空海

生い立ち

幼名を『真魚』(まお)と言い、宝亀五年(西暦774年ごろ)に四国の讃岐(現在の香川県・善通寺辺り)に生を成す。父方は佐伯氏と言う豪族、母方は阿刀氏と言う渡来系の家柄で、幼い頃から信仰深く学問に秀でていており、神童として尊ばれた。
791年頃官吏になることを目指し、都へ渡ったが大学で学ぶ学問に疑問を抱き、大学をやめて私度僧となる。山間修行(修験道)に明け暮れ、虚空蔵菩薩の真言を一万遍唱えると言う修行(虚空蔵菩薩求聞持法)を、四国の室戸岬で行い、明けの明星が口に飛び込むと言う体験を受けたと、空海の著書である『三教指帰』に記されている。その後久米寺が所蔵していた、密教の重要経典である『大日経』(大日如来を本尊とした経典)と出会い、唐(中国)に渡ることを決意する。
(唐に渡るための経緯や費用は謎が多く、母方の叔父で伊予親王の講師を務めていた阿刀大足の尽力、奈良仏教界の推挙など諸説がある。また、山間部を渡る間に水銀の鉱脈を探し当てたとされる説もある。当時、水銀は金と同等の価値で取引が行われていた。また唐語が堪能だったため、通訳としての立場で渡ったため、比較的簡単に唐へと渡ることが出来たと言う説もある。度蝶と呼ばれる『得度(国が認めた僧侶であると言う証明書)』を、空海は所持していなかった。しかし、後の研究では遣唐使に乗りこむすれすれに『度蝶』を入手したとあるものも存在している。)
三十一歳、遣唐使船に乗り込み唐に渡る(同じ遣唐使の中に、天台宗を開いた最澄もいた)。だが運悪く唐に渡る途中に嵐と遭遇、最澄を乗せた船は目的地から若干違うところではあったが無事到着。しかし空海を乗せた船は漂流の末、現在の福建省に流れ着く。当初、海賊船と疑われたが、空海が書いた書状『大使、福州の観察使に与うるが為の書』によって遣唐船と認められたとの逸話がある。
福建省から陸路で西安に赴いた空海は、醴泉寺の般若三蔵に梵語・梵字(インドの語学)を学んだ後、当時、密教の第一人者であった青龍寺の恵果和尚より、密教を学び最高の位である『阿闍利』の資格と『遍照金剛(大日如来の意)』の名を得て帰国(遣唐使には、二十年と言う滞在期間が義務付けられていたが、空海は二年で帰国した。これは、当時としては大罪であるが、この後長い間遣唐使が出ることは無かった。そのため、空海がこの時帰国していなかったら、日本へ正当な密教は伝わっていなかったといわれている。またこの帰国は、彼に密教の全てを授けた後に死去した恵果和尚の遺言に従ったものといわれる。なお、帰国後、大宰府・観世音寺に留まっていた空海は2年後に入京が許されたが、これを支援したのは最澄であるといわれる。また三筆の一人としてあげられる橘逸勢も貴族の間で空海の噂を広めていたともされる)。
空海が唐より持ち帰った文物は膨大な数で、帰国後の806年十月に、九州太宰府でそれら持ち帰った文物の目録を制作した。この目録を『御請来目録』といい、この目録の特徴は単なる目録のみとしての意味合いだけで無く、20年間の留学期間を切り上げた空海が朝廷側に提出した弁明書としても機能している事である。
しかし、当時国内での情勢は不安定で、新たに都を制定したばかりであり、一介の留学僧が書いた書状など見向きもされなかった。
だが、その目録の価値を見いだしたのは、空海より一年早く帰国していた最澄であった。当時最澄は国内で密教の第一人者となっており、己が唐で持ち帰った密教教典以上に価値のある文物が、体系立てられ整然としてその目録に書き記されていたためである。
最澄はこの『御請来目録』を書き写し、空海が都へと向かう許しを得られるよう働きかけたのでは無いかとされている(現存している東寺所蔵の『御請来目録』は近年まで空海筆とされていたが、鑑定の結果最澄の写しで有る事が判明している)。
810年、当時都は長岡京から平安京と遷都されて居たが、藤原薬子と藤原仲成らにより当時天皇の座を弟である嵯峨天皇へと譲った平城天皇を担ぎ上げ、再び平城京へと都を移し、政治に干渉するようになりなっていた。この騒動を『薬子の乱』といい、これをを治めんと和泉国槇尾山寺に移っていた空海は、不空が修法で治めた安禄山の乱に習い、都の北にある高雄山寺に入り、国歌鎮守のための修法を開始する。結果藤原仲成は逮捕、射殺され、藤原薬子は毒を飲み自殺した。また担ぎ上げられた平城天皇は出家し、後に空海の弟子となっている。
空海はこの騒動の後、仲成・薬子らの供養を執り行い、この『薬子の乱』は解決した。
835年3月15日 高野山にて『我兜率天へ行き、弥勒菩薩と共に、五十六億七千万年後に化生する』と残し入定、62歳であった。

空海誕生の地に新説

 現在空海の誕生地で、新たな説が発表され物議を醸し出している。
 新説では、空海誕生の地は畿内であると言う。
 戸籍上は空海(真魚)は讃岐の国(香川県)であるが、阿刀大足および空海の母親を含めた阿刀一族が畿内から瀬戸内海を越えたと言う記録が存在していない。
 また、当時空海の親権は母方にあった。
 そのため、現在では佐伯方が当時、貿易の拠点として、阿刀の一族の集落があった大阪住吉大社の近辺が、空海誕生の地ではないかとされる。

功績

 空海の功績として有名なのが、彼の生まれ故郷である讃岐で行った『満濃池』の工事が挙げられる。当時としては最新の土木建築技術を用いたこの工事により、水害などの被害は無くなり、大きな農耕地となった。その土木建築技術は現在でも評価が高い。
 また各地を巡り井戸や温泉を掘り当てるという伝説は、日本各地に残されている。
 さらに、貧しい庶民のため、どのような身分の者でも学ぶ事が出来、尚かつ授業料は無料で、衣食の完全給付制という理想を掲げた大学、『綜芸種智院』を開校し、仏教道教儒教?の総合的な学問の普及も行った(計画だけで実際に開校されなかったとの説もある)。
 さらに、日本で初めての辞書『篆隷万象名義』をまとめた。

大師となる

 空海の入定から86年後の921年、醍醐天皇より『弘法大師』の諡号を賜る。この裏には当時の醍醐寺の座主『観賢』の働きにより実現したもので、これまでに『伝教大師:最澄』『慈覚大師:円仁』といった天台宗の僧二人が大師号を賜っていたことに対し、真言宗の開祖である空海に大師号がないとして、敵対心からこのような働きかけがあったともされている。

大師入定伝説

入定とは、空海は今も高野山で深い禅定に入っており、衆生救済をしてくれているとされるもので、四国遍路など、後世に大きな影響力をもたらした。しかしこの伝説は、入定後、かなりの年月がたった後に言われ出した。その伝説を作り上げたとされるのは、小野流の開祖とされる『仁海僧正』が最初に記述したものであるとされている。
それ以前での記録、『続日本後記』や空海の弟子で東寺長者の実慧が青龍寺に送った手紙などには、空海が荼毘にふされた(火葬された)とうかがわせる記述があるという。
しかし、別の記録によると、空海に大師号が賜られた時、勅命で般若寺の観賢が高野山奥の院を開扉し空海の姿を確認したという。観賢の弟子である淳祐も一緒に中に入ったが、なぜか淳祐には霧に包まれて空海の姿が見えなかったという。そのため、観賢が淳祐の手をとって空海の膝にあてたところ、空海の体は温かかく感じられたとの逸話がある。なお、空海にふれた淳祐の手は、常に薫香がただよっていたと伝えられている。
また淳祐が書き記した教典にも、その薫香の香りが漂ったことから、淳祐の書き記した教典は『薫聖経(においのしょうぎょう)』と呼ばれ、国宝に指定されている。

信仰及び断罪

空海は「お大師さん」の名称で親しまれ、『秘鍵大師(般若心経秘鍵を説かれた時の空海の姿を描いたもの:病気平癒の御利益があるとされる)』『鯖大師』といった形で信仰の対象としても発展。長年にわたって民衆から広く信仰を集めたが、織豊時代のキリスト教宣教師からは大悪魔として忌み嫌われた。また、江戸末期から明治期にかけては、本居宣長をはじめとする国学者によって「日本に不純な思想を日本にもたらし根付かせた大悪人」と徹底的に断罪された。

詩人空海

 空海は漢詩の才も秀でていた。入唐で空海は馬摠と言う詩人と交流している。空海は馬摠を『大才』であると評価している事から、馬摠に対して尊敬の念を抱いていたとされる。
 しかし馬摠は、空海が即興で作った漢詩を見て、『なぜあなたは万里を越えてきたのでしょう。まさかその才能をひけらかすために来たのではないでしょう。ますます学んで仏教の真理を深めてもらいたい。あなたのような人はまれです』という意味の漢詩を読んだのだと言う。

【空海作 馬摠へ送った漢詩】
 蜀燭石磴  石段が危なくて人は行く事が出来ない。石が険しくて獣も登る事が出来ない。
 人暗嶮危  明かりも暗く、道に迷ってしまう。蜀の人であるあなたは明かりを得ることができない。
 不迷獣人
 得前無難  離合詞といわれ、一行目の文字と三行目の文字が、二行目と四行目の自を合わせて構成されている。
 火後登行


書家空海《空海筆》

○三筆(空海を含む漢字の見事な書家、空海と嵯峨天皇と橘逸勢の三人)の一人に数えられる空海は『篆書』・『草書』・『隷書』・『楷書』・『行書』の五つの書体を美しく見事に使う事が出来たため、『五筆和上』と唐で称され、かすれを用いた『飛白体』という書体を日本に初めて持ち込んだとされる。また、空海の書は五つの書体が時々に応じて入れ替わり、鳥や華を模した形の字まで混ざり合った独特の書を書いている。この書体の事を『破体書』と呼ばれている。

○風信帖:最澄に送った書状
三教指帰:若き日の空海の書
○灌頂歴名:空海の灌頂を受けた人物が明記されている
○崔子玉座右銘:前衛書道の手本とされている
○真言七祖像:肖像画の余白に飛白体で書かれている恵果不空・龍猛(龍樹)・龍智?金剛智?善無畏一行
○三十帖冊子:教典筆写のメモ書き
○益田池碑銘:象徴化された字体で書かれている

ことわざとなる

  • 弘法筆を選ばす:うまい人は道具にとらわれない例え(実際の空海は、風信書に「良い筆ではないが」と記しているところから、かなり事細かく選んでいた。また、朝廷に狸の毛を用いた筆を献上し、「良い職人は切れる刀を用いるべし」と、筆に関しては良い物を選ぶべきだと書状を贈った。そのため『弘法筆を選ぶ』ということわざも存在している)
  • 弘法も筆の誤り:京都の応天門の字に点を一つ書き忘れ、後から筆を投げつけ書き足した事からことわざが発生した。もしくは、空海の記した灌頂歴名には書き直し、訂正した箇所があるところから発生したともされる。
  • 大師は空海にとられ、太閤は秀吉に取られる
  • 犬は空海から一本の足を授けられた:空海は五徳、もしくは三本足の鳥から一本足をもらい、それを犬につけたとされるもので、この話は全国でも多く語られる。


空海の著作


三教指帰
十住心論
○即身成仏義:大乗仏教では、成仏するためには最低でも三劫という無限に近い時間を、修業しなければならない事に対し、密教では現世でわずかな時間で成仏出来ると説いた、空海の最も力を入れたとされる著作。
○秘蔵宝鑰:十住心論をコンパクトに要約した本 
○声字実相義:密教の言語感を示した書
○吽字義:真言の最後の言葉、吽字を分析する事により、真言の本質に迫る空海の意欲作
○弁顕密二経論:密教と顕教を比較し、密教の優位性を説く書
○般若心経秘鍵:『般若心経』を密教から見たもの。
○秘密曼荼羅教付法伝:大日如来から始まる真言宗の仏と祖師を説く書
○秘密三昧耶仏戒義:密教における戒律、三昧耶の方法を記した書
○教典注釈書
  • 大日経開題:『大日経』をまとめたもの
  • 金剛頂経開題:『金剛頂経』をまとめたもの
  • 真実経文句:『理趣経』の概論書
○大悉曇章:梵字(サンスクリット語)の音と表記をまとめた梵字解説書
○梵字悉曇母并釈義:梵字の紀元や陀羅尼の意義を説いた書

空海の伝説


  • 捨身岳に身を投げる
 空海が幼い頃、家からほど遠くないところにある捨身岳に登り、その上から飛び降りたとき天女が現れ、幼い空海を抱きかかえ地上に戻したため、空海は傷一つ追わなかったという。
  • 五筆和尚
 長安の宮廷で、書聖とまで評された王義之のしたためた書が書かれた壁が三つあったが、痛みが激しく修復のため塗り直し、真っ白になった壁を見て、皇帝は誰か書ける者は居ないかと声をかけたが、あまりにおそれ多かったため、誰も名乗り出る者は居なかった。その際、空海に声がかかり、空海は両手両足と口に筆を持ち、もとあった五行詞を一気に書き上げたため、その際五筆和尚の名を皇帝から賜ったと言われる。(これはあまり信憑性がない。元来五つの書体を使いこなしたため、その名を賜ったとされるが、後にこのような勘違いが起こったのではないかと言われる)
  • 飛三鈷杵
師の恵果が「一刻も早く日本に帰り、密教を広めよ」と遺言を残したため、二十年という滞在期間を二年に切り上げて帰国する空海は迷っていた。その際「密教を伝えるためふさわしい場所を示したまえ」と、三鈷杵に願をかけたところ、三鈷杵は日本めがけて飛んでいったとされる。
 後、空海は朝廷から高野山を賜り、密教修業の道場にしようと山に入ったところ、そこで松の木に引っかかっている自らが投げた三鈷杵と再会した。
 現在松は『三鈷杵の松』と呼ばれ信仰の対象とされている。また、三鈷杵自体も国の重要文化財として保管されている。
  • ヒマラヤの竜神を呼ぶ
 朝廷から雨乞いの命を受けた際、東寺の空海と西寺の守敏との法力比べが行われた。守敏はわずかに雨をふらしたが、空海は七日間もの間祈り続けたが、全く雨はふらなかった。不思議に思い空海が調べたところ、守敏は竜神を水瓶に封じ込めていた事が判明した。そこで空海はヒマラヤから善女竜王を呼び祈願したところ、三日間全くやむことなく、雨が降り続いたという。
 空海が真言密教をひろめようとしていたところ、天皇からの誘いで宮中での議論の席に呼ばれた。しかし空海の行法は他の門徒の教えと異なり、又複雑であったため、だれも理解できず、空海を批判する声もあがった。そこで空海は大日如来の印を結ぶと、空海の身体は金色の光を放ち、ついにはそこに大日如来が現れたとされる。天皇はあわてて玉座から離れてひれ伏し、他宗の門徒も拝み拝したとされる。


etc

参考

新紀元社 密教曼荼羅
ナツメ社 仏教
ナツメ社 空海
http://www1.odn.ne.jp/fukurai-psycho/text/nkoubou.htm
http://www6.ocn.ne.jp/~kanpanda/kukai.html

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最終更新:2009年07月30日 18:54