橋天東地演義213年赤壁の戦い 1話

橋天東地演義
213年 赤壁の戦い第1話


四海を制した袁紹は関係の拗(こじ)れた曹操に牙を剥き、

華北へ攻め入った。

初戦は白馬※津(はくばしん)で激突した。
※津(しん:港を意味する。焼津、津など倭国にも見られる)

白馬津では袁紹の先鋒、イケメンの顔良が猛攻をしかけ

曹操軍劣勢であったが、曹操に敗北し逃亡した劉備の家族を守る為に

曹操軍麾下に組み込まれた関羽雲長が混戦の中、顔良を討ち取った。

また、袁紹軍の猛将、文醜は数で勝るも曹操に敗北し、

曹操軍は機先を制したが

40万とも言われる大軍を前に曹操軍は本拠の許昌まで退くしかなかったが

防戦から一転、活路を見出し袁紹軍を撃退。

そのまま追撃し、袁紹は悶死、残る三兄弟も仲違いし滅びた。

曹操は中原と華北を制し、近隣の騎馬民族は郭嘉、張遼、夏侯淵により

服従し、曹操は南に居座る劉表、江東に孫策に目を向けた。

西の馬騰率いる涼州軍閥は馬騰自身が人質となり曹操に服従した。

行方不明であった劉備は袁紹に味方し

曹操を挟み撃ちで袁紹と攻撃していたが

曹操配下の曹仁に敗れ、劉表の下へと落ち延びていた。

劉表は劉備を曹操軍にぶつけながら裏では曹操と和平交渉を進めたが

劉備は期待を裏切らずあっさり敗北。

劉表は病死し、劉表の跡継ぎの

劉琮(りゅうそう)は期待を裏切らずあっさり降伏。

慌てた劉備は更に南へ逃走、逃亡を企てる。

しかし、劉表の下で暮らしていた劉備は劉表の治めていた

荊州(けいしゅう)の兵士や民に曹操の悪口を言いまくっていたので

人民は曹操を恐れ、劉備についてきた。

この時劉備は、「自分は管仲(かんちゅう)や楽毅(がっき)に並ぶ名将だ」と自負して自惚れていた

諸葛(しょかつ)名を亮(りょう)、字を孔明(こうめい)を軍師に迎えていた。

諸葛亮は「民を盾に逃げりゃ、にげれるっしょ?大将」と助言した。

劉備はほんまそれ!と声が出そうになったが押しとどめたが

張飛が「策はあいつが勝手にやって兄者は知らんかったで良いじゃねぇか」と

助言した。

劉備は絶体絶命のピンチをこの策で乗り切ろうとした。

実際、どの記述にも劉備と一緒に逃げた荊州の民の行き場所は描かれていない。

劉備は民を盾にして最後は船で逃げたのは明白である。

必死で逃げる劉備に一人の男が近づいた。

孫策の配下の魯粛(ろしゅく)子敬(しけい)である。

魯粛は孫策配下の軍師、周瑜(しゅうゆ)公瑾(こうきん)の名を受け、

劉備と謁見しにきた。

汗、鼻水と泪を流しながら逃走する劉備は「た!助けてくれ!!」と

魯粛に泣きついた。

魯粛は「この先にある船団で江東へ落ち延びなさい」と案内した。

劉備軍は関羽、張飛、趙雲、糜竺、糜芳など主力は健在であったが

劉備の第一夫人は死んだ。

魯粛は「夫人を亡くされてお気の毒です」と声をかけたが

劉備は「生きてる夫人もいるし、俺が生きてりゃ夫人は作れる」と胸を張った。

魯粛は劉備を殺そうとしたが周瑜の命だという事を思い出した。

しかし実際、魯粛は昔、荒くれ者で弓を弾いては盾を射抜く剛力の持ち主で

名が通っていたので、できない事も無いのは伝えておこう。

曹操は劉備を荊州から追い出し、制覇した。

そして曹操は孫策に対し、降伏状を送った。

孫策は父の後を上手くまとめ、

幾度か北上して曹操を狙ったが、曹操の荒らした徐州の地へ軍を進めれば

飢民や賊等が襲ってきてなかなか戦果を上げれなかった。

そこでこの降伏状だが、孫策は大笑いし

孫策「はっはっはっ、曹のジジイが笑わせるわ!

   皆を集めよ!橋天東地のI'llらも呼べ!」

そして橋天東地に孫策からの使者がきた。

つづく

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最終更新:2013年09月15日 14:16
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