カロル先生がユーリを観察してるだけの話(笑)。


 

 扉が閉まり、忙しない足音が遠ざかっていく。男は、足音が完全に聞こえなくなった頃、漸くうっすらと目蓋を押し上げた。開けた視界は目を閉じていたときとあまり変わらなかった。
 他の町で利用するような安宿と違い、新興都市の真新しい宿の天井はしみ一つもない。そんなことを考えながらソファーの上で仰向けになっていたら、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。それなりに高かった筈の陽はすっかり山向こうに沈み、灯りのない部屋は天井のしみの有無を判別することが困難である程度には暗くなっていた。
 こんなに暗くなる前にさっさと灯りを点ければ良かったのに、と今はもう居ない足音の主に男は声には出さずに語り掛ける。灯りを点ける間も惜しんで、一体何をしているのだと、長く細い息を吐き出しゆっくりと上体を起こしに掛かった。
 開け放されたテラスの手摺り越しに輪郭を薄ら青く浮き彫りにした山々を見留め、寝起きで乾いた口内からそろりと引き摺り出した舌先で唇を舐めた。乾いた唇は裂けていて、痛みは感じなかったが血の味がした。
「何だか、なぁ……」
 すっかり沈んでしまった太陽の名残を眺めたまま、男は溜息と共に呟いた。



クセノスの子ら Mad Pain and Martian Pain
20090314



 宿に戻ったカロルを迎えたのは、人気のない冷えた部屋だった。
 今日は午後から雨が振り出して、日ももう沈むという先刻になって止んだ。雨上がりの空気は冷たく澄み渡り、誰が最後にこの部屋を後にしたのか広々としたテラスに通じる出窓は大きく開け放たれている。個人的に自由に出来る時間とはいえ、誰も彼も身勝手なものだ、と真っ先に部屋を飛び出していった自分のことは棚に上げ出窓へと近付いた。
 雨はよく降るものの風が強く吹く地方ではないので、部屋の中に雨水が入り込んでいる様子はなかった。これなら太陽が完全に沈むそのときまで窓は開け放したままでも良いだろう、とカロルは思った。
 淡い色をした空に陽の光を照り返して、黄金に耀く帯状の雲が拡がっている。明日は晴れる、そう確信して窓に背を向け、どきりとした。誰も居ない、自分だけだと思っていた部屋の中に人が居たからだ。
 ソファーの手摺りから、だらりと魔導器を引っ掛けた腕が垂れ下がっている。沈み込んでいるらしい身体はカロルの立つ場所からは見えなかったが、窓から差し込む彩度の高い陽の光を照り返す金色の魔導器の持ち主を連想するのは容易い。毛足のそう長くはない筈の絨毯は、それでも子供一人分の足音を簡単に消してしまった。そうして、回り込んだ先には案の定長い黒髪の男が、指先を床の上に掠めるように投げ出してソファーを陣取っていた。
 カロルの仲間であるこのユーリ・ローウェルという男は、基本的に人の気配に聡い。例えば、野宿なども多く、そういった場合は大人数であっても、起きている人の気配があっても、きちんと休んでいるようなので神経質というわけではない。ただ休んでいた筈の彼が、人の気配、そこに何かしらの動きを感じ取るとふ、と確認するように目を開いていたことがそう少なくはないと気付いていたカロルは、物言わぬ彼の胸が緩やかに上下するのを不思議な気持ちで見下ろしていた。
 ユーリの眠るソファーの傍らに片膝を突き、覗き込んでも彼が起きる様子はない。カロルが部屋に入ってきた時点で存在を認識し、確認し、その上でカロルが気付く頃にはまた寝入っていた、と考えるのが妥当かとも思いながら、物珍しいこの一回り近く歳の離れた男の寝顔を食い入るように見つめる。
 髪は、長い。丁度カロルの視線の高さ辺り、彼の背の中程で毛先は揺れている。カロルとユーリとには四〇センチ以上の身長差があるので、少なくともその程度には長い。髪が黒いこともあってか、服装も黒い色を好んで着ている傾向がある。時折女性と間違われることがあるのはこの長い髪のせいだということをカロルは知っている。
 ユーリは精悍とまでは行かなくても決して女顔というわけではなかったし、線の細さや、女性的なたおやかさとも無縁だった。魔導器をぶら下げた腕も、その先の手や指先すらも節の目立つ筋張っていたり、筋肉質であったりするもので、女性特有のまろみは微塵も感じさせない。彼の顔立ちは同性であるカロルの目から見ても整った美しいものではあったが、誰もが振り返るような突出した美しさはなかった。それこそ彼の幼馴染みである騎士団長代理や、かつての人魔大戦の英雄の外見の方が余程、柔らかさや線の細さを感じさせた。
 けれど、彼は女性に間違われる。
 それが大した手入れもしていない、ただ無精で伸ばし続けた長い髪のせいだということを、たったそれだけのせいだということを、彼もまた知っている。カロルが当たり前のように知っているのだから、彼も知らない筈がない。それでも、間違われる度に相応の不満をこぼしはしても、知っていて尚ユーリは髪を伸ばし続ける。彼はそれを惰性だと言い、無精であるとは言わなかった。
 何でもない顔をした、ただ無個性に整っただけの男の顔を、ただ見つめた。傾いた陽が、部屋の中を暖色に染め上げる。閉じられた目元の、そこを縁取る睫毛が色濃く陰を落とすのを見て、睫毛は意外と長いのだな、と思った。
 閉じた瞼の向こうには夕闇を思わせる深い色があり、彼はその瞳でカロルを見守ってくれる。緩く結ばれた薄い唇が選択を柔らかく促し、時に叱咤を、時に後押しするような言葉をカロルに与える。それはこの男が仲間の全てに等しく向けるもので、自分だけが特別ではないことをカロルは知っていた。けれど、例えばユーリが浮かべる表情一つ、彼がときにカロルのためだけに紡ぐ何気ない一言、一挙一動が自分の意識を惹き付けて止まないこともまた、カロルは知っていた。
 理由は、それとなく思い当たる。何てことのない、単なる刷り込みなのだという自覚は、ある。
 情けない話、本当にどうしようもないとき、それこそ八方塞がりとでも言うべきそのときに、圧倒的な「大人」、揺るぎない「大人」、そして何より身近な「大人」として出会ったのがユーリだったのだと、それだけのことだった。もっと、更に言うならば、あのときの自分にとって都合が良かった存在というだけのことでもある。
(でも、それってボクにとってだけじゃないでしょ、ユーリ?)
 彼にとってもまた、自分の存在は都合が良かった筈だ、とカロルは眠る男を見下ろしたまま声には出さず断定した。
 恐らく、この男に抱いている感情はかつてカロルを「魔狩りの剣」に誘い入れてくれた少女に抱いていた憧憬にそれとなく近い。自分には無いものへの憧れ、或いは渇望だ。けれど同時に、彼女への憧憬が何処か甘やかな感情を孕んだものであったのに対して、ユーリに抱くのはそうした優しさや柔らかさを連想するものからは程遠いように思えた。
 眠る男の、相貌から上下する胸元、そして武具の外された右手が無造作に腹部に乗せられている。その、恐らくは丁度真下辺り――カロルは節の目立つ男の手ではなく、またその指と指との間から覗く彼の黒い服でもなく、その下にあるであろう真新しい傷痕を思い、目を細めた。
 ザウデ不落宮でかつての騎士団長アレクセイとの交戦後、ユーリとはぐれたことがある。はぐれた場所はザウデ不落宮の最上層で、どう考えても海に落ちたのだとしか思えなかった。そのときの言い知れない絶望感と来たら、誰も彼もが冷静さを失い、彼を慕うエステルなど今にも海に飛び込みそうな勢いだった。なのに当事者であるユーリは、あれだけ探したというのに見つからなかったユーリ・ローウェルという男は、数日後にはことも無げに再び姿を現わすと「海に落ちた」、と分かり切っている真相を告げて笑った。結果ではなくそこに到った原因は何なのだ、と詰め寄る少女たちにも彼は曖昧な言葉ばかりを返した。
 カロルが少女たちと一緒にユーリを問い詰めなかったのは、彼の脇腹に塞がってはいるものの、真新しい、見覚えのない傷痕があったからだ。それは小さく、目立たない。けれど彼の不意を打ち、注意力を削ぐには充分過ぎるほどに深い傷だったのだろう。例えば、落ちる筈の海に足を滑らせる程度には。
 陽は、霧掛かり輪郭のぼやけた山脈の向こうへと沈みかけていた。少しずつ彩度の失われていく部屋の中でカロルはただ、男の手の、その下のことを考えていた。
 彼が、その傷のことを、足を滑らせたその原因を誰にも、それこそ幼馴染みであるフレン・シーフォにすら明かさないのは、それが既にユーリの中で完結してしまっていることだからなのだと、カロルは思った。今は塞がっている、けれど真新しいその傷は確かに血を流した筈なのに、この男の痛みには成り得ない。傷付き、血を流したという事実はただの事象でしかなく、男の中には始めから本来感じるべき痛みは存在していないかのようだった。
 ユーリが、起きる様子はない。起きる様子がないから、カロルはつまらないことばかりに気を巡らせる。早く、起きれば良いのにと思う。思いながら、夕闇の迫る部屋の中で、そう目にする機会のない男のあどけないとさえ言っても良いような物珍しい寝顔をまだ眺めていたい、とも思う。
 男の手は罪のないとはとても言えないにせよ、それでも確かに人の血で汚れていた。彼は、法に背き自らの判断で人を殺めた。だから彼は、同じように法の加護から外れた報いが訪れたという事実をある種の諦観を以って受け入れるしかなかったのかも知れない。或いは因果でしかないのだと、当たり前の事実であると彼は最初から解っていたのかも知れない。罪でも罰でもなく、後から訪れるものもなく、また後に残るようなものですらないのかも知れない。
 カロルには彼が、まるで優しいもの、温かいもの、柔らかいもの、その全てを置き去りにしているように見えた。置き去りに、若しくは端から自分には不要なのだと押し付けるように「誰か」に託して、自らはただ生き急いでいるかのようだった。
 夜は、もうすぐそこまで迫っていた。陽の光に光源を頼っていた部屋は、間もなく暗闇に沈む。カロルは膝立ちになると身を屈め、ソファーを覗き込んだ。視覚細胞の活動は、殆んどが桿体へと移行していた。
 彩度の落ち込んだ部屋に、ぼんやりとユーリの顔が薄ら白く浮かび上がって見える。その頬に、落ち掛かった黒髪を小鳥を撫でるような仕草で脇に流すと、手を背凭れと肘乗せの上にそれぞれ添えてカロルは屈めた上体を更に前へと倒した。そのまま、男の口の端に唇を押し当てる。殊更冷たいというわけでもない。ただ、あまり体温というものを意識させない男の唇は乾いてささくれ立っていた。
 カロルは目を閉じていなかったので、ユーリの顔をこんなに近くで見たのは初めてだな、と思った。こんなに近くで目にしても、やはり彼の顔はただの何でもない男の顔で、ただの何でもない男のかさついた唇は切れて、血が滲んでいた。
 唇を離して、舌先で舐めると錆びた味がする。引き入れた舌先から口内に広がる自分のものではないものの味が薄まったところで、カロルは今一度顔を男に近付けて、同じ場所に唇を落とした。
 今度は、目を閉じた。

 窓から見える、まだ薄っすらと地平線の明らんだ西の空に夕星を見つけた。カロルはいつかのときと同じように廊下に座り込んでいた。視線を青々と光る星から外すと、そのままゆっくりと俯き抱えた膝に額を押し当てた。それから、カロルは頭を足と足の間に押し込み、更に両手で抱えて項垂れた。
「何だか、なー……」
 誰にともなく、呟く。
 気付いたらカロルはここに居て、星を見ていた。恐らく、我に返るか何かで恐慌状態に陥り、そのまま逃げるようにあの部屋を後にしたのだろうということは想像に難くない。
 逃げるように後にしたあの部屋に残された男が溜息と共に吐き出した言葉をカロルが知る筈もなく、口の中に残っている(ような気のする)錆びた味に、一人自己嫌悪に陥るしかなかった。

 


 


でも、第三部ってヘリオード行く用事ないんだよなぁ。
(20090314)






タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年03月14日 18:14