ユーリがうだりうだりとカロル先生にフレンの愚痴を言う話。



  その男は頭が可笑しかった。名前を、ユーリ・ローウェルという。
 彼に対する分析は、概ね間違ってはいないと思う。同意を得られたことはなかった――そもそも、第三者に同意を求めるという試みをしたことがない――が、確信はあった。

 そして困ったことに、ボクはこの一回り近く歳の離れた、その上同性の頭が可笑しいこの男に恋をしていた。


鈍ましき、彼の真根 Otesánek
20081227


お腹から犬が出てきました

それから羊飼い
そして 羊と豚の群れが現れて…


[オテサーネク 妄想の子供]


 頭上は、燃えるような蒐色をしていた。ダングレストの空は陽が高い内でも大抵はこんな色をしている。その光と闇との境界が曖昧な様を幻想的で美しいという者も居れば、日中にあってもいつ暗がりに引き摺り込まれるとも知れず不安だと口にする者も居る。そして、そういった理由付けをし、この空を形容する者の殆んどがダングレストの外からの訪問者だった。少し大袈裟な言い方をすれば、この空を見上げる大抵の余所者の感想は、そのどちらかに分かれる。更に言えば、元々ダングレストに暮らす者はそのどちらにも同意しない。空はあくまでただの空でしかなく、雨に濡れるわけでも、砂ぼこりに塗れるわけでもないのならそれは他の地方で当たり前のように広がる青い空と全く同じ意味しか持たないからだ。空は空で、その事実以外に何ら感慨、或いは情緒のようなものを抱くことはない。ボクはもうこの町の人間ではなかったが、生まれも育ちもダングレストであったし、これはあまり褒められた話ではないがほんの数年前まではこの場所を拠点に様々なギルドを渡り歩いてもいた。ボクがかつての仲間たちと共に立ち上げたギルドの拠点は今でこそオルニオンに移り変わってはいたが、最早余所者となった自分がそれでもこの奇怪としばしば形容されるこの空に対して思うところに変化はない。
 ギルド本部の門をくぐり大通りに差し掛かると、金色と薄紅に塗れた空の東の地平が仄昏く藍色に染まり始めていた。簡単な事務手続きだけの筈だったが、ハリーに捕まり話し込んでしまった。来るときはジュディスに頼んでここまで連れてきてもらったが、そんな彼女と彼女の相棒も今は別の空の下だ。ジュディス達が預かり運ぶのは何もボクだけではない。用が済むまで待っている、そう言って微笑んだ彼女の申し出を断った。ジュディスとバウルの運ぶ手紙は魔導器が失われた今、安価で迅速な連絡手段として重用されていたし、何よりボクたち「凛々の明星[ブレイブヴェスペリア]」の安定した収入源でもある。たとえボクがギルドの首領であっても彼女たちの時間を拘束してはいけない。
 魔導器の核全てが精霊となってから久しく、けれど日夜続けられるマナの研究は、魔導器とエアルの代用にはまだ程遠い。魔物の侵入を防ぐ結界は勿論、船の動力一つにしても今までは全て魔導器頼みだった。船の本数を増やすことと同時に、やはりヘリオードにも港を設けるべきかも知れない。今度「幸福の市場[ギルド・ド・マルシェ]」の本部に立ち寄ったらカウフマンに相談してみよう――そんなことを考えながら石畳を踏み締めボクは歩いた。
 大抵の魔物は夜行性である方が凶暴性が高く、いくら多少腕に自信があるとはいえ武醒魔導器も意味をなさない今、何も好き好んでこれから陽が沈む中街を発とうという気にもならない。自然と足は宿へと向かう。
 西の空は一日の終わりの光を引き連れた太陽が、地平線へ沈み込もうとしている。明らんだ蒐色の空と、光を照り返す金色の雲とをボクは見上げる。西の地平に陽が沈む、そのほんの僅かな時間にだけ広がる薔薇色の世界に恒久性は求められていない――明け透けな物言いをするのなら、それだけのことでしかない。だからボクにとってそれは多少郷愁の念が呼び起こされるものであるにせよ、それ以上でもそれ以下でもないし、外から来る人間が抱く感動とも不安ともつかない「感想」は、普段自分たちにとっては刹那的でしかない大禍時が長く続くという異質さに向けられたものでしかない。そこに名前を付けて分類しようということ自体が、ボクには馬鹿馬鹿しく思えて仕方がなかった。
 宿の前で立ち止まると、深く藍色に染まった東の空を見上げる。そこにはボクのギルドと同じ名前の星が、他のどの星よりも力強く真っ先に夜空を彩り始めていた。
「カロル」
 名前を呼ばれた。
 空へ向いていた視線を水平に戻す。そこには疎らに灯りを点した始めた街並みを背に、一人の男と、一匹の犬とが立っていた。
「――……ユーリ」
 男の名前を呼ぶ。宵闇を背負った黒尽くめの男は、同じように色濃く艶やかな黒い髪を肩口で踊らせながらボクの方へと歩いてくる。
 あれくらいならまだ切らなくても良い、そんなことを考えながら三ヶ月前に切り揃えた彼の毛先をぼんやりと眺めていた。
「よ、お疲れ」
 左手を緩く持ち上げて、ユーリは言った。それなりに久しぶりの再会だというのに、彼の口ぶりは昨日今日別れたその延長上にあるようだった。
「ハリーに捕まっちゃってね。ユーリは?」
「この辺にちょっとばかし用があったんだよ。そしたらジュディとバウルに偶然な」
 なるほど、だから「お疲れ」なのか、とボクは納得した。
「そっか。擦れ違いにならなくて良かった」
「ハリーに感謝しなきゃな」
 軽い調子でユーリは言ったようだったが、ボクは今すぐユニオン本部に戻り、ハリーに抱擁とキスを送りたい気分だ。
 ユーリの用事というのは行商の護衛だった。彼のことだからきっとタダ同然の値段で引き受けたのではないのか、と今月分の納金を受け取りながら複雑な気持ちになる。
 立ち話も何だし、折角久しぶりに会えたのだから、そう言って彼と彼の相棒とを連れ立って、今度こそボクは宿の扉をくぐった。ユーリと同じ宿に泊まるのは何年だったか前に旅をしていたとき以来だった、と思い立つと何だか気恥ずかしいようなくすぐったさを覚える。
 部屋に入るなり椅子に外套を放ると、ブーツを脱ぎ捨てて寝台に上がるユーリはあの頃と全く変わらないように見えた。ただ一つ、今よりもっと彼の視線が遠かった頃よりも、寒そうな首元が気になる。
 ユーリの髪を切ったのはボクだ。「星喰み」を倒し、フレン・シーフォ――ユーリの下町時代からの幼馴染みで、帝都で騎士団長を務めている男だ――と共にオルニオンの発展に携わっていたそれが、漸く落ち着いた頃にユーリに頼まれたのだった。大した手入れもしていない彼の髪は女性のものと比べるとそう美しいものではなかったし、切って売ったところで大した値もつきそうにないものだったが、それでも黒くて長い髪は彼にとても似合っていた。勿体ない、そう素直に思ったことを当時のボクは口にした。するとユーリはボクの頭を撫でて、それから器用に片方だけ眉を上げた。「そんないいもんでもねぇよ。惰性で伸ばしてただけだしな」、そう言って笑うユーリは見たことのない顔をしていた。
 それから、ユーリはたまにボクに髪を切って欲しい、と頼みに来るようになった。今回は以前切ったときからそう経っていないので、彼の髪に触れることはないだろう。
 あの時、惰性だと、ユーリは言った。惰性なんだ、とボクは顔にも声にも出さずに笑った。下らないことに拘る、意外と女々しい彼の本音が可笑しかった。
 紅茶を入れたマグカップ二つを手に寝台に近付くと、片方をユーリに手渡す。暖炉の前を早々に陣取った相棒の、毛足の長い尾に腕を伸ばしじゃれついていた――としか言えない彼は「サンキュ」、と短く返しながら上体を起こした。近くにあった椅子を寝台の脇に引き寄せてボクも座る。
「――……で?フレンがどうしたんだっけ」
 お茶を煎れていて中断してしまっていた話の先を促す。ユーリは護衛の仕事の前にザーフィアスでフレンに会ったらしい。
「っていうかさぁ……ザーフィアス行ったらフレンの小言がもれなく付いてくる、ってどうして分かっていながら行くかなあ」
「だーかーらー……下町の様子が気になるんだから仕方ねぇだろ。城抜け出して下町でフラフラしてる騎士団長閣下のがどうかしてんだよ。こっちは城にさえ近付かなけりゃ会うこともないって踏んでるってのに……」
「ユーリが下町を気にするみたいに、フレンも下町が気になるんだよ。いい加減学習すればいいのに……実はフレンに会いたいんじゃないの?」
 ついでに付け加えた一言に、カップの縁に唇を寄せ掛けたユーリの顔が盛大に歪む。ボクは少し彼の幼馴染みに同情した。
「……最近ジュディに似てきたんじゃねぇか」心なしか肩を落としてユーリは言った。「可愛くねぇったら……」
 最近も何も、そんな風に保護者面出来るほど頻繁に顔を突き合わせているわけでもないのに何を言ってるんだか、と思いはしたが口にするのはやめておく。理由は、裏を返せば単に「傍に居て欲しい」、と言っているようで癪だからだ。事実ボクはユーリと再会する度、彼の髪に触れる度、そして去っていく彼の背中を見送る度に、何とも形容し難い苛立ちを覚えるのだから「傍に居て欲しい」、というのは間違ってはいないのだとは思う。ただ、何となく、彼の前では彼に少しも興味のないふりをしていなくてはいけないのだと、そう、何となく、思う。一回り違うか違わないかの歳の差しかないこの男が、兄だか父親だかを気取ってボクを見くびっているのは知っていた。そしてきっと、彼の中ではボクは変わらず、十二歳の子供のままなのだろう。
「で、それはいいからさ……フレンの小言なんて今に始まったことじゃないのに、ユーリは何をそんなに呆れてるの」
「……俺はあいつに呆れてんのか?」
「知らないよ。そもそも何があったのか、ユーリは具体的なこと何一つ話してくれてないのに」
 ボクが切り出すと、ユーリの視線が泳いだ。言いたくないだとか、言い渋っているというより、言葉を探して迷うような素振りだった。或いは、言葉より先に、ボクより先に、自分の感情の明確な名前を探しているようでもあった。けれど結局、彼は何かを諦めたかのように口を開いた。何故、彼が諦めたかのように見えたのかというと、伝えられたのは本当に単なる事実でしかなかったからだ。
「フレンに引き止められた」
 そんなのはいつものことだ。彼の幼馴染みは、いつだって隙あらば友情に恰好付けて彼を自分の手なり、目なりが届くところに縛り付けておきたがる。ボクより余程幼馴染みとの腐れ縁を理解しているユーリなのだから、今更情欲を底辺に押し込める為の言い訳じみた小言に本気で呆れ返るとは思わない。だから、それで終わりではないだろうとボクは先に続く言葉を待つ。
「……『僕がこんなに君を必要としているのに、君をこんなにも必要としている僕が言ってるのに、それでも君は行ってしまうのか』、だぁってよ……今時ありぇねぇだろ、これは流石に」
 声に抑揚はなく、ユーリの顔には飽きれとも疲れとも取れない実に微妙な感情が浮かんでいた。
 聡い彼のことだから、フレンに明言されるまでもなく執着心と独占欲の強い自分の幼馴染みが腹に一物二物抱えて悶々としたまま自分と顔を合わせ、そして見送るのだということにそれとなしに感付いてはいただろう。けれどいざ面と向かって口に出されたが故の現状だ。今一度、ボクはフレンに同情した。
「――……フレンの言わんとすることは分からないでもないけど、確かにそれはフレンが悪いかもね」
「いや、分かる分からない以前にありえねぇし。言わないだろ普通。ってかあいつ以外言わねぇ」
 ユーリはそう言って低く唸る。ボクは、保護者面するほど会っていない、と言わなかったことを少しの後悔の念を滲ませて、だけどやっぱり安堵した。
「……そりゃあ、ユーリに幻滅されたくないからね」
 呟いて、ボクはユーリから視線を外して入れてきた紅茶を啜った。聞こえてても聞こえてなくてもどちらでも良かった。けれどあまりにも長くユーリが沈黙したままなのが気になって、結局ボクは顔を上げた。目が合う。
 彼の目の色はとても深くて、感情の変化が解りにくい。そんな彼が、多分、驚いていた。そしてきっと、無責任に言葉を放り投げて視線を逸らしてしまったボクが顔を上げるまでずっと凝視していたのだろう。それは考えようによってはとても嬉しいことだが、今は状況が状況だった。
「ユーリ……?」
「……ああ」
「いや、えっと……どうしたの」
「え?……ああ、その、な」
 言い淀む。目の遣り場に困っているのか、彷徨う彼の視線はごく自然な流れでラピードへと注がれた。
「俺は幻滅したのか、フレンに」
 ユーリの呟きは、何処か独り言めいて聞こえた。
「分からないけど、多分」
「幻滅か。……幻滅するほど、俺はあいつに何か期待してたのか」
 言われて、ぎくりとした。フレンではなくて、ボク自身のことを言われたように感じられたからだ。だからボクは失敗した、と思った。幻滅されるほど、この目の前の酷い男はボクに期待なんてしていない。でも、それはボクに対してだけじゃない。
「違うよ。期待なんてしてない」反射的にボクは口を開いた。「ユーリは誰にも、何にも、期待なんてしてない」
 語尾が少し揺れた。別に怒っているわけでもないのに、感情的に声を荒げそうになったのを抑えたからだ。
 そんなボクを、ユーリは不思議そうに見ていた。それから、まだ一口も飲んでいない紅茶の入ったカップをサイドテーブルに置くと、ボクの頭を柔らかく撫でながら言った。
「そうでもないって、自分では思ってるつもりなんだけどな」
「嘘」
「何でそこで言い切るんだよ、カロル先生」
「だって……」
 どうしたって期待なんてしていない、もう一度言おうとした筈なのに結局言葉にならなかった。けれど、代わりの言葉はすぐに見付かった。
「なら、言ってよ」
 ボクの言葉を否定する根拠を、ボクを納得させるだけの理由を、ボクは何としてもこの男の口から聞き出さなくてはならなかった。
 ユーリは、薄い唇の端を吊り上げて笑みの色を濃くすると、それから優しく撫でているだけだったボクの頭を強く掻き混ぜた。
「言わねぇ」ユーリの指か、毛先を緩やかに揺らして離れていく。「幻滅されたくないからな」
 冗談めかして言うと、いつもの快活な笑顔に戻る。
 彼は不思議なことを言う。彼はボクに幻滅されたくないのだという。そんな風に言われたら、ボクはきっと彼の幼馴染みと同じに鈍ましく自惚れてしまう。
 ボクは言葉を失った。彼もそれ以上この話をする気はないようで、口を付けずにいた紅茶に手を伸ばす。
 何にも期待していないように見える彼は、それでもボクの言葉を否定した。それを、その場限りの言い逃れだと、だから根拠を言うことが出来ないのだろうと、そう切り捨ててしまえない。
「カロル……」
 重く、低い声でユーリに呼ばれ、ボクは思考の海から浮上した。眉根をキツく寄せて、刃のように鋭い目付きでユーリがボクを睨んでいた。一瞬、緊張したが何となく見当がついていたので、すぐに肩の力を抜く。どうしたの、と微笑んだつもりだが上手くいったかは分からない。ユーリは節の目立つ、剣を持つ手で、その指先で、ボクが手渡したカップを指して低く唸るように言った。
「何入れた」
「紅茶」
「の、中に」
 今度はボクが視線を彷徨わせる番だった。それから、口に紅茶を含み、そこにほんの微かに混ざり漂う紅茶でないものの風味に気付かれたか、と胸中舌を出す。ボクは上着の内ポケットを探ると、携帯用のアルミボトルを取り出して、顔の高さにまで持ち上げて振った。
「ラム。少しだけだよ」肩を竦めて言う。「どうせアルコール飛んで分からないかと思って。あったまるし」
 ユーリは無言で寝台に突っ伏した。手にしたカップは器用にサイドテーブルに着地する。取っ手からするりと指が離れ、それもぱたりと倒れる。うつ伏せたままのユーリはくぐもった声で何事かを呟くと、それから顔を少しだけ傾けて恨みがましい視線を寄越した。
「……頼むから余計なことしないでくれ、カロル先生」
「弱くないんだから、ちょっとずつでも飲めるようになれば楽しいのに」
 ユーリの眉間に皺が寄るが、ボクの言葉は否定されなかった。のろのろと上体を起こしてカップに手を伸ばしながら「ジャム――……苺」、と色々と足りない言葉を視線も合わせず投げられて、彼なりの譲歩に苦笑をこらえながらボクは椅子から立ち上がった。

 

 


ユーリは名前の所為かルシアンティーが好きそうだなぁ、とか。
(20081227)






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最終更新:2008年12月27日 03:39