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★1972年

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佐藤退陣

1972年1月には日米繊維協定が米国サクラメントで調印された。田中角栄通産相の功績であった。懸案の処理も終わって、佐藤政権の終末を世論も政界も噂し始めた。佐藤政権ではどうにもならないもの、それは日中国交回復の問題だった。
機は徐々に熟しつつあった。70年の末には、超党派の国会議員379人による日中国交回復促進議連が立ち上がり、自民党内の国交回復派も増えて、野党とも連携して佐藤政権に揺さぶりをかけていた。72年の年初には初の超党派議員団が訪中、「国交回復をめざす共同声明」が発表された。
そして、2月21日、佐藤政権にとどめを刺す一撃が米国から放たれた。ニクソン大統領が中国を電撃訪問し、翌日、米中が国交正常化で合意したのであった(上海コミュニケ)。日本は何も知らされていなかった。まったくの頭越しであった。
ついに6月17日、佐藤首相は、引退表明を行った。佐藤は、自分を厳しく批判した新聞の記者の退席を求め、ひとりテレビカメラに向かってしゃべるという異例の発表であった。
佐藤は、福田赳夫を後継者に考えていたが、田中は、後を襲うために周到な布陣をすでに敷いていた。

田中政権誕生

田中と宏池会会長・大平正芳は、昔からの盟友であった。72年1月には、中曽根派を加えた三派連合が結成され、田中は、実弾攻撃、すなわち国会議員に対する札束攻勢をかけて支持を広げ、佐藤派の中身を隠密裏に田中派に変えていった。世情は、浅間山荘事件、テルアビブ空港乱射事件などで騒然としていたころである。
総裁選立候補は、田中、福田、大平、三木(第一回投票での得票順)で、田中・三木・大平は、日中国交回復を掲げて三派連合を結んでいた。決選投票は、田中282票、福田190票だった。
72年7月6日、田中内閣が発足。大平外相、中曽根通産相、三木は副総理格の無任所相。内閣そのものは論功行賞型の編成であったが、「決断と実行」を掲げた田中は54歳、初の小学校卒の総理大臣であった。その前月、田中は、斬新な国土プラン「日本列島改造論」を世に問うていて、ベストセラーとなった。直後の内閣支持率は60%を超え、歴代最高。まさにブームの様相であった。

日中国交正常化

野党もマスコミも日中復交を後押しした。ハードルは、台湾政府、及びそれと結んだ日華条約の扱いにあった。自民党の親台湾派は「台湾を切り捨てるな」と言い、外務省は日華条約の廃棄という扱いに難色を示した。
7月25日、竹入義勝公明党委員長が、田中首相の依頼を受けて北京に飛び、周恩来首相と会談。三日間にわたる会談の末、周は、中国側が従来の主張から大きく譲歩する内容の、日中復交の条件8項目を竹入に示した。この条件を記した「竹入メモ」は、日中復交のカギとなった。
日華条約の扱いを巡る最終的な詰めを残して、田中・大平は、9月に北京に飛んだ。交渉は難航したが、ついに29日妥結。日中共同声明が調印され、国交正常化が実現した。

日本列島改造論

田中の「日本列島改造論」は、ある意味では先見的な政策であった。
環境悪化や交通地獄など、都市環境は悪くなるばかりで、その一方で地方の過疎化が進んでいた。そこで、都市から地方に工場を再配置し、それを呼び水として地方に中核都市を建設して人口を逆流させる。そのために、日本列島の主要地域を一日行動圏にするような効率的な交通ネットワークをつくる。また、これまでの重化学工業から、公害を出さない知識集約型の産業構造に転換すると同時に、成長によって拡大した経済力を国民の福祉に活用することを説いていた。
「改造論」は、政界にも官界にも産業界にも評判がよかった。官僚たちはこの御輿を担ぐことで各省庁の権限と事業の拡大をもくろみ、会社は大規模な公共事業を受注しようと省庁に群がった。政治家たちはおらが選挙区に公共事業をと奔走した。

72年総選挙

田中は、この政策を実現するために、さらに与党を伸ばそうと、72年11月、衆議院を解散した。
結果は、田中の期待に反して、自民党は、前回の288から271に議席に減らした。前回惨敗した社会党が118議席に回復、共産党は14議席から38議席に大躍進した。社共は、列島改造論を「大資本優先」「公害ばらまき」と攻撃し、自民党が強気で都市部にたくさん立てた候補を破った。公明党は、47議席から29議席と大きく後退した。公明党の敗北は、69年末に発覚した言論出版問題と、そのために政教分離方針を打ち出した影響が出たと見られる。

狂乱物価

71年夏、経常赤字に苦しむアメリカは、金とドルの交換を停止した(ドルショック)。このため、円高となり、ドルが日本国内に流入した。これによって過剰流動性が生まれ、商社などは、列島改造論に便乗して土地の買い占めに走った。そのため、72年に地価は30.9%の高騰を記録。さらに大手商社らは、大豆・生糸・羊毛・木材・米などあらゆる産品に手を伸ばして買い占め、売り惜しみを行い、物価は急騰した。一方で、田中内閣初の73年度予算は、戦後最高の伸び率24.6%という超大型予算で、インフレをますます昂進させた。国民の憤激は内閣に向かい、田中内閣支持率は27%まで急降下した。
さらに追い打ちをかけるように、秋に、第4次中東戦争が勃発、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を30%上げた(石油ショック)。これが投機熱に火を注ぎ、物価をさらに激しく押し上げた。店頭からトイレットペーパー、ちり紙、洗剤などが消え、消費者はパニックに陥った。
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