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★1974年

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田中退陣、三木政権誕生

74年7月の参議院選挙は、与野党逆転もあり得る情勢で、自民党は「自由社会を守れ」と呼号し、金をばらまき、企業に動員をかけた。多数のタレント候補を立てたが、結果はまたもや自民党の敗北であった。自民62、野党は60で、逆転は起こらなかったが、「保革伯仲」時代に突入した。
この敗北を受けて、まず三木が田中の金権体質を批判して副総理を辞任、福田蔵相が後に続いた。8月には、企業ぐるみ選挙・金権選挙批判に懲りた経団連(土光会長)が、自民党への政治献金をやめると発表した。
10月、立花隆執筆の「田中角栄研究 金脈と人脈」を掲載した文藝春秋11月号が発行された。田中のファミリー企業による土地転がしと裏金づくりのからくりを暴いたものだった。反響は意外にも日本のマスコミではなく海外のメディアから上がった。外人記者クラブで演説に立った田中に、金脈についての質問の矢が浴びせられ、田中は苦しげな釈明を繰り返した。翌日の国内各紙がこれを大きく取り上げ、田中金脈問題は政治化した。
外人記者クラブでの会見から約一ヶ月後、個人に関わる問題で政治を混迷させて、として、田中は退陣を表明した。
三木に替わって副総裁になっていた椎名悦三郎は、公選ではなく話し合いで後継を決めようと動いた。椎名は「裁定」によって三木を指名した。池田内閣時代、党近代化の答申をまとめ、また金権と無縁であると思われているためであった。抵抗を示したのは大平だけで、結局自民党両院議員総会は全会一致で三木を新総裁に選んだ。
67歳、小派閥を率いて他派閥との合従連衡を繰り返して生き延びてきた三木であったが、クリーンなイメージが、田中金権政治への囂々たる非難の中で、首班への道を開いた。
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