dunpoo @Wiki

★1979年

最終更新:

dunpoo

- view
管理者のみ編集可

79年総選挙

79年4月、東京都知事選で自公民推薦の鈴木俊一が社共の太田薫を破って、12年間の革新都政に終止符を打ち、大阪府知事選では自社公民推薦の岸昌が共産推薦の現職・黒田了一を破った。
意気上がる自民党は、与野伯仲状態から抜け出すために、解散総選挙に打って出た(投票日10月7日)。ところが、期待に反して結果は自民党の前回につづく大敗で、選挙後無所属の10人を入党させてようやく過半数を確保することになった。大平首相は公約として掲げた「財政再建=一般消費税導入」を選挙途中から否定し、それが有権者の不信を買ったのである。
しかし、深刻なのはむしろ社会党であった。
社会党内では76年2月に江田副委員長が公明党書記長・矢野じゅんや、民社党書記長・佐々木良作と「新しい日本の会」をつくり、社公民連合の足場がためをはじめた。社会党内左派の社会主義協会などがこれに反発、77年2月の党大会では江田を解任した。江田は離党したが、党内の左右対立は収まらず、続いて田英夫らが離党した。成田委員長・石橋書記長は参院選敗北の責任をとって辞任、次の党大会では、ついに隠れたエース、横浜市長の飛鳥田一雄を口説いて委員長に据えて、崖っぷちの再起を期してこの選挙に臨んだのであった。しかし、社会党は、124議席から17減の107議席であった。
公明・民社は選挙協力で議席を伸ばし、共産は消費税批判で、議席を17から39に伸ばす大躍進であった。また、江田(離党後急死した)の残した社会市民連合が2議席を得た。ブームの去った新自由クラブは4議席に縮んでしまった。

40日間抗争

福田・三木・中曽根の三派は、選挙敗北を責任を問うて大平に退陣を迫ったが、大平は受け付けなかった。田中が強力に大平をバックアップしていた。特別国会での首班指名に、反主流三派は福田を推すことを決め、党執行部が開こうとする議員総会の会場を占拠した。そこに主流派の浜田幸一が殴り込みをかけバリケードを蹴散らし、主流派だけで総会を開き、大平を首相候補に選出。自民党は分裂したまま衆院本会議になだれ込んだ。決選投票では、大平138票で福田125票を下し、首相に選ばれた。野党各党は自党の党首に票を投じた。
大平は人事権を使ってこの抗争を収拾した。幹事長に中曽根派の桜内、政調会長に福田派の安倍を一本釣りして反主流派を浮き足立たせたのだ。結局、大平・田中・福田派から各4名、中曽根派3名、三木派2名という派閥均衡の第2次大平内閣ができあがった(11月9日)。
目安箱バナー