BFT妄想記

Hodiesh Apartment House





 僕の住んでいるこのアパートはいつでもヴァニラエッセンスの甘い香りがしている。
それはとなりのパティスリーから漂ってくる香り。ホディシュ・アパートメント・ハウスと呼ばれるこの建物はちょっと古いけど見晴らしだけは抜群にいい。今時風見鶏がある建物ってそうはないからBFTに来たらすぐにわかるはず。1階はかばん屋で、引っ越してきたばかりのときに買った僕のトートバッグは今でも健在で活躍中。大学まで各駅停車で6駅。

 大学まで各駅停車で6駅。
大学の友人たちはみな、なんでそんな遠い所にわざわざ住んでいるんだと不思議がる。だけど大学の周りはどこもみな、まるで飛ぶことを覚えたばかりの赤ちゃん蝙蝠の大軍がいるようにうるさい。わかってくれる人はあまりいないみたいだけどある種の人間にとっては静謐は時間よりもっと大切なものだ。このアパートは僕と同類の先輩が卒業して引っ越すときに教えてくれたところ。繰り返される僕らの伝統。

 繰り返される僕らの伝統。
この街で気に入ってるのは静かさだけではない。夜遅くまでさまざまな店がやっていて便利なんだ。いつまでも明るいのに静かな街。まったく矛盾しているけど、たぶんここに住んでいる人たちの住民性なんだろうね。この街で暮らしていると誰もがちょっとした不思議な能力とちょっとした秘密を持つようになる。本当にちょっとしたもので、レムライン氏のように壁通り抜けの技術を持つ人は少ないだろうし、誰がどんな能力を持っているかは知るすべもないけど。それはこの街全体の秘密。

 それはこの街全体の秘密。
鶏はどうやって明け方を知るんだろうって考えたことがあるかい?そして僕は鶏が鳴く5分前に必ず目が覚める。いつの頃からか僕に備わった能力。僕の小さな秘密。そして街がいちばん静まり返っている黎明のその時間に僕は至福の時を過ごすんだ。この時間こそが、大学の卒業式が終わって僕の後輩にここを明け渡す約束をいつまでも引き延ばしていた原因。それももう明日までの話なのだけれど。それでも鶏は鳴く。

 それでも鶏は鳴く。
朝、鶏が鳴く5分前に目が覚める。僕は暖かいベッドからそっと冷たい床に足を下ろす。ライオンを見つけたマサイ族でも真似できないくらいそっと。古びた木の床はちょっとしたことでも音をたててしまうからね。そしてそのまま川を見下ろせる窓に向かう。カーテンもつけていない窓の横ギリギリから外を見るんだ。何故かって?それは僕だけの天使に会う時間だから。天使は本当に儚く見えて少しでも音を立てたらいなくなってしまいそうだから。天使は静謐な時間を好む。

 天使は静謐な時間を好む。
僕のアパートの窓から旧修道院が見える。今はもう使われていない建物。誰も住んでいないはずのその建物。僕が起きてからきっちり1分後に美しき女神が姿を現す。女神って表現はあまり的確じゃないかもしれない。だってそれはどう見ても羽のない人間の女の子だから。彼女は昔映画で見たシスター見習いのような黒のエプロンドレスを着て、濃い色の髪を耳の下くらいでおかっぱに切りそろえた細い手足をした女の子。嵐の日も快晴の時も毎朝修道院の建物の裏側から出てきて東側の砂州に降りてくる。そうしてひざまづいてお祈りをしているように東の空を見上げている。夜明けの薄明かりの中で見るその姿は、本当に神々しいくらいにきれいなんだ。羽のない天使は空に帰れない。

 羽のない天使は空に帰れない。
鶏が鳴きはじめるちょうど1分前に彼女は修道院に戻っていく。その時になって初めて僕は、苦しくなるほど息を止めている自分に気が付く。吐く息の音でさえ、これだけ離れた距離でさえ、音を出して彼女の祈りをジャマすることはできない。それほどの静謐とそれほどの神聖な景色だから。毎朝きっちり3分間僕はその景色を堪能する。素晴らしい職人の手によって作り出されたからくり時計のような世界。世界は大きなからくり時計なのかもしれない。

 世界は大きなからくり時計なのかもしれない。
そのことに気がついたのは引っ越してきて1週間目のこと。レポートを書いていて徹夜して、気分転換に窓を開けて海を見ようと思ったのがきっかけだった。徹夜明けの僕の眼に飛び込んできたその光景はシスレーの一枚の絵のように、あるいはフランスの映画のように、鮮やかに飛び込んできた。女の子の顔は見えない。僕の窓からは髪が風になびいたときにあらわれる白い横顔と後姿しか捉えることができない。それでも消えていく月に向かって何かを祈る彼女の視線の強さだけは感じることができるんだ。羽のない熾天使。

 羽のない熾天使。
僕はそれ以外の彼女のことをまったく知らない。街で偶然出会ったこともない。その修道院は今はもう使われてなくて立ち入り禁止になっている。もちろん図書館に行って来歴も調べた。100年以上前に無人となってから誰も住んでいない建物。実はこっそり中に忍び込んだこともあるけど。どう見ても人が住んでいる形跡はなかった。がらんとした内部は窓枠や床にうっすらと積もったほこりがすべての音を吸収しているように静かで、彼女が出入りしていると思われる砂州へ降りる階段にも人の足跡はない。彼女は100年前の幽霊なんだろうか。どこから来てどこに帰るのか。

 どこから来てどこに帰るのか。
そう、僕は明日この部屋を出なければならない。本来の僕の居るべき場所へ帰らなくてはならない。そもそも本来の居るべき場所って誰が決めるんだろうね。でもとにかくここを出て次のステップに進まなくてはいけないことだけは確定しているんだ。からくり時計は止まらない。

 からくり時計は止まらない。
明日の朝、僕はどこにいるのだろう。あの絵画のフレームに入っているのだろうか。





text shinob

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最終更新:2009年06月03日 17:40