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★1985年

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創政会へ

復権への執念を持つ田中と、最大派閥でありながら総裁候補を出せないことで鬱屈する中派議員の間の溝は深まっていった。田中派議員は、自前の総裁候補として竹下登をかつぐ「創政会」を85年2月に立ち上げた。
田中はこれに激怒した。そのためか、直後、脳梗塞に倒れ、政界復帰は絶望的と伝えられる事態となった。

プラザ合意

レーガン政権は、景気浮揚を図って減税を実施し、その一方で物価上昇を抑えるため、FRBに通貨の供給をしぼらせていた。これによって金利が高騰し、ドル高に結びついた結果、輸出の不振と輸入の増加に見舞われ、財政と貿易の「双子の赤字」に苦しむようになった。特に、日本からの工業製品輸入に悲鳴を上げていた。
1985年9月22日、先進五か国の蔵相と中央銀行総裁が、観光客で賑わうニューヨークの五番街を見下ろす老舗のプラザ・ホテルで、極秘の会合を開いた。日本からは竹下蔵相、澄田日銀総裁が出席していた。この頃の為替レートは、およそ1ドル=240円。日本としては、米国の苦境を見過しにはできないが、問題はどの程度まで円高・ドル安に導くかであった。竹下は、米財務長官のべーカーと馬が合い、「円高は20%まで受け入れ可能と言っていた。(1)
各国は、ドル高是正の協調介入を強化することで合意し、日本の大蔵省は、早速9月24日からドル売り介入を開始した。さらに各国は協調利下げを実施し、ドル高への反転を阻止した。効果はめざましく、合意の内容が明らかになってからドルは急落(円は急騰)し、1週間で円は対ドルで10%以上値上がりし、210円台に。さらに、年末には1ドル200円台に突入した。
(1) 朝日新聞2013年4月29日「証言そのとき」元財務官行天豊雄インタビュー
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