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★1993年

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1993年

宮沢政権崩壊

金丸事件の捜査から、不正献金事件が続々と上がってきて、PKOに続くもう一つの宮沢政権の宿題である政治改革で、いよいよ政権の尻に火がついてきた。小選挙区制度という方向性に、確実に議席が減る野党はもちろん、与党議員の間にも利害がからんで反対が多かったが、自民党はようやく93年4月に、単純小選挙区制の政治改革法案を提出した。社会・公明両党もそれぞれ小選挙区・比例並立の改革法案を出した。宮沢はテレビ番組で、この年の通常国会で「改革を必ず成し遂げる」と見得を切った。
ところが、梶山幹事長はじめ自民党執行部にまたも先送りの空気が出て、改革法案は廃案の雲行きとなってきたところから、野党は内閣不信任決議案を6月18日に提出した。自民党内からも羽田派を中心にこれに同調する造反議員が続出し、内閣不信任は可決されてしまった。宮沢は、同日衆議院を解散し、国民に信を問うという選択に出た。
羽田派は6月23日に集団離党して新生党を結成。また、武村正義が率いるグループは内閣不信任案には反対票を投じたものの、新生党結党より早い21日に新党さきがけを結成した。

第40回衆院選と政権交代

7月18日投票の衆院総選挙は、自民党が大量の離党者を出したにもかかわらず意外に善戦し、現有議席から2議席増の232議席を獲得したが、過半数を大きく割った。新生党は55、日本新党は39、さきがけは13と躍進し、公明党も前回の失地を回復する52議席を獲得した。一人負けしたのは社会党で、137議席を77に減らしたのである。
野党諸党派はまとまっていたわけではないので、比較第一党である自民党執行部は、この選挙結果を見て、連立成立を楽観していた。宮沢はまだ政権に未練があったが、党内の大勢が新たな首班の下での連立政権を望んでいた。呼び声の高かった後藤田に後継を拒絶されると、宮沢は総裁の椅子を河野洋平に引き渡した。
水面下で、キャスチング・ボートを握る日本新党と新党さきがけをめぐる、自民党と新生党小沢の綱引きが行われた。小沢の政権奪取へ向けての工作はすさまじかった。日本新党の細川党首を首班とする非自民7党(社会、新生、公明、日本新、民社、さきがけ、社民連)1会派(参院の民主改革連合)の連立をまとめ上げ、8月9日、細川政権を成立させたのである。
自民党は、1955年の保守合同による結党以来初めて、下野した。

細川 護熙

細川護熙(もりひろ)は、1938年(昭和13年)東京生まれ。
肥後熊本藩主だった細川家当主細川護貞と、近衛文麿元首相の娘との間の長男。上智大学法学部卒業後、朝日新聞社記者を経て、69年の衆院選に熊本1区から保守系無所属として初出馬し落選。71年の参議院議員選挙で自民党公認で全国区から出馬し初当選、田中派に属する。次の参院選で熊本地方区に転じて当選し、大蔵政務次官を務めた。その後、熊本県知事に全国最年少の知事として当選。知事時代は、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進、地方分権をさかんにアピールして全国的に名前を知られるようになった。3選も確実視されていたが、「権不十年」を唱えて勇退。
「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務め、92年、文藝春秋誌上で発表した論文で、政権交代可能な保守の二大政党制の樹立を訴えるなど、常に政治ジャーナリズムをにぎわしてきた。
92年に日本新党を立ち上げ代表に就任、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年参議院選挙で、初陣の日本新党は、細川を含めてミニ政党としては過去最高の比例区4議席を獲得した。そして今回の衆院選で、日本新党は躍進し、細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選した。
この選挙では、細川は、新生党を指して「改革派と称しているが、今まで自民党の中枢にいたいかがわしい人たち」と批判していたが、選挙後、「自民党を政権から引きずり下ろすためには悪魔とも手を結ぶ」と述べ、小沢からの要請で非自民連立政権の首班となることを受諾した。このとき55歳であった。
非自民政権への期待と、細川首相自身の清新なイメージ(田中角栄首相就任時の54歳に次ぐ若さ、知事を経てきた異例の経験と発信力、メリハリのきいた話し方など)が受けて、内閣発足直後に行われた世論調査では内閣支持率は軒並み7割を超え、史上空前の高さとなった。(この記録は後に小泉内閣によって塗り替えられるまで保たれることになる。)

政治改革法の成立

その成立の経緯からして、細川政権の最大の使命は政治改革の実現であった。
しかし、それは難航した。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、自民党へ譲歩して小選挙区の比重を大きくしたものの、自民党・社会党が参院で反対したため、94年1月に廃案となった。細川は、河野自民党総裁との党首会談で修正を話し合い、今までよりもさらに自民党案に近い、小選挙区300、比例代表200の並立制とする案を呑むことで合意を取り付けた。1月29日、長年にわたり何度も頓挫してきた選挙制度改革はようやく実現を見た。
民意を反映できないとして本来小選挙区制に反対していた社会党や公明党などは、世論の、まずは改革あるべし、という圧力を受けて賛成せざるを得ない状況であった。

ウルグアイ・ラウンド

細川政権には、喫緊のもう一つの課題が生じた。それは、93年末に決着したGATTウルグアイ・ラウンドの合意に従い、日本の米市場を開放することであった。政府は、米国内消費量の4~8をミニマムアクセスとして段階的に輸入し、6年後に輸入自由化することを決断した。自民党政権下で長年の懸案でもあったコメ市場の部分開放であった。

田中角栄死去

12月16日、田名角栄が75歳で病没した。ロッキード事件での失脚後、影の権力者として政界に君臨し、復権を狙ったものの、85年に脳梗塞で倒れ、ついに第一線に復帰することはかなわず90年1月の衆院解散により政界を引退していた。衆議院議員勤続43年、当選16回。新潟県内に張り巡らした越山会組織は、「田中王国」と呼ばれたが、死後次々に解散した。後継者は娘眞紀子で、93年の総選挙で父の選挙区から無所属で当選、後に自民党へ入党した。ロッキード事件は上告審の審理途中で、角栄の死去によって公訴棄却となった。(95年、ロッキード事件丸紅ルート裁判で最高裁が上告を棄却したため、田中の収賄という事実認定は確定した。)
良くも悪しくも昭和を代表する政治家として人びとの記憶に残る政治家であった。

作成日: 11/01/10
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