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110826 現代人の祖先、古代人類との交雑で免疫力獲得か [読売]

 現代人の祖先は、別の人類とされるネアンデルタール人やデニソワ人と交雑することで免疫機能を高めたことが、米スタンフォード大などのチームの研究でわかった。


 人間の免疫の成り立ちに一石を投じる成果で、米科学誌サイエンスに26日発表される。

 研究チームは、ヨーロッパやアジアに広がり、絶滅した古代の人類のネアンデルタール人3体とデニソワ人1体の化石の遺伝情報を解析。免疫機能に重要な白血球の型に関係する部分を、欧州、アジア、アフリカの現代人と比較した。

 古代の人類と共通する白血球の型を、アジアでは7割以上、欧州では5割以上の現代人が引き継いでいるのに対し、アフリカでは1割以下と、あまり引き継がれていなかった。

 人類の起源はアフリカで、古代の人類は27万~44万年前に、現代人の祖先は6万~7万年前にアフリカを出た。アフリカを出た現代人の祖先は、アジアやヨーロッパで既に現地の環境に適した免疫機能を持っていた古代の人類と交雑することで、その免疫機能を獲得。有利な遺伝子が現代人の間で広がったらしい。

110221 鈴木元首相、金大中氏の死刑中止迫る 韓国外交文書 [朝日]

 【ソウル=牧野愛博】1980年9月、当時、野党指導者だった金大中(キム・デジュン)元大統領に韓国の軍法会議が死刑判決を出したことを受け、鈴木善幸首相(当時)が同年11月、駐日韓国大使に対し、刑の執行を思いとどまるよう強く申し入れていた。

 韓国外交通商省が21日付で公開した外交文書によると、鈴木首相は韓国に反発する日本の世論を紹介。刑が執行されれば日韓協力が制約を受け、日朝関係の拡大を望む声が強くなりかねないとした。米国も韓国に強い圧力をかけた。韓国政府は81年1月、最高裁で金大中氏の死刑判決が確定した直後、閣議で無期懲役に減刑した。

1219 人類10万年前から穀物「料理」 アフリカの石器に痕跡 [朝日]

2009年12月19日11時46分
 穀物として食べられるイネ科植物のソルガムの種子をすりつぶした跡が、アフリカのモザンビークで発掘された約10万年前の石器から見つかった。人類が穀物を食べ始めた時期ははっきりしていないが、信頼できる痕跡としては最も古いものになるという。米科学誌サイエンスで発表された。

 同国北部の都市リシンガに近い石灰岩の洞穴から出た70個の石器を、カナダ・カルガリー大の研究者が調べた。石器の表面にはソルガムのでんぷん粒がたくさん残されており、種子を砕いたり、すりつぶしたりと、「料理」して食べていたらしい。栽培したものではなく、自然に実ったものを集めてきたようだ。

 洞穴で暮らしていたのは現代の私たちと同じ人類であるホモ・サピエンス。中期旧石器時代にあたる当時、人類は食料を狩猟・採集で手に入れており、植物の利用は果実やナッツ、根が中心だったと考えられていた。

 カルガリー大によると、これまでの穀物利用のはっきりした証拠は、1万2千年ほど前のものしか見つかっていなかった。

 総合地球環境学研究所の佐藤洋一郎教授は「分析が間違いないとすれば、約10万年前の『出アフリカ』前後の人類が何を食べていたかを実証した点で価値がある。今後、当時の植生や他に何を食べていたかなど周辺情報が得られれば、さらに説得性のある研究になるだろう」とみている。(米山正寛)

1002 440万年前、最古の人類像を復元 森に住み木登り得意 [朝日]

2009年10月2日0時39分
 最古の時期の人類は森で暮らし、木登りをする一方で、二足歩行も可能だった。東京大総合研究博物館の諏訪元(げん)教授らの国際的な研究グループが、約440万年前の人類、アルディピテクス・ラミダス(ラミダス猿人)の化石から全身像を復元することに成功し、生活の様子がわかった。約400万~100万年前に草原で暮らしていた猿人アウストラロピテクスよりさらに古い人類像が、初めて描き出された。2日付の米科学誌サイエンスで発表される。

 ラミダス猿人は諏訪教授らが92年にエチオピアで歯の化石などを発見し、94年に英科学誌ネイチャーで発表した。その後、同じ地域から36体分、110標本が見つかった。復元された個体は94年から破片の状態で発見され、約15年かけて復元と分析を続けてきた。この成果で、最古の人類の生活などをめぐる教科書の記述が書き換えられる可能性がある。

 頭蓋骨(ずがいこつ)がきゃしゃで、犬歯が他の個体より小さいことから女性と推定され、「アルディ」の愛称が付けられた。身長120センチで体重50キロ、脳の大きさは300~350ccとみられる。脳はアウストラロピテクス(500cc程度)よりも小さくチンパンジー(350~400cc)に近い。

 骨盤はチンパンジーより丈が短く地上での二足歩行が可能で、こぶしを地面につけるチンパンジーのような歩き方はしていなかった。足裏に土踏まずがないなど、アウストラロピテクスより原始的な特徴も備えており、木登りもしていた。

 犬歯は、チンパンジーなどが持つ武器としての犬歯に比べると、アウストラロピテクスなどと同じく小さかった。雌雄の体格差も少ないため、現代人のように雄と雌がペアで生活する社会構造へつながる特徴だという。

 他の歯も含めた分析からは、硬いものや草原性の植物はほとんど食べないものの、森の中の果実や葉、昆虫などを食べる雑食性だったこともわかってきた。

 これまで全身に近い人類骨格は、「ルーシー」の愛称を持つ約320万年前のアウストラロピテクスのものが最古だった。ラミダス猿人より古い人類化石には、チャドで見つかったサヘラントロプス・チャデンシス(約700万年前)、ケニアで見つかったオロリン・ツゲネンシス(約600万年前)などがあるが、化石が部分的で姿や生活についてはよくわかっていない。

 諏訪教授や米カリフォルニア大バークリー校のティム・ホワイト教授を中心とする今回の研究グループは、これらの化石の特徴がラミダス猿人と似ていることから、アルディの姿が最古の人類像を代表するものと考えている。

 今回の発表は11本の論文からなる。同時に発掘された動植物の化石なども分析し、当時の自然環境やラミダス猿人の食性まで幅広く研究・考察されている。(松尾一郎)

0818 金大中・韓国元大統領が死去 東京で拉致・初の南北会談 [朝日]

2009年8月18日20時5分
 【ソウル=箱田哲也】韓国を代表する政治指導者で、南北朝鮮の和解・交流や日韓関係改善に尽くした金大中(キム・デジュン)元大統領が18日午後1時43分、多臓器不全などのため、入院先のソウル市内の病院で死去した。85歳だった。7月13日から肺炎のため入院生活を送っていた。60年代から民主化運動のリーダーとして軍事政権に抵抗し、73年には東京で拉致されて九死に一生を得ながら、97年に4度目の挑戦で大統領に当選。初の南北首脳会談を実現させるなど激動の生涯だった。

 李明博(イ・ミョンバク)大統領は「偉大な政治指導者を失った。民主化と民族和解に向けた故人の熱望と業績は、国民に長らく記憶されるだろう」と哀悼の意を表した。北朝鮮メディアは18日夜までに報道していないが、金養建・朝鮮労働党統一戦線部長ら党幹部が弔問に来る可能性が指摘されている。

 金大中氏は在任中、対話をもとに北朝鮮の体質変化を目指す「太陽(包容)政策」を掲げ、北朝鮮の金剛山観光など南北事業を次々と推進。00年6月、韓国大統領として初めて訪朝し、平壌で金正日(キム・ジョンイル)総書記と会談して南北共同宣言に署名した。00年12月には民主化運動と南北和解への貢献が評価され、韓国人として初のノーベル賞(平和賞)を受賞した。

 対日関係の改善にも功績を残した。98年10月、大統領就任後初めて訪日。故小渕恵三首相との日韓首脳会談で「日韓パートナーシップ宣言」をまとめ、過去の歴史をふまえつつ未来を重視する「未来志向」の日韓関係を訴えた。

 日本の植民統治下の24年に南西部・全羅南道の荷衣島で生まれ、61年5月に国会議員に初当選。直後の軍事クーデターで政権を握った朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の独裁に反対し、71年の大統領選に野党から立候補。妨害工作の中で朴大統領に95万票差まで迫った。

 73年8月、東京のホテルから突然拉致され、殺されかかったが、5日後にソウルの自宅付近で解放された。79年10月の朴氏暗殺後、軍事クーデターで全斗煥(チョン・ドゥファン)氏が実権を掌握。80年5月の光州事件の首謀者として、内乱陰謀の罪で死刑判決を受けた。日米など国際社会の助命運動で減刑、釈放され、米国で事実上の亡命生活を送った。

 85年2月に帰国し、87年6月の韓国の「民主化宣言」直後に公民権を回復。97年末の大統領選で政敵だった金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相と組んで与党候補を破り、98年2月から5年間務めた。

0815 「核密約関連資料あった」外務省元条約局長が寄稿 [朝日]

2009年8月15日3時1分
 核兵器を積んだ米艦船や航空機の日本への立ち寄りを日米間の事前協議の例外扱いとする「核密約」について、外務省で条約局長などを歴任した東郷和彦・元オランダ大使(64)が朝日新聞に寄稿した。「密約」文書そのものの存在は確認を避けたが、密約とされる日米合意への対処をめぐる大量の文書が省内にあったことを明らかにし、「何がどう問題で、どう対処してきたかを国民にきちんと説明する時期がきた」と訴えている。

 手記によると、東郷氏は98年7月に条約局長に就任後、1960年の日米安保条約締結に向けた日米交渉やその後の運用をめぐる文書を整理した。その中で最も大量にあったのが、「日本への核持ち込みに関連する資料」だったという。歴代条約局長がこの問題にどう対処してきたかや、米側で「密約」について文書や証言が明らかになった際の外務省内での議論についての文書も含まれていたとしている。

0706 元米国防長官・世銀元総裁のマクナマラさん死去 [朝日]

2009年7月6日23時10分
 【ワシントン=村山祐介】ベトナム戦争当時に米国防長官を務めたロバート・マクナマラさんが6日早朝(日本時間同夜)、ワシントンの自宅で死去した。米紙ワシントン・ポスト(電子版)が同日、遺族の話として伝えた。93歳だった。死因は明らかにされていない。

 16年6月9日、サンフランシスコ生まれ。第2次世界大戦従軍後に自動車大手フォード社に入社し、60年に社長に就いたが、直後にケネディ大統領に請われ、61年に国防長官に就任。ケネディ氏暗殺後に就任したジョンソン大統領時代も留任し、ベトナム戦争への本格介入を進めた。

 だが戦況の泥沼化に伴い、任期半ばの68年に辞任。その後13年間、世界銀行総裁として途上国の開発に尽力した。

 95年に「ベトナム戦争は完全な間違いだった」とする回顧録を出版。冷戦時には米ソが大量の核兵器を持ち「恐怖の均衡」を図る相互確証破壊戦略を打ち立てた抑止論者だったが、晩年は核廃絶を唱えていた。
URL:http://www.asahi.com/international/update/0706/TKY200907060374.html

1224 A級戦犯15人、意見書の写し 「自衛戦」主張明らかに [朝日]

2008年12月24日3時1分
 第2次世界大戦後、日本の戦争指導者らをさばいた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、元首相の東条英機らA級戦犯15人が弁護団へあてた自筆の意見書の写しが、国立公文書館に保存されていた。裁判に不満をもらし、自衛戦だったなどと自説にこだわる姿が浮かび上がってくる。

 28人いる被告の一部が意見書を記したことは知られていたが、顔ぶれや詳しい内容は公になっていなかった。肉声や弁護の内幕をうかがわせる貴重な資料といえる。A級戦犯の死刑執行から23日で60年となった。

 東京裁判は46年5月に開廷。意見書は8月ごろに記されたらしい。弁護側の冒頭陳述で訴えてほしいことを約80ページにわたり書いている。弁護団のメンバーが持っていた資料を法務省が63年に複製。移管を受けた公文書館が07年夏から公開していた。

 太平洋戦争に踏み切った東条(後の判決で死刑)は、他の2人と連名で提出した。戦争の本当の原因は、欧米の東アジアに対する半植民地的政策の影響と、世界の「赤化」を狙う共産党の策動だったと審理を批判。自身の政権下では、アジア各国とは対等の立場だったとも主張している。

 また原爆投下など戦勝国の「計画的なる大量虐殺」を裁かない不公平も追及するように訴えている。

 ほかに意見書を書いたのは、中国の奉天特務機関長だった土肥原賢二や元外相の重光葵(しげみつ・まもる)ら。36年の日独防共協定を結んだ時の首相で、文官としてただ一人死刑判決を受けた広田弘毅(こうき)や、天皇の側近だった内大臣の木戸幸一ら13人については、意見書が存在しなかった。(谷津憲郎)
URL:http://www.asahi.com/national/update/1223/TKY200812230262.html

1222 テルアビブ乱射、日本謝罪の舞台裏 アラブ反発に苦慮 [朝日]

2008年12月22日10時1分
 72年5月30日、日本人3人が100人近くを殺傷したイスラエル・テルアビブ空港乱射事件。日本政府が発生直後、イスラエルに特使を派遣・謝罪し、犠牲者に見舞金を払ったことに、中東各国では賛否が分かれた。22日付で公開された外交文書からは「日本的対応」への反発に戸惑う日本の外交官の姿が浮かび上がる。

 事件は、岡本公三容疑者(61)=国際手配中=ら日本赤軍メンバー3人が、テルアビブのロッド空港(現ベングリオン空港)で自動小銃を乱射するなどしたもの。死者は犯人2人を除き24人。日本赤軍が海外で次々と起こしたテロのはしりとなった。

 発生直後の5月31日、在サンフランシスコ総領事が「大至急」扱いで出した公電は「日本の誠意を至急示して悪い反応が起こることを防止することが必要」と訴えた。翌6月1日には「日本のイメージが著しく損なわれる」との懸念も在ホノルル総領事から出た。

 日本政府は遺憾の意を表明、イスラエルの首相と旧知の福永健司衆院議員(当時)を特使として派遣。福永氏は4日、メイア首相と面会し、弔慰金、見舞金を贈ることを申し出た。総額は150万ドル(当時約4億6千万円)に上った。

 この対応はイスラエルで好意的に受け止められたが、中東紛争で敵対関係にあったアラブ諸国には波紋や反発が広がった。

 駐シリア大使が8日に出した公電はシリア側の見方をこう伝えた。「日本独自の事情で行動されることは危険。イスラエルの(アラブ侵略という)非人道的行いに由来する弱みは、日本の陳謝で目下に消え去る」

 駐エジプト大使は10日、エジプト政府上層部の意見として「日本人3人の行為にこれ程(ほど)まで日本政府がアポロジイ(謝罪)する必要があるのか。政府は何等(なんら)責任のないこと。対日経済ボイコットが議題とされつつある」と伝え、「総理または大臣のアラブ向け声明の発出方至急御考慮を」と要望した。

 同大使は翌11日エジプト高官を訪問。「日本側の措置が純然たる人道的見地より出たものをるる説明、誤解に基づく措置が取られることなきよう強く要請」と報告している。

 その後沈静化したが、外務省中近東課がこの時期にまとめた文書にはこう記されている。「(アラブ諸国は)未(いま)だ内心は釈然としないものを有しているやであり、背景の複雑さ、極めて感情的な問題となっている」(松村北斗)

     ◇

 〈東京大学の池内恵准教授(イスラム政治思想)の話〉日本政府が欧米の反応を気にしていた様子がうかがえる。先進国の仲間入りを果たそうとする時期にイメージの悪化を避けようと、最大限の対応をしたのだろう。一方、アラブ諸国は、日本赤軍がテロを実行したため、自らは手を下さずに大義は海外から支持されたことになり、歓迎した。日本政府の謝罪はその大義を否定されたように映った。とはいえ、公然とは日本を批判しづらい。アラブ諸国政府はパレスチナ勢力と敵対している場合があり、公電からは各国のパレスチナ勢力に対する立場の違いによって、日本への不満の表明も度合いが異なっていることがうかがえる。

     ◇

 〈日本赤軍〉重信房子被告(63)=殺人未遂罪などで上告中=が中心となって71年、革命拠点をつくる「国際根拠地論」構想の一環としてレバノンで結成された。当初パレスチナの過激派組織などと共闘関係を展開した。

 テルアビブ事件後も各地でテロを引き起こした。74年、オランダ・ハーグの仏大使館を占拠、75年、クアラルンプールの米国大使館を武装占拠。さらに77年にパリ発東京行き日航機をハイジャックしたダッカ事件と続いた。

 90年代後半からメンバーの逮捕が相次ぎ、重信被告も00年、大阪府内で逮捕された。

 他のメンバー7人は現在も国際手配されている。テルアビブ事件の岡本公三容疑者はイスラエル当局に逮捕され、終身刑を言い渡されたが、服役中に捕虜交換で釈放。後にレバノンへの政治亡命が認められた。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/1221/TKY200812210173_01.html

1222 「日中戦争なら核報復を」 佐藤首相、65年訪米時に [朝日]

2008年12月22日3時1分
 1965年1月に訪米した当時の佐藤栄作首相がマクナマラ国防長官との会談で、その3カ月前に中国が初めて実施した核実験をめぐり「(日中で)戦争になれば、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と表明、核戦争を容認していた様子が、22日付で外務省が公開した外交文書で明らかになった。

 長官との会談は1月13日に行われた。前年10月に実施された中国の核実験をめぐり、長官が「今後2~3年でどう発展するか注目に値する。日本は今後、核兵器の開発をやるのかやらないのか」と迫ったのに対し、首相は「日本は核兵器の所有、使用はあくまで反対」と米国の「核の傘」の下にいる立場を強調した。

 続いて首相は「核兵器の持ち込みとなれば、これは安保条約で規定されており、陸上への持ち込みについては発言に気をつけて頂きたい」と断ったうえで「(中国との)戦争になれば話は別で、米国が直ちに核兵器による報復を行うことを期待している。その際、陸上に核兵器用施設をつくることは簡単ではないが、洋上のものならば直ちに発動できると思う」と述べた。長官は「なんら技術的な問題はない」と応じた。

 このやりとりは、60年1月の日米安全保障条約改正時の密約が前提にあるとみられる。「洋上」は艦船を指し、核を搭載した米艦船の寄港は、密約によって日米間の事前協議が不要とされていた。

 一方、その前日のジョンソン大統領との会談では、首相が「中共(中国)の核武装にかかわらず、日本は核武装は行わず、米国との安全保障条約に依存するほかない。米国があくまで日本を守るとの保証を得たい」と求め、大統領は「保証する」と述べた。

 この会談で首相が「中共が核を持つなら日本も持つべきだと考える」と発言したことが98年、米国の公文書で明らかになっている。今回公開された外交文書でこの発言は確認できなかった。

 ただ、マクナマラ長官に対しては「技術的にはもちろん核爆弾をつくれないことはない」「宇宙開発のためのロケットを生産している。これは必要があれば軍用に使うことができる」と発言している。

 「日本は核武装できる」としながら「核武装せず米国に期待する」と表明した佐藤氏はその後、「非核三原則」などが評価され、74年にノーベル平和賞を受賞した。(石塚広志、稲田信司)

     ◇

 米国在住のマクナマラ元国防長官(92)は、朝日新聞の電話取材に応じた。65年1月13日付の佐藤首相との会談録にある日本の核軍備への言及の真意について「中国の核実験に対し、日本がどう反応するか懸念を抱いていた。日本が軍拡競争に巻き込まれていたら核が地域に拡散していたと思う」と述べた。

 また、日中が戦争に陥った場合に米国に核による報復を首相が求めた点については「発言は確認できない」としながら、「中国の核開発に脅威を感じ、米国が日本を守るという確約を得たかったのではないか。中国にも米国の核抑止力を知ってほしいと思っていたのかもしれない」と語った。

     ◇

 〈菅英輝・西南女学院大教授(日米外交史)の話〉佐藤首相は「核は戦争を避けるため」という建前を超え、「核で報復を」と踏み込んだ。当時の国内世論のもとでこうした発言が表面化すれば、政権は吹っ飛ぶ可能性すらあった。米国が日本の核武装を懸念していることを佐藤首相はよく知っており、相手に警戒心を持たせる意図で核武装をほのめかしている。中国の核保有が現実となっていく中で、より確実な安全保障を取りつけるための外交カードの意味合いが強い。

     ◇

 〈核持ち込みをめぐる日米密約〉60年1月の日米安保条約改正時に、日本国内での核兵器貯蔵・配備は日米間の事前協議が必要としたが、秘密合意で核兵器を積んだ米艦船の寄港、航空機の領空の一時通過などの場合、事前協議は不要とした。00年に米政府の公文書で明るみに出た。日本政府は密約の存在を否定している。

     ◇

 外務省は22日付で、60年代を中心とする外交文書を公開した。76年から始まった公開の21回目となる今回は、日本の首相訪米▽国連への各国加盟状況▽核実験停止会議、などに関する資料がある。22日から東京・麻布台の外交史料館で閲覧できる。


0816 アヘン王、巨利の足跡 新資料、旧日本軍の販売原案も [朝日]

2008年8月16日15時3分
 日中戦争中、中国占領地でアヘン流通にかかわり「アヘン王」と呼ばれた里見甫(はじめ)(1896~1965)が、アヘンの取扱高などを自ら記した資料や、旧日本軍がアヘン販売の原案を作っていたことを示す資料が日本と中国で相次いで見つかった。取扱高は現在の物価で年560億円にのぼり、旧日本軍がアヘン流通で巨利を得ていたことがうかがえる。

 日本側の資料は「華中宏済善堂内容概記」で、国立国会図書館にある元大蔵官僚・毛里英於菟(もうり・ひでおと)の旧所蔵文書に含まれていた。

 この文書には、里見の中国名「李鳴」が記され、付属する文書に里見の署名がある。毛里は戦時総動員体制を推進した「革新官僚」の一員で、里見の友人だった。内容から42年後半の作成とみられる。

 文書によると、日本軍の上海占領とともに三井物産が中東からアヘンの輸入を開始。アヘン流通のため、日本が対中国政策のために置いた「興亜院」の主導で、「中華民国維新政府」内に部局が置かれ、民間の営業機関として宏済善堂が上海に設立された。

 維新政府は38年3月に成立した日本の傀儡(かいらい)政権だった。

 文書では、里見が宏済善堂の理事長になっている。取引の主流は中東からの輸入品と、日本軍が内モンゴルに設立させた蒙疆(もうきょう)政権の支配地域からのアヘンで、41年度の取扱高は3億元(当時の日本で約1億5500万円、現在の物価で約560億円に相当)だったという。

 また、在庫として、満州国産モルヒネ999キロ、台湾専売局製コカイン277キロが記録されている。計630万元に該当し、「市中相場に換算せば約倍額に販売可能」としている。

 里見は戦後、極東国際軍事裁判法廷に提出した宣誓口述書で、自分は宏済善堂の副董事(副理事)で、董事長は「空席」と供述。幹部の顔ぶれや経理の詳細には触れず、アヘン以外のヘロインやモルヒネは扱わなかったと主張していた。
URL:http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK200808160057.html

0509 「浅草オペラ」は大衆芸能にあらず [読売]

 大正時代に東京・浅草で一世を風靡(ふうび)した「浅草オペラ」の台本や楽譜など約200点が都内で見つかった。

 大衆芸能として一段低く見られがちな浅草オペラだが、「椿姫」「ファウスト」などが原作に忠実に演じられた本格的な歌劇だったことが裏付けられた。

 関東大震災(1923年)で劇場が崩壊、資料が散逸するなどして、ナゾの多かった下町歌劇の全貌(ぜんぼう)が姿を現した。

 資料が見つかったのは、お茶の水女子大教授などを歴任した作曲家・小松耕輔(1884~1966)の遺族宅。唱歌の作曲で知られる小松だが、浅草オペラでは「若松美鳥」「小松玉巌」の名で翻訳や編曲にかかわっていた。

 台本は9作品が見つかり、ベルディ作曲「椿姫」やグノー作曲「ファウスト」など数点は全幕分がそっくり残っていた。オーケストラ用の楽譜も多数。バイオリンやチェロ、クラリネットなどパートごとに分けられたものが、作品ごとに茶封筒に納められていた。椿姫は台本も譜面も完全にそろっており、舞台で再現することも可能だという。

 浅草で上演された際の椿姫のプログラムや、俳優が自分のせりふだけを写し取った「書き抜き」と呼ばれる紙の束も一緒に保管されていた。

 これらの資料の分析を進めている早稲田大演劇博物館の中野正昭研究員が特に注目しているのは台本。椿姫の場合、主人公のビオレッタをはじめとする登場人物の名前はそのままで、ストーリーも全編原作通りに描かれている。

 浅草オペラに詳しい劇作家・清島利典(としすけ)さんによると、浅草オペラが本格的な舞台だったことは語り継がれていたが、大正末期になると、芝居に踊りを付け足しただけの舞台までもがオペラの看板を掲げるようになったため、浅草オペラも大衆芸能に過ぎなかったとの誤解が広がったという。

 清島さんは「今回の資料は、欧米並みの構成で、質の高い作品が浅草で上演されていたことを裏付けるもの」と話している。

 日本初のオペラは明治末期の1911年、帝国劇場で上演された。イタリア人音楽家を招いてオペラ歌手を養成するなどして日本に定着させようとしたが、当時の富裕層からは見向きもされず、客入りが悪いことから撤退。行き場を失った役者たちが流れ着いた先で人気を博したのが、浅草オペラだった。

 中野研究員は「政財界を挙げて提供しようとした高尚な文化を、素直に受け入れたのが大衆だったというところが面白い。大衆こそが、貪欲(どんよく)に新しいものを吸収する感性を持ち合わせていたのだろう」と分析している。

(2008年5月9日14時59分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080509-OYT1T00459.htm

0213 ナポレオン毒殺説を否定 幼少時の髪からもヒ素 [朝日]

2008年02月13日09時04分
 イタリアの国立核物理研究機構などの研究チームは12日までに、幽閉先の大西洋の孤島セントヘレナで死去したフランスの皇帝ナポレオン1世(1769-1821年)の死因について、毒殺説を否定する見解を発表した。ヒ素による毒殺説と胃がんでの病死説をめぐる長年の論争に影響を与えそうだ。

 研究チームは、イタリアとフランスの美術館に保存されている複数の時期のナポレオンの毛髪を調査。毛髪からは高濃度のヒ素が検出されたが、子供時代とセントヘレナで晩年を過ごした時点で「ヒ素濃度に著しい違いは見られなかった」と分析した。(時事)
URL:http://www.asahi.com/international/update/0213/JJT200802130002.html

0127 スハルト氏死去 86歳 インドネシア元大統領 [朝日]

2008年01月27日23時33分
 インドネシアで32年にわたる長期政権を担ったスハルト元大統領が27日、ジャカルタ市内の病院で多臓器不全のため死去した。86歳だった。東西冷戦下、経済発展と安定をもたらして「開発の父」と称賛されたが、共産党弾圧など力による支配から独裁者とも呼ばれた。民主化要求の高まりで98年に辞任に追い込まれ、不正や圧政の責任追及を受けたが、健康悪化を理由に刑事裁判は打ち切られていた。

 遺体は28日、一族の墓地があるジャワ島中部のソロに搬送され、国葬が営まれる。同政府は27日から1週間、喪に服するよう国民に呼びかけた。

 21年6月、中部ジャワ生まれ。日本軍政下で郷土防衛義勇軍に加わり、第2次世界大戦後は対オランダ独立戦争で名を上げた。65年、スカルノ政権下で起きた共産党系将校によるクーデター未遂事件(9・30事件)鎮圧を機に実権を掌握。共産党弾圧の犠牲者は数十万人規模とも言われる。

 68年3月に第2代大統領に就任。旧ソ連・中国寄りだったスカルノ外交から、外資導入と外国の援助による経済開発路線に転換し、最大の援助供与国の日本など西側諸国に傾斜。東南アジア諸国連合(ASEAN)では指導的役割を果たした。

 しかし、家族らを重用する縁故主義が目立ち、98年の公共料金値上げを機に国民の不満が噴出。同年5月に辞任に追い込まれた。06年に不正疑惑の刑事訴追が打ち切られた後、最高検は07年7月、計約14億ドル(約1500億円)の不正蓄財返還と損害賠償を求める民事訴訟を起こしていた。
URL:http://www.asahi.com/international/update/0127/TKY200801270074.html

0115 南北の経済力、70年代逆転 韓国が30年前の分析公開 [朝日]

2008年01月15日06時03分
 韓国外交通商省は15日付で、同政府が77年当時、北朝鮮の経済や社会制度を分析した外交文書などを公開した。経済力で北朝鮮を追い抜いた事実を強調し、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)を「5000年の民族史上、最も英明な領導者」として、体制の正統性を訴えている。

 作成後30年たった外交文書の公開原則に基づき、韓国政府の公電や日本政府との会談記録など約17万ページを開示した。

 北朝鮮を分析した文書では、76年の南北国民総生産額や農工業生産量、社会間接資本などを比較。「重工業ですら南北の優劣は逆転した」と結論づけた。北朝鮮の体制については「郡党秘書級以上は高級アパートだが、庶民は部屋が1~2室」「平壌の配給はコメと雑穀が半々だが、地方は雑穀が8割」などとし、「階層、地域で格差が激しい」と分析した。

 一方、朴大統領が72年に非常戒厳令を布告、導入した維新体制について「人権問題はない」「自由の一部を最小限度の範囲で制限することは、決して民主主義に反しない」と主張。「朴大統領は絶対的な支持と恭敬を受けている」とした。

 また、73年に東京で起きた金大中氏拉致事件に関する日本の報道や国会審議などの資料を、在京韓国大使館が多数、韓国に送付。韓国政府は内部文書で「一部の反韓的な日本のマスコミが特別な証拠もなく、KCIA(中央情報部)が事件を起こしたという報道を続けている」と説明した。
URL:http://www.asahi.com/international/update/0115/TKY200801140218.html

1211 フジモリ氏、ペルー人質事件でゲリラ全員殺害命令…米文書 [読売]

 【ワシントン=坂元隆】1996年に発生したペルーの日本大使公邸占拠・人質事件で、フジモリ大統領(当時)が人質救出のための武力突入作戦を実施するにあたり、公邸を占拠していた左翼ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)全員の殺害を指示していたと当時の米機密文書が伝えていたことが10日、明らかになった。

 ペルーでは同日、大統領任期中の市民殺害事件への関与を問われているフジモリ氏の初公判が開かれたが、機密文書の内容が事実なら、公邸占拠事件でも刑事責任を問われる可能性がありそうだ。

 文書は、米民間機関「ナショナル・セキュリティー・アーカイブ(NSA)」の請求により、機密指定が解かれた米国防情報局(DIA)のペルーからの97年6月10日付報告書。

 文書によると、フジモリ氏は、武力突入する特殊部隊にゲリラの全員殺害を命令、その結果、少なくとも男女各1人のゲリラが投降後に処刑された。男性ゲリラは人質に紛れて公邸を出ようとしたところを見とがめられて投降したが、特殊部隊により建物裏手に連行され処刑のような形で背後から頭部を自動小銃で撃ち抜かれた。

(2007年12月11日22時51分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20071211i415.htm

1115 スパイの名は「デリマル」 米原爆開発計画、ソ連へ奪取 [朝日]

2007年11月15日12時45分

 米国が第2次世界大戦中に原子爆弾を開発した「マンハッタン計画」について、決定的な機密情報をソ連にもたらしたスパイの名前をロシアのプーチン大統領が初めて明らかにした。研究者らは「20世紀のスパイ史に一ページを書き加える新事実」と注目している。

 このスパイはジョルジュ・コワリ氏。コードネームは「デリマル」。

 プーチン大統領は今月2日、昨年1月に92歳で亡くなったコワリ氏に対して、ロシア最高クラスの金星勲章を追贈。授賞理由の中で「彼のおかげで我が国の核兵器開発期間が劇的に短縮された」とたたえた。ソ連は米国から遅れることわずか4年、1949年に初の原爆実験に成功し、米国に衝撃を与えた。

 ロシア国防省の新聞「赤い星」などによると、コワリ氏は13年、米アイオワ州でソ連からのユダヤ人移民の子として生まれた。ソ連に移住、軍の参謀本部情報総局(GRU)にスカウトされた。

 40年に米国に派遣されたコワリ氏は、マンハッタン計画の司令部とウラン濃縮施設が置かれたテネシー州オークリッジの研究所に勤務。情報をソ連に伝えたとされる。
URL:http://www.asahi.com/international/update/1115/TKY200711140395.html

1028 元官房長官の藤波孝生さん死去 [朝日]

2007年10月28日21時32分

 中曽根内閣で官房長官を務め、リクルート事件で受託収賄罪に問われて有罪になった藤波孝生(ふじなみ・たかお)さんが28日午後4時22分、肺炎による呼吸不全のため三重県伊勢市内の病院で死去した。74歳だった。衆院議員を11期務めた。通夜と葬儀は故人の意向により近親者のみで執り行われる。

 藤波さんは67年に衆院議員に旧三重2区で初当選。79年から労働相を務め、83年に中曽根内閣で官房長官に就任した。

 将来の首相候補と目されていたが、官庁の職員採用で就職協定の趣旨に沿った対応をするよう請託を受け、リクルート社側から未公開株1万株と小切手2000万円のわいろを受け取っていたとして、89年に受託収賄罪で在宅起訴された。

 93年に落選したが、96年に返り咲いた。99年10月に最高裁の上告棄却で有罪が確定し、自民党を離党。執行猶予中の00年には無所属で立候補し、批判を浴びながらも当選した。

 孝堂(こうどう)という俳号を持つ俳人でもあった。糖尿病を患い、03年10月に政界を引退した。
URL:http://www.asahi.com/obituaries/update/1028/NGY200710280002.html

1025 大韓航空機爆破、「韓国の自作自演」否定…韓国真相究明委 [読売]

 【ソウル=竹腰雅彦】韓国政府の「過去事件の真相究明委員会」は24日、金大中事件の報告書とともに、1987年11月に起きた大韓航空機爆破事件に関する報告書を公表し、事件が北朝鮮工作員による犯行と改めて認定した。

 韓国情報機関、国家安全企画部(現・国家情報院)の自作自演だったとする謀略説については「事実でない」と結論づけた。

 同委は05年2月に事件の再調査を開始し、関係者への事情聴取や資料分析を行った結果、事件の背後に北朝鮮の対南(韓国)工作機関が存在し、金勝一(キム・スンイル)(服毒自殺)、金賢姫(キム・ヒョンヒ)(元死刑囚)の両工作員が自ら犯行を遂行したと立証できる根拠を確認した、と指摘した。

 事件をめぐっては、国家安全企画部が「北朝鮮のテロ計画を事前に察知しながら、謀略目的で阻止しなかった」などの疑惑が指摘されてきた。こうした見方に対し、報告書は、自作説や謀略説を裏付ける手がかりは皆無、としている。

 ただ、ソウル五輪(88年)を前に、国家安全保障に重大な脅威となる事件だったにもかかわらず、安全企画部が「金賢姫の供述のみに依存し、再検証を行うことなく拙速に捜査結果を発表したことが、不必要な疑惑を招く原因になった」とも指摘した。

 報告書はまた、大統領選挙で与党候補(盧泰愚氏)を有利に導くため、選挙前に金元死刑囚を韓国に移送する努力が払われたほか、10の政府機関が合同チームを作り、全国的な反北朝鮮ムード醸成のために活動した、としている。

 究明委は、事件の核心人物である金元死刑囚に十数回にわたり面会を求めたが実現できなかったという。報告書は「金元死刑囚の供述がなければ確認できない疑惑や、機体爆破に使用された爆発物などは解明できなかった」とし、強制的な調査権限がない中での検証作業の限界に言及した。

(2007年10月25日0時49分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20071024i114.htm

1024 朴大統領、拉致を黙認 金大中事件 韓国が報告書公表 [朝日]

2007年10月24日11時50分

 73年に東京で起きた金大中(キム・デジュン)氏拉致事件の再調査を進めていた韓国の情報機関、国家情報院の真実究明委員会は24日、当時の情報機関・中央情報部(KCIA)による事件への組織的な関与を認める報告書を発表した。最大の焦点だった朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(肩書はすべて当時)の指示については、決定づける証拠は見つからなかったものの、少なくとも暗黙の承認があったと判断した。

 韓国の政府機関が事件への関与を認めたのは初めて。委員会はこうした結論に基づき、韓国政府による金大中氏への謝罪が必要と主張。同時に日本政府に対しても、真相究明に努めなかったと指摘した。日本政府は韓国側からの謝罪と再発防止表明を待つ方針。

 報告書によれば、李厚洛(イ・フラク)KCIA部長が李哲熙・情報次長補らに拉致を指示した。在日大使館に勤務するKCIAの海外要員が「KT工作計画案」を作成。当時の事件現場のホテルから指紋が発見された金東雲(キム・ドンウン)1等書記官ら在日大使館のKCIA海外要員が犯行を担った。事件に関与したKCIA要員は24人にのぼるという。

 要員の一人は「当初、計画案には在日韓国人の暴力団幹部を使った金大中氏殺害案も含まれていた」と証言した。だが、日本警察の尾行や盗聴から殺害を断念。東京のホテル・グランドパレスから金大中氏を連れ出した段階で、単純な拉致計画が確定していたとした。

 朴大統領による犯行の指示については、様々な証言が交錯。当時、李厚洛氏による「私がやりたくてやるのだと思っているのか」という発言や、公使の「大統領の決裁をもらったので実行できる」との趣旨の発言も確認したが、指示を裏付ける明白な文書は発見できなかった。

 委員会は、大統領が事前に犯行を指示した可能性とともに、少なくとも暗黙の承認があったと判断した。

 委員会の調査は、強制力を伴わない面談形式で行われたが、証言に対する検証資料不足が目立った。李厚洛氏は健康状態の悪化で面談が実現しなかった。調査内容の大部分が李哲熙氏らの証言に頼っており、「調査には限界があった」とした。

 一方、73年11月と75年7月の2度にわたる日韓政治決着について、日本政府は韓国の公権力介入を十分に認識しながら、韓国の求めに応じて、外交的な事件解決に協力したとした。委員会は「両政府は事件の真相隠蔽(いんぺい)に対し、責任を免れることは難しい」としている。

 そのうえで、委員会は日本政府に対して「深い遺憾の意を表明する」とする一方で「韓国の公権力介入を認識しながら外交的な解決を試み、事件発生初期に真相究明ができなかった」と指摘した。

 宋旻淳(ソン・ミンスン)外交通商相は24日の記者会見で、報告書について「過去にこうしたことがあったことは遺憾だ」としたが、「官民(合同)委員会の調査結果が出たと認識している」とも語り、政府としての最終認定であると明言することは避けた。委員会は04年に設置された。報告書は87年の大韓航空機爆破事件など計7件について出された。
URL:http://www.asahi.com/international/update/1024/TKY200710240126.html
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