BFT妄想記

FENRIS HOTEL





「あーもう、いまいましいったらありゃしない!」

駅前広場からアーチウェイに行くほんのちょっとの距離で、彼女の履いているピンヒールはなんども石畳に足を取られる。その度に行き買う人の視線が気になる。

「今どき石畳なんて流行んないわよ!アスファルトにしてしまえばいいのに!」

歩きながらひとり毒づく彼女は、さっき特急電車で遠くの街からBFTについたばかり。
ここに来たいというわけではなかった。ただ逃げたかっただけ。仕事から、恋人から、自分を取り巻く何もかもから、ただ逃げたくて、金曜日のの会社帰りの駅で目についたポスターのある場所までのチケットを買ってしまった。

どこに泊まるというあてがあるわけではない。すでにやっかいな石畳からも逃げ出したかった彼女はアーチウェイと呼ばれる街のメインストリートに入ってほっとする。

「さてと、こんな時間に女ひとりで泊めてくれるホテルを探さなくちゃ。」

うつむき加減だった顔をあげると、右側に「フェンリス・ホテル」の看板が見えた。

「あそこから聞いてみよう。」

走ってくるの隙を縫ってアーチウェイを横切ろうとする彼女。小走りに渡ろうとしたが石畳で足元がおぼつかない。

「ホント、イヤになっちゃう!何もかもがイヤ。こんなとこまで来て何してるんだろう。」

ホテル前に着く。1階はカフェのある本屋のようだ。

「階段なの?もう1歩も歩きたくないのに!」

手すりにつかまるように階段を昇る。

「いらっしゃいませ。」

入口を抜けるとモダンな内装のフロントがあった。

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか?」

フロントの男がにこやかに尋ねる。

「いえ。予約はしていないんですけど泊まれますか?」

「はい。もちろんでございます。シングルがよろしいですか?もう少し広めのお部屋がご希望でしたらそちらもご用意できます。」

さりげなく渡されたのは料金表の入ったパンフレットだった。

「もしよろしければ、そちらのロビーでご検討されてからでもかまいません。お荷物はお預かりいたしますよ。」

会社帰りのまま来てしまった彼女の手荷物と言えば仕事のファイルの入った革の大き目のバッグひとつだけ。

「荷物は大丈夫。それではロビーをお借りして考えます。」

フロントマンに背中を向け、ロビーに向かう。ソファに座ってパンフレットを広げる。パンフによるとここはどうやら簡単な食事ができるような喫茶室になっているらしい。顔を上げ、従業員らしき人を視線で探す。ちょうど彼女を見ていた女性の従業員と目が合う。近寄ろうとしたその女性に

「コーヒーをお願いします。」

と声をかけ、パンフレットに目を戻す。

「宿泊代、意外に安いじゃない。観光地の駅前のホテルならもっとするかと思っていたわ。」

コーヒーが運ばれてくる。砂糖もミルクも入れないまま、パンフから目も離さずに繊細なカップを口に運ぶ。美味しい。一口飲んだ瞬間、顔をあげてあたりを見回す。

「やだ、こんなところでこんな美味しいコーヒーが飲めるなんて思わなかった。」

ひとりごちてからソファに深く座りなおし、今朝から初めて少しリラックスする。両手のこぶしを軽く握り、のびをするように上につきだす。そしてソファの上に投げ出すように下ろす。

「あーぁ。」

またカップを口に運ぶ。右手にカップ、左手にパンフレットを持ちながら、部屋を決める。
コーヒーを飲み終える頃までにはどのクラスの部屋を希望するかを決めていた。パンフをバッグにしまいフロントへ向かう。

「お決まりですか?」
「ええ。ツインのお部屋をシングルユースにしてもらってもかまわないかしら?」
「もちろんですとも。それではこちらにご記入をお願いします。」

差し出されたカードに名前を書く。一瞬架空の名前を書こうと思ったが、やはり自分の名前と住所を記入し、戻す。

「それではお部屋にご案内します。」

案内されたのは3階の公園側に窓がある部屋。シックなインテリアとベージュの壁紙に効果的な間接照明が好ましい。ボーイにチップを渡そうとする彼女。これは先ほどの喫茶店で準備していたものだ。

「いえ、こちらではそういうものを受け取るわけにはいきません。すべてのサービスは料金の中に入っております。それでは何か御用がございましたら、フロントまでご連絡下さい。ごゆっくりおくつろぎいただけますように。」

ボーイはそう言い、笑顔を残して部屋のドアを閉めた。

ドレッサーの椅子を引き出しバッグを置く。片足ずつ放り投げるようにピンヒールを脱ぐ。スーツのジャケットを脱いで椅子の背中にバサッとかける。そうして彼女はまるでダイブするかのようにベッドに身を投げた。

「あーぁ。なんでこんなことしちゃったんだろ。」

清潔なリネンの香りで肺を満たす。そのままぼんやりと外の明かりを眺める。しばらくしてからゆっくりと頭を起こし、窓の方を向いてベッドに座りなおした。窓の向こう側がほんのりと明るく見えた。ピンヒールは履かずにストッキングのまま立ち上がって歩いてカーテンを少し上げ、窓の外を覗く。

「あ、公園、ライトアップしてあるんだ。きれい。」

そのまま部屋の中を見て回ることにする。バスルームの横の洗面台には陶製のボトルに入ったかわいらしいアメニティが並んでいる。その横には真っ白でやわらかそうなタオルが準備されている。

「うわ、素敵。会社帰りで何にも持ってこなかったからラッキー。」

バスルームのドアを開ける。バスルームに据え置かれた陶製バスタブは磨かれた真鍮の猫足付きだ。

「すごい。なんてクラシック。こういうお風呂、一度入って見たかったのよね。」

部屋に戻り、ドレッサーの引き出しを開ける。お約束の聖書とこの街の観光ガイドパンフが入っていた。パンフを手に取り、再びベッドに身を投げ出す。

「ふぅん。いろんなところがあるのね。あら、まだデパートがやってるんじゃない。ずいぶん遅くまであちこち開いているんだわ。」

そのまま仰向けになり観光ガイドブックを眺める彼女。ひとしきり見終えた後で大きくため息をついた。

「はぁ。」

立ち上がる。ピンヒールに手を伸ばし、きゅっと足を入れる。そして腰に手を当てて天井を挑むように顔を向けた。

「よし!」

バッグからランチバッグを出し、財布とルームキーを入れ手に持つ。

「うん。まずはデパートに行って服と歩きやすい靴を買おう。そうして明日はこの街を歩きまわってめいっぱい楽しむことにしよう。」

彼女は部屋を出て廊下にピンヒールの音を心地よく残しながら歩きはじめた。

もう大丈夫。




text shinob

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最終更新:2009年06月03日 17:42