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★1989年

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天皇の死と昭和の終焉

 89年1月7日午前6時33分、天皇は十二指腸乳頭周囲がんのために87歳で死亡した。ただちに皇太子明仁が即位し、政府は新元号を平成と決定した。
1月24日、大葬が行われ、外国元首ら要人多数が参列する中、63年間つづいた激動の昭和時代は幕を下ろした。

リクルート政局

2月から3月にかけて、江副浩正リクルート会長、真藤恒NTT元会長、加藤孝元労働事務次官らが相次いで逮捕された。国会では、野党がリクルート問題の追及を強め、中曽根元首相の証人喚問を要求、国会は空転し、年度内に予算が成立せず、暫定予算を組んだが、それでも予算成立のめどが立たなかった。ついに、竹下首相本人が、89年4月の3%の消費税導入を見届けてから辞意を表明、6月に内閣は総辞職した。

宇野政権誕生

後継総裁選びは難航した。宮沢、安倍、渡辺らニューリーダーは皆リクルート事件に関係していたため候補に上らなかった。党内では、清廉のイメージが高い伊東正義総務会長を推す声が高まり、竹下は自ら伊東に出馬を要請したが、伊東は、「表紙だけ替えても中身が変わらなくてはダメだ」と固辞した。結局、竹下と党四役の話し合いで中曽根派の宇野宗佑外相に白羽の矢が立ち、両院議員総会で総裁に選出された。宇野は、派閥領袖でない者として初めて総裁になったのであるが、カネにまつわるウワサもなく、俳句をよくする文人政治家として評判をとっていた。自民党は彼にリクルート事件で地に落ちた党のイメージアップを託した。
外務大臣-三塚博、大蔵大臣-村山達雄、内閣官房長官-塩川正十郎。党幹事長には橋本龍太郎。

ところが、宇野政権誕生(6月2日)直後に、週刊誌で、元芸者が宇野首相との過去の交際を暴露、テレビのワイドショーが飛びついてスキャンダルとなった。


参議院選挙

7月23日投票の参院選では、自民党は人気失墜の宇野を隠し、宇野は出陣式の挨拶をしただけで一切応援に姿を見せなかった。しかし、結果は自民党が38議席という惨敗であった。社会党が、反消費税と土井たか子及び彼女が擁立した女性候補、いわゆる「マドンナ」ブームに乗って、52議席を獲得、さらに初めて独自候補を擁立した連合が11議席を獲得した。他の野党はマドンナブームにわりをくって議席を減らしたが、参議院は、自民党の過半数割れとなった。宇野は翌日辞意表明した。首相在任期間わずか68日であった。

海部政権誕生

宇野総裁の後継として竹下派による白羽の矢が立ったのは、河本派の海部俊樹文相であった。海部もまた宇野と似てクリーンでインテリのイメージがあったし、弁舌さわやかでで風貌も若々しかった。両院議員総会で、二階堂グループで宮沢派支持の林義郎、無派閥の石原慎太郎を退けてすんなりと総裁に決まったが、首班指名では、与野逆転の参院で土井たか子が選ばれ、両院協議会を経て、衆院議決の海部首相に落ち着いた。
海部政権の人事を仕切ったのは、幹事長に選ばれた竹下派会長代行・小沢一郎であった。

「(三役決定直後)小沢のほか小渕恵三など竹下派の人間が四~五人、幹事長室の奥の個室にどかどかと入り込み、何と一斉に組閣作業を始めたのである。部屋から次々と各派に電話をかけては、了解を取りつける。いわゆる「よびこみ」だ。あっという間にも内閣の大枠の体制は固まり-----。
この間、新総裁は何をしていたかと言えば・・・・・・のんびりと幹事長室の応接椅子に座り、次々やってくる代議士たちの祝いの挨拶にご機嫌そのもので応接する。隣の部屋の組閣作業にタッチする気配は微塵もなかった。」(奥島貞雄「自民党幹事長室の30年」p214)

内閣は、外務大臣-中山太郎、大蔵大臣-橋本龍太郎、内閣官房長官-山下徳夫という布陣であった。


小沢幹事長

小沢一郎は1942年生まれで、このとき47歳、政治の師匠・田中角栄が幹事長に就任したのと同じ歳であった。
父佐重喜(さえき)は、岩手県水沢市出身で、馬車引きから苦学の末弁護士になり、政界に出た。運輸、郵政、建設などの大臣を歴任し、晩年は藤山派に属した。
一郎は東京で生まれたが、水沢に疎開し中学生までを過ごし、東京に移転、都立小石川高校、慶応大学法学部を出て司法試験を目指していたところ、父が急死、1969年の衆議院選挙に出馬して、27歳の若さで当選した。その選挙を党幹事長として仕切っていた田中角栄に従って田中派入り、竹下、金丸らの先輩に可愛がられて、順調に党の役職をこなしていった。
第二次中曽根内閣の自治相として初入閣。田中角栄が倒れたあと、竹下の創政会旗揚げに参加、竹下派の七奉行の一人と言われる実力者にのし上がっていった。竹下内閣では官房副長官を務めた。 
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