拍手log09、log10の続きです。

 


 

 

テイレシアースの怪 Ⅲ 怒られた

 

 バターの芳ばしい薫りが漂う。ユーリのテーブルの上には、手付かずのカリカリに焼いたベーコンの添えられたスクランブルエッグとコールスローサラダ、冷めたトーストと絞りたての果汁そのままのジュースが並々と注がれたグラスが並んでいた。
 昨夜は遅くに宿に転がり込んだ為に夕食は食べそこなったが、朝こそは据え膳にありつこうと皆必死なようだった。ジュディスなどはユーリたちが食堂に現われた頃には、優雅に食後の珈琲を飲んでいた。そして変わり果てたユーリとレイヴンの姿を一瞥すると、ポットに手を掛けて艶やかに言った。
「貴方たちも如何?」
 炎に巻かれて食道まで焼け焦げたらしいレイヴンは声にならない声で辞退したが、朝起きたら付いている筈のものが姿を消し、付いていない筈のものがぶら下がっただけで他に特に不具合を感じなかったユーリはその申し出を素直に受けた。
 空きっ腹に良くない、とフレン辺りに言われそうだな、と思いながら(現に言われたことは、一度や二度ではないが)ユーリは黒く、なみなみと注がれた珈琲を啜る。朝から色々あったお陰でしっかりと目は覚めていたが、それでも舌の根を刺激する苦味に覚醒が意識された。
 珈琲――と、いうか茶葉の類いで煎れた飲用物にしても、甘味の付け合わせに接種する機会の多いユーリには、砂糖やミルクを混ぜるという意識は薄い(折角の甘くて美味しい菓子は、他の甘みを差し引いて純粋に楽しみたい!)。なのでジュディスに手渡された珈琲にも特に何を混入することはなかったが、如何せん朝食もまだなので口寂しくユーリはシュガーポットを手繰り寄せて角砂糖を立て続けに三つ、口の中に放り込んだ。
 それから、行儀悪くテーブルに腰掛けていた(こちらも何度フレンに指摘されたとも知れない)のを、突っ伏したまま微動だにしないレイヴンの隣の椅子に座り直し、ジュディスに朝食の内容を訊いた。サラダとブレッド、それから卵料理を好きに注文出来ると聞いて、ユーリはスクランブルエッグを、隣で二人の会話を聞いていたレイヴンは厚焼き卵を頼むことにした。
 給仕の少女を呼び止めたところに、ジュディスと同じく既に朝食を済ませたエステルとパティ、そして寝癖をすっかり直したリタと心なしかリーゼントに元気のないカロルが現われた。エステルとパティは、カロルかリタ辺りに事態のあらましを聞かされていたのか、珈琲を啜りながら軽く手を振るユーリに驚きの表情のようなものを見せることはなかった。ただエステルは無理に笑おうとして失敗したような引きつった顔で「おはようございます」と小さく言った。
「おう、おはようさん」
 調子はそのままに、男性より明らかにトーンの高い声音で返せば笑顔を取り繕うことも儘ならない、と言わんばかりに今度は泣き出す寸前のような顔でエステルはうなだれてしまった。レイヴンも似たような反応をしていたが、彼のそれより遥かに申し訳ない気持ちにさせられる。人徳だな、とユーリは申し訳なさの隣に添えた。
 あらかじめ顔を突き合わせていて事の次第を知っている筈のカロルは、何故か部屋に入ってきてからずっとユーリと目を合わせようとはしない。エステルのような動揺はないようだが、露骨に避けられている。面白い。後で一緒に風呂でもどうだ、と誘ってみよう、とユーリは思った。あの子供がどんな答えを返そうと、どうせそこかしこに女性陣の目が光っている。
 そしてパティだ。光っている、というよりは部屋に入るなり目を輝かせてユーリの方へとにじり寄ってきた。麦穂のように跳ねる髪が朝日を照り返してきらきらと煌めく。
「リタ姐の言った通りだの~。本当にユーリに乳が生えているのじゃ!いいのう。美乳じゃ!巨乳じゃ!」
「まぁな。でも、自分に付いてるとやっぱ嬉しさもありがみも半分以下になんのな」
「なぁに、心配は無用だそユーリ。例えおなご同士であっても、愛さえあれば歳の差と同様、性別だって越えられるのじゃ。責任を持って、うちが娶ってやるからの」
「何の責任だよ……まあいいや。それは最終手段ってことにしとくわ。一応、これでも結構ビビったしなー、最初は」
 おもむろに胸元へと伸ばされた少女の手を避けながら言うと、テーブルに右頬を押し当てたままレイヴンが「またまた~」と呟くのが聞こえる。だが、その先に言葉を続けるつもりはないようだった。続く言葉がないのではなく、敢えて押し留めるに至った彼の心情と、素知らぬ顔で寝癖を気にしている魔導師との差異にユーリは奥歯を噛み締めて笑いを堪える。
 何だか、今日はそんなのばかりだ。そこで今日初めてリタとまともに目が合った。何だかんだと先程は騒がしくて(と、いうか彼女が忙しそうで)言葉を交わすどころか、朝の挨拶すらしていない。
 親しくはあるが、同時にそう畏まった間柄でもない為(勿論それはこの場に居合わせる仲間全てに言えることだ)ユーリは挨拶一つ程度然して気にもしなかったのだが、彼女は視線が交わるや否や深緑の瞳を不機嫌そうに細めた。
 顎を若干突き出して、大股にユーリへと歩み寄ると手の中の珈琲を奪われる。中途半端に飲みかけたぬるい中身が、ユーリの指先を濡らして遠ざかった。勿論、彼女からの謝罪はないし、ユーリも期待はしていなかった。
「ちょっと!データ取りたいんだから、胃の中は空にしておいてよね!」
「そりゃ悪かったな。でも、もう手遅れだ」
 カップを取り戻そうと座ったままリタへと手を伸ばすが、立ったままの彼女は肘を引いてユーリの手を躱す。
「あのなぁ……」
「ほんとは真っさらな状態でデータを採取したかったけど、この際仕方ないわ。取り敢えず、これ以上胃の内容物を増やさないようにして……胃洗浄もした方がいいのかしら?あー……でも、こういうのは時間との勝負なのよね」
「聞けよ、人の話……」
 耳に届いていないだろう、と分かってはいたが呟かずにはいられなかった。
 それから一刻程ユーリはリタに拘束された。騎士団時代を彷彿とさせる身体検査が一通り終わって解放される頃、ユーリの朝食はすっかり冷めて、エステルたちまで食後の紅茶を飲む始末だった。
「で、結局原因は何だったのさ?」
 レイヴンやジュディスの飲む珈琲が苦過ぎるせいか、カフェオレを啜りクリームの付いた口でカロルが訊いた。
「あのなぁ、オレ今やっと朝食にありついたとこなんだぞ?ちょっと落ち着かせろって。せっかちだなあ、カロル先生」
 これがフレンやレイヴン相手なら、早漏は女に退かれるぞ、くらい付け加えてやるのだが如何せん相手はカロルだ。体格からして精通も未だだろう勇ましき未完の太刀を微笑ましく思いながら、ユーリはそっと言葉を切り、代わりに「オレって大人だな」と呟いた。
 カロルの露骨に怪訝そうな視線を躱すようにして、ユーリはくたびれたベーコンにフォークを突き刺しに掛かる。時間が経っているせいか、微妙にてこずった。
「リタはまだ検査結果の検証中です?」
「ん?ああ、多分な。でもそう時間掛かるもんでもねぇっつってたし、ここで待ってりゃいいんじゃねぇの」
 訊ねておきながら返答を待たずに腰を浮かせ掛けるエステルに、ユーリは苦笑混じりに言った。ユーリの身体を心配して、というより研究に没頭すると食事も睡眠も忘れてしまう友人の性質を思っての物言いだ。フレンも似たようなとこあるからな、とユーリは綺麗さっぱり自分のことは棚上げして他人事のように思った。
「そうよ、エステル。それに貴方、さっきあの子に軽食を持っていったばかりじゃない。あんまり邪魔しちゃ悪いわ」
 そういえば検査中に一度エステルが顔を見せた。手には彼女が一番最初に覚え、そして最も得意とする料理であるサンドイッチとミルクの注がれたコップとが乗るトレイがあった。軽食というよりその場で朝食を済ませられるように、というリタの性質をよくよく理解した心遣いはどうやらジュディスの入れ知恵だったようだ。
「どうりで、オレの分がなかったわけだ」
「ユーリの?」
 ことりとエステルは小首を傾げる。ユーリはそんな彼女の反応に、口の端が吊り上がるのをトーストを噛ることで誤魔化した。
「腹減ってんのはリタだけじゃねぇのに、エステルはオレの世話は焼いてくれねぇのな」
「ち、違いますユーリ!ユーリと違って、リタは何かに夢中になると食事を忘れがちだから……」
「こっちは謎の検査だ何だって言われて水しか飲ませてもらえないっつーのに、目の前でメシ食われる身になってみろよ」
「そ、それは……その……」
 今にも席を立ちそうだった勢いは削がれたが、そのまま意気消沈してうなだれる少女に、やり過ぎたかな、とユーリは胸中で舌を出す。二人のやりとりを微笑みを湛えて眺めていたジュディスに目配せを寄越せば、仕方がないわね、といった風体で彼女は肩を竦めて艶やかに笑みを濃くした。
「でもユーリ、貴方既に食事を頼んでいたじゃない。少しぐらい我慢して、ここでゆっくり落ち着いて食べた方が美味しいわ」ユーリに言い聞かせる、というより完全なエステルの援護射撃だがそれでいい。「折角、久しぶりの宿屋の朝食だもの。ね?」
 同意を求めるというより、こんな感じでいいかしら、と指示を仰ぐようにジュディスは語尾を上げた。ユーリは彼女の視線に顔を背けて、コールスローサラダをフォークで掬った。
「ま、そういう考え方もありかな」
 言ってから、フォークを口に運び咀嚼をする。そう短くない時間、放置されたサラダはキャベツやニンジンの歯ごたえが微妙に残念なことになっていた。だが、ジュディスの丁寧な対応に満足していたユーリはあまり気にせずサラダを頬張り続けた。
 程なくして渦中の一人である少女が、鳶色の髪を翻して現れた。彼女の手にしたトレイの上の小皿は綺麗に片付いており、その様子を見留めたエステルが嬉しそうに部屋の入り口まで出迎える。
「リタ!ちゃんと食べてくれたんですね」言いながらエステルはリタの持つトレイを手にした。「何か分かりました?」
 付け足すような彼女の問いかけに、そうだよなフツーそっちが先だよな、とユーリは思った。思ったけれど口にはしなかった。口に出すと悲しくなる気がしたからだ。
 リタはエステルの言葉に少し詰まるようにして、小さな声で礼を言うと改めてユーリへと向き直った。
「さて、と……結論から言うわね」
 空いていたユーリの向かえの席に着くと、リタは極軽い調子で口を開いた。その横ではジュディスが珈琲に砂糖とミルクを入れてスプーンを回している。至れり尽くせりだな天才魔導師さま、とユーリは胸中呟いた。
「あたしの見立てでは一過性のものね。遅くても日付が変わる頃には元に戻ってるんじゃない?」
 軽い口調同様、中身も大層軽い結果だった。
「そんなとこだろーな」
 予想通りの彼女の言葉に、ジュースの注がれたコップに唇を寄せながら頷く。根拠があったわけではないが、今朝のあの唐突さを思うに、頭を悩ませたり驚いたりしている暇のない落ち着きのなさの感じさせる患いだという確信はあった。それを今更順序だてて肯定されたところで、矢張りユーリはハイそーですか、と肯定で返す他ない。
 ユーリの隣で一人不満の声を上げる中年は、二回り近く歳の離れた少女の一瞥で口をつぐんだ。
「それよか、何が原因でこんなことになったんだ?最初は変なモンでも食ったのかとも思ったんだが、それだとオレ一人だけ乳ぶら下げてるのはおかしいだろ」
 基本的にみんな食ってるモンは一緒なんだから、と付け加える。
「ぶら下げて、ってアンタ……まあ、いいわ。原因は、そうね……当て推論でしかないんだけど昨日は散々色んなエアルクレーネを回ったでしょ?そのせいなんじゃないかと思う」
「……何つーか、何でもアリなのな。エアルって」
 今度から、何か困ったことがあったら取り敢えずエアルのせいにしておこう、とユーリは思った。
「成る程の~。エアルとは、ヨミノアシロの棲み家よりもふかぁ~いものなのじゃ」
「アムリタ食ってピチピチになったパティといい勝負だな」
「これユーリ、乙女の秘め事をそう軽々しく口にするでない」
 指摘するわりに、パティの言い様も酷く軽い調子だった。
 ユーリとパティの言葉遊びのようなものに、リタは小さく溜息を吐くことで相槌を打つ。それから、いつの間にか用意されていたカフェオレを言及することもなく、当然の顔をして飲み始めた。エステル相手のときとはえらい違いだな、とからかってやろうかとも思ったが、彼女の横に座るジュディスが満足そうに柔らかく微笑んでいたのでユーリは言わないでおくことにした。
 カフェオレが熱いのか、両手で包むようにしながらコップを持つリタは、隣で微笑むジュディスやユーリの飲み込んだ言葉などまるで知らない顔で口を開く。
「根拠ならあるわよ」
 だから変な締め括り方しないで、と深緑のソウボウが細められた。
「エアルクレーネでソーサラーリングに機能が追加されたでしょ?そのとき、エアルの干渉で紋章が書き替えられるのにアンタの染色体も引き摺られたんじゃないか、ってとこ」
「YがXに?」
「そう、YがXに」
「うっわ……呪われてんじゃねぇの?」
「そ、そんなわけないでしょ!何てこと言うのよアンタ!」
 声を裏返して叫ぶリタから視線を外すと、ユーリは自身の左手を見やった。フォークを握る手には、今もキラリと煌めく小型の魔導器がある。
「じゃあ何か?オレじゃなくておっさんはめてたらおっさんに乳が生えてたのか?」
「ユーリ……ち、ち……ちち、って、その……もう少し別な言い方ありません?」
 いつの間にかトレイを下げて戻ってきていたエステルが、抗議の声を小さく上げた。
「おっぱい」
「そうじゃなくて!もう少しオブラートに包んで言って下さい!」
 駄目らしい。
「わーったよ。で?すぐに戻るって言われても、流石にいつまでも呪いの指環着けてんのは遠慮願いてぇんだけど」
 先刻のように苛め過ぎても面倒なので(次もジュディスのフォローが入るか分からないし)、早々に引き下がり話題を戻す。
「ユーリじゃなくたってヤだよ、そんな指環!」
「そうねぇ……おっさんも自分がおばさんになるのは頂けないわ~」
「んじゃまあ、いっそフレンに押し付けとくか?事情知らないわけだし、言わなきゃ分かんねぇだろ」
「ユーリ、鬼だね」
 正直なところ、事情を知っている、いないに関わらずこの面子で一番良心のようなものが痛まない相手を消去法で探っていったら、幼馴染みの顔が浮かんだ。
「だ、駄目ですそんな!フレンは今の帝国やヨーデルを支えるのに、なくてはならない存在です。いきなり女の子になってしまったら困ります!」
 オレがいきなり女の子になってしまう分には困らないんだな、とユーリは思った。少し悲しくなった。
「そっか?モテそうだけどなぁ、女騎士団長。何かこう、響きがいやらしいよな」
「あ~、分かる分かる。こう、ちょっと禁欲的なね、カホリとかがね」
「まあ。ユーリもおじさまも、そういうのが好みなのね」
 ジュディスに、不透明に美しい笑みを向けられてユーリとレイヴンは口をつぐんだ。長くない沈黙のあと、慌ててレイヴンが懐いていた机から上体を起こす。
「ち、違う違う違ぁう!おっさん、ジュディスちゃんみたいなセクシーバイーンさんも大好きよ!寧ろ最高!」
「嬉しいわ」
「っつってもこのおっさん、野郎に張り付いた乳にも欲情出来るみたいだしな。あんまアテになんねぇぞ」
「それもそうね」
 同意し、微笑むジュディスの横で、とうとうリタが深い溜め息を吐いた。
「そこまで。いい加減にしなさいよ、アンタたち。ジュディスも。馬鹿な野郎共に付き合って、アンタまで馬鹿になってんじゃないわよ」
「あら、ごめんなさい」
「何よ~。リタっち、猥談は男の嗜みよー?奥様方の井戸端会議と一緒一緒」
「あたしは時間と場所とを考えろ、っつってんの。あと面子もね」
「私は別に構わないのだけれど……あまり男性同士のそういった会話を聞く機会もないし、楽しいわ」
 何がどうして楽しいのかは、深く追求しない方が良さそうだな、とユーリは思った。隣で乾いた笑い声を上げたレイヴンも、似たようなことを考えているに違いない。
「アンタは良くてもあたしらどん退きだっつーの!」
「そうかの?うちは色々と今後の参考にするつもりで興味深ぁ~く、聞かせて貰っておったぞ」
 ジュディスといい、パティといい、いちいち返ってくる答えが不穏極まりない。
「先ずはフレンをどう失脚させて、うちが騎士団長の座に着くか、からかの。う~む……海精の牙との両立は出来るかのう?」
「やめてやれって……」
「遠慮はいらん。うちの魅惑の女騎士団長、楽しみにしておれ、ユーリ!」
 一応止めてはみたが、矢張り彼女は聞く耳を持たないようだ。これ以上は言っても無駄、と早々にユーリはパティの説得を諦めることにした。
 そんな朝の清々しい空気とは一線を画した場所で、頭を抱えて俯いていたカロルが恐る恐るといった風体で顔を上げる。
「で、結局……ソーサラーリングは大丈夫なの?」
「え?あー……っと、そうだったわね、うん。前にも言ったけど、これ以上の機能の追加は完全にこの子のキャパ越えなの。だからもうエアルの干渉を受けることはないわ。因って、装着者に影響が出ることもない――残念なことに」
 大変物騒な一言でリタは締め括った。そんなに残念なら、今からでもリタがソーサラーリングを持てばいいのに、とユーリは思った。

 

 

 


 

 → 続いてます。

 

 

 

 

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最終更新:2010年04月09日 14:17