dunpoo @Wiki

★1983年

最終更新:

dunpoo

- view
管理者のみ編集可


外交の転換

中曽根首相は、83年明け早々に訪韓した。日本の首相として戦後初の公式訪問であった。日韓間は、82年の教科書問題以来ぎくしゃくしていたが、首相は周到に訪韓を準備し、全斗煥大統領との間で「新次元の日韓関係」をうたう共同声明を出し、晩餐会では韓国語でスピーチするなど友好ムードを盛り上げた。
翌週には訪米、「日米は運命共同体」「日本列島を(対ソの)浮沈空母に」と発言。レーガン政権と一体になり東アジアにおける反ソ軍事同盟に積極的に関わる意思を鮮明にした。

ロッキード一審判決と83年総選挙

1983年10月12日、東京地裁は、田中の収賄を認め懲役4年の実刑判決を下した。野党は、田中の議員辞職勧告決議案を提出し、解散を要求した。中曽根首相は、野党と世論に押され、しぶしぶ田中邸を訪問し、「一人の友人として・・・助言」した。しかし田中に辞任の意志は毛頭なかった。国会は一ヶ月あまり空転した。首相は自民党への風当たりの強いこの時期の解散を避けたかったが、田中派幹部は野党と法案成立を条件に取引をし、11月に解散となった。
12月総選挙はやはり自民党の大敗となった。36議席を減らして250議席の過半数割れであった。しかしその中で、田中派だけは2減にとどまり、田中自身も無所属で立候補して過去最高得票で当選した。社公民がそれぞれ議席を伸ばした。
福田と三木は中曽根の退陣を求めたが、中曽根は、「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」という総裁声明で切り抜け、一方で新自由クラブとの連立交渉をまとめた。
目安箱バナー