もういっそ清々しいまでに手直しする気のない過去の産物。



 静まり返った廊下に、響くのはただ自分の足音、それだけだった。壁に備え付けられたランタンの灯が消えてから久しく、窓の無い廊下は暗闇に閉ざされている。
 遠くから、数人の若い男女らしき集団の笑い声がするのが聞こえる。万聖節に夜が更けても街全体が賑わっているのだと、少し間を置いてから思い当たった。その祭りに込められた意味など判らなかったが、見知った街がまるで別物になるその様子が好きだった。賑わう街に、いつもなら一緒になってはしゃいでいた筈だろうに、とゼロスは思いながら自嘲めいた笑みを口の端に浮かべた。そうして、無性に外で騒ぐそれこそ大多数の全ての人間を罵ってやりたい気持ちになった。
 まだ眠るには早い。けれど瞼が酷く重たい。毎度の事とはいえ、今日は特に酷かった。こんなに泣いたのはいつ以来だったかと、記憶を探る。それから、そう大して月日が流れてもいない事に思い当たりそれを皮肉に思う。
 祖父は、顔を合わせればそれが当たり前の事であるかのように妹を殴った。尊い神子の家系に、下賎な血が混ざった事が彼を憤らせる最たる理由らしい。
 父は祖父に逆らえない。妹を生んだその、下賎なハーフエルフの女だけが我が子を殴る男の足元に縋り、泣き叫びながら懇願する。全ての諸悪の根源は妹とその母親にあるのだと、ただのこじつけにしか聞こえないような理由をその都度見つけては、祖父は妹を殴る。邪魔をするようなら彼女の母親も殴った。今日も、非があるのは明らかにゼロスの方であったにも関わらず、全ての罪を擦り付け妹を殴った。神子を誑かす魔女の娘と罵った。見るに耐え兼ねたゼロスは彼女の母親と一緒になって祖父に泣いて謝り赦しを乞うた。そのお陰で取り敢えずは事無きを得たが、それでも妹の顔には痛々しい痣がいくつも出来ていた。
 ハーフエルフの女が、自分の半分の歳にも満たない小僧の左手を取り膝を付いて言う。もうセレスに構ってはくれるな、と泣きながら頼む。ゼロスとセレス、二人いればただでさえ強いセレスへの風当たりは更に強くなるのだ、と。そんな事はゼロスにも判っている。判り過ぎる程に判っている。判ってはいても少女の笑顔を目の辺りにする度、繋いだその手の温もりを感じる度、認めたくないのだとそればかりが思い知らされる。認めたくない。こんな事は間違っている。けれどそれは、ともすれば自身への存在否定に他ならない。故に、渦巻き降り積もる怒りの向け所に迷う。
「死んじまえクソジジィ」
 その廊下は暗かった。行く道を照らす光は一条もなく、彼の呟きは誰の耳に届く事もなく闇に掻き消えた。その深い暗闇の中に、彼は幼心に自分が行き着くその先を垣間見た気がした。

 


イニアエス
20050125


 胎児よ
 胎児よ
 何故踊る

 母親の心がわかって
 おそろしいのか

【ドグラマグラ巻頭歌】

 

 


 部屋へ行くと、窓を開け放し外を眺めるセレスがいた。
「セレス」
「お、お兄様」
 驚いた、と目を丸くしながら、それでも彼女の頬は嬉しそうに赤みが掛かった。以前はこんな表情を見せてくれることもなかったのに、とそれをゼロスは素直に嬉しく思った。
 彼女の脇から手を伸ばし窓を閉める。
「風邪ひくぞ」
「はい」
 促すと、大人しくベッドに腰掛ける。ゼロスもテーブルに備え付けられた椅子を、彼女の正面に来る所にまで持ってきて座った。
「今日は急なお越しですのね」
 顔色は悪くない。
「他の皆様方は?」
「何をまあ気ィ利かせてくれちゃってるんだか、下で待ってる」
 セレスが笑った。
「そういえば、間も無くメルトキオは万聖節ですわね」
 そう言ってセレスは立ち上がり、引き出しの中から細工の施された筒状のものを取り出した。
「覚えています?」
「うっわ、なっつかしーなあ、オイ。まぁ~だ持ってたのか、お前」
「勿論、ですわ」
 セレスが笑った。
 笑うセレスを見る度に、直視できないくらいの胸の痛みがゼロスを襲った。
「あの頃は楽しかった。お兄様に手を引かれて回るお祭りは、メルトキオがいつもの街ではないようでしたわ」
 頬を薔薇色に染めて、酷く嬉しそうに楽しそうにセレスが笑う。
「ま、今年は流石に無理だけどよ、来年にもなりゃ何もかもまあるく収まって、お前もここから出してやれるだろうから、そのときはさ―…」
 そうして、神子は死によって苦しみから解放される、その言葉を飲み込み押さえ込む。そして誂えた、また、昔のように祭りにだって出掛けられる、という言葉まで言い終えるより先に、セレスに手をとられた。
「本当ですかお兄様?そうしたら、わたくしまたお兄様と露天を回りたいですわ」
「…そうか」
 嘘だ。今俺は嘘を吐いている。生まれて初めて、この可愛らしく可憐でいて、そして無知な妹に汚い嘘を吐いている。汚いものなどまるで何も知らない、絶対に知らせてはいけない妹に、何よりも汚らわしい嘘を吐いている。
 セレスの嬉しそうな顔を見ながら、ゼロスは嘘を吐いた。
「今度は林檎飴を食べれるかしら」
「そうだな」
「考えるだけで楽しくなってきましたわ。本当に、楽しみ」
「また落下傘取ってきてやるよ」
「本当ですの?」
 もしかしたら、そんな未来も有り得るのかも知れない。今からでも、何も遅くはないのかも知れない、とゼロスは心の底から思った。セレスと、仲間達と、若しかするとあの仏頂面の天使と騒ぐ祭りはどんなに楽しいだろう。けれど、それがもう無理なのだという事もゼロスが一番よく理解していた。
「これから、救いの塔へ行く。全てを終わらせる。お前を、ここから出してやる」
 セレスの手を、強く握り返した。

 



 乾いた土を踏み締める。肺の中、満たされゆく生温い空気。嫌悪して吐き出し、生きて行く上で当たり前の行為を否定する笑みを浮かべる。例えばそれは、生まれて初めての自身への祝福。
 乾いた風(には若干の砂)が髪に絡まる。髪はほつれる。何もかもそのままに、高い高い閉ざされた青空を見上げる(この先には何もありはしないのに)先には暴虐の天使の国。
 乾いた唇を舐めると、微かに傷みを感じる。あれでいて加減をしていたのだからと、家の中のハーフエルフ(のフリをしているただのバケモノ)を思い眉間に皺が寄る。
ああコレットは大丈夫だろうかと思い出したように考えてそれから部屋のすぐ側扉の前で今も幼馴染を心配するあの少年の事を思ってポケットの中手渡された瓶の事を考えてそれから誰かの父親を脳裏に過らせながら馬鹿がいるよと呟きかけてやめたのだけれどもそれでもただ込み上げてくるだけの笑いは堪え切れなくてああ死んじまえとか訳のわからない凡そ狂ってる馬鹿馬鹿しいのか考えがまと
纏まらない。
纏まらないわけではなく、諦めているわけでもなく、覚悟を決めているわけでもない。
ただどうしようもなくいきていることがつらくなることがある
そのじじつをなづけるならそれはほんの きまぐれ
信念などではない
ただ
ああただ誰か今すぐこの思考を停止させてはくれないか。
などといった凡そ他力本願とも言える冗談(?)をそれともなしに謳いながら、堕ちていく昏い色のまあるい穴。呼んでいる遠くの甲高い少年の声。声の主。
助けてあげるよだからこっちへおいでよ

クソクラエガジョウダンジャネェ

(暗転)

 



「―…あ」

 ロイドと目が合う。部屋の中の暖かな火は、暗く冷たい廊下にまで届かない。少年の吐く息は白かった。赤い鼻の頭と、凍った前髪。
「外にいたのか」
「……ああ」
 所在なさげにロイドの目が泳ぐ。触れられたくはない事だったのだろうかと、そのまま脇を通り過ぎる。こんなときどう接すれば良いのか分からない。歯痒いが、掛ける言葉を持たない。
「あ…っと、えっと…ちょっと待ってくれ!」
 腕を掴まれ立ち止まる。なんだ、と振り返るが何故か彼の目を捉えることは適わなかった。俯いたままに、腕を掴んでいる。互いが互いに手袋越しに、それでもロイドの手が震えているのは明らかだった。
 名前を呼んでやると歯切れの悪い、それでも返事をした。手の震えも若干収まったように見える。ただ、視線は掴んだ腕に向けられたまま上げられる事はなかった。泣いているのかも知れない、などとふと思いあたるが少年は至って平静に、けれど何かしら形容し難い異様さをもって掴んだ腕を凝視していた。何かを考えている―或いは思い出している彼を前に、好きにさせてやる事にする。やがて自分なりに納得がいったのか、我に返ったのかは分からないが、ある種の脱力感を伴うようにロイドの手が落ち、腕は解放された。
「…ごめん」
 何を謝るのだろうと不思議に思う。腕を掴んだことに対してだろうか。

「ごめん」

 矢張り彼は泣いていたのだろう。

 



 繋いだ手は子供特有の暖かさで、しっとりと湿っていた。それが嫌ではない。握り返しながら、歩くの速くないか、と訊くと妹はにっこりと笑って大きく頷いた。道行く人々が微笑ましそうに二人を見ている。恥ずかしそうに俯く妹が愛しかった。
 遠くで打ち上がった花火が、ふくよかな輪郭を浮き彫りにする。オレンジ色に染まった少女の目元に、それよりなお一層鮮やかな青黒い痣。

 きっとまた増える。

 



「ゼロス」

 昏いもの全て、振り払うように、振り落とすように、少年の方へ向き直る。視界の端を、自身のものである朱色が掠めて消えた。
 蒼白。
 常ならばロイドの、健康な血色の良い顔はそう表現するのが相応しい程に色落ちしていた。
「なぁ~んつー顔してんだよロイドくん。お前の方がどうにかなっちまいそーな顔しやがって」
 彼の頬を軽く抓って伸ばしてやると、手を振り払われる。その箇所だけが、血の気を取り戻して異様に浮き上がって見えた。
 反応は正常。判断力もまとも。これなら大丈夫だろう、とポケットの中で片手に握り込んだものを思う。
「ごめん」
 先程ゼロスが触れたところを擦りながらロイドが言った。
「なぁ~に謝ってんだよ」
「いや…」
 ロイドの歯切れは悪い。ゼロスは先に続く言葉を待つフリをしながら、舞い上がった砂塵が目の中に入ったのを煩わしく擦る。
「コレットは…助かるんだ。その為に、マナのかけらまで取ってきたんだから」
 間に合わない筈がない、とロイドは言う。もう間違えないって決めたんだ、とロイドは言った。彼の傍ら、ぼんやりと青空を背に建つドワーフの家を眺める。中では今、アルテスタがタバサとリフィルと共に、あの哀れな再生の神子を救おうとしている筈だ。助からない筈がない。
 良い事だ。それは良い事なのだ、とゼロスは思った。
 風の金色の髪を躍らせて、彼女が笑う。その傍らで、矢張りロイドが笑っている。美しい美しい夢のようだ。
「ところで」
 ロイドが切り出す。相槌を打ちながらそれでも、思考は別のものに支配されたままだった。
 青い青い空を背に聳え立つ塔。
「…お前、こんなトコで何してるんだ?」
 その、向こう。
 遥か南の。

「ひみつ」

 そう言ってゼロスは笑う。
 手の中の瓶と、更にその中の粉末を思って、ゼロスは笑う。

 



 夜になっても、雨は止まなかった。
 甘ったるい香水の匂いに、思考が停止する。組み敷いた女の指が髪に絡まる。気に留めず、ゼロスは女の身体の線をなぞった。乱暴に抱く事などしない。
 女の金色の髪がシーツに広がる様は、夜目にも映える。白く、柔らかな肉。身体も意識も、全てそこに埋没させる。それはゼロスにとっての安らぎだった。柔らかく暖かな肉が自身を包み込んでくれる。その中でならどんな悪夢にだって耐えられる、そう思った。
 頭を抱きかかえられる。目尻に、頬に、そして口元に唇を寄せられ、深く舌を絡め合う。その口付けに酔いながら、それでも頭の片隅は酷く冷め切っている。窓硝子を叩く雨粒の音が、まるで耳鳴りのようだ。入り混じる、遠くの海の波のうねりはまるで自分を産み落とした女の恨み言のようだ。それを聞いているのが苦痛で、ゼロスは更に激しく動いた。都合の良い揺り篭は、嬌声を上げて刹那、耳鳴りを掻き消してくれた。
 愛してる。気安い睦言を繰り返す。一片の真実も含まないその滑稽さを、女は鼻で嗤った。

「要するに」
 相変わらずの平坦な口調で、雨の上がったテラスに舞い降りた天使は言った。ゼロスは全身の気だるさに抗えず、枕に埋めた顔を僅かにそちらへ向け、話を聞いているという意志だけ表示した。
「拡大化された自己というわけなのだろうな、神子の場合」
「何が」
 天使の背後には、相変わらずどす黒い夜の空とうねる海とが広がっていた。彼が携帯している剣の柄に僅かに付着した血に焦点を合わせたままゼロスは呟いた。
「神子の―…ある種の自己犠牲的とすら思える妹御への愛情は、延長線上にある自己そのものに向けられたものだ、とそういう事だ」
「あ、そ」
 シーツの上に、金色の髪が数本落ちていた。息を吹きかければ、容易く夜の闇に紛れて消えた。部屋の中は女の残り香と青臭い臭いとが混ざり合い、テラスから吹き込む風もない。空気は酷く澱んでいた。
(吐きそー)
 先程まではあんなに熱を持って熱かった肉なのに冷めるのは早い。それでも手に馴染んだ肌の感触を確かめるように何度もなぞった。汗で絡んだ金色の髪に顔を埋める。自分も似たようなもんかな、と思った。
「判っていただろうに、何故誘いにのった」
「解ってるくせに、何であんたはそーいう事訊くかね」
 上半身を起こすと、冷めた肉が床に転げ落ちた。甘ったるい香水と射精後の青臭さとに、また更に別の臭いが混じる。それを、肺の中に溜め込む。吐き出す。
「あんたの言うとーりだ」
 女の身体は酷く冷え切っていた。先程までは、あんなに熱く火照っていた。ベッドの端に僅かながら引っ掛かった、細い指に指を絡ませる。その冷たい指は、死んだ母親が頬に触れたその指を思い出させた。
 最初から女が、神子の暗殺に差し向けられた事をゼロスは知っていた。女好きの神子に差し向けられる暗殺の手段としては常套だった。ただ、それがよく顔見知った女で、母に似た美しい金髪の女だった、それだけだった。
「結局、俺さまは自分が面白可笑しく生きてけりゃそれでいーんだ」
「その生に、自身の死に際も含まれているのだろう?」
 天使の言葉は間違っていない。ゼロスにとってセレスを愛するという事は、母親に愛されなかった自分を愛するという事だった。自分ですら愛せない自分を、そうやって愛していた。これは、ただの自己愛でしかないのであった。
 ベッドから降りる。素足に、シーツが絡まったが構うことなくテラスに立つ天使の方へ向かう。
「寒い」
 手を伸ばすと払われて、代わりに天使は足元に傅きシーツを手にした。そのまま肩に掛けられる。
「そんな格好をしているからだろう」
 言って、離れていく手をゼロスは掴んだ。
「神子?」
「―…このまま」
 天使の手は、肩に掛かるシーツを掴んだままだ。その天使の手を、更にゼロスが掴んでいる。
「このまま、殺してくれないか」

 


 

 ひら  ひら ひら


 身体が昂揚しているのが分かる。全身の神経が酷く曖昧に、けれどこの上なく研ぎ澄まされている。この矛盾。痛みなどなく、どれだけの傷を負っても思うように身体が動く。空気の流れが音として処理され、マナの流れが明確な情報として視覚を通し脳へ送られる。聞きたくない言葉は遮断され、見たくない表情は遮蔽される。
「ゼロスッッ!」
 名前を呼ばれると、自然と笑いがこみ上げてきた。まだまだ子供らしさの残る、少年の視線が真っ直ぐにこちらへと向けられる。だから、笑い返したのだと思う。
 ロイドの一閃を受け止めてから、第二撃を後方に跳んでかわした。かわしがてら腕を斬り付けるが、多少顔を苦痛の表情に歪めるに留め、剣を落とすまでには至らない。残念。着地と同時に巨大な戦斧が閃く。単純な情報処理能力は格段にこちら側の方が上だ。多勢に無勢のハンデはあるが、それでも有利なのは自分の方だった。斧を避ける。かなり無理のある動きだったが、それでも満足のいく動きをしてくれる身体が嬉しい。致命傷が避けられただけでも上出来だった。

 ひら  ひら ひら


 目の前を掠める、半透明な色をした金色。そこから惜しげもなく零れ落ちる燐紛が、その鮮やかさをもって視界を奪う。翻る深紅が、血の色なのだか自身の髪の色なのだかはもう判らない。

 綺麗だ。

 鮮明な視界の中で、挑んでくる元お仲間の面々。各々が苦痛に表情を歪めている。けれどその理由を知っても尚、その要因が自分にあるのだと分かってすらいても、どうしても表情は笑顔を貼りつけたままだった。そして、それこそが今この場に相応しいのだと心の底から思っている自分がいた。
 堅い装甲に包まれた重い蹴りが腹部を圧迫する。どうせ痛みなどないのだから、と無視して後衛に向けて呪文を発動させる。苦痛苦悶の声を優れたその聴覚で捉えるより先に、肋骨が折れる感触がした。後方の姉弟達は態勢を立て直し、再度呪文の詠唱に入っている。これはマズイ。中断させなくては、と即座に判断する。人間だった頃からこの手の判断の早さや、頭の回転には自信があったが、化け物に成り下がった途端それは人間だった頃の比ではなくなった気がする。真面目に人間をやっていた事が馬鹿馬鹿しく思えてくるくらいに。
 足を踏ん張り、その場に留まると相手の目が驚愕に見開かれる。長剣を握るのとは別の方の手で懐から短剣を取り出し、男の首目掛けて放つ。それを、脇から滑り込んだ少年が弾き落とすのも計算済みだった。纏めて炎に捲いてやる。良いカンジに焦げている二人は無視して、その脇をすり抜け後衛との間合いを一気に詰める。少女の斧は人間ではないものの動きを仲間のサポートなしで捉える事に追いつかない。姉さん!と、呪文の詠唱を中断し応戦しようとするジーニアスを盾で殴る。そのまま、また一歩前進し、最後衛に位置するリフィルとの距離を縮める。彼女と目が合った。淡いマナに包まれた彼女は、剣撃が間近に迫っていても詠唱を中断しようとしなかった。
 呪文が発動する。一定範囲に働きかける回復系の魔法。袈裟懸けに切り伏せられた彼女は呆気なく後方へ吹き飛ばされるが、その口元は弧を描いていた。倒れたまま動かない女。今ので前衛は立て直しただろう。次いでリーガルの気功術がロイドへ向けて放たれるのを肩越しに確認した。これで主戦力であるあの少年は全快した筈だ。
 舌を嘗める。乾いた唇を湿らせて、剣を握りなおした。
 形振り構わずリフィルに駆け寄り、蘇生符を施そうとするしいなへと今度は剣を向ける。リーチはこちらの方があり、切っ先は易々と彼女の腹部に吸い込まれた。
 そう、物事には順序がある。
 治療術のエキスパートであるリフィルを確実にまずは潰す。次に、その彼女を戦線に復帰させる事が可能なしいなを狙う。その為には多少の痛手には目を瞑らなくてはならない。そして何より、戦闘の常套手段であるが故に、それを相手に気付かせない。半狂乱で戦い、半ば正気を失っているように見せ掛けたでたらめな戦いをする。しているように、これもまた見せ掛ける。そうして、全ての段階を踏み、然るべき戦場を作り上げる。
 リーガルの足に深々と剣を突き刺し、それを引き抜いてから柄で昏倒させる。その頃には流石に満身創痍で肩を使って息をしていた。最強無敵の化物じゃなかったのかよ、と胸中で悪態を吐いてみる。けれど息がきれてはいても、それに伴う呼吸の苦しさはない。都合の良い身体だ、と思った。そうして、全ての都合の悪いものに蓋をして、気付いた時にはもう取り返しがつかなくなるのだろう。
「はっ。好都合」
 お似合いの生き方だった。ずっと、自分はそうやって生きてきた。だから、今ここにいる。ここに立っている。ここで剣を握っている。
「…なあ、ロイドくん」
 声が掠れている。ロイドは何も言わない。他にはもう誰も立っていない。全てゼロスが切り伏せた。ロイドは、治癒術のおかげで比較的良好そうだった。鏡のように磨かれた床には自身の姿が映りこんでいる。酷い格好だ。口の端を吊り上げて、一歩ロイドへ近付く。靴の裏に付着していたものであろう鮮血が床を這う。
「物事には順序があるんだぜ」
「……」
 ロイドの目は鋭く、そして真っ直ぐだ。こうして見ると本当に、親子なのだと思う。似ている。とてもよく似ている。良かったね天使サマ、と胸中呟く。
「先ずは、レネゲードに接触する。奴らが王室の方とコンタクトをとってたのは知ってたからな」
 神子の立場は都合が良かった。
「次に、クルシスに情報を流す。これで超絶クールビューティな麗しき二重スパイの誕生だ」
 これもまた、神子の立場は都合が良かった。
「そしてお前らに近付く。仲間ごっこを楽しむ。そしてお前らを信用させる。信用させて、信用させきったところを裏切る」
 これは失敗した。神子という立場がやや仇となった。クルシスとレネゲードへの定期連絡が不審さに拍車をかけた。何より、ここへ来てことが性急に運んだ為、信用させきる前に裏切る羽目になった。せめて、あともう一周間―いや、三日でもいい、彼らに同行する時が許されていたのなら信用させきることが出来たのに、と残念に思う。
「喜べ、ロイド」
 それでもまあいいか、と思う。付け焼刃にしては上出来だ。
「お前の為にお膳立てしてやった、これはお前の為の舞台だ」
 コレットを奪われ、仲間を無下に扱われ、彼の怒りは頂点に達している。向けられた憎悪の眼差しが心地良い。

 大切な仲間たちが酷く傷付く様は、信じてた仲間に裏切られるのと同じ位には、ムカついてくれるだろう?

 

 ひら  ひら ひら

 



 コレットのマナが安定していくのが、気配で判った。
 彼女は助かる。
 安堵した。心の底から安堵した。そうして、自分が、心の底から、彼らを仲間だと思い、愛しているのだという事に気付いた。その事実が嬉しくて、笑った。何も知らないロイドが、怪訝そうな目でこちらを見ている。
「何だよ」
 彼の声は少し間抜けだ。言うのが勿体無い。どうせなら、直にアルテスタの報告を聞いて確実に安堵すべきだ。けれど一度零れた笑みは収まらず、仕方なしに話題を別方向へ持っていくことに決めた。
 さて、何の話をしようか。
「ゼロス。言いたかないけどさ、コレットがこん―…」
「言いたくないなら言わなきゃいーんじゃん?」
「お前なぁ…」
 砂利を踏み締めて、一歩近付く。ロイドとの距離が詰まる。そのまま伸ばした腕を首に回すと、遠く南―ではなく、やや南西(本命は南だが、勿体無いので割愛)を指す。過剰なスキンシップにももう慣れてしまったのか(つまらない)ロイドは異を唱えることもなく、素直に指の指し示す方向へ視線を向けた。
「―…救い、の塔?」
「んにゃ、その向こう」
 視線をそちらに向けてくれただけで目的は達したので、ロイドをさっさと解放する。それから、再びポケットの中身を指で弄る。
「メルトキオだ」
 彼女の暮らす事の叶わない、囚われのお姫様の、遠く御伽の国のあるところ。
「ロイドくんの村には、お祭りとかなかった?」
「あー…あったあった。収穫祭だな、イセリアは」
 そう言ってその光景を懐かしむように目を細め笑った。つられて笑う。
「メルトキオにもあるわけよ、そーゆーのがさ」
 ただしあの街は教会が権力持ってたからぎっちぎちのお堅いのしかやんねーんだけどさ、と付け加える。
「それでもまあ、ガキには嬉しいもんだな。特に俺さまなんかその頃はメルトキオから出してもらえる事なんて滅多になくてよ」
「確かにな。いつものイセリアが何かその時だけ、全然別の村みたいだった」
 瞼の裏に焼き付いている、宙を舞う色とりどりの花弁。次期神子であるという、その事から退屈な出し物にいつも仏頂面で出席していた。つまらなかった。父の傍らでぼんやりと、無価値な群集を眺めていた。
「あ、そうだ、収穫祭で思い出した」
 きっと、今もその思いは何処も変わってはいない。自分にとって本当に価値のあるものなんて、何一つ与えられなかった。自発的に持つ事すら許されなかった。
「どした、ロイドくん」
「いや、いつもだったらタバサがメシの用意してくれるケド、今先生達とコレットの治療してるだろ。だからどうしようか、って皆で言っててさ」
 指先が冷たい。フラノールの方から吹きこんでくる風が、体温を奪う。その指先で転がすポケットの中身が何だったか、悴んだ指先では分からない。思い出せない。
「じゃ、今日の当番であるこのゼロスさま腕によりをかけて作っちゃいましょー」
 先戻ってろよ、とロイドの肩を叩く。
「ゼロスは?」
「井戸で水汲んでから行くわ」
「ふぅん。分かった、じゃあ皆にもメシの事は言っとく」
 そう言い残し、扉は閉じられた。ポケットから手を出し、両手を擦り合わせて息を吹きかける。彼がいなくなると本当に静かで、周囲にはただ風の音しかなくて、たった独り取り残されてしまったかのような気持ちになる。
 いつだってそうだった。取り残されるのはいつも自分の方だった。今更だ。別に寂しいとも思わない。いや、思えた方がマシだった。こういう境地の人間はいっそ、絶望していると表現するのが相応しいのだろう。だから、せめて寂しさくらいは感じる事が出きれば良かった。これではあまりにも惨めだ。
「………って、違う。水だ、水」
「そういえばゼロス!」
 勢い良く扉が開かれる。世界にたった独りぼっちに取り残されてしまったのだ、と感傷に浸っていたのも何処吹く風。まあそうだ、そうだった、そういう奴だったロイドくんは。
「ゼロスんトコのお祭りってさ、いつあるんだ?」
「何だ、そんな事訊く為にわざわざ引き返してきたのか」
「んだよ、そんな事なんて言うなよな~」
「へいへい」
 相槌を打って、それでも心底嬉しいと思いながら、足元に転がる手桶を拾い上げる。青い空、聳え立つ塔、その向こうを見て、それから口を開いた。
「明後日、だよ」

 万聖節が来る。

 



 彼女はいつも独りだった。
 兄であるあの男と同じように、彼女もまた独りだった。
 廻る廻る、色とりどりの赤、紅、朱、緋、赫。
 多様にその姿を変え、見る者を惑わす綺麗なもの。生き物のよう、と錯覚する。この閉ざされた空間に赦された美しい世界。色とりどりの世界。それを夢見ながら回す。手の平の中の小さな想い出。記憶の中の美しい世界。
 尊い神子の血、下賎なハーフエルフの血、その双方の矛盾の内包。それでも構わなかった。
 この窓から見えるものが世界なのではない。この扉の外に自由があるわけではない。小さくても美しい世界、尊いもの、柔らかな暖かいものはこの手の中に在る。その小さなものを覗くときだけは、確かに彼女の世界は美しく、そして確かに自由だった。
 彼女は、それで充分だった。彼女は、それだけで満ち足りていた。
「セレス様」
 美しくない、とセレスは思った。
 それはとても惜しい事ではあったけれど、セレスは仕方なく手にしていたものをテーブルの上に置いた。ほんの一時、手放すだけだ。声をかけたこの無粋な男の用件を聞いてしまったら、また世界を堪能すればいい。
 テーブルの上の二人分の紅茶は、淹れてから大分経ってしまっている。冷えた紅茶に湯気はなく、重暗い赤に浮かぶ少女の顔は酷く疲れきっているように見える。ああ、酷い顔、と思いながら暫らくそれを見つめていると、促すようにもう一度名前を呼ばれた。
「聞こえています」
 声も、随分と掠れている。喉が痛い。先刻から鳴り止まぬ耳鳴りに顔を顰めると、カップの中の少女の顔が更に醜く歪む。見るに耐え兼ね、扉の方へ目を遣る。その更に向こうから、お客様がお見えになっています、と先刻と同じ男の声がした。
 ああ嫌だわ、私まるで女の醜いのみたい。
 心音が速度を増す。この醜い、巣食う澱を塞き止める扉を叩き壊す圧倒的な暴力が全身を支配する。
 扉の方をみておれず、セレスは再びテーブルの上の冷めた紅茶を凝視した。自分の顔が映り込む手前のカップではなく、窓から差込む日の光を反射する、もう一方のカップの方を見つめる。そのままセレスは何も言わず、揺れる光を見つめていた。男も、既に慣れたもので何も言わない。
 あの美しい男を切り裂いたなら、そこからは一体何が零れるのだろうか、と何度か考えた事がある。白い皮膚に銀の刃を滑らせて開いてみせたのなら、きっと素晴らしく美しい尊いものが、零れて溢れるに違いない。それは、セレスの自由であり、そして世界だ。だから、あの男は美しい。セレスの大切な、得られなかったもの総てをその身に宿している生き物だからだ。どんな窓も、どんな扉も、セレスの望むものへ続く事はない。どんな鍵も、それを開けることは叶わない。凍える刃だけが、極彩色の世界へと続くただ一つの鍵だと言う事、そしてそれが折れてしまった事を、セレスは知っていた。
 窓の外で色付いた葉が揺れている。閉め切った部屋の中にも潮の香りは満ちている。
 何一つ変わらない世界を見つめながら、セレスは口を開いた。
「どうぞ、こちらへご案内して」
 私は醜い。醜い醜いああ嫌だ。
 テーブルの上の筒を手に取る。この部屋にある他の何よりも安価で古びたその筒を、セレスは両の手でただ握り締めた。
 扉が開かれる。外の空気が部屋の中へと流れ込んでくる。そんなものは要らない。そこにはもう、大切なものは何一つ在りはしない。ただこの小さな部屋にだけ、閉ざされた世界にだけ、この手の中にだけほんの僅か残されている。それすらも、日が経つにつれて失われて行く(これ以上私から何も奪わないで)。
 開いた扉の、すぐそこに彼は立っていた。外套が全身を覆っていて、いつもの赤い服はまるで見えなかった。それを、脱ごうともしなかった。そう、そうよ、それでいいのよ、とセレスは窓の外を眺めたままに思った。
「ようこそおいでになりました、ロイド・アーヴィング」
 そこで、初めて彼の方を見た。
 同じ年頃の、それも少年と話したのは彼が初めてだった。初めて会ったばかりの頃こそ、快活でありこそすれ何がそんなに兄を惹きつけるのかセレスには理解出来なかった。今、彼はとても辛そうな顔をしている。それでも、セレスを真っ直ぐに見つめている。
 この頃の彼は会うといつもこの顔ばかりだ。
 その苦しげな顔を、ただセレスは笑った。
 ただ、嘲るようにして笑った。
 苦しめば良い。私は貴方をもう責めたりはしない。
 そうやって貴方は苦痛に顔を歪めていればいいの。私はそうして私を慰めるの。
 貴方にそんな顔をさせたのは私。貴方に彼を殺させたのも私。
 彼が、愛しているのは私だもの。
 貴方を裏切り、自分を犠牲にした。それは全部全部私のため。
 彼の、愛も痛みも苦しみも憎しみも怖れも狂気も全て私のもの。

「…セレス」
 耳鳴りはまるで潮騒のようだった。風が木の葉を揺らす音、波の音、柔らかな午後の日差し。苦悶の表情を浮かべたままの少年と、疲弊した少女が一人。
 彼は部屋に入ったところで立ち尽くしたままだ。それを、セレスはただ見上げたまま微笑んで言った。
「―…エクスフィアの、回収をしているそうですわね」
 できるだけ柔らかく優しく言った。彼は酷く傷付いているような表情をして見せた。可哀想な、まるで自分の方が被害者であるかのようなそんな表情だった。別に構いはしない、とセレスは思った。この男は会った時からずっと無神経な男だった。事ある事にセレスの神経を逆撫でした。けれどもう、それもない。
「立派な心掛けですわ。亡き兄もさぞ喜んでいることでしょう」
 思ったよりも流暢に、その科白は出てきた。彼の顔は、今度は酷く困惑しているように見えた。けれど、セレスが見たいのはそんな顔ではなかった。許されない罪にその表情を歪めて欲しい。もっと苦しめば良い。セレスは貼りつけた笑顔をそのままに、ただそれだけを祈るような心地でいた。
 手の中の筒をテーブルの上に戻す。
「…すまない、俺は……」
「エクスフィアはどれくらい回収出来まして?メルトキオの北にある大橋のエクスフィア回収の目処は―…矢張りまだついてはいませんわよね」
 ロイドの言いかけた言葉を遮り一息に話すと、咳が喉までこみ上げてきた。紅茶を流し込んで堪える。冷たい紅茶は錆びた鉄の味がした。
「セレス!」
 呼び掛けに、セレスは笑みを収めた。少女の細い肩にかけようとした指が、所在無さげに暫らく宙をさ迷う。セレスはその手を取った。彼に触れるのは、これが初めてだった。嫌悪感で手が震えるのではないか、と思ったがその心配はなかった。
「ここにも一つ、ありますわ」
 兄を、奪ったその手に、エクスフィアを握らせる。本当に咳が出なくて良かった、と安堵しながらその手を放した。
「これは、受け取れない」
 予想通りの科白に、どうしてだか笑いは込み上げて来なかった。
 受け取れないよ、とロイドは繰り返して言った。無造作に突き出された拳に、セレスはただ顔を背けた。

 



 「―…あ」

 廊下を歩いていたらゼロスに会った。後ろめたい事があったわけではなかったが、ロイドは何となく慌てて肩に掛かる雪を払った。それを見たゼロスがロイドの頭に手を伸ばす。ここにもついてるぜロイドくん、と彼が言うのと視界をはらはらと雪が舞うのとはほぼ同時だった気がする。
「外にいたのか」
 仕方がないな、といった調子でゼロスが言った。
「……ああ」
 何だかそれがクラトスと会っていた事を責められているようで、ロイドは何となく目を逸らす。それから、別に何を隠す事があるのだろう、と思い直して口を開きかける。しかし一通り雪を払うのを手伝い終えると、ゼロスはロイドの脇をすり抜けて割り当てられた部屋へと去って行った。
 腕を掴み損ねた手が間抜けで、ロイドはその手でそのまま頭をかいた。
 クラトスとの事は自分達父子の問題だった。話されて、ゼロスだって一体どうすれば良いのか分からないに違いない。だから構わない。言わなくて良かったのだとその時ロイドは思った。

 この男にしては口数が少ないことを、どうしてもっと気にかける事ができなかったのだろう。
 遠ざかっていく背中に掛かる長い髪の、その先が自分と同じように凍りついていた事を、もっと不思議に思うべきだった。

 



 祭りの日は朝から晴れていた。
 噎せ返るかのような花の匂いがする。色の洪水で街は今にも溢れ返りそうだ。賑わう大通りには教会主催とはいえ、幾つもの露天が並び、異国の玩具や見世物が目を引く。アイスクリームを舐める子供が、母親の手を引き店に向かうのを、父親らしき男が苦笑混じりに、けれど愛しそうに見つめている。
 花火の音は遠く救いの塔にまで聞こえてきた。
 聞きなれない異国の笛の音が響く。色とりどりの風船が花吹雪に混じって空へと消える。教会を抜け出し、飴細工の店は香ばしい匂いを周囲に振りまいている。
「はぐれるなよ」
 押しあう人ごみの中、小さな男の子が妹の手をしっかり握り直しながら言った。
「これは何?お兄様」
 男の子の手を引いて、妹が呼び止める。
「ああ、万華鏡だよ」
「きれい」
 少女は質素な細工の施された万華鏡をひとつひとつ取り上げては、その中を覗き込んだ。小さな筒の中で多種多様に姿形を変えるその様は、世界そのもののように美しい、と少女には思えた。満たされて、酷く幸福に、ただ笑う妹を見て男の子もまた、幸せな気持ちになった。祭りの日だけは、世界が廻る万華鏡の中のように、美しく幸福に彩られているようだった。
 けれど救いの塔には飾られた花も、人々の笑いもない。
 ロイドは、目の奥が熱くなるのを堪えながら剣先を突き出した。それを、ゼロスが盾で弾く。それとは逆の手で持つ剣を振り下ろすと、そちらもまたゼロスは難なく手にした片手剣で受け止めて見せた。だが、そこまでは予想通りの動きだ、とロイドは弾かれたままになっていた方の剣を素早く引き戻し、第三撃目を加えようと振り被った途端、腹部を圧迫される。そのまま仰向けに倒れると、今度は背中に衝撃。激しく揺れる視界の中で、ゼロスが折り曲げた片足を床に降ろすところが見えた。

青アオい空オラを見イたら
白イロい雲ウモが高アカく
黒ウロい雲ウモが低イクく
仲アカア良オくウ並アらんで
フウラリフウラリ飛んで行くよ
フウララフウララフゥ――ララ……

 片膝をついて起き上がりながら彼の名前を呼ぶと、その声は擦れていた。自分の名を呼ばれたことに気付いた男は、それはそれは嬉しそうにニッコリと口の端を吊り上げて笑って見せた。起き上がるのをわざわざ待っているなんて厭味な奴だ、と睨み上げるがゼロスはただ肩を竦めてから後方に跳んで距離をとっただけだった。見せ付けるように、金色に光る羽が翻る。
「―…約束、した…のに…ッッ」
 こみ上げて来るものの正体も解らずに、ただ肺に溜まった息を吐き出そうとしたらそんな言葉が漏れた。呟くような声は、自分の耳にも届くか届かないかの微かなものだったのに、ゼロスは少し困ったような驚いたような顔をして瞬くものだから、すぐに彼にもその言葉が届いたのだという事が知れた。
「約束したじゃないか」
 今度は、ちゃんと言葉になった。はっきりと、口にした。
「―…ああ、今日は祭りだったな」
 ロイドの耳には届かない、けれどゼロスの聴覚は確かに遠い故郷の祭りの気配を捉えている。
「そうだよ!今年は流石にもう無理だけどさ……来年でもいい、一緒に行こうぜ。俺の村の祭りだってさ、まだこれからなんだ」

あたいも一緒に並アラんでエ
フウラリフウラリ歩いたらア
赤アカい壁アベにぶつかったア
フウララフウララフゥ――ララ……

「だからさ、世界を統合してそれで」
「いいんじゃねぇの?ナァんも知らねぇ平和莫迦共がいくら泣こうが喚こうが、さ」
「だから、俺達も……」
「コッチはコッチで盛り上がろうぜ」

フウララフウララフゥ――ララ……

 青空に花火が打ち上がる。打ち上げられ、割れたボールの中から小さな落下傘風に揺られ、花びらに混ざり降りてくる。
「転ぶなよ」
 父親が駆け出す子供に声をかけた。昔自分も同じように小さな頃、あの子の祖父に連れられ祭りに来た事を思い出す。
「外から見るとただの筒なのに、どうしてこんなに綺麗な世界が、たくさんたくさん広がっては散っていくのかしら」
 少し前を行く兄の洋服の裾をしっかりと握り締め、万華鏡を覗き込んだまま少女が言う。
「またこうして今年も万聖節を無事迎える事が出来るとは思わなかったよ」
 初老の男が細君である老婦人に言った。
「テセアラの繁栄は800年の歴史を誇るが、それでも何時の時代にも策謀や暗殺は絶えなかった。表には決して出ることはなかったが、矢張り裏では血で血を洗うような闘争がなされ続け、その被害を被るのは王族だけでなく、マナの血族の方々も代々苦労が絶えなかった事だろう。それを思うと、毎日を平穏無事に過ごせることの方が奇跡であるかのように思える」
「人と人がいがみ合い、憎みあう時代は終わったのよ。私たちはもっと理性的で平和的に生きられる筈なのよ」
「果たして本当にそうだろうか。私にはまだ、鬱屈のようなものがあるように思える。昨日、今日―…このたった今ですら、何一つ終わってなどいないんじゃアなかろうか」
 ゼロスは再び呪文の詠唱を始めた。絶望的な、天使の歌。ロイドの耳には幼馴染の少女の歌声が重なって聞こえる。光の矢は雨となり、また圧倒的な暴力を以ってして降り注ぐ。腕を貫かれ、膝を砕かれ、口の中に錆びた鉄の味が広がった。辛うじて、防御技で損傷箇所を最小限に食い止める。手に力が入らず剣が握れないのか、流れ出る血で滑るのか、ロイドにはもう判らない。
「まだだ、まだ、戻れる…まだ間に合うー…だからゼロス……」
 一瞬、片目の視界が遮られる。目の中に血が入った為だ、と剣を握ったままの手で擦る。開けた視野に、倒れこんだ仲間たちが苦しみに呻く様がありありと見せ付けられる。もう、今のロイドには目の前のこの天使を引き止める術はない。
 今、ここで死ねば終わるのだろう。仲間達を見捨て、クラトスを裏切り、世界を放置したまま、ここで死ねば全てが終わるのだろう。
「輝く御名の許―…」
 そして、ゼロスは生きていく。マナの神子から解放はされ、けれど今度は天使として心を失いながら生きていく。
 何が彼をそこまで追い詰めたのだろう、とロイドは思う。背中を預け合い幾多の戦いを潜り抜けて来た日々も、冗談を言い合いながら歩いていた時も、常に、彼は苦しんでいたのだろうか。これしか、もう本当に選択肢は残されていなかったのだろうか。
 ゼロスの腕が振り下ろされる。肉体的にも、精神的にも、次の攻撃をかわす余力はない。何も映さない冬の湖のような色の目を、ただ見つめる。
「ロイド!なにやってるんだよ!」
 名前を呼ばれ、はっとする。後方から、援護の火球が飛び、ロイドの脇をすり抜けてゼロスの術を中断させた。それを眩暈と、そしてほんの少しの錯覚を起こしながら見つめる。目の前の男を見る。本当は、少し期待をしていた。もしかしたら、と思っていた。いつも、前線で自分と並び剣を振るっていたのかと思えば、何時の間に唱えたのかも判らない呪文で援護をしてくれた。傷を負えばすぐに治療術を施してくれた。
 ゼロスの舌打ちが聞こえる。床に倒れこんだ姿勢のまま、最後の気力を振り絞り呪文を発動させたであろうジーニアスに向けて剣を構える。
「やめろ」
 手の平の中の、馴染んだ感触。先刻までの失いかけていた感覚が嘘のように指先を、全身を支配している。呟いた、声は確かに自分のものである筈なのに、何故だかクラトスの声が重なって聞こえた気がした。
「やめろ」
 ゼロスはロイドの言葉をその存在ごと否定して、頭上を飛び越えていく。違うんだ、そうじゃない、と否定の声は喉に詰まり言葉にならない。確かにゼロスを止めなくては行けないのに、それとはまた別のところで、全く別の衝動がロイドを支配しようとしている。その衝動こそを引き止めるように、クラトスの声が重なる。彼が着地し、ジーニアスに止めを注そうと剣を構えるのが気配で判る。なのに研ぎ澄まされた全身の感覚に、ただ「動け」と脳髄が命令を伝達することを頑なに拒む。
「やめろ、やめろッ」
 相対すれば止まらない。それを何よりも理解していた。だからロイドは振り向けなかった。それこそが、何よりも恐れていた衝動だった。
「やめろ――――ッッ」
 ジーニアスの恐怖に引き攣った声が聞こえる。腕は剣を支えることを放棄し、床の上に乾いた音をたてた。耳を塞ぐ。何も聞こえない。剣が空気を切る音も、親友の悲鳴も、自分の呼吸、鼓動すら他人事のように外界から全てを遮断した。
 遠く、太鼓の音や祭りのざわめきが聞こえた気がした。
 目を開けると、視界がぼやけている。霞んでるわけではない。滲んでいるのだと、気付くと更に視界が揺れた。床に転がる片刃の刀身は血に濡れて鈍い光を放っている。
「わかったよ」
 草臥れた声は、果たしてかつての戦友に届いただろうか。
 ロイドは素早く柄を握る。振り向き様に、ゼロスの剣とジーニアスとの間に刀身を滑り込ませそのまま跳ね上げた。これで終わりだ。剣がなければ物理的な攻撃は実を結ばない。詠唱に入れば遮られる。ジーニアスが彼の姉の口にライフボトルを含ませているのを視界の隅に確認する。これで、ゼロスの敗北は目に見えて明らかだった。なのに、どうしてこの腕は剣を振るうことをやめようとしない。何故彼は、まるでつまらないものでも見るかのように、相変わらずの褪めた目で、けれど先刻までとは明らかに異なった天使ではない生き物の目で、深々と突き刺さる刀身を見つめているのか。
 視界が、赤と紅と朱と緋と赫とで埋め尽くされる。
「死なせてやるよ」
 いつまでも万華鏡の中を覗き込んだままの少女が転んだ。慌てて男の子は妹を助け起こす。
「いつまでも観ながら歩いてるからだろ」
 妹に大した怪我がないことに安堵し、慌てた照れ隠しに咎める様な口調になる。
「だってとても綺麗なんですもの」
「でも、綺麗なものはそれだけじゃないだろ。小さな筒の中には納まりきらない、もっともっと綺麗なものは、きっとこの世界にもっともっといっぱいあると思うぜ」
「でも、この小さな筒の中の世界はわたくしが今までに観た何よりも綺麗」
 けれどこの時少女は気付いた。きっと、何よりも尊く美しいものは、こうして自分の手を引いてくれる兄なのだ。何も知らない自分に、いつか美しいものを、世界を見せてくれるのだと小指を絡めてくれる兄こそが、これからもずっと自分にとって掛替えなく尊いものなのだと思った。
 切っ先から刀身が肉へと埋められていく。柄のところで塞き止められ、それ以上の前進は適わない。ゼロスの身体が崩れるのに引きずられロイドの膝も折れる。肩に彼の頭が力なく凭れ掛かり、胸が詰まるような痛みが走る。折れてる。頭の片隅で、後で先生に治してもらわなきゃ、と思いながら、重みと痛みとに耐えながら、それでもロイドはそのままの姿勢でいた。
 終わりだ、とロイドは呟いた。
「終わったんだ」
 ゼロスの表情は見えない。けれど彼の頭が微かに動いた。
 花火が上がる。打ち上げられ、ボールが割れる。ゆっくりと舞い降りてくる落下傘を男の子が指差す。それを、妹が目で追った。
「はは、カッコ悪ィな俺―…ホンット……カッコ悪ィ」
 ゼロスの指先が腕に触れた。あやす様に数回調子をつけて叩かれた。フラノールで雪を払ってくれた、その時の事を何故だか思い出した。
「―…仲間だと………信じていたのにッ」
 消え入るように呟いた声は仲間達には届かない。ゼロスは喉だけで笑ってみせる。こんな時ですら器用な男だ、とロイドは彼の背中に腕を回した。少しでも楽になればいい、と背中を擦る。途中、突き出た刀身が指先に触れてゼロスがほんの少し苦しそうに身を捩ったがそれだけだった。
 癖のあるゼロスの長い髪が鼻腔を擽る。涙と鼻水とで顔はきっとぐちゃぐちゃだっただろうし、ご自慢の髪を酷く汚してしまっているので、彼の顔が見えないのは都合が良かった。
 刀身を引き抜いた。細く血の糸が牽いて彼の髪に落ちると、すぐに馴染んで消えた。ゼロスは仰向けに倒れ、引き攣った呼吸を二三繰り返した後、ようやく口を開いた。その頃には、傷ついた仲間たちも何とか起き上がれる程度までには回復していた。
「派手に、やってくれちゃったなあ」
 ひゅうひゅうと、空気が漏れるような、そんな声だった。
「お兄様」
 万華鏡に施された細工を指でなぞりながら、妹は呟いた。誰もいない部屋に、その声は寂しく響いた。
 今日は万聖節で、今はまだ外に出る事すら叶わぬ身ではあるけれど、それでもまたいつか、幼い日兄に連れられて街中を回ったように穏やかな日々を過ごせたらいい。
 引いては寄せる波の音が窓から流れ込む。カーテンを揺らす風が髪を散らし、その向こうに広がる世界は、矢張り兄の言うように尊く清らなもので満ち満ちているのだろう、と思った。そこに、確かに存在する、兄が生きて来た世界はとても美しく素晴らしいのだろう、と思った。
(だから耐える事が出来るのです。わたくしは―…お兄様、もう一度貴方を信じて待つ事が出来るのです。そうして、もう二度と貴方の言葉を疑う事を致しません)
 触れた肌は酷く冷たかった。胸元の輝石を、撫でるような丁寧な仕草で取り外す。血の気の引いた真っ白な顔に、乾きかけの血を含んだ髪の毛が張り付いている。
「作動、しているのでしょうか」
 プレセアの声に、転送装置へと目を向ける。皆一様に重い足取りで、それでも階段を上がり転送装置へと向かう。コレットを助けなくてはいけない、そのどうしようもない現実に何故かフィルターが掛かったままのような気がした。それでも、行かなくてはいけない。彼を殺す、そうまでしてなそうとした事が、確かにロイドにはあるのだ。
 階段を上りきり、壇上の転送装置の上に立っても、ロイドはもう振り向かなかった。

 



 はて、とゼロスは考える。自分は何故こんな風に無様惨めったらしく地面に転がっているのだったか。頬に張り付いた髪が鬱陶しい。血の所為で張り付いているのかもしれない。払い除けたい、という衝動はあるのに腕は言うことを利かない。苦悶の声だけは立派に上がるのだから素晴らしい。
 全身に力が入らない。何処かに引っ張られていくような、落ちていくような、それでいて導かれていくような感覚。全身全霊の感覚を総動員して全ての誘いを跳ね除ける。今少し、もう少しだけ、と誰にともなく祈るように呟いた(つもりだ)。
 目を開ける。睫毛が震えて、焦点は定まらない。それでも僅かばかり、開いたほんのその隙間から覗く見慣れた鳶色に安堵して、今度こそ本当に、しっかりと瞼を閉じた。

「いつまで転がっているつもりだ」
 上から降ってきた声に飛び起きる。
「……ありゃ?」
 動く。髪は相変わらず頬に張り付いて鬱陶しくはあったが、それも汗の為だ。何故、血の所為だ、などと思ったのだろう。こちらを見下ろしているこの男は、いくら稽古だからといって(クルシスの天使サマだからといって)手荒な真似はしない(いっそ殺してくれ)。
 違う。
「どうしたのだ、神子?」
 菫色の空を背負って訪ねてくるその声音は相変わらずの硬質で、表情に微塵の動揺もない。致命傷など負っているわけがない、という絶対の自信。
「んにゃ、何でもねぇ」
 何でもねぇよ、と繰り返し、調子を衝けて腰を浮かせる。風がそのまま、身体に付いた土を払う。髪を撫ぜる、風が心地よい。全身をしっとりと濡らす汗が冷えていくのが判る。
「俺さま、どんくらいぶっ倒れてた?」
「二十秒も経ってはいないだろう」
「はあ」
 そんなものだろうか、と曖昧な相槌を打つ。それにしては、何だか長い夢を見ていた気がする。
「夢でも見ていたか」
「!」
「…図星なのか」
 何故こいう時に鋭いのだろう、といつも思う。
「鋭いね、天使サマ」
 内容は何だったかな、と考える。それ程、例えば自身に危害を加える筈がないと解りきっている相手に、致命傷を負わされたと錯覚するほどの強烈にして痛烈、そして爽快な夢の内容とは一体如何様なものなのだろう。
「あ~…ッザンネーン!ぜんっぜん思いだせねー」
「まあいい、私はもう行くぞ」
 相変わらず義務的に、いつもの言葉を残して去って行こうとする男の外套を慌てて掴む。
「―…神子」
「アフターケア、とか思わねぇの?神子サマに後遺症、とかさー」
 このまんまほっぽって行っちゃうワケ?と付け加える。乱暴に外套を払われ、ゼロスの手は外れてしまったが男は立ち去らずにいてくれた。こういうところはよく似ている。
(誰、と?)
 夢の内容から、今度は「誰」とこの無愛想な天使サマとが似ているのだったか、という方向へ思考が転じそうになるのを慌てて引き戻す。
「人間の全身が休止状態に在る時、その体内のある一部の細胞が外的要因乃至内的要因に因って目覚め、活動している、その目覚めている細胞の内包している意識状態が、脳髄に反射し記憶に残ったものを「夢」と形容するのだ」
 成る程。彼の口ぶりからすると、脳髄はものを考えるところではなく、細胞一つ一つが異なった意識を持っており、それらを集合させ統率する司令塔のような役割を果たしているに過ぎないようだ。
「面白い考え方するね、天使サマ」
「鵜呑みにしている訳でもないがな」
 そういう面白い物の考え方をする者がいた、とクラトスは言った。その言い方が過去形だったので、その人は死んだのだな、とゼロスは思った。
「でもよ、きっとだとしたら、人間が内包する矛盾にも多少なり納得がいくぜ」
「ほう?」
 矛盾する、幾つもの感情が内在する。酷く自然に、胸の内で絡み合い、とぐろを巻いている。点在する細胞達の集合意識。それは例えば矛盾という形で、行き過ぎれば分裂症にまで陥って無自覚から自覚へと至る。
「自分自身ですら信じられなくなる」
 何故だろう、と考える。いつだって終焉を望んでいる。安息を待ち望んでいる。なのに、時折それと同じくらい、強く願ってしまう。
「―…自分だからこそ信じられなくなるという事もあるのではないか」
「へぇ、アンタでもそーいう事あるワケ」
 生きる、という事は辛い。とても辛い。重く暗く、悲しみに満ち溢れどうしようもなく辛い。
「さあ。もう忘れたな」
 解っているのに、生きたい。

 



 ああそう言えば、と思い出す。そう言えばまだ、全然肝心な事を訊いていなかったじゃないか、とロイドはたった今開けて入ってきた筈の扉をもう一度潜って外に出る。
「そういえばゼロス!」
 目の前の男にしては珍しく、驚いた風にこちらを見遣っているものだから、その様子が可笑しくてロイドは笑いを堪えながら、それでも先刻思い出したばかりの質問をゼロスに投げ掛けた。
「ゼロスんトコのお祭りってさ、いつあるんだ?」
 テセアラの、特にメルトキオやアルタミラの賑わいなどはロイドにしてみれば毎日がお祭り騒ぎであるように思えた。そんな豪奢な街の、それも昔からの伝統ある祭事に、ただ単純に興味があった。
「何だ、そんな事訊く為にわざわざ引き返してきたのか」
 悪態を吐くゼロスだが、何処となく嬉しそうだ。
「んだよ、そんな事なんて言うなよな~」
「へいへい」
 手桶を拾い上げ、ゼロスは救いの塔を見上げるようにしながら呟いた。
「明後日、だよ」
「明後日?マジかよ、あ~…俺キョーミあったのになあ」
 急な話にアッサリとロイドの想いは打ち砕かれた。
「何だよ、いーんじゃねぇ?別にちろっと祭り行くくれーさァ」
 裏手の井戸へ向かうゼロスの後を歩きながら、ロイドは爪先で小石を弾いた。
「ンなワケにいくか。こーなったらアレだな、世界統合後のお楽しみ、って事にしとくか!」
「バッカだねぇ~ロイドくん。世界が統合されちまったらクルシスっつー機関そのものがオジャンなんだぜ?クルシスがなくなれば神子制度もトーゼン廃止。教会なんて神子のお陰で成り立ってるよーなモンなんだから、世界が統合された時点で祭りどころじゃねぇっつーの」
「そっか~。あ、でも、そんな長く続いてたお祭りなら簡単にはなくならないんじゃないか」
 視線を小石から外し、ゼロスの方を見ると調度釣瓶を落とすところだった。暫くして水の跳ねる音が聞こえる。
「まーな。チッ全くどうしてお前はこう、興味のある事にだけは頭が回るのかねぇ…」
「ま、いーや。とにかくさ、全部落ち着いたら皆でお祭り行こうぜ。ゼロスんトコの万ナンタラってのでもいいし、イセリアの収穫祭でもいいや。な、そうしようぜ」
「ま、ロイドくんがどーしてもってんなら俺さまも考えるけどね~」
 やっぱキレイなオネェーチャン付きじゃあなくっちゃね、と言うゼロスの背中に爪先で蹴り上げた小石を上手い具合にぶつけてやる。
「いででッロイドくぅ~ん、何すんのよ~」
「ゼロス、唇切れてるぜ!」
 笑いながらそう言って、今度こそ本当にロイドはゼロスに背を向け、家の中へ入った。

 



 フラノールは、相変わらずの雪景色だった。暗い空に白い雪は映え、教会の薔薇窓から外に漏れる光が、暖かく雪面を照らしている。吐く息は白い。指先は悴んで感覚を失っている。ロイドは傍らに佇む雪ダルマと自分とが大差ない事に気付く。慌てて雪を払いながら宿へ戻ると、暖かい空気に包まれ、ほっとした。
 ロビーで大方の雪を払い落とし、部屋へ向かう為の階段を上る。二階の廊下には暖はなく、ランタンにも火は灯っていない。森暮らしで夜目の利くロイドだが、それでも視界は良いとは言えない。
 窓の外が吹雪いて来たのを見て、引き返してきて正解だった、とロイドは思った。廊下を歩いていく。
 あの日、クラトスと話をして宿に戻ってきた後も酷く吹雪いた。強風が窓を叩く中、勝手に部屋を抜け出したことを誰かに咎められる前に部屋へ戻らなくては、と足早にこの廊下を歩いていたのだった。あと少しで部屋だというところで、あの男に会った。
「―…あ」

 人影に、まさか、と思う。そのまま呆然と立ち尽くしていると、窓際に立ち外の様子を眺めていた人影がロイドの方へ歩み寄って来た。
「外にいたのか」
 クラトスだった。
「……ああ」
 残念なのか、安堵したのか、よく解らず曖昧な返事をする。クラトスは相変わらずの無表情で、何を考えているのか判らない。けれど少しの間を置いて部屋の中へ戻る事を意図して、ロイドの脇をすり抜けようとした。その様が、あまりにもあの夜と重なって、ロイドは思わずクラトスの腕を掴み引き止めた。
「あ…っと、えっと…ちょっと待ってくれ!」
「―…なんだ」
 彼が振り向くより先に、どうして良いのだか解らずに俯く。こうしてしまうと、この不器用な父親が更に困惑するだろうという事は、容易に予想出来たが、そうせずにはいられなかった。
 手が震えている。格好悪い。放そうとは思うのに、何故だか手が離れない。
「…ロイド」
 明らかに動揺を隠せない声が上から降ってきた。当たり前だ、とロイドは頭の何処か冷静な部分でそう呟いた。
 掴んだ腕、ただその一点を凝視したまま、考える。もし、もしも、あの時こうしてあの男を引き止めることが出来ていたのなら、もう少し違った結末になっていたのではないか、とロイドは思った。自惚れでもなんでもなく、ただ純粋に、真摯にそう思った。だからこそ、余計にロイドは自分が許せなかった。もう間違えないって決めたんだ、とロイドは確かにあの男に言った筈だった。
 ロイドは知っていた。何となく、少しずつ、けれど彼の中に滞った澱のように暗いものに、確かに気付いていた。救いなど求めていないふりをしながら、誰よりも人との繋がりを欲していたこと。少しずつではあったけれど、ロイド達を信頼し、心を開き掛けていてくれたこと。だから安心していた。そうやって安心していて、結局彼を追い詰めた。
 無力だ。この世には、彼の言ったように苦しみと、悲しみとで満ち溢れている。気付いていた。彼の悲しみに気付いていた。救ってやることも、もしかしたら出来たのかもしれなかった。ただ言葉だけを投げ掛けて、追い詰めるだけ追い詰めて、最後に手を差し伸べずにいた。気付いていたのに気付かないふりをした。
 クラトスの腕から手が外れる。意図したわけではなかった。急に、手から力が抜けた。
「…ごめん」
 消え入るような声だ。クラトスは天使の異常聴力を以って言葉を捉え、それでも不思議そうにロイドを見つめている。相手が何も言わない、それを良い事にロイドは俯いたままもう一度、ごめん、と呟いた。
「俺、ゼロスを殺したんだ」
 クラトスは何も言わずに、頭を撫でてくれた。何時まで自分の事を三歳の子供と勘違いしているのだろう、と少し腹立たしいような気もしたが、自分もその手を別の人間に重ね合わせているのだから相子なのだと、されるがままになっていた。それに、その仕草が酷く優しいものだから、ついと不用意に涙なんかが零れて溢れてくるから更に困った。

 



 井戸に落とした、釣瓶を引き上げながら歌を歌った。昔読んだ、狂人の書いた推理小説を読み解く物語の、その遺言書の中で(作中の狂人曰く「空前絶後の遺言書―キチガイ博士手記」、だ)これまた精神に異常を来たした(らしい?)少女の歌っていた歌だった。
 ロイドに指摘された、切れた唇を舐めながら歌を歌う。背後に、人の気配がしてもそれが誰だか見当がついていたのでそのままゼロスは歌っていた。
「―神子」
 声変わり前の少年の声が、後ろからした。今、一番見たくない顔だ、と思いながら振り返る。折角ロイドと話をして、祭りの話をして、色々色々決心がついたのに無粋な事だ、と半ば呆れながら半ば感心しながら少年の姿をした天使という名の化け物を見下ろす(これはゼロスの方が背が高いのだから仕方がない。誰の目があるとも知れないので、この場では傅くわけにもいかず彼も黙認しているようだ)。
「最近、またレネゲードと接触したのだろう」
「ええ。ユグドラシル様もよく存じ上げておられるあの男より、今夜の食事に混入するよう薬を手渡されました」
 浅はかな事だ、と少年が細めた目は怜悧な刃物を思わせる。傍に、ただ隣に立っているだけで肺が縮み上がるかのような圧迫感があった。
「で、何の薬だ」
「存じ上げません。ただ混入せよ、とそれだけでしたので」
 少年は特にそれ以上何も追及してこなかった。予定通り薬を夕食に混ぜることを了解し、今夜恐らくは何らかの動きを見せるであろうレネゲードを泳がせるという事に決まった。
 そして独りになり(先刻のロイドの時とは違いもう本当に独りになりたかった。頼むからお前は引き返してきてはくれるなと、頭の中で三回唱えながら背中を見送った)、瓶の中の薬の事を思う。何て事のない、ただの睡眠薬だ。自分で舐めて確かめたのでまず間違いない。舐める、などといった危険な行為を侵してまで確かめた理由としては、大概の毒に抗体のある身体だから構いはしないだろうと思ったからだった。確かめたその事にだって他意はない。ただ自分の手元にあるものの正体を手っ取り早く把握しておきたかっただけなのだと思う。別に、この薬によってロイド達にどんな状況がもたらされようとゼロスの知るところではなかった。身体に免疫のない毒で、あわよくば死んでしまおう楽になってしまおう、などといった自殺願望もないつもりだった。
 判断はいつも紙一重で、選択肢、分岐点はいつだって無数にそれこそ、そこかしこに存在していたのだろう。今回も同じだ。ただ、これが最後の選択になる、それだけだった。そして、ゼロスはもう心を決めていた。冷酷な天使の国の独裁者を目の前にしても想いは醒めず、微塵の揺らぎも見せなかった。どっちつかずにしか生きられない自分が、初めて、確固たる意志を持って選択をしようとしている。
 目を閉じて、もう一度その光景を思い描いた。
 黄金の帯に負けないくらいの輝きを以ってして、彼女の長い髪がたゆとうている。それを見つめるロイドが、この上ないくらい幸せそうに笑う。それは本当に、夢のような光景だ。手を繋ぎ微笑を交わす。美しいものだ。決して、壊してはいけないものだ。

 先刻、ロイドと取り交わした他愛のない口約束を思い出す。今更律儀に守る必要もないだろう。どうせ今の今まで散々に彼らを裏切ってきた。罪状が一つ増えたところで、死に逝く人間には然したる問題でもなかった。けれどこの胸にある痛みにも似たものは何だろう、とゼロスは考えた。考えてやめた。確かにこの胸のしこりはそのロイドの科白が直接的な原因ではあったが、同じようにこの結末を確固たるものとして決心させたのも、矢張り彼のその言葉だったからだ。

 



 赤い絨毯に皺が縒るのも気にせず、王城の廊下を走り抜ける。角を曲がった所にシーツを抱えた女官を見つけ、慌てて身を引く。折角ここまで抜け出してきたというのに、今見つかるわけにはいかない。女官の姿が完全に見えなくなった事を確認して、柱の影から飛び出す。
 同じ年頃の子供達がお祭りを楽しんでいるというのに、ただマナの血族というだけで意味も解らないつまらないだけの祭事に出席させられ、見世物になるなどゼロスには冗談ではなかった。自分だって花火が見たい、異国の見世物を見たい、珍しい玩具を触りたい、お菓子を食べたい。出来ることなら父と、母と妹と、あのハーフエルフの女がいたって構いはしない。けれど、それは無理だと解っている。だから一人で楽しむ。誰も、何も、どんな些細な望みも願いも叶えてはくれない。だったらそれくらいの自由は許されたって構いはしない、とゼロスは思っていたのだった。必要最低限、王と教皇の前でまず最初に行われる儀式には出席したのだから、それでもう充分だと思った。民衆の前で、こんなお祭りの日にまで次代の神子を演じなくてはならないなどという理不尽があってはたまらない。
 正面門は人々で溢れていてとても出れたものではない。マーテル教の聖堂と王城とが隠し扉で繋がっている事を知っていたゼロスは、そこを利用させてもらう事にした。教皇専用の書庫を抜け、礼拝堂へ出る。外の喧騒は、それでもここを神聖な場所と知ってか幾分大人しくなるように感じた。
 聖堂の中に人影はなく、随分と寂しく見える。いつもならパイプオルガンと聖歌隊の合唱が聖堂内に響いている。祭壇に飾られたスピリチュア像と、薔薇窓から差し込む光だけがいつもと変わらない色をささくれた床に落としていた。
 均等に並ぶ長椅子の、一番出入り口に近い所で何かが動く。自分の他に何かいると思っていなかったゼロスは、酷く焦った。連れ戻される、それ以上に、次代の神子であるということから自分が暗殺の格好の標的にもなっている事をゼロスはよく知っていた。
 だがそれは見覚えのある出で立ち。長い金色の髪を肩に垂らし、白いサテン生地のドレスの裾を軽く抓みながらその女は立ち上がった。誇張するように、紅をひいた唇から目が離れない。
「母様…」
「ゼロス…どうしたのです、何故ここに?」
 言葉を交わすのは三日ぶりだ、とこんな時ですら冷静に考えている。考えながら、何とか上手い言い訳を見つけようとするが思い浮かばない。握った拳が汗で滑る。
「―…仕方のない子。見なかったことにしてあげますからお行きなさい。露天を回りたいのでしょう?」
 いつになく優しい母の言葉に、ゼロスは今まで考えていた諸々の言い訳全てを忘れて何度も頷いた。その仕草に、母は心底呆れた、といった様子で溜息をついた後、それでも優しく微笑んでくれた。
「母様は?」
「母様は、駄目。祭事を済まされた神子様をここでお待ちしなくてはならないの。この後の晩餐会に、まさか母子揃って欠席するわけにはいかないでしょう」
 神子様にも体裁というものがあるのだから、と母は付け加えた。予想はしていたが、それでもその言葉にゼロスは頬を膨らませる。なのにこの女ときたら、そんな我が子の不平不満にさっさと目を瞑って見せ、代わりに自分の肩にかかるストールを外してゼロスに羽織わせる。
「拗ねないの。さ、夕方にもなると冷え込みます。これを羽織りなさい」
「イヤです母様。女物なんて格好悪くて着れません」
「あら、とても似合っていますよゼロス」
 皺が縒るのも構わずに、マフラーのようにしてゼロスの首に上等のストールを捲く。その彼女の手が止まる。手はゼロスの首に捲かれたストールに掛かったままだ。
(あ…)
 躊躇われがちに、その手が離れていく。その様子を、ゼロスは寂しく思いながら見送った。
「―…行って」
 搾り出すように、母はそれだけ言うとまた椅子に腰を下ろし、もうゼロスの方を見ることはなかった。ゼロスも、それ以上何を言う事もなく、その場を後にした。
 扉を開けると蝶番の軋む音がする。いつもなら気に留めもしないその音が、いやに耳の奥にこびり付いて消えない。

 



 潮の香りに包まれる。修道院の外で、ロイドが待っていた。霧の掛かった明け方の薔薇色を背にした鳶色の髪に、何かを思い出しかける。何だったかな、と考えているとロイドがこちらに気付き駆けてきた。
「ゼロス!」
「他の皆は?」
 辺りにはロイド以外見当たらなかった。だからゼロスは訊いた。
「下の浜に下りて海見てる」
「呑気だねぇ~」
 柵のところまで歩いて行くと、コレットの金色の髪が眩しいくらいに朝日を照り返している。この辺りの水は冷たくて、とても泳ぐには適していないいが、水に足を浸すだけでも良いらしい。コレットがこちらに気付き手を振ると、ジーニアスが不思議そうな顔をしている。それを、コレットが何かしら言ってやると(恐らくロイドとゼロスがこちらを見ている事を教えてやったのだろう)ジーニアスもまた大きく手を振り被った。それに軽く手を振り応えてやる。
「おら、お前も折角コレットちゃんが手ェ振ってくれてるんだから、何か反応しろよ」
「へ?ああ、コレットだったのか~。おーい!」
 それでも一度相手を認識するとロイドは、矢張り大きく手を振って応えた。
「お前よく判ったな。こんなけ離れてるとあんまよく判んねぇや」
 目ェ良いな、とロイドは言った。まあな、とゼロスは言った。
 柵に体重を乗せ、水平線を見つめる。視界の隅に、救いの塔が見える。
「ロイドくんの故郷のイセリアも、海に近かったな」
「ん、ああ。でも急斜ばっかで、ここみたいに浜には下りれなかったなあ」
「俺さまも。ちょっと行けばすぐ海なのに街から全然出して貰えなかったからな。それでもまあ、テラスとかからはよぉーく観えるワケよ」
 屋敷から、木々の狭間を縫って見た海はいつも灰色で陰鬱だった。否、例えそうではない海の色を見ても、記憶の中に強く鮮明に残っていその色に塗り替えられてしまっただけなのかも知れない。雨粒が窓を叩く夜。布団を頭まで被り、その隙間から垣間見た海はどす黒くうねって見えた。
「そのテラスで暴漢に襲われたりなんかもしてさ、その度に返り討ちにしてやった」
 ロイドはこちらを見ていない。ただ辛そうに、柵を強く握り込んだ。そちらを見ていなくても分かった。
「で、血のべったり着いた自分の手と、真っ黒な海を交互に見たりなんかしながら考えちゃうワケよ」
「何を、だよ」
「さあ。宿命とか、かな。臭い言い方をすると。海と同じ。どんなけ足掻いたところで何も変わりゃしねぇ。人生は愚劣で、悲しい。辛くて、重い。産み落とされてから絶え間なく命を狙われ続けてたから、身を守る術が不確かなものしかなかったから、そんなマイナス思考になっちまってたのかも知れねぇ。誰からも愛される、その専売特許と同時に、いつ死ぬかも分からない、神子なんてそんなだ」
 やめろ、と思った。これ以上口を滑らせるのはまずい。これ以上の言葉は、自身の裏切りを気取らせるだけだと思った。けれどゼロスは言葉を続けた。
 ロイドに話しているのではない。ゼロスは、自分自身に語り聞かせるように低く呟き続けた。この機会を逃せば、もう二度と見つめることもないであろう自身の深淵を覗き込み吐露する。
「んで、結局、何も変わらなかった」
 コレットのすくい上げた飛沫が、朝日を照り返して煌めく。美しい、まるで宝石のようだ。
「俺さまは今でも……人生は汚ねぇし悲しいし苦しいし、辛くて重いもんだ、って思ってる」
「何だよ、それ」
「お前は―…思うわきゃねぇ、か」
「当ったり前だろ!生きてなきゃ、何も出来ない。生まれてなきゃ、誰にも会えなかった。こうして俺たち、会って話すこともなかった。だから―…俺は人生って、そりゃ確かにゼロスの言うように辛いこともいっぱいあるとは思うけど、そんな事ばっかじゃねぇって思うよ」
 真っ直ぐに、ロイドがこちらを見詰める。強い光を湛えた、真っ直ぐな目だ。このまま射殺してくれたら良い、とゼロスは思った。薔薇色の明け方に、夢のような靄に包まれて、ここはまるで楽園のように美しい。
「そうか」
 ゼロスは素直に頷いた。
「多分、俺さまもそんな生き方をしたかったんだろうな。明け方には薔薇色の、夕暮れ時には菫色の空と海とを眺めて」
 誰かと笑いあっていたかった。
 神子は、柵から身体を離しポケットに手を入れた。中には、レネゲードから渡された瓶と、その中身が少し残っていた。
「コレットちゃん、よく言ってたっけな。誰の心にも神さまはいて、いつだってその神さまはそいつを許してる…って」
「ああ」
「俺さまは、信じてねぇ。今も昔も、そしてきっとこれからも。神子なのに、信じてねぇんだ。神子だから、信じられねぇんだ」
 また、別の衝動がゼロスを突き動かした。このままロイド達を裏切る前に、ただの仲間として消えることが出来たのなら、どんなに良いだろう。彼らを裏切り、少年の心に深く傷を残す前に。消え去りたい、この紙一重とも言えるエゴの為、ロイドに恐らくは一生消えぬ傷跡を残すより、余程いい。それと同じくらい、滅茶苦茶に彼を裏切り、傷跡として一生忘れないでいて欲しいという衝動に駆られる。ただ、真っ黒で汚い、血に汚れた自分が彼らと生きていく、その選択肢だけは選べずにいた。 

 黄金の帯に負けないくらいの輝きを以ってして、彼女の長い髪がたゆとうている。それを見つめるロイドが、この上ないくらい幸せそうに笑う。それは本当に、夢のような光景だ。手を繋ぎ微笑を交わす。美しいものだ。決して、壊してはいけないものだ。

 それは、果たして誰の望みだったのか、ゼロスはもう覚えていない。ただ、ロイドに腕を掴まれた。強く。
「駄目だ」
 辛そうに、眉根を寄せている。違う。そんな顔をさせたい訳ではなかった。そんな顔を、自分がさせているのだ、とゼロスは思った。
「ゼロス、駄目だ。そんな―…」
「大丈夫だ」
 と神子は寂しそうに笑った。
「ここじゃ、死なねぇよ」

 



 ロイドの動きが鈍っている。身体の疲弊疲労だけではない。世話のやける奴だ、と思いながら舌打ちをひとつして防御の疎かな腹部に膝をつき立てる。後方に飛ばされるロイドを追撃する気は起きなかった。距離をとる。
 半身を起こし、血反吐でも吐くかのように名前を呼ばれる。その、いつだって真っ直ぐな視線に射抜かれる。覚束ない足取りで、それでも何とか、ロイドが立ち上がるのを笑みを浮かべながら待つ。
「―…約束、した…のに…ッッ」
 何を、と問おうとして止めた。関係ない。裏切り者が、今更何の約束を守るというのだろう。
「約束したじゃないか」
 それでも、ロイドは繰り返した。その言葉に苛つく。けれど笑顔は崩さない。
「―…ああ、今日は祭りだったな」
 異常聴覚によって捉えた花火の音に、更に笑みを濃くする。
 もう随分と遠くに来てしまった気がする。もう最初に望んだものが何だったのか、それすら思い出せない。
 ロイドの言葉には、とうとう嗚咽が混じり始める。その嗚咽を、ゼロスはよく知っているような気がした。ずっと、訊き続けていた気がした。そうだ、妹も、そしてゼロスも泣いていた、ずっと。泣きながら、何かを求めていた。
「輝く御名の許」
 視界を閉ざし、周囲に漂うマナに意識を集中する。風ではない何かが、髪を揺らす。
 辿り着いた結末。一番最初の、一番大切な望みを、既に失ってしまったのだということに気付かず、とうとうこんな所にまで来てしまった。
「地を這う穢れし魂に」
 ロイドは動かない。泣いている。可哀想だ。けれど、何故彼が泣いているのかゼロスには解らない。ただ誰かその肩を抱いて慰めてやってくれ、と思った。
「裁きの光を雨と降らせん」
 虚空に漂うマナを撫ぜるように指先を彷徨わせると、その軌跡はやがて明確な形を現し始める。広範囲の天使術。
 動こうとしないロイドに問う。そのまま動かないつもりか。今のお前がこの光の刃をまともに受けるつもりなのか、と。
「安息に眠れ」
 それとは別のところで、ほんの僅かだがマナが動いた。他の誰かが詠唱している。ジーニアスだ。
 だが、ゼロスは詠唱を中断しなかった。もういい、そう思ったからだ。
「罪深き―…」
 ロイド、ただ目の前にいるこの少年を殺してしまえれば、後はどうなろうと構わなかった。
 高く上げた腕を振り下ろす。

 視界が真っ赤に染まる。ジーニアスの放った初級火系術が呪文の発動を阻んだ。それ以上に、削ぎ落とされた筈の恐怖が湧き上がる。全身を支配するのは一切の恐怖恐怖恐怖。
 血じゃない、炎だ。言い聞かせる。
 何を怯える。言い聞かせる。

 思い出させるな。今更だ。そんな子供はいなかった。血に濡れている、倒れこんだ子供。赤い子供。醜い。殺さなくてはいけない。あの人がそれを望んでいる。決してあの人を汚させてはならない。あの人が死ぬ、そんな事があってはならない。冷たいのは雪。温かいのは血。あの人を苦しめるものは全て排除しなくてはならない。子供。赤い。死んでしまえ。「やめろ」やめない。俺を否定するな。否定しなくてはいけない。あの人を煩わせるもの。否定する全て。ハーフエルフの女。「やめろ」あの人は手を止めた。解らない。今でもその理由は解らない。貴女の中の理由。同じだ。生も死も、同じくらい望んでいた。同じ。あの人も選択した。紙一重の選択。「やめろ、やめろッ」止めて見せろ。救えるものなら救って見せるがいい。見ろ、この血塗れた醜い哀れな子供。たとい母の胎で見続けるのが悪夢でしかなかったとして、その何と甘美なことか。その続きをむざむざと見せ付けられるよりも、その何と幸せなことだろう。叫べ。この上なく醜く叫べばいい。生れ落ちたその時、恐怖に慄き喘いだように泣き叫べ。「やめろ――――ッッ」それこそが望み。それだけが望み。ああ、思い出した。今、思い出した。
 腕に衝撃。
 今まで握っていた筈の「何か」を失い空を掴む。

 また、衝撃。

「―…?」

 泣いている。
 何か、言っている。

「死なせてやるよ」

 ああうん、そう。
 そうなんだ。
 それが、望み。


 ―…母様、僕は貴女が望むならあのまま殺されても良かったのに。


 本当は、後三日あれば完全にお前ら信用させて清々と裏切れた、なんてそんなのは嘘。
 ただ、後三日でもいいからお前らの仲間の「ゼロス=ワイルダー」でいたかっただけなのだと言ったら、お前どんな顔をする?


 死を望んでいたのは本当。
 騙し続ける、その後ろめたさから解放されたくて。

 けれど、同じくらい生きたかった。
 生きていたかった。
 ああ、本当その通りだ。
 死んだら終わりだ。

 もう、笑いあうことだってできない。

 もう、会えない。


 言わねぇけどさ、お前泣くから。

 



「乗り気ではなかったクセに」
 と、グラスを呷りながらユアンは何処か面白くなさそうに言った。昔から何処か幼稚で言葉の足りないところのある男だったので、取り敢えずクラトスは黙って先に続く言葉を待つことにした。本人はそれが格好良いと思いこんでいるものだから尚の事性質が悪い。
「神子の事だ」
「神子がどうした」
 訊き返すと、今度は黙り込んだ。言葉を選ぶ様に、手の中のグラスを傾ける。机の上に、琥珀色の光が揺れる。
「あれに身を護る術を教えよ、とユグドラシルから命を受けた時、正直乗り気ではなかったろう」
「ああ」
 それは乗り気ではなかったわけでなく、ただ何をやるにせよ無気力だっただけだ、と思ったがそれを告げることはしなかった。言わなくても解っている。わざとだ。まるで腫れ物でも触るかのように、この男は相変わらずクラトスの妻と子の事について触れようとはしなかった。優しさだとでも勘違いしているのだろう。面倒だ。放って置けばいい。そう思わせておけばいい。
「なに、大した心境の変化があった訳ではない。ただ―…」
 痛みを感じない、魚の様な空ろな目で見つめられ笑いかけられた。
(―…それだけだ)
 剣として振るうか、盾として使うか、それはあの神子が自分で決めればいい。クラトスはただ、その子供に自分で選択するだけの力を与えようと思った。世界と、自身とを笑い続けるしか糾弾の術のないか弱い子供に、せめて自分の望んだ結末を得られるだけの力を与えようと思った。きっと、今は亡き吾が子にはそれすらも許されなかったのだから。
「後悔せずに、生きる事など不可能なのだろう」
 それでも、嘲笑以外にあの子供が心の底から笑う事が出来たのなら、それはとても愛らしいに違いない。そんな未来を選べればいい。クラトスは自身の都合の良いエゴに嫌悪感を抱きながらも、そう願わずにはおれなかった。





「ドグラマグラ」読んだ直後くらいに書いたものなのでテンション可笑しかった気がする。
(20080923)






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最終更新:2008年09月23日 16:26