ヴェイグとサレの話でぬるい性描写があるよ!しかもBLじゃないよ!





「…でも」
 喉の奥で、声が引き攣る。全身は痛みに支配されている筈なのに、頭はそれを理解していない。これから口にする、その言葉に酔って麻痺している。
「僕は…本当に君の事が好きだったんだ……ッ」
 大っ嫌いだ。

 

蛾 light trap
20050307

 

蛾が
静かに障子の桟からおちたよ
死んだんだね

なにもしなかったぼくは
こうして
なにもせずに
死んでゆくよ
ひとりで
生殖もしなかったの
寒くってね
なんにもしたくなかったの
死んでゆくよ
ひとりで

なんにもしなかったから
ひとは すぐにぼくのことを
忘れてしまうだろう
いいの ぼくは
死んでゆくよ
ひとりで

こごえた蛾みたいに


【竹内浩三 冬に死す】

 

 

 第一印象、取るに足らない存在。地べたに這い蹲るしかない、その弱さはただひたすらに惨めだった。その他大勢で括らず記憶の隅に引っ掛かっていたのは、いつまでも煩く吠えていたのが彼一人だけだったからだ。
 第二印象、「クレア」馬鹿。開口一番、それだった。うんざりだ。彼と隊長と坊やの他にもう一人女の子がいた。城で何度か見かけたことがある女の子だった。そっちに気をとられていたのと、彼の余りの「クレア」コールにうんざりして、その時の印象は実をいうと結構薄い。

 その次に会ったのはカレギア城内だった。正直、これには驚いた。それから、すぐに呆れた。まさか本当にここまで来るとは思わなかった。それも本当に「クレア」の為にここまで来た。彼の必死さは滑稽だった。何が彼をそこまで駆りたたせるのだろう。「クレア」か。

 きっと、恋人同士なのだろうな、とそう思った。


 この頃には、多少意識するようになっていたのだと思う。

 そうして、剣を交えた。


 牢から脱走してきた彼らは、陛下と「クレア」のいる祭壇へと向かっていた。だからその路を塞いだ。

 ああ、有難う陛下、毛足の長い、赤い絨毯を踏み締めながら思った。
 有難うジルバ様、サーベルを引き抜きながら思った。
 有難う、クレアちゃん、彼を見下ろしながらそう思った。

 そう思ったのに。

 

「サレ、いなかったね」
 ベイサスを出て港への道を歩いている途中、ふとマオが言った。
「-…トーマも」
 相槌を打ったのはヒルダだった。潮風に黒髪を揺らしながら、気だるそうに呟く。
 次の聖獣の試練のご指名は、明らかにヴェイグだ。不満、なのだろう。
 ヴェイグは、といえば彼女には悪いが満足していた。隣では身体は異なるが、それでもクレアが笑っている。そして次の聖獣の試練は自分だ。聖獣の力を手にすれば或いは、彼女の身体を元に戻す事も出来るかも知れない。だから不安はなかった。先のアニーの試練とは違い、次の目的地もはっきりしている。サレの妨害を気にすることもない。

 旨くいく。
 ゲオルギアスの思念も、クレアの身体も、何もかも旨くいく。

「ヴェイグ?」
 覗きこんできた瞳の色だけが昔と変わらない。微笑み返そうとして失敗する。頬の筋肉が無様に痙攣しそうになるのを、口元を手で覆い隠した。
「大丈夫、ヴェイグ?」
「…ああ…大丈夫だ、クレア」
 言葉を返すと、クレアが口元を綻ばせる。微笑み返せれば良いのに、と思った。
「しかし、気になるな」
「…サレ達の事か?」
 アニーの方へ駆けていく、クレアのものでない、クレアの後姿を見送っているとユージーンが呟いた。元より誰に返答を求めたものではなかった、単なる独白だったのだろう。言葉を返すと一拍間を置いてからヴェイグの方へ向き直った。
「ネレグの塔の一件を考えるとな」
「-…ああ。ミルハウストとも別行動のようだ……だが、今回は奴の妨害も入らない、そう考えて大丈夫なんじゃないか」
 今回は聖獣から随分と直接的に情報の提供があった。
「そうだな…大丈夫だろう」
 そう言って、ユージーンは溜息をついた。長い長い溜息だった。
「案外役にたたないもんだから、長期休暇でも貰ったんだったりしてな~」
 横でヴェイグとユージーンの会話を聞いていたティトレイが最後にそう締め括った。ヴェイグはそれを聞きながら、だから自分達を付回す暇も出来た訳か、と妙に一人で納得をしていた。


 バビログラード港に到着はしたものの、一行は逸る気持ちを抑えて宿で一拍する事にした。明白な目的地と、クレアが共にいるという安心感からか、すんなりとユージーンの提案を受け入れたヴェイグに皆驚いていた。
「何だか、随分と皆さんに迷惑をかけてたみたい」
 そう言ってクレアが笑った。今度こそ微笑み返そうとしたのに、何だかこれもまた巧くいかなかった。

 男女別れて部屋をとり、更に男性陣は二つに別れた。ヴェイグの今日の相部屋はマオだった。
「…そんなに気になるのか」
 部屋に着き、荷物を置く頃には何かしらのアクションを起こし始めているマオにしては珍しく黙り込んでいるものだから、何となく居辛くなりヴェイグから声をかけた。
「何が?」
「―…サレ達の事だ」
「あー…うん、まあ。あれだけ色々ちょっかい出してたのに、どうしたんだろーネ」
 いつも通りの快活な返答。
「……」
「ティトレイが言ってたみたいにお役御免になっちゃったのかな」

 違ったみたいだな、と内心思いながらマオが続ける台詞を聞く。だとしたら、先の聖獣フェニアの試練に未だ引っ掛かるものがあるのかも知れない。

「ヴェイグー?」
「……ああ、何だ」
「ああ、何だ…じゃ、ないヨ、もう!話を振って来たのはヴェイグが先だヨ」
「すまない」

 聖獣の試練―…それはきっと自分にも用意されている。それに打ち勝つことが自分に出来るだろうか、と考えてヴェイグは頭を振った。それを今ここで考えていても仕方がない。

 廊下から夕餉を催促するティトレイの声が響いてくる。思考を中断し、ヴェイグはマオの後に続いた。部屋を出、階段を降りるマオの背に声を掛ける。空腹だったのか、夕食を前に笑顔でマオが振り返った。
「何?」
「―…或いは、ミルハウストとは別の任務に就いたのかも知れないな」
 一拍置いて、笑顔が退く。

「サレ達の事?」
「サレ達の事、だ」

 マオの横を通り過ぎ、階下へ向かう。暫くして、その後ろを彼が追って来るのが足音で分かった。

 



 サレは、昔から何を考えているのか判らないところのある男だった。出身は、貴族ではなかった、とミルハウストは記憶している。けれど、彼以上に貴族然とした男を、ミルハウストは知らない。気品溢れる、優雅な所作で敵を屠る姿は、子供が虫の手足を引き千切るのによく似ている。見ていて、心地の良いものでない。何より、男が意図してその様に振舞っているのが気に入らなかった。それとなく注意を促したこともあった。男は相変わらずの笑みで、常より尚一層艶やかに視線をこちらに向けた。挑発するように、剣に付いた血を舐めて、それで終わりだった。

「今回はやけに大人しかったな」
 城に帰還し、沈む太陽の眩しさに目を細めながらミルハウストは言った。
「何がです」
「ラジルダでの件だ」
 報告書を提出し、部屋から立ち去る背中に声を掛けた。肩越しにサレが訊ねる。
「ご不満でも?」
 サレは口の端を吊り上げて見せる。いつもの笑みだ。整った顔立ちの彼が浮かべると酷く様になる。万人を凍てつかせる笑みも慣れてしまえばこんなものか、と長く息を吐き、呆れるフリをしながらミルハウストは椅子に腰を下ろした。
「不満?あるに決まっている。あの後の単独行動の間、何をしていた」
 ラジルダでの一件の後、サレの姿は暫くなかった。ベイサスでの騒動が片付き城へ戻ると、先に帰還していたらしいサレが必要最低限の義務はこなしているのだ、とでも言うように報告書を持ってきた。そして今に至る。
「-…ジルバ様から命が下ったんですよ。ヴェイグ達を監視せよ、とね」
 問い詰めるまでもなく、あっさりとサレはジルバの名前を出した。ミルハウストは眉根を寄せる。
「ジルバ様から?」
「ええ、理由までは聞いていませんが」
 何故。睨み付けるようにサレを見上げながら、考える。彼らに同行していた少女の身体に、アガーテの心が入り込んでしまっているからだろうか。
(-…いや、そういった情報は入ってきていない。ジルバ様が知るはずがー……)
 知っているのなら、正規軍にも情報が流れてきている筈だ。
 何より、この目で見るまでは信じられなかった。ミルハウストは頭を振る。違う。この目で見ても、耳で聞いても、信じられなかった。だからこそ、彼女を拒絶した。判らなかった。
(ジルバ様は何を考えておられるのか…)
「-…まあ、今はトーマを付けてるんで、僕の方は暫くお休みです」
 バルカでゆっくりさせてもらいますよ、とサレが笑う。
「ところで」
 扉の前に立っていた男は、いつの間にかミルハウストの座る椅子の横にいた。窓から差し込む西日に照らされた輪郭が浮き上がって見える。
「陛下はお元気そうでしたか、将軍?」
「!サレ、お前…」
 知っていたのか。言いかけて、立ち上がりかけたところをサレが手で制した。そのまま椅子に逆戻りする。
「…サレ」
「いえ、兵達がベイサスで陛下に瓜二つのガジュマを見た、と噂していたもので。幼少時より陛下のお傍に在った将軍なら、そのガジュマが陛下であるかどうか判ったのではないか、とそう思ったまでです」
 尤も、将軍と共に帰還されていないところを見ると本当にただの他人の空似だったようですね、とサレは言った。その言葉に、ミルハウストは何も言えなかった。

 本当に、本当にアガーテの幼い頃からミルハウストはカレギア城に出入りしていた。彼女とも、よく見知った仲だった。けれど、ミルハウストにはアガーテを見つけることは出来なかった。彼女が名乗り出たとき、ミルハウストはアガーテを拒絶してしまった。だが、ヴェイグは違った。

 救いを求めるかのような心地だった。顔を上げても、いるのはあの厭味な男だけだというのに、それでも、ミルハウストは顔を上げずにはいられなかった。顔を上げた先には、矢張りサレがいた。
 サレの顔にいつもの毒を含んだ嘲りはなく、けれどただ言葉なく無表情に見下ろす視線には侮蔑すら込められている様で、ミルハウストは言葉を呑む。サレが笑った。
「どうです?自分より人間的に劣ると思っていた人間に見下される気分は」
 手袋で包まれた彼の手が、頬に掛かる。サレが身を屈め、ミルハウストの顔を覗き込んで来た。
「私は…お前が自分より劣るなどと思った事は……」
「将軍は嘘がお上手だ。けれど、僕はもっと正直ですよ。言ってあげましょう、僕は今貴方を蔑んでいます。哀れんでいます。愛する女に愛してるとさえ言えない貴方は愚かだ」
「―…ッッサレ!」
 振り払う。男は数歩後退り、けれど驚いた様子もなくミルハウストを見下ろしている。口元には笑みを湛え、視線には侮蔑を含ませて、それでも表情だけは酷く穏やかにミルハウストを見下ろしている。
「…言うな」
 搾り出した声は擦れていた。
「言わないでくれ」
 それ以上、彼の顔をまともに見ている事が出来ず俯く。顔を覆い目を閉じた。髪が肩を滑り落ちていく。陽の光を照り返して瞼越しにも判るほど、眩しいくらいに輝く。その髪を梳くように、あやすように、サレの手が頭に触れる。陰りが和らぎ、彼がしゃがんだ事が判る。窓から差し込む西日が一層増した気がする。まるで、光の中にいるようだった。
「貴方は不幸な人だ」
 サレが言った。
「けれど、貴方の不幸に誰も気付くことはないね」
 サレが言った。
「そして、貴方自身気付く事はない」
 サレが言った。悠然と、いつもより抑揚のない声音で紡がれる言葉は、いつもより冷酷に響く。
 ミルハウストは顔を上げる事が出来なかった。否定する事も出来なかった。
「万に一つの可能性で気付いても、誰も同情したり哀れんだりしてくれない。自分でも、笑ってしまえる些細な不幸」
 歌のように皇かに、彼の声が耳から入り頭の中を蹂躙する。耳を塞げば良かったのに、ミルハウストはそれをしなかった。頭の片隅では確かに彼を拒む声がした。それ以上に、最早意味を成さず通り抜けていく彼の声は心地よく、後になってその意味を理解し頭を悩ませる事になると解っていても、その声を遮る事が出来ない。
「可哀想に」
 救いを求めているのか、と声に出さず問うてみる。それが、彼への問い掛けなのか自身への問い掛けなのかは判らない。ただ、固く閉じた瞼の裏側の暗闇に一瞬だけ、蒼い焔が揺れた気がした。

 



 甲板に上がると、縁に頬杖を突き遠く水平線を見つめるマオがいた。潮風が柔らかく髪を撫ぜては吹き抜けていく。
「何か見えるか?」
 声を掛けると振り返った。考え事でもしていたのか、少し驚いたように瞳が見開かれ揺れる。それに気付いていないフリをしながら、ヴェイグは少年の横に並んだ。
「なぁーんにも。ホントに「アイフリードの宝」なぁ~んてあるのかなー。ボクもー飽きちゃったヨ」
 大袈裟に肩を竦めながらマオが言った。その言葉と仕種にヴェイグは目元を和らげて見せてから、同じく水平線を見つめる。マオもまた視線を海へと戻した。
「-…ヴェイグ、聖獣の試練なんだけどサ……」
 視線だけマオへと向ける。少年は相変わらず水平線を見つめている。睨み付けるようにして、目を逸らさない。ヴェイグは黙って先の言葉を待った。
「……どう、だった?やっぱり、辛かった?」

 辛かった。
 マオの質問を頭の中で反復する。
 辛かった。
 もう一度考えてから、それでも答えは既に出ているのだった、と思い当たる。

「どうだろうな。だが、そうじゃなければ試練じゃない。他の皆も乗り越えて、答えを出した」
 言いながら、胸の奥底に漠然とした不安感が広がる。背筋から這い上がるようにして悪寒が全身に広がり、凍てつかせるかのような錯覚を起こす。答えは出ている、だからこそ手にした力がある、何度そう自分に言い聞かせても拭い切れない。そして、身の内に抱く不安はこの少年にもある筈だ。他の仲間達が聖獣の試練を乗り越え明確に答えを出している中、ヴェイグとマオだけが力を手にして尚、漠然とした何かに脅えている。
 突き付けられた試練の、訴え掛けられたその内容の滑稽さに自分自身辟易していた筈だった。喩え身体がアガーテのものであろうと、再会したあの時に確かにヴェイグはクレアを感じ、見つけた。今更だった。確固たる自信が、聖獣の試練によって揺らいでいる。その事実は、今尚密やかにヴェイグを苛立たせていた。
「今回も、サレは来なかったね」
 呟くように、マオが言った。話題の転化かな、とヴェイグは思った。特に気に留めず、相槌を打つ。正直、ヴェイグもこの話題を長引かせたくはなかった。
「-…トーマは現れたな」
「……そだね。サレはー…私怨みたいな言い方してたケド、案外見張られてるのかもね」

 サレ。実際に剣を交えたのはカレギア城内で一度きりだった。勝負がついても、男は剣を向けてきた。それを払った記憶がある。そして、脇を走り抜けた。奥にはクレアがいる。それを知っていたから先を急いだ。だから、ここまで来たのだと思っていた。だからこの男を捻じ伏せたのだ、とそう思っていた。
 ふと、感じた違和感に、擦れ違いざま男の見上げてくる顔を目に留めるその時までは、確かにそう思っていた。

「まるで、会いたかったみたいな言い方だな」
 以前にも、そんな会話を二人でした気がする。
「そうかな?」
 言って、マオが笑った。ヴェイグを見上げて、少し困ったような顔をしていた。
「マオ?」
「アハハ、だってサ。ボク、初めてだったんだ」
 この時、ヴェイグは目の前にいる少年に対してどんな事を思ったのか、それは後になっても解らない。思い出せない。
「サレの、あんな顔初めて見たんだ」
 ただ、衝動だけは酷く鮮明に思い出すことが出来る。
 苛立っていた。聖獣の試練で、痛くない筈の腹を探られ、それが痛んで、酷く苛立っていた。それでも、「だから」ではない。
「-…本当に、楽しそうだった」
「……」
 ヴェイグは、言葉を返す事はしなかった。それよりも、身の内に渦巻くどす黒いものを押し殺すのに必死だった。

 ネレグの塔で会ったサレの顔を思い出す。笑っていた。ラジルダでも、あの男は笑っていた。ヴェイグ達の心を砕くと、笑っていた。その印象ばかりだ。ただ、笑っていた事しか思い出せない。その笑みがどんな類のものであったのか、ヴェイグには思い出せなかった。
「-…マオは……サレと、仲が良かったのか?」
「まっさか!」
 マオが笑う。声を上げて笑う。楽しそうだった。
 考える。サレの浮かべていた笑みも、こんな笑みだったのだろうか、と。
「でも、まあヴェイグよりかは気に掛けてるかもね」
 同じ王の盾だったから出る言葉なのだろうな、とヴェイグは思った。
「違うよ」
 否定の言葉に、目を瞠る。マオは相変わらず笑んではいたが、楽しそうに、とは違った類の笑みのように思った。
「だってヴェイグ、ホントにサレの事どうでもいいじゃない?だってもう、クレアさんはヴェイグの隣にいるんだもん、サレを気に掛ける、理由がないデショ」
 マオの言葉の意味が解らず、黙って見つめ返す。大きな瞳が、一瞬悲しそうに揺れたように見えたが、それだけだった。
「でも、サレは多分…ヴェイグの事、好きなんじゃないかな」
 吐き気がした。以前にも、こんな気分になった気がする。それがいつの事だったか、今のヴェイグには思い出せなかった。

 



 獣王山を出た所でユリスの領域から視線を逸らすと、折り重なるようにして二つの身体が倒れていた。他の仲間たちの視線も、そちらへ注がれている。
 死んでいる。
 目に見えて明らかだったが、アニーが傍へ寄り一人一人脈を確かめては首を横に振った事で、憶測は確定へと変わった。
 皆愕然と、信じられないものでも見るかのような目で二人を見つめていた。ただ、ヴェイグだけがその場で、酷く冷え切った頭で、矢張りな、と思った。

 



 夕闇に、一人分の足音が響く。石畳には、長く伸びた影が落ちている。湿った風が髪を揺らし、顔に張り付くのを不快に思い、サレはそれを払った。
 カレギアの首都バルカ、その一画。人通りの少ない寂れた路地裏にサレはいた。倒れたゴミ箱を漁る猫が、サレの気配に気付き威嚇する。気に留めず、歩を進めると目が合った。

 にゃあ。

 猫が鳴く。逃げない。足元にまで猫が迫る。そこでサレは立ち止まった。蹴り飛ばしてやろうか、と考えてからやめた。猫から視線を逸らし、通り過ぎる。

 にゃあ。

 背後から、また猫の声がした。歩調はそのままに、視線は真っ直ぐ前を捉えたまま、サレは片手を振り上げた。狭い路地裏に突風が吹き抜け、後方で大きく破裂音があがる。腕をゆったりと下ろしながら、漸く足を留めた。肩越しに振り返る。逃げて行く猫の後姿が見えた。拉げたゴミ箱から飛び出た汚物が、壁と床とに散っている。目を細め、微笑む。


 それから、路地裏を抜けた。
 路地を抜けた先の通りに、光が溢れる。眩暈さえ覚えるその眩しさにサレは目を瞬いた。夕暮れの街の一角で、そこだけはまるで昼のような明るさ、別世界のような賑わいで溢れていた。踏み締めるのは相変わらずの石畳だったが、一面に花弁が絨毯のように敷き詰められている。灯りの点った店からは、荘厳な首都バルカのイメージからは掛け離れた陽気な音楽が流れてくる。
 厚く化粧を施したヒューマの女が、サレの姿を目に留めると親しげな笑みを浮かべ、手を振ってきた。それに気付いた別の女もまた、サレに気付くと同じように微笑んだ。言葉を交わす事はしなかったが、サレもまた同じような表情を彼女達に向けた、と思う。
 また暫く歩くと安物のドレスに身を包んだヒューマの少女が駆け寄ってきた。少女が着るには露出の多い、白いドレスは所々が垢で汚れ変色している。洗えば美しい銀色をしているであろう髪は乱れ絡まっていた。
 皸た手で花を差し出された。頼りなく草臥れた、薄い青色の花だった。受け取ってやると、少女が笑った。少女が笑うと、欠けた歯が覗いた。
 風に、足元の花弁が舞う。少女に縋り付かれ、サレのマントに皺が寄り、手垢が付いた。それを不快に思い眉間に皺が寄る。見なければ良い、そう思って空を仰いだ。仄暗く青色に染まる空に、花弁が舞っている。往来する人に踏みつけられ、醜く滲んだ花弁も舞う様はまるで羽根のように美しい。

 人も同じなのだ、とサレは思う。散り逝くその刹那だけは、どんなに醜く歪んだ生も美しい。

 風が已む。顔を上げた少女が服の袖を引くので、何かと身を屈めると頭に手を伸ばされた。強張る身体を叱咤し平静を装う。少女はサレの目の前に手を掲げて見せた。指先に摘まれた花弁に納得する。
 少女がまた微笑んだ。サレは、その微笑に酷く胸が痛んだ。何故か。
 何故。
 サレは懐から数枚の銀貨を取り出し、少女の手に握らせた。摘まれた花弁が石畳の上に落ちる。
 少女は意味が解らなかったのか、数度瞬いてからサレの顔と手の中の銀貨とを見比べた。それから、その意味を理解してか、悲しそうに顔を歪めた。その表情にサレは満足気に微笑むと、少女の痩せ細った手首を掴む。髪を振り乱し抵抗する少女が自由になる方の手でサレの腕を振り解こうと暴れる。サレは振り向かない。手首に爪を立てられた。それでも、サレは振り向かず微動だにしない。今度は噛み付かれた。サレはそれでも無言で、少女を路地裏に引き摺り込んだ。


 陽はすっかり落ち、路地裏は一片の光も差さない。サレを睨み付ける少女の蒼い目だけが、無彩色の世界で色を持っている。
 この目だ、とサレは思った。彼は、いつだってこんな目をしてサレを見ていた。
 少女の手首を開放し、頬を叩く。呆気なく少女は石畳に臥せ、一瞬何が起きたのか解らない、とでも言うように叩かれた頬に手を当てた。その様子を見つめながら、サレは自分が酷く安心しているのに気付いた。向けられた蒼い目が不安そうに、脅えたように、揺れる。
 怖がらなくていい、声には出さず胸の中で囁く。そうじゃない、違うんだ。
 そんな目で、彼は自分を見たりしない。
 サレは手を振り上げた。少女の顔が今度こそ恐怖で引き攣った。
 少女の頬を殴る。何度も、何度も。初めの内は掌で、途中から拳で殴っていた。少女は声一つ上げず、けれど必死にサレに抵抗した。縋る手が、力なく落ちる頃になって漸く、サレは手袋が真っ赤に染まっている事に気付いた。少女の切れた唇からも、鼻からも血が滴っていた。サレは、抵抗を已め虚ろな目を向けるだけの少女の頬を撫でる。ドレスをたくし上げ、痩せ細った足に指を這わせると少女の身体が一瞬強張ったが、それだけだった。
 馬鹿馬鹿しい、と思った。頭の中が急速に冷えて行くのを感じた。何を望んでいたのだったか、思い出せない。
 人形のように横たわる少女の足を掴み、押し入っていく。何故抵抗をやめたのだろう、とそんな事ばかり考えている。中に入り動き始めても少女は時折、苦しそうに眉根を寄せる以外に抵抗らしい抵抗をしなかった。口から吐き出される息は頼りなく、喘ぎ声とは程遠い。どんなに激しく動いても路地裏に響くのは荒くなっていく自身の吐息だけで、それがサレを苛立たせた。
 こめかみから頬へ伝う汗が、荒い息遣いが鬱陶しい。どうしようもなく生きていることを自覚する。
 脇に突いていた両の手の指を、少女の首に絡めた。徐々に力を込めていく。すると、今迄無反応だった少女がそこで漸くはっとしたようにサレの腕に縋った。虚ろな目には、それでも涙が滲んでいる。サレは手を緩めない。喘ぐ少女の口の端から唾液が漏れる。サレの動きが性急になるにつれ、手に込める力も増していく。零れる笑みが抑えきれず、吐く息と共に引き攣った声が漏れた。
 あの男も泣いて縋れば良いのに、と思った。睨み付け、歯を食い縛れば良い。あの男を組み敷いて蹂躙するのはさぞ心地の良い事だろう、とサレは思う。声が嗄れる程に泣き叫べば良い。
「は……ッ」
 短く、息を吐く。それから、長く。手に込めた力が、ゆるゆると抜けて行った。サレの下で、少女が溺れる人のように大きく息を吸い込み、それから激しく咳き込んだ。肩で息をしながら、サレはその様子を見下ろしていた。肌蹴た衣服の下から覗く肌には、サレの絞めた跡がくっきりと浮かんでいる。それ以上に目立つ喉に入った一筋の傷跡に、サレは熱に浮かされた様に霞掛かった頭の片隅でそれでも、ああ、と妙に冷静に納得していた。
 可哀想に、とふいにサレはその少女が酷く哀れに思えてならなかった。痩せ細った四肢、乱れた髪、垢塗れの顔、涙に濡れた瞳―何もかもが違う。

 違う違う違う違う。

 少女が、あの男と違う生き物だという事が酷く哀れでならない。醜い。汚い。
 振り上げた手に、フォルスを集中させる。風が意志を持った生き物のように指先に絡み付く。それを、先刻少女の頬を殴ったのと同じように、振り下ろした。但し、今度はそのただ一度きりだった。そのただ一度きりで、サレの顔に、服に、石畳に、壁に、鮮血が飛び散った。
 拉げて潰れた少女の顔だったところに、唇を這わせる。人間特有の生暖かさを感じさせるそこに、けれど生を感じさせる息遣いは存在しなかった。その事実にサレは酷く安心しながら、少女の中に挿入したままのモノを再度動かし始めた。
 目の奥が熱い。頬を伝い流れるものが何なのか、サレにはもうよく判らなかった。


 路地を抜け、サレは再度花弁の敷き詰められた石畳を踏み締めていた。見上げた空には痩せ細った、怜悧な刃物を思わせる月が浮かんでいる。先刻手を振った女が、サレの姿を見て怪訝そうな顔をした。視線をそちらへ向けると逸らされた。血の滲んだ手袋から、赤い滴りが花弁の上に落ちる。前髪は乾き掛けた血を含み、頬に張り付いて気持ちが悪い。掻き揚げる。それから、振り返る。光の差さない、暗い路地裏。先刻の猫がサレを見ていた。そうして、踵を返し闇の中へ消えていった。
 それを見届けてから、サレもまた歩き出した。
 足元の花弁も疎らになる、通りの寂れた一角にその家は建っていた。周囲の灯りらしい灯りといえば、頼りなく明滅を繰り返す誘蛾灯だけだった。家の前に立ち、ドアノブを捻る。鍵は掛かっておらず、扉は手前に引くとすんなり開いた。
 家の中は暗闇ただ一色で、夜目の利くサレにも見通すことが出来ない。少女を残してきた、あの暗い路地裏を思わせた。その暗闇をサレは然も愛しげに見つめ、言った。

「…ただいま、母さん」

 誘蛾灯が明滅を繰り返す。灯に誘われた蛾が身を焦がし、落ちて行く。目の前に広がる暗闇へ足を踏み出しながらその光景を視界の端に留め、石畳の上の骸を死んだ花弁のようだ、と思った。


 獣王山へ赴き、ヴェイグ達と剣を交えたのはその次の日の事だった。

 

 



 トーマが振り下ろした腕を後方に跳躍する事によってかわす。それでも磁のフォルスに因って強化された拳は大地を打ち砕き、飛礫と共に衝撃が身体を襲う。それが牽制だったのだという事はすぐに知れた。ヴェイグが後方に退く事を予め予想していたのだとでも言うように、トーマは厚ぼったい唇の端を吊り上げて的確に着地地点に第二撃を打ち下ろしてきた。同時に、ミリッツァの短剣が腹部を狙い閃く。
 前線で戦う主力の自分から潰しに掛かって来たのか、とヴェイグは舌打ちをする。判断に迷い動きが止まりかける。そのヴェイグの脇を、鋭く雷光が走った。ヒルダの援護だ、と即座に判断しミリッツァの短剣を弾いた。援護によって若干威力が衰えた拳が、それでも執念のように振り下ろされる。だが、狙いは外れた。
 体制を立て直すヴェイグの視界の端に、詠唱を始めたサレの姿を留める。
 中断させなくてはいけない、そう思いながら駆け出す。すると、サレはヴェイグが剣を振り下ろすまでもなく詠唱を中断し剣を薙いだ。腕に熱が走る。
「……ッ」
 剣撃をかわす。追撃を、剣の切っ先をからめて払う。そちらに気をとられ着地に失敗したが、援護の矢が飛びそれ以上深追いされずに済んだ。斬られた腕から滴り落ちる血が、手袋の中で滑り気持ちが悪い。眉間に深く皺を刻み柄を握り直す。対峙した男と目が合った。

 笑っていない。
 ぼんやりと思った。
 マオの言葉を思い出した。
 この男は、本当に自分の事が好きなのだ、とそう思った。

「-…ヴェイグ」
 名前を呼ばれる。背筋を這い上がる、悪寒の正体が解らない。それらを振り切るようにして氷を剣に宿し繰り出した。男の、細身の剣がそれを受け止める。剣と剣とがぶつかり合う衝撃に耐え切れず刀身を覆う氷が砕けた。
 体格的にはヴェイグの方が有利だった。次第に、サレが後方へと押し遣られていく。交えた剣のその向こうで、それでもサレは笑っていなかった。
「ふっ…ッ…」
 短く、息を吐く。頬の筋肉が、引き攣るように痙攣する。
 これは何だったか、とヴェイグは思い出そうとした。答えはすぐに出た。有り得ない。答えをすぐに否定する。

 それが隙になった。
 急に、剣に掛かる重みが消えた。ヴェイグは一瞬、何が起きたのか解らない。サレを見失う。世界が反転した。

「-……ッッ」
 金属音が耳元で響いた。遅れて、一回目よりやや大きく二度目の金属音。
 視界に広がるサレの艶然とした笑みを見上げ、ヴェイグは言葉を失くした。

 馬鹿だ。こいつは馬鹿だ。そんな言葉だけが混乱した頭の中で廻っている。戦闘中に剣を手放すなど考えられなかった。リスクが大き過ぎる、明らかな自殺行為だった。それを、この男は遣って退けた。

「ヴェイグさん!」

 アニーが遠く、悲鳴のように自分の名を呼んだ。
 我に返り、剣に手を伸ばす。それより先に剣を手にしていたサレが、伸ばした掌目掛けて剣を突き刺した。
「…ッ…ぐ、ぁ」
 苦痛に身を捩ろうとして、それも上に圧し掛かるサレに因って阻まれた。
 サレが顔を覗きこんで来る。柳眉を歪め、心をまるで痛めているかのように、心配そうに覗きこんで来る。剣を持たない方の手で、優しい仕種で頬を撫ぜられる。
「痛い?…痛いのかい、ヴェイグ……?」
「……ッッ」
 誰かこの男を黙らせろ、殺してくれ、とヴェイグは思った。
 突き刺さった剣を抉るようにサレは動かしながら、それでも然も愛しげにヴェイグの頬を撫でている。
「可哀想…可哀想、こんなに血が出ているよ。可哀想に…ねぇ?」
 ヴェイグは苦痛に顔を歪めながら、それでも自由になる方の手でサレの顔面を掴んだ。
「くっ…」
 一瞬、サレは怯んだ様に身を退いたが、すぐに目を剥き出しにして高笑いをした。いつもの、芝居掛かった笑いではない。一種の狂気を孕んだ、それでいてあまりにも無垢な笑いだった。
 押し戻そうと、サレの顔の到るところに手を這わせ、口と謂わず鼻と謂わず掴みかかった。整ったサレの顔に、無数の醜い傷跡が走る。
 サレは剣から手を離し、両手を使ってヴェイグの首を締め上げた。息が詰まる。今迄以上に必死になって、ヴェイグはサレの顔を押し遣ろうと躍起になって掴みかかっていった。意識が混濁し、手に触れるものなら髪だろうと何だろうと手当たり次第に引っ張った。それでも、サレの手は緩まず、笑いは已まない。
「こっ…こうして、ねぇ…!ねぇ!聴いてる、ヴェイグ?…こうしてッ、昨日も僕は人を殺したんだよ!」
 五月蠅い。サレが何事かを叫んでいる。言葉を紡がれると、サレの口内に侵入していたヴェイグの指に歯が突き刺さる。
「小さな女の子でね!銀色の髪だったよ…蒼い目をしていたよ……は…ははッ…あははははッッ」
「……は…ぁ…ッ」
「ホラ、泣いて、喚いて、縋りなよ!もっと抵抗してご覧?ねぇッ、ヴェイグ…ッッ」
 五月蠅い。霞む視界に、サレが映る。


 途端に、苦痛も憎悪も忘れた。抵抗も忘れた。

 腕が滑り落ちる。
 相変わらず呼吸は出来ないし、飲み下せない唾液がだらしなく口の端を伝ってはいたけれど、何だかそれすらもヴェイグはどうでも良くなってしまっていた。ただ、無性にどうしようもなく、笑いたい気持ちになった。伝染する、これは病か何かなのかも知れない、とも思った。

 ヴェイグは抵抗を已めた。ただ、サレを見つめていた。
 相変わらず呼吸は出来ないし、飲み下せない唾液がだらしなく口の端を伝っているから、彼のような高笑いは無理だった。
 締め上げられた首の奥に疼く澱。そのまま手を離さなければ良い、とヴェイグは思った。手を離されたら、塞き止める事が出来ない。

(-…でも、そうなったら俺は……死ぬな、多分)
 思いながら、サレから視線を逸らした。掌に突き刺さった刀身の、その向こうでユージーンの槍に肩を貫かれたワルトゥが、ゆっくりと倒れて動かなくなるのが見えた。

 

 クレアを、助けなければいけないとそればかりを思い願った。激昂する頭の中で、それでも冷静な部分がそれに明白な理由付けをしようと躍起になる。

 フォルスの暴走
 失われたクレアの一年
 王の盾
 傷付けるだけ
 守る事の叶わない自分
 嘲りを含む哄笑

 ―…惨めだった。

 それを、認めた。強制的に、認めさせられた。
 王の盾を追う理由、それは本当にクレアの為だけだった。ただ、クレアを取り戻したい一心だった。

 そう、思っていた。

 カレギア城でサレを振り切り、その脇をすり抜けた。その時、振り返らなければ良かった。見下ろした男の目を、ヴェイグは忘れられなかった。
 どうして、そんな目で見る。まるで、自分こそが傷付けられた、裏切られた被害者のような目だった。巫山戯るな。浮かんだ言葉、それ以上にヴェイグは自分自身に不安を抱いた。
 サレの目に、驚愕の色が浮かぶ。拙い。目を逸らし今度こそ走り抜ける。仲間が、すぐ後を追って来るのを背中に感じながら、それでも頭の中は別の意識に支配されていた。

 気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた気付かれた――――。

 口元を手で覆う。
 行く手を遮る二つの影に、仲間が先を急ぐようヴェイグに叫ぶ。その行為を、忠実に再現しながらそれでも、脳裏に焼きついて離れないサレの目。また俺は認めるのか、とヴェイグは思った。その時だけは、クレアの事など頭にはなかった。ただ、サレの事を考えていた。サレの事しか考えていなかった。

 忘れなくては、とヴェイグは思った。

 

 忘れなくては、とヴェイグは思っていた。実際、ヴェイグはそれに成功し今の今までその事実を忘れていた。

 あの時、振り切ったサレを見下ろしながら思った事がある。
 惨めだ、とそう思った。哀れで愚かしい、蔑むべき生き物だ、とそう思った。同時に、彼が何故打ちひしがれたような視線を自分に向けたのかも理解した。

 この男は、本当に自分の事が好きなのだ。

 クレアを攫い、ヴェイグがそれを追い、その内にきっとこの男は錯覚したに違いない。ヴェイグが追っているのは、サレなのだ、と。男の思い込みを自覚してしまった。おぞましい思い込みに、吐き気がする。それだけではない感情が疼く自分に、眩暈さえする。自覚など、させないで欲しかった。惨めなその男を見下ろし、到来したのは何も不快さだけでなかったという事。ヴェイグの中にそれは暖かな光のように優しく灯った、嗜虐心と愉悦だった。手で覆われた口元は、確かに笑みを形作っていたというのに、ヴェイグはそれを否定したかった。

 

 首にかけられていた圧力が退く。身体の上からも重みが消えた。何が起きたのか、それを頭が理解しようとするより先に、解放された身体が酸素を求めヴェイグは酷く噎せた。途中、唾液が気管に入り余計に苦しくなった。生理的に浮かんだ涙が目尻に溜まる。咳き込むという、生を求めるのと同じくらいの強い衝動。端的に、それでもヴェイグはそれを実行に移す。
「……ハッ……ッッ、は…ハハ……ァ……はっ……は……」
 縫い止められた掌も自由になった。引き攣り、零れる哄笑をどう抑えて良いのか解らず、自由になった手で口元を覆う。血の味がする。
 視界を彷徨わせると、ティトレイに向けてサレがフォルスを放つのが見えた。

「大丈夫か、ヴェイグ」
 後衛を守る事に専念していたらしいユージーンが、アニーを伴いヴェイグに駆け寄る。肩に手を掛けられた。それを押し遣り、剣を握ると支えにして立ち上がる。
「駄目です、ヴェイグさん!手当てが先です!」
「-…サレ」
 剣が重い。引き摺るようにして、それでもヴェイグは走り出した。その前を、ミリッツァが遮る。
「邪魔だッッ」
 ヴェイグの大剣を受け止めた彼女の短剣ごと薙ぎ払う。受身を取り損なったミリッツァが強かに背中を打ちつける。だが、ヴェイグはそれを追撃する事なく走り抜けた。

「……ッ…はっ……はは……」

 サレと交戦するティトレイにトーマが拳を振るう。

「ははは、は…はははははッッ」

 その脇をすり抜ける。

「――――ッサ、レェエエッッ」

 剣を、振り上げた。

「ヴェイグ」

 酷く安心した、そんな表情で微笑まれ見つめられた。

 サレの、剣が閃く。

 金属音と、衝撃。

 すぐに身体を退き、間合いを取る。

「脅えてるのかい、ヴェイグ?」

 サレが、唇を舐めた。ヴェイグの口に、酷薄な笑みが浮かぶ。


「脅えているのはお前の方だろう、サレ」

 

 


 

 この地方にしては珍しく、霧が晴れて空がよく見えた。背を向けて立つ彼の銀色の髪は、暮れ色に染まっている。
 横たえた身体中が、痛い。痛くないところの方が、きっと少ない。
 戦闘はまだ続いていた。今も、炸裂音が辺りに響き、大気が焔に焼かれている。

 穏やかだった。

 立ち上がる気力がないわけではないが、何となくサレはそのまま仰向けに倒れていた。彼も、参戦する様子はない。きっと、もう勝敗が明らかなのだろう。

「-…誰が、脅えてるって?」
 乾いた唇が裂けて、血が滲んだ。熱風が彼の髪を揺らすが、答えはなく動く気配もない。構わずに、サレは続けた。
「誰が」
 目を閉じる。
「…でも」
 喉の奥で、声が引き攣る。全身は痛みに支配されている筈なのに、頭はそれを理解していない。これから口にする、その言葉に酔って麻痺している。
「僕は…本当に君の事が好きだったんだ……ッ」

 大っ嫌いだ。

「-…俺もだ」
 目を瞠る。
 答えが返ってくるとは思わなかった。相変わらず背を向けたままの彼の輪郭が、闇に溶けて行きそうなほど頼りない。

 どんな顔をして言ってるんだ、とサレは笑った。

 

 


 

 獣王山を出た所でユリスの領域から視線を逸らすと、折り重なるようにして二つの身体が倒れていた。他の仲間たちの視線も、そちらへ注がれている。
 死んでいる。
 目に見えて明らかだったが、アニーが傍へ寄り一人一人脈を確かめては首を横に振った事で、憶測は確定へと変わった。
 皆愕然と、信じられないものでも見るかのような目で二人を見つめていた。ただ、ヴェイグだけがその場で、酷く冷え切った頭で、矢張りな、と思った。

 何かを振り切るように、仲間達が歩き出す。ヴェイグもそれに続いた。だが、それでもいざ彼の骸を目の前に足が動かなくなる。
「…サレ」
 穏やかな顔で口元には微笑まで湛えるその姿はまるで眠るようだ。

 生きろ、と言ったティトレイの言葉にヴェイグは賛成も反対もしなかった。もしかすると、こうなる事が最初から何となく判っていたからなのかも知れない。
 殺せ、と言ったサレの言葉にヴェイグは何の言葉も返さなかった。ただ、今ここでヴェイグがこの男を殺したのなら、それはこの男にとって酷く幸福な事であるに違いない、と思った。だから殺さなかっただけなのかも知れない。
 愕然とする男の脇を通り過ぎる。いつかも、こうやって通り過ぎた。肩越しに振り返っても、もう視線が交わる事はなかった。生きた彼の最後に見た背中は小さくて、それが余計哀れみを誘った。

 サレが凭れ掛かるガジュマに視線を移す。ヴェイグから表情は窺い知れない。その頭を爪先で小突く。角が揺れた。

「僕、それでもやっぱり思うんだよね」

 少し先で、マオがヴェイグを見つめて言った。

「…サレは、ヴェイグの事が好きだったんだよ」
 風が吹く。マオの髪が霞の中、焔のように揺れる。

「知ってる」

 だから、生かしておいた。生きれば良い、と思った。

 もう一度、倒れたガジュマに目を落とす。
「-…つまらない事をしてくれる」
 呟く。
 縋るような目が、サレから向けられる事はもう永遠にない。
「…つまらない」

 マオが隣に立っていた。ヴェイグの手を取り、握る。
 見上げられているのが知れたが、床に落とした視線を上げる事は出来なかった。

「行こう?」
 促されて歩き出す。繋いだままの手を引かれるがままにして、ヴェイグはもう振り返らなかった。

 この執着は恋にも似てる、そんな事をふと思って、また吐き気がした。




相当古いもの発掘。
意味が分かりません。
(20080921)






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最終更新:2008年09月21日 04:03