは一週間、長くても一ヶ月程度で忘却の彼方へ追いやられるにしても、幼馴染みと顔を突き合わせる度に、女の顔がちらつくというのはあまり気分の良いものではない。そこまで思考を巡らせて、恐らくそれほど大仰なことでもないのだろう、とも思う。どうせ声を掛けたところで、常のようにヒステリックな声音で噛み付かれるのが関の山だと知りつつ、ユーリの足は橋の上の女へと向いていた。
 女は俯いたまま動かない。女との距離を残り三歩のところ(振り向きざまに剣戟を伴って踏み込まれても避けることの出来る距離だ)まで詰め、ユーリは足を止めた。
 呼ぶ名は、持たない。忘れたという事実は勿論、ユーリと女との関係にそんな気易さは存在しない。こんな背後にまで剣を携帯する男の接近を容すなんて騎士失格じゃないのか、とユーリは胸中で女をせせら笑う。それから、いいからさっさと振り向けよ、とも念じた。けれど女の後ろ姿は、心地好い夜風に髪が揺れる以外の変化を見せることはなかった。
 ユーリは小さく息を吐き出し、言葉を連ねるための予備動作として今度は大きく肺を膨らませた。
「おい、あんた」
 カンテラの薄明かりに照らされた女の肩が、大袈裟なくらい跳ねた。一拍ほどの間を置いて、正に恐る恐る、という表現がしっくり来るぎこちない視線がユーリへと向けられた。そんな目で見つめられると、せっかく冗談として片隅に追いやった筈の予感が頭をもたげて来るのでやめてほしい。え、何お姉ちゃんまじで入水自殺をご希望でしたか、とかそういった類いの予感だ。
「ユーリ、ローウェル……」
 覇気がない。
 か細く呟き、ややあってから取って付けたように「殿」、と敬称が添えられる。ユーリは数分前にうっかり声を掛けようなどという魔が差した自分を罵倒したい衝動に駆られた。これならまだ騎士団にしぶしぶながら協力しつつ、魔物を潰していた方が健康的だったかも知れない。勿論、精神面での話としてだ。
 上官が上官なら部下も部下か、と腹を括る。
「何か邪魔しちまったか?悪かったな」
 口にして、踵を返す。腹を括ってものの三秒で挫折した。下手に藪を突いて蛇が出る程度ならまだしもいつかのようにまた刃傷沙汰になるのは頂けない。挙げ句、入水自殺のお供にされてしまうのは、更にごめん被りたい。
 だからユーリは努めて冷静に、かつ迅速に女から距離を取ろうと行動に移ったが、少し遅かった。
「髪……」落ち着いた女の声が耳を擽った。「髪を、切ったのだな」
 ユーリは足を止めた。口にするまでもない当たり前の、見れば分かる事実を敢えて口にする理由など一つしかない。
「髪が、何だって」
 話題など、何でも良かったのだろう。この女にとって、絡め取った獲物の足を更に縫い付けることが出来れば、例えばそれこそ帯剣した剣を鞘から抜き放つだけでも良かった。(勿論、その切っ先が対象に届くかどうかは別の話として)
「長かったろう?急にそれだけ短くなると、目につく」
「あー……まあ、な。騎士団入って不精癖ついちまったせいで、伸び放題だったんだよ」
「成る程、これ見よがしに伸ばしていたわけか」
 言って、女は目を細めて笑った。吐き出された声は平坦で、酷く暗い笑みだった。
 女の指摘するような意図が果たしてそこに在ったのか、それはユーリにも分からない。ただいつの頃からか幼馴染みと互いに切り合うようになった髪は、二人の距離に比例するように伸びていった。フレンの髪に剃刀を差し込む機会は入団後も何度かあったし、ユーリが触れなくてもそれ以外の人間或いは彼自身の手で髪を切ることも立場上増えてた。逆にユーリは幼馴染み以外の誰かの手で剃刀を入れられることをよしとせず、また自ら切ることもせず伸びるに任せていた。何度か、たまに会う幼馴染み自身が髪を切ろうか、と問うこともあったが理由をつけては申し出を断わり、気が付けばユーリは騎士団を辞めていた。入団したときは肩口で踊っていた髪は、その頃には一括りにすると尻尾のように跳ねる程度の長さになっていた。だから、比例するのは仕方がない。比例するものが始めは距離だけだったのが、いつからかそこに月日も伴うようになっただけの話だ。
「あの人は、何か?」
 女がユーリとの話題に挙げる人物など一人しか居ない。少しうんざりしながらユーリは改めて女と向き合った。
「何も?っつーか野郎同士、話題にもならねぇよ」
「男同士とはいえそれだけ著しい変化だというのに話題にも挙がらないとなると、意図的に避けたか」
「……だとしたらあっちがな」
 意識は、向いていたように思う。背中、特にうなじの、毛先が揺れるところに酷く視線を感じたからだ。
 これ見よがしに、と女は言った。けれど、こうなってしまうと伸ばし続けることをやめた今の方が余程、その意義を意識せざるをえないことをユーリは認めなくてはならなかった。自身が意図していたところとはまるで外れた場所で、外れた形で、何かが噛み合っていたことに漸く気付いた。
「面倒くせぇな……」
 誰にともなく呟くと、何を今更、とでも言うように女は眉根を寄せた。
「で?そーいうあんたはこんな時間、こんなとこで何やってんだ」さっさと終わらせてしまおうと、最初の疑問を口にする。「騎士団長の留守を守るのが仕事なんじゃないのか」
 ユーリの問いに、女は二度瞬きをした。それ以外の表情の変化はなかった。その表情のまま、女性にしては肉の薄い唇が開かれる。
「団長なら、今日――既に日付が変わっているから昨日か。昨日の昼過ぎに帰還された」
 女から返された答えは質問から微妙に逸れたものだったが、ユーリが眉根を寄せるには十分な答えだった。勿論、それは意図した答えの返されなかったことに対する不快を示すものではない。
「んだよ……もう帰ってきやがったのか…………」
 思わず口にして、これではフレンを避けているかのような言い種だ、とユーリは唸った。
「避けているのか」
「ああ、もう、そーだよ」
 勿論避けているわけではなかったが、面倒臭いのでつい女の言葉を肯定してしまう。
 避けているわけではない。単に半月前、別れ際に告げた次の目的地がザーフィアスで、そこにまだ自分が居ると知ればからかいの種にされるのが明白だったからだ。もし俺が逆の立場だったら先ず間違いなくからかいに走る、とユーリは確信している。
「で、敬愛してやまねぇ上司殿が帰って来てるっつーのに沈んでんのはあれか。絞られたか、その上司に」
「避けるのは後ろめたさからか?」
「……あー…………」
 困った。どうやらこの女はユーリの話に耳を傾けるつもりがないらしい。いや、正確には己の興味が惹かれる話題にばかり固執して他事に割く思考の余裕がないらしい。
 矢張り彼女と自分の相性は最悪だな、とユーリは思った。会話が成立しない。
「俺、あんたの大好きな騎士団長閣下に対して、何か後ろ暗ぇことあったっけか?」
 ノール港で食べたドーナツ代を経費として請求したことだろうか、と首を傾げる。
「いけしゃあしゃあとよく言うものだ。罪人が……」
「ああ、それか」
 忘れてた。
 わだかまりがなくなったというわけでは決してなかったが、表面上はこの女もユーリへの態度を軟化させていたし、ユーリ自身彼女に殺され掛けたことで女を見る目を改めていた。相容れることはないにせよ、確かに女がフレンへと向ける想い(ユーリはその想いの名前は知らないし、何でも良い)は真摯なものであったのだと理解した。それが、ユーリ自身が取った障害の排除と全く同じ方法だったからこそ、というのは皮肉な話だ。
 だからユーリは勝手に、長年同じ時を過ごし信念を分かち合う幼馴染みでも、得難い安らぎを与えてくれる仲間たちでもなく、ただ一人この女に対してだけ共犯者めいた感情を抱いていた。
「……って、うん?なあ、もしかしてあんた」
 口を開いたはいいが珍しく躊躇い、思わず言葉が途切れた。嫌な予感がする。女はそんなユーリの葛藤など知らぬ顔で、黙って先に続く言葉を待っているようだ。無表情であるように見えて、その顔には確信がありありと見て取れる。だからユーリにも解ってしまった。
 疑問として口にしようとした言葉を、即座に断定に変える。
「言ったな、あんた。あの堅物に、面倒くせぇこと根掘り葉掘り掘り返して突き付けやがったな!」
「ああ、言ったな。根掘り葉掘り掘り返したな。付け加えて、ザウデで貴様を刺したことも報告した」
「まじでか……どんだけ面倒くせぇことしてくれてんだよ…………!」
 時間を忘れて思わず張り上げそうになった声を何とか抑え付けて、それでもやり場のない憤りに頭を抱える。
「このことで私が裁かれるのならそれも仕方がない。ただ、あの方が考えを改めて下さればそれで良いのだ」
「泣かせるねぇ」
 彼女の決意に口笛を吹いて言葉を寄せると、そこで漸くかつてのような鋭い視線が返された。
「泣きてぇのはこっちだよ。あんたの話じゃ俺にまで火の粉が飛んでくるだろーが」
「寧ろ貴様の行いを引き摺り出す方が目的だ」
「うっわ、殴りてぇ……」
 この分だと可哀想にフレンは、ありとあらゆる方向から逃げ道を塞がれたに違いない。そして敬愛――いや、信仰しているとすら言って良い上司とそれだけの応酬をしたというのであれば、先程のように沈んだ顔をしているというのにも納得がいく。随分と遠回りして導き出す羽目になった問いへの答えにどっと疲れが押し寄せた。
「あの方に本当に貴様を裁けるとは思っていない。言い方は悪いが、所詮は牽制だ」
「だろうな。俺をどうこうしたらぜってぇ浮上出来ないだろ、あいつ」
「逃げ道が断たれたことで、開き直って下さる分には問題ない」
 女は事もなげにそう言ってみせた。実はこの女はそんなに幼馴染みを好いてはいないのではないだろうか、とユーリは思った。
 あらましは理解した。ユーリの疑問も、女の疑問も、あらかた片付いた(疑問は片付いたが問題は山積みだ)。結局、女とのやり取りは早々に頭の片隅に追いやって幼馴染みの出方を伺うしかなさそうだ。
 そう結論付けると、急に忘れていた筈の空腹が意識され始める。
「あの人は、もっとお前と距離を置くべきなのだ」
「まあ、いい歳こいた同性の幼馴染みが年がら年中ベタベタしてたら、そら気色悪ぃわな」
 偏見はない――つもりだが、自分と幼馴染みとを「そういう」目で見られるのは少しとても物凄く、抵抗が、ある。
 だが、同時に女が危惧するほど今の自分たちが親密であるとは思わない。隔たれた距離や年月を象徴するように、女の言い方を借りるのなら見せ付けるように、長く伸びた髪を切り落としたところで誤解や溝までもが一緒くたに払拭されてしまうような、そんな都合の良い魔法はないのだ。
 確実に、ユーリとフレンの距離は遠退いて行く。髪を切っても、軽口を叩きあっても、パンを分け合って食べても、なかったことにはならない。だから、そういったどうしようもないことは、なるべく考えないようにしていた。。
「だから、嫌なんだ」最近はあまり見ることのなくなった、嫌悪感を剥き出しにした視線がユーリに向く。「お前があの人の横に並び立つのも、あの人を視線で追うのも、あの人と同じ空気を吸っていることですら業腹だ」
 酷い言われようだな、とユーリは肩を竦める。それでも汚らわしい、と言葉に出して締め括られなかっただけ良しとしよう、と納得することにした。そろそろ本格的に腹が減ってきたからだ。
「お前は……どんなおぞましい目であの人を見ているのか、その自覚があるか?」
 ない。時折、どうしようもなく可哀想なものを見るような目で幼馴染みを見てしまう自覚はあったが(許せフレン)、女の言うようなおぞましい目を向けたことはない、ように思う。女が何を以ってそんな仰々しい形容を選んだのか、そこまで頭は回らなかったがそれでも、世間一般の言うところの凡そおぞましいというような目では見ていない、筈だ。
 ただ、自覚はなかったが心当たりはあった。
「あれか。あいつが女だったら色々楽だっただろーなー……っつー……?」
「それだ!」
 口にすると間一髪入れずに肯定された。怖い。
 思うままを口に出したら、何だか奇妙な言い草になった。
「だってあいつ面倒臭ぇからなぁ……女だったらとっとと孕ませて家に縛っちまえるのに」
 殴られるか蹴られるか、もしかするとまた刺された挙げ句に突き落とされるかとも思ったが、気が付いたら口にしていた。だが、女は不快そうに顔を大きく歪めただけで何も言わなかった。
 楽だと思う、というのは本当のことだ。本当に、そう思っている。楽、というよりもっと色々と簡単で単純だったのではないか、と思う。言い方は少しばかり乱暴だったかも知れないが、手を伸ばすにしても、肩を貸すにしても、男同士だとどうあってもお互いに矜持が邪魔をする。だから、いちいち辻褄を合わせるように理由付けをしなくても気兼ねなく手を伸ばすには、幼馴染みが女性であることが好都合であるように思えてならなかった。そうすれば、例えばあの砂糖菓子のような皇女を大事にするのと同じくらい、簡単に優しくしたり、守ってやることも出来る。
 だけどどうしようもなく、幼馴染みは――フレン・シーフォはユーリと同じ、柔らかくもなければ芳しくもないただの男でしかない。高潔な幼馴染みの矜持を無理矢理にでも捻じ曲げて、危険や脅威、悪意や中傷といったものから遠ざけてしまいたいという程度に想ってはいても、結局ユーリに出来ることと言えば預けた、と言わんばかりの背中に同じように背中を向けるくらいしかない。
 今でこそある程度の諦観で以って二人の立ち位置を捉えてはいたが、分別のつかない幼い時分にはいっそ初めから同一の個体であったなら楽だったろうに、と思っていたことすらあった。そういった、他人にも相手にも更に言うなら自分自身ですら理解し難い、厄介極まりない葛藤をない交ぜにした視線は確かに女の言うようなおぞましいものなのかも知れない。ただ、諦観は後悔を忘れさせた。それは事実だ。
 夜風に髪を踊らせる女は、黙り込んだユーリを静かに見上げてきた。夜の闇に、少し珍しい色をした瞳は暗く落ち窪んで見えた。
「意外と女々しいな、ユーリ・ローウェル」
 言って、女は朗らかに笑った。それはユーリの知るどの少女たちが浮かべるものとも違っていた。けれどそれも悪くない、と微笑み返す。「そういうあんたは意外と雄々しい」、と言い掛けた軽口を飲み込む程度には、ユーリは機嫌が良かった。


らうてんでらゐん變容傳 Ring A Bell
20090616


 下町へと続くなだらかな坂を下る。月のない夜の闇に、寝静まった家々は塗り込められたように平坦に見えた。
 広場に設置されていた水道魔導器[アクエブラスティア]は撤去され、今は井戸が建設されている最中だ。噴水のように沸き上がる水に陽の光が照り返すのは悪くなかったが、井戸から汲み上げる水も同じくらい美しいだろうと思う。
 あれから女とは二言三言他愛もない言葉を交えて別れた。空腹感は相変わらずユーリを苛んだが、あと数時間も経てば下の宿が開店するだろうし、結局は一食二食抜いたところで問題ない、という結論に行き着いてしまった。
 宿の前の水路脇を通り過ぎると、緩慢な足取りで階段を上る。
 いつ帰って来るかも知れず、もう帰ってこないかも知れない、と処分してくれて構わない家財は全て部屋の前に出してある。机然り寝台然りだが、下の宿が開くまでの時間を潰すには部屋に戻るより他ない。寝るにしても中途半端な時間だ。さてどうやって時間を潰したものかな、とカロルに預けた相棒を恋しく思い浮べながら階段を上りきったところで足が止まる。
 家財は、相変わらずそこにあった。今朝出掛けに扉を引っ掛けて出来た傷もそのままに、折り畳んだ丸テーブルは痛々しく壁に立て掛けられたままだったし、どうにも黴臭いマットレスに痺れを切らし、諸々を剥ぎ取ってしまった寝台も不様な姿を曝している。そんな幾つかの家財、そう多くはないユーリの部屋に置かれていた物と物との間に、何故か金色の髪が交ざっていた。
 こんな非常識な時間に、夜目にも鮮やかな金髪を振りまいて訪ねてくる人間に、残念ながら一人だけ心当たりがある。仕事はどうした仕事は、と胸中毒づきながら、ともすれば後退したくなる足を前へと押し出す。二歩、三歩、と歩を進めた先には、あまりにも予想通りの男が座り込んでいた。立てた片膝に顔を埋めているので表情は分からなかったが、このどうしようもなく殴りたくなるつむじは間違いなく幼馴染みのものだ。そうと分かったら折角なので殴っておくかな、と欲求に任せてにユーリは足を上げて、下ろした。
 下ろした足はつむじの脇の髪を数本掠めて、後ろの壁に着地した。立て掛けてあったテーブルが大袈裟な音をたてる。すると、寝ているのか起きているのか、それすらもはっきりしない金色の髪をした男の頭がもぞもぞと動きを見せた。けれど顔を上げることはせず、頭の位置を直しただけだった。
 ユーリは一つ舌打ちをしると、壁に預けた足を少し浮かせてその側面で男の頭を小突いた。男は微動だにしなかった。ただ俯いて、くぐもった声で「ユーリ」、とだけ呟いた。
 引き戻した足の爪先が床に触れるのと入れ代わりに、男が膝から顔を浮かせる。今、一番聞きたくなかった声でユーリの名前を呼んだ男が、一番見たくなかった視線でユーリを見上げた。
 男の眼孔は落ち窪んで、酷く疲れているように見えた。声がくぐもっていたのは泣いていたからだろうか、と縋るように見上げてくる男を見下ろして思った。だとしたら、失敗した。
 ユーリは男から視線を逸らし、溜息を吐く。ご愁傷さま、と口には出さず呟けば、それはお互い様なのだと、せせら笑う女の声が耳の奥に響いた。
 

 

 


まだ続きがあるんですgこれでお終いです。
ウダウダお付き合いして下さってありがとうございました~。
(20090616)





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最終更新:2009年06月16日 01:17