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★1969年

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沖縄返還交渉

1951年のサンフランシスコ講和条約では、その第3条で、沖縄・奄美大島・小笠原諸島などの地域に対して、日本に主権は存するが、米国が施政権を有することを定めていた。ただし、これらの地域の将来の地位に関しては、条約調印国すべての合意を必要とせず、日米間で協議が可能、という合意がなされていた。1953年に日米間の協議により奄美大島の返還が実現したが、沖縄については、米軍基地の戦略的重要性の観点から、米国は長期保有の意向であった。そして、日本本土の基地が整理縮小されるに伴い、沖縄の基地は拡大していった。
1965年、訪米した佐藤首相はラスク国務長官に対してはじめて沖縄問題に言及した。このときは、ラスクは中国の核実験に触れ、アジアの新たな緊張関係を強調し、返還を問題としなかった。
同年、戦後の首相としてはじめて沖縄を訪問した佐藤首相は、「アメリカの手先佐藤帰れ」というプラカードを掲げたデモ隊に囲まれて予定のホテルに到着できず、米軍基地内での宿泊を余儀なくされた。この訪沖から帰ったのち、佐藤は、首相直属の沖縄関係閣僚協議会を設置し、さらに67年に沖縄問題等懇談会を設置し、施政権返還の条件等を議論させた。
67年11月の二度目の訪米で、佐藤首相はジョンソン大統領と、「両三年内に」沖縄の施政権返還の期日を決定するという合意を行った。このときには返還の際の基地の扱いについて具体的な取り決めはなされていなかった。
問題は、在沖米軍も、安保条約のうたう「事前協議」の制約に服するという意味で「本土なみ」とされるかどうか、「作らず」「持たず」「持ち込ませず」の非核三原則を沖縄にも適用して核兵器を撤去し、持ち込ませないようにさせられるかどうかという二点であった。
69年発足のニクソン政権は、緊急時の韓国・台湾防衛にあたっては、安保条約の事前協議制の適用を緩和するという日本側の了解を条件に、「核抜き・本土並み」を認めることとした。
69年11月の佐藤・ニクソンによる日米共同宣言は、「韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」であり、「台湾地域の平和と安全の維持も日本の安全にとってきわめて重要」であると述べる。日本は沖縄返還の代償として、より深く米国の東アジア軍事戦略に組み込まれることになったのである。
佐藤は、民意を問うべく、米国からの帰国後すぐに衆院を解散した。69年12月の総選挙の結果は、自民党の大勝、社会党の敗北であった。
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