dunpoo @Wiki

★1986年

最終更新:

dunpoo

- view
管理者のみ編集可

死んだふり解散・総選挙

田中派に支えられ党内基盤の弱かった中曽根だが、審議会を多用して政策をあげさせてそれをトップダウンで採用する改革者的スタイルが国民の一定の支持を受け、85年の政局は奇妙に安定していた。中曽根は、田中という重石がとれたことを機に、解散・総選挙に出て一挙に自らの党内基盤を強化し、翌年9月に切れる総裁任期後の続投を画策した。
おりしも、85年7月に、衆院定数の不均衡が「違憲状態」に達しているという最高裁判決がでて、定数是正が政治課題となっていた。与党も野党も、公選法改正後の周知期間と国会会期を考え合わせると解散は不可能と考え、中曽根も解散の意思を捨てたように見せかけていた。ところが、中曽根は国会閉会後すぐに臨時国会を召集し、本会議前の議院運営委員会の席上、衆院議長に解散詔書を朗読させ即日解散するという奇策に出て、7月6日の衆参同日選挙を実現させてしまった。
中曽根は野党の追及に対し、大型間接税は導入しないと公約した。選挙結果は、自民党が300議席の大台に乗る歴史的大勝を博した。新自由クラブが解散して一部が自民党に合流したため、自民党は衆院で308議席を占めた。また、中曽根派は党内第二の派閥に伸張した。自民党は、両院議員総会で中曽根の総裁任期一年延長を決めた。
社会党は、同年の党大会でマルクス主義からの転換を表明する「新宣言」を採択し、「ニュー社会党」を標榜しての総選挙であったが、左右社会の合同以来初めて100議席を割り、85議席の惨敗で、石橋委員長が敗北の責任をとって辞任し、替わって土井たか子を党首に選んだ。

三大改革と売上税廃案

「戦後政治の総決算」をかかげる中曽根首相は、国鉄改革を含めた行財政改革、教育改革、税制改革を三大改革と位置づけていた。自民の圧倒的優位と党内基盤の強化を勝ち取った中曽根は、その仕上げに取り組んだ。
86年9月11日召集の臨時国会では、国鉄の分割・民営化関連八法案が提出され、野党のさしたる抵抗もなしに、11月に成立した。これによって、85年4月の電電、専売両公社の民営化につづいて、87年4月1日には「JR」が誕生することになった。このほか、安全保障室の新設など内閣官房の組織改編や新行革審の設置など、「行政改革」にむけての動きは着実な進行をみせた。 
教育改革の面では、臨教審が第二次答申が出され、のちに実現する初任者研修、大学入試共通一次などが提起された。
税制改革については、86年の末に「売上税」導入と「マル優」廃止を盛りこんだ税制改革大綱が決定された。「大型間接税反対」という公約を明らかに破るもので、世論は沸騰した。
96年2月に売上税法案が提出されると、全国で反対決議が相次ぎ、3月の参院岩手補選で売上税反対の社会党候補が圧勝(岩手ショック)し、4月の統一地方選では、福岡、北海道、神奈川で革新知事が誕生、県議・市議レベルでも自民候補の落選が相次いだ。国会では野党の反対が激しく、ついに売上税法案は廃案に追い込まれた。

内需拡大政策

日本は、米国から求められていた輸出抑制・内需拡大を実行するべく、経済対策を打った。中曽根首相の指示でできた、「国際協調のための経済構造調整研究会」が、報告書(座長である前日銀総裁・前川春雄の名前をとって「前川リポート」と呼ばれる)をまとめ、内需主導の経済への転換を提言したが、86年4月に行われた日米首脳会談で、首相はこのリポートの実行をレーガン大統領に約束した。

プラザ合意による協調介入の効果はめざましく、ドルは下がり続け、230円台から、1年後には 150円台までになった。急激な円高によって、輸出が激減し、当初「円高不況」に陥った日本経済であったが、経済対策と利下げの効果が現れて86年11月には底を打った(経企庁による景気回復宣言は87年7月に行われた。)
目安箱バナー