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★1955年

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★1955年 保守合同

前年12月に成立した民主党・鳩山内閣は少数与党政権だった。「鳩山ブーム」と言われるほど支持率の高いあいだに総選挙を行い与党の基盤を固めるため、鳩山は衆議院を解散した。鳩山が掲げた公約は、日ソ国交回復と憲法改正であった。鳩山は、民主党・自由党合わせて衆議院で憲法改正決議に必要な3分の2を確保する気でいた。
2月27日に行われた第27回総選挙の結果は、民主党が124議席から185議席に躍進、反対に自由党は180議席から112議席に減少し、第一党の地位が入れ替わっただけだった。左右両派の合同を協議中だった社会党は、両派合わせて156議席を獲得し、改憲阻止に必要な総議席の3分の1を確保した。
総選挙後の特別国会では、民主党は自由党の同調を得て第二次鳩山内閣を成立させたものの、相変わらず単独の少数政党政権であった。重要法案が相次いで廃案となり、早くも国会運営に行き詰まりが見えてきた。

民主党総務会長の三木武吉が、4月、遊説先で「保守結集」を呼びかけたことをきっかけに、6月、民主鳩山と自由・緒方の両首脳の会談が行われ、「保守勢力の結集」が基本的に合意された。しかし、衆参議員の数で拮抗する両党間で党首はじめ首脳の人事がまとまらず、合同案づくりをまかされた両党総務会長・幹事長による世話人会合では遅々として議論が進まなかった。

一方、10月には左右社会党の合同が実現した。危機感をもった財界から圧力がかかったこともあって、ようやく民主・自由の合同論議も加速し、当面党首問題は棚上げして(明年春に党首選実施を実施することにして)、11月15日、保守の新党、自由民主党が誕生した。党首は空席とし代行委員として鳩山・緒方・三木・大野の4名が選ばれ、幹事長には岸信介、総務会長には石井光次郎、政調会長には水田三喜男が就任した。自由民主党は、衆院299名、参院118名の議員を擁する圧倒的勢力となった。(なお、吉田茂、佐藤栄作、橋本登美三郎の3名は新党に不参加であった。)このあと招集された臨時国会では、第三次鳩山内閣が成立した。

自由民主党と日本社会党による巨大二党体制が、以後長く続くことになり、後年これを「55年体制」と呼ぶようになった。衆院でも参院でも、社会党は自民党のほぼ半分の勢力であった。このため、この二党体制は、二大政党制ではなく「一か二分の一政党制」とも呼ばれるようになった。この体制は、常に自民党単独政権のもとで社会党は「万年野党」と呼ばれる位置にあり、両党は保守と革新のイデオロギー論争と国会での激突を演じてはいても、資本主義下での経済成長を優先して補完的に社会福祉を整備していく方向で妥協が進む安定的なシステムをしばらくのあいだ日本に提供することになった。

★1955年 社会党の統一

1951年に講和条約への賛否をめぐって分裂して以来、左右両社会党は対立しながらも再合同を模索してきた。憲法改正を掲げる鳩山政権の登場によって統一の機運が盛り上がり、1月、両派それぞれの党大会は、「平和的・民主的な社会主義革命」を目指すとする「両社統一に関する決議」を採択した。その後、非武装中立の是非、日米安保条約への対処などで妥協するのに時間がかかったが、保守合同よりひと足早く、10月13日に合同大会を開いた。綱領・政策などが満場一致で採択され、委員長には多数派である左社から鈴木茂三郎が、書記長には右社から浅沼稲次郎が選出された。

保守合同は、イデオロギー・政策の違いは際だたず、人事をめぐる派閥間の妥協で成立したものであったが、社会党の統一は、イデオロギー面での厳しい対立を弥縫したものすぎず、統一以降も社会党は党内にイデオロギー論争を抱え、内部対立に苦しむことになる。

★1955年 共産党六全協

日本共産党は、1950年の朝鮮戦争勃発直後、中央委員24名全員の公職追放処分をGHQから受けて以後、混乱していた。徳田球一を初めとする多数派は、宮本顕治ら7人の中央委員を排除して地下指導部を形成し、51年、五全協(第五回全国協議会)を開いて、「新綱領」を採択した。中国革命における農村根拠地づくりをまねた山村工作隊を組織し、火焔瓶闘争や過激な街頭デモなど、のちに「極左冒険主義」と批判されるこの路線は、大衆の支持を得ることはできなかった。49年の衆院選では298万票で35議席獲得したものが、55年2月の衆院選では73万票2議席とまったく凋落してしまった。カリスマ的な指導者・徳田球一は53年に北京で客死していたが、それはまだ公表されていなかった。

55年7月、党は六全協を開催した。極左冒険主義とセクト主義への批判が行われ、指導部の分裂状態が修復された。新たに設置された常任委員会には、野坂参三らの旧多数派に、宮本顕治・志賀義雄・袴田里見ら排除されていた組が加わった。
新体制では、党内民主主義と集団指導の確立が強調されたが、暴力革命路線の51年綱領を「完全に正しい」と追認し、党内の論争は封殺した。

六全協決議は、一般党員には寝耳に水であり、特に非公然活動に従事していた活動家には深刻なショックを与えた。同年行われたスターリン批判と合わせて、共産党の無謬神話が崩れたことにより、学生活動家たちの一部はこれを機会に「非」共産党の前衛党づくりに進んでいくことになる。

★原水禁運動と基地反対闘争

前年の第五福竜丸事件を受けて、杉並区の主婦たちによって始められた原水爆禁止署名は国内で3千万余、全世界で6億7000万余に達した。その運動を背景に、被爆10年目の55年8月6日、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。大会には市民団体・自治体代表など約5千人、海外14カ国の代表も参加した。9月には原水爆禁止日本協議会が結成され、運動は継続されていく。

東京砂川町で米軍立川基地拡張計画が発表されると、現地では反対総決起大会が開催され、その測量を巡って警官隊と地元住民・支援労組・学生が激しくぶつかった。山梨県の北富士演習場では、米軍の射撃演習に対して住民が座り込み闘争を開始した。その他、小牧・横田・新潟・伊丹・木更津などでも基地反対闘争が激化した。

★原子力「平和利用」へ態勢固め

この年は、日本の原子力「平和利用」の態勢固めが行われた。米国から研究用原子炉とそのための濃縮ウランを賃借することを定めた日米原子力協定が調印され、これを運用する原子力研究所が設立された。また、原子力基本法と原子力委員会設置法も年末に公布された。これらは、「自主・民主・公開」の原子力平和利用3原則をうたいながら、国主導の産官学による原子力開発体制を整備するものだった。翌年、茨城県東海村での原子力施設建設が始まり、やがて全国へ原発が普及していく。

★1955年 東西冷戦体制の完成と新しい胎動

東西両陣営の境界線は、ヨーロッパにおいては1940年代半ばにほぼ確定し、それぞれの陣営が軍事ブロック作りを進めていた。西側(アメリカ側)のそれは、49年のNATO(北大西洋条約機構)に始まり、54年のSEATO(東南アジア集団防衛機構)などが続き、55年のMETO(中東条約機構)の結成と西独のNATO加盟で一段落した。東側(ソ連側)はそれに対抗して、55年にソ連・東欧8か国によるワルシャワ条約機構を結成した。
こうして軍事ブロックが固定すると同時に、米ソ英仏での指導者交代があり(53年に米国ではトルーマン大統領からアイゼンハワー大統領に、ソ連がスターリン首相からマレンコフ首相に、55年に英国ではチャーチル首相からイーデン首相に)、また、英仏の相次ぐ核兵器開発計画の発表があって、東西冷戦体制も一つの曲がり角に来ていた。55年7月、スイスのジュネーブで戦後初の四か国首脳会談が開かれ、具体的な成果はなかったものの、緊張緩和の空気が高まってきた。

一方、旧植民地からの独立を果たしたアジア・アフリカの多くの国々は、東西いずれかのブロックに属したものもあったが、一部の国々は両陣営からの中立と平和共存を目指した。その代表はインド・パキスタン・ビルマ・インドネシア・セイロンの5か国で、前年のコロンボ会議に続き、55年、インドネシアのバンドンで第一回アジア・アフリカ会議を主催し、29か国の代表を集めた。前年、インド・ネルー首相と中国・周恩来首相とのあいだで合意した平和五原則(①領土主権の相互尊重、②相互不可侵、③相互内政不干渉、④平等互恵、⑤平和共存)に、国連主義を織り込んだ10原則を採択して成功裏に会議は閉幕した。いまや、東西ふたつのブロックに対するにもう一つのブロック〈非同盟諸国〉が生まれたのである。

ベトナムだけが東西の熱い戦争の舞台となりそうだった。前年のディエンビエンフーの陥落によってフランスは北緯17度線以北をホーチミン政権に譲ったが、フランスの傀儡である南のバオダイ政権に対して、米国が直接援助を開始した。国民投票によってバオダイが追放されると、ゴ・ジン・ジェム首相が大統領が就任してベトナム共和国が成立したが、米国はこの政権を全面的に支援するようになる。

そのアメリカ国内では、新たな胎動があった。55年の暮れ、アラバマ州モンゴメリー市で、一人の黒人女性がバスの席の移動を運転手に求められてそれを拒否し、バスから引きずり降ろされたことから、バスのボイコット運動が始まった。アトランタに住むキング牧師がその運動に参加し、黒人への差別反対の声は燎原の火の如く全米に広がっていった。

核戦争への危機を憂う市民の声も、7月のラッセル・アインシュタイン宣言により呼び覚まされ、欧米や日本で大きなうねりをおこしていく。
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