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★黒船

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1853年(嘉永6年)

4月19日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーがサスケハナ号以下4隻の軍艦を率い琉球に来航した。6月3日、浦賀に来航。9日、浦賀奉行戸田・井戸がペリーと会見し大統領国書を受領。12日、明年の来航を約してペリーは琉球へ去った。23日、琉球王朝を威嚇し、貯炭所建設、物資の買い渡し等を約させた。
7月18日、ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に来航、8月19日、国書受領。幕府は大船建造の禁令を解き、諸大名に品川台場建設の命令。水戸藩、鹿児島藩に汽船建造を許した。

1854年(嘉永7年→安政元年)

1月16日、ペリーが軍艦7隻を率い再び神奈川沖に来航した。2月10日横浜でペリーと交渉を開始。3月3日日米和親条約を締結した。条約は12条からなり、第1条では、「日本と合衆国とは、其の人民永世不朽の和親を取り結び、場所・人柄の差別これなき事」と定め、下田・函館の2港を食料・薪水の補給基地としてアメリカ船に許可するものである。また、片務的な最恵国待遇を米国に認めている。
吉田松陰が、下田で米艦への密航を企て失敗、逮捕された。象山も連座、逮捕された。ペリーについでプチャーチンも下田に来航し、日露和親条約が結ばれた。この条約では下田・函館のほか長崎も開港することになり、国境については、千島列島の択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地として国境を定めないとした。。
6月15日近畿地方に地震。8月、日英和親条約締結、長崎・函館を開港。11月4日東海地方に大地震。
清の曾国藩が太平天国を破った。

1855年(安政2年)

幕府は、諸大名・旗本に洋式調練を命じ、長崎に海軍伝習所を設けた。
諸政改革の大綱を発布。
10月2日江戸大地震(安政の大地震)。堀田正篤が老中首座に。江川英龍、反射炉をつくるが、病没。
パリ万博。

1856年(安政3年)

アメリカ総領事ハリス下田に上陸。松下村塾再開。
清仏でアロー号戦争。クリミア戦争終わる。パリ条約。

1857年(安政4年)

10月21日ハリスが、江戸に出府、将軍に謁見し、貿易通商を要求した。幕府は、これの可否を諸大名に諮問した。
英仏連合軍が広東を落とす。インドでセポイの反乱起こる。英軍、デリー占領。西欧で経済恐慌。

1858年(安政5年)

通商条約勅許を請いに堀田正睦(まさよし)が上京し、戦争を回避するために条約を結ばざるを得ないと説得しようとしたが、孝明天皇以下朝廷には攘夷の空気が強く、勅許を得ることはできなかった。しかし、ハリスは、アロー号戦争を引き合いに出し英仏の脅威を説いたので、幕府はついに折れて、勅許がえられないままに、
6月19日、日米修好通商条約に調印した。
この条約は14条からなり、新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、自由貿易(「双方の国人品物を売買すること、総て障りなく・・・」)、居留地に在留する外国人の裁判は本国の法に基づき本国の領事が行うという領事裁判権を認め、関税の税率は自主権がなく相互に相談して決めるということになっている。幕府は同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結した。
将軍家定没。紀伊徳川家茂が後継将軍となった。安政の大獄始まる。島津斉彬没。長州藩藩政改革を開始。
清が英仏米露と天津条約結ぶ。インド・ムガール帝国滅亡。

1859年(安政6年)

5月、神奈川・長崎・函館が開港。諸国との貿易が始まった。8月、横浜でロシア海軍士官等3名が殺傷された。
橋本左内、頼三樹三郎が処刑された。

1860年(安政7年)

咸臨丸、条約批准のためアメリカに出航。
3月3日、井伊直弼大老、水戸藩士らに桜田門外で殺害された。
皇女和宮の家定への降嫁が発表された。
アメリカ通訳官ヒュースケン殺害された。
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