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創発

会話の意味

    

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 今更ながら「近頃の若いもんは」と呟いてみる。自分自身が一応若輩に含まれるのだが「国歌国旗論争」「言葉の乱れ云々」「徴兵制云々」といった話題について考えるに、自分はあまり世間一般の若者像とは合致しないようであると推察する。

 若者像などその程度、といってしまえばそれ迄であり、この理屈は強いと思うが、そうではなく自分と同世代の若者の内どれくらいが日本語を危惧しているだろうか。何も今から文豪を倣え、古式ゆかしき日本語をと声高に主張する事が本懐なのではない。寧ろただ問題意識の俎上で「考えているか否か」、そして考えに基づき実際に「取り組んでいるか否か」といった単純な性質を取沙汰したいのである。

 「近頃の言葉は乱れておる」や「言葉は変化するものだから」等は、いざ我々個々人の視点に立ち「言葉を使う者としての自覚」を議論する場合において、何の効力をも持たない文言ではないだろうか。我々が「言葉という道具をどう使うか」について考える時、その姿勢が問われ、姿勢は明快に手法として現れる。話術、敬語表現、文法……現代においても客観的なただ一つの回答は存在せず、篩は必ず使い手によって用意される。だからこそ確固たる志向を持たねばならない。精度の低い篩を通った言葉は本来の意思伝達という目的に関し鈍く、その効用は粗悪になる。のみならず会話の根底の議論を恵贈させる意味での挑発性を保有しないか意図せぬ不愉快などを生じさせ得る。

 相違なる意見を持つ人間の対話は交換を生む。何も生まないのならば残念ながら対話は失敗しているし、そもそも対話と呼べるだろうか。何にせよ前提は、確固たる意見や信念を持ちうるような頑健な精神である。自身の何がしかの感情に対する解釈が未だ明文化されていないとしても、感受の解釈は着実な手段を以て到達し得る。少なくとも到達し得るという信念は実現可能性を増大させる。強固な信念を形成せねばならないと、少なくとも私は感じる。