dunpoo @Wiki ◎生き方・考え方の本棚06Ⅰ

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。


西洋音楽史●岡田暁生 [読売]

出版社:中央公論新社
発行:2005年10月
ISBN:4121018168
価格:¥819 (本体¥780+税)
『ロマン派音楽の多彩な世界』

岩田隆
出版社:朱鳥社
発行:2005年11月
ISBN:4434070460
価格:¥2000 (本体¥1905+税)
音の歴史を楽しめる
 新書1冊で「西洋音楽史」を打ち立てようとは大胆だが、岡田氏の試みはもののみごとに成功している。枝葉はいさぎよくふり払い、根幹の伸び方だけをすいすいと描き出す。力強く明快な語り口に耳を傾ければ、千数百年にわたる歴史の旅を夢中で楽しめることうけあいだ。

 音楽が神への厳粛な捧(ささ)げ物だった中世から、ルネサンスを経て、楽の音は人間のための、世俗の快楽となっていく。オペラの誕生とともに巨大なスペクタクルと化し、やがて19世紀、いわゆる「クラシック」の完成を見る。20世紀前半の前衛的爆発を経て「黄昏(たそがれ)」に至るまでの流れは、ヨーロッパ文明の運命そのものだ。著者は現代人の感覚を絶対視するのではなく、「ドミソ」が不協和音と感じられ、メロディが重視されていなかったころの人々の心に寄り添いながら、歴史を推進したロジックを鮮やかに再現する。

 作曲家の地位や、聴衆の構成など、社会的条件への目配りも効いて風通しがいい。同時代人から見たバッハの偉大なるズレ具合や、「かけあい」の名手としてのモーツァルトの天才等、各論がまた新鮮な話題に満ちている。こんな調子で「西洋文学史」や「西洋美術史」を書いてくれる人がいたらどんなにいいだろうと思ってしまった。

 19世紀フランス音楽が外国に開かれた性格を持っていたことは、岡田氏も指摘するとおりだが、そのフランス・ロマン派を中心に、異国趣味が花開いた様子をくわしく語るのが岩田氏の著作である。オリエントや日本についてのトンチンカンな理解と憧(あこが)れが、どのようなリズムやメロディ、物語をもたらしたのか、実例を丹念に解説してくれる。忘れられた「軽音楽」の掘り起こしも含めて、情報量は実に豊か。類書の少ない、貴重な1冊である。

 ◇おかだ・あけお=1960年、京都市生まれ。京大人文科学研究所助教授。

 ◇いわた・たかし=1939年、愛知県生まれ。高校教諭などを経て名大非常勤講師。
評者・野崎歓(東京大学助教授)

(2006年1月10日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060110bk02.htm

〈想像〉のレッスン●鷲田清一 [読売]

出版社:NTT出版
発行:2005年10月
ISBN:4757141270
価格:¥1785 (本体¥1700+税)
 メルロ=ポンティの現象学に学びながら、身体や衣服について、しなやかでしかも強靱(きょうじん)な思索を重ねてきた著者が、「現代アート」の諸作品を手がかりに行った、見えない、あるいは見えているのに気づかないものを見ることの「レッスン」の記録。

 「現代アート」といっても、桑田佳祐や森村泰昌、安藤忠雄、高橋悠治など、一癖も二癖もあるジャンル横断者から、西嶋豊彦の日本画、河瀬直美の監督した映画、鈴木理策の写真、南木佳士の小説、中島美嘉の歌といった、本書で初めて教えられた作品まで、対象は実に広範囲にわたっている。

 こうした多様な作品のうちに、世界の「すきま」や「裂け目」を見る著者の眼差しから、ふと「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」(『三冊子』)という言葉が浮かんだ。出会いに散る火花で一瞬前句を照らす、付け合いの心意気にも通じる。
評者・神崎 繁(首都大学東京教授)
(2005年12月19日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20051219bk08.htm

「責任」はだれにあるのか●小浜逸郎 [読売]

出版社:PHP研究所
発行:2005年10月
ISBN:4569646271
価格:¥756 (本体¥720+税)
 JR福知山線事故後の会見で、当事者でもない記者が興奮状態で、罵倒(ばとう)ともいえる責任追及をおこなっていた。違和感を覚えた人も多いはず。責任追及の仕方はもとよりそもそも責任とはなにか、どの程度の責任をおえばよいのかとなると難問である。

 本書は日常的な責任問題から戦争責任までにわたって、具体例を使いながらこの難問に挑戦している。責任は、どのような行為も可能だったはずという選択意思の自由を前提にして問われる。しかし、人間はいつも理性的な意思を介在して行為しているわけではない。不測の事態がおきたときの感情的混乱を収拾するために、意思の自由が事後に措定されるという逆立ちの指摘に蒙(もう)が啓(ひら)かれる。われわれが絶対的な自由にはないことがわかれば、絶対責任をもとめることはできないことになる。こうしたことを認めたうえでの倫理的民度の成熟を提唱している。諄々(じゅんじゅん)と説く著者の語り口がすこぶる魅力的。(PHP新書、720円)
評者・竹内 洋(関西大学教授)
(2005年12月19日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20051219bk09.htm

土恋 [著]津村節子

[掲載]2005年11月13日
[評者]最相葉月

 舞台は、阿賀野川流域にひらけた新潟県安田村。佐渡ケ島の相川にある小さな旅館の長女みほは、伯父の紹介で安田村庵地に三代続く窯元の長男・啓一に嫁ぐ。みほは二十七歳、シベリアに抑留されていた啓一は三十八歳だった。

 初夜の床で、みほは啓一から姑(しゅうとめ)ががんであることを知らされる。夫婦を待ち受ける苦難の日々の始まりである。

 啓一の器はひとつひとつ蹴(け)り轆轤(ろくろ)で成形し、薪を燃料にした登り窯で焼く。安い型もののやきものやプラスチック製品が出回るなか苦戦を強いられる。借金もある。みほは振袖を売って生活費を工面するが、台風で窯が崩れたり不渡り手形をつかまされたりして災難は続く。

 「何とかなるすけ」「おめさんの食器は日本一使い易いけえ」

 背筋をしゃんと伸ばして啓一を励ますみほの姿が、物語のはじめに置かれた一節と重なる。〈佐渡を、絶海の孤島、流人の島と思っている人の中には、前方に佐渡ケ島が見えてくると、船が新潟へもどったのかと思う人がいるという〉

 佐渡とは、向きあってみれば思いのほか大きく凜々(りり)しい、みほのことだと。

 啓一の面取湯呑(ゆのみ)が日本民芸協団の公募展で入賞し、娘四人を抱える生活もようやく穏やかになる。ここで終われば、戦後を生きた夫婦の愛と庵地焼誕生の物語だろう。いや、ここで終わってもいいと思えた。庵地の土の匂(にお)いに包まれた、心豊かな夫婦のかたちを見たのだから。

 ところが後半、思わぬ展開がある。みほから長女の美子へと視点が移り、一家を支える主役がダイナミックに入れ替わるのだ。両親の下で窯元の厳しさを学んだ美子は「かあちゃん、男に出来ることは女でも出来るとおれは思う」と告げ、十八歳で四代目を嗣(つ)ごうと立ち上がる。

 ふるえがきた。親の知らぬうちにいつのまにか、子は心を固めている。それを知った親の驚きと誇りとさみしさ。家族が未来にいのちをつなぐことの壮大さ。

 子のない私に、人の親の心情を本当に知ることは叶(かな)わない。それでも、そんな私でも、みほのように満たされてしまう。物語の偉大な力だ。
出版社: 筑摩書房
ISBN: 4480803912
価格: ¥ 1,680
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200511150262.html

テーマ書評:肉体と観念 [産経]

【2005年 今年の3冊】評論家・片山杜秀
 ☆『更年期 日本女性が語るローカル・バイオロジー』マーガレット・ロック著、江口重幸、山村宜子、他訳(みすず書房)

 ☆『書-筆蝕の宇宙を読み解く』石川九楊著(中央公論新社)

 ☆『開祖植芝盛平の合気道 「技」と「言葉」に秘められた精神世界』大宮司朗著(柏書房)

 正義や改革といった、空疎な観念を弄(もてあそ)ぶ本には、うんざりだ。人間は観念だけでは生きられない。あくまで肉体を持った、生々しい存在だ。しかし、逆にそちらに徹すると、健康法や性やスポーツのノウハウ本になってしまう。『更年期-』は女性の体調変化に、『書-』は筆で字を書くという行為に、『開祖植芝盛平-』は近代日本の伝説的武道家の技に、それぞれ焦点を当てる。いずれも生々しい肉体の話だ。が、どれもそこにとどまらない。更年期を何と思うかに、その社会の文化が問われる。字体筆法に、その時代の思想が問われる。武道家の動きの型に、その国の伝統の根源的部分が発見される。肉体と観念が、冒険的に結びつけられる。スリリングである。
URL:http://www.sankei.co.jp/news/051226/boo006.htm

カーテン―7部構成の小説論 ●[著]ミラン・クンデラ

[掲載]2005年12月04日
[評者]鷲田清一

 ミラン・クンデラのこの小説論を読みながら、私はある夕刻のことを思い出していた。

 シンポジウムからの帰り道、私は平田オリザさんとまだ議論を続けていた。「19世紀にはサイエンティストとアーティストが並行的に出現しましたね」と水を向けると、「演出家もそうですよ」と平田さんは言った。「えっ、どういう意味?」と返すと、「あたりまえじゃないですか。演劇が『普通の人』を表現しだしたからですよ。『普通の人』を描こうにもモデルがまったくなかったから、演出家が必要になったんです」と、平田さんは淀(よど)みなく答えた。

 退屈なほど些細(ささい)な出来事の重なり、そのなかで突然こよなくエロティックな行為が展開してしまう。あるいは自殺が起こる。人生のその散文的な現実のすきまから、それをそっくり塗りかえるようにして立ち上がる「喜劇性」の、極度に圧縮した描写の連なり……。〈歴史〉が過去の出来事を、現在の、要約され単純化された影絵へと変じてしまうのに対して、〈文学〉はそのように「刺繍(ししゅう)された真実」の「予備解釈というカーテン」を引き裂くところにその存在理由があると、クンデラはいう。小説は読者に、それらを鏡のように差しだす、と。

 セルバンテス、フロベール、カフカ、ムージル、ゴンブローヴィチ……。彼らの文章を変奏曲のように引きながら、チェコ生まれのクンデラが語るのは小説への愛であるが、その背後には、クンデラの〈私〉とそれを編んだ〈国〉とそれを超えるもう一つの〈歴史〉(価値の歴史)への錯綜(さくそう)した思いがひかえる。

 「かつて一度もみずからの命運の主人であったことも、みずからの境界線の主人であったこともない」中央ヨーロッパという括(くく)り。それを、打ち捨てられ無視されてきた西欧のもう一つの辺境であるラテンアメリカと重ねあわせながら、この二つの土地が「二十世紀小説の進化において中枢の場所を占めた」ことの意味を問う。滑稽(こっけい)と誇張とアイロニーと明晰(めいせき)さを手法とした、辺境のもう一つのモダニズムの意味を問う。

 あるいは、小説はそれを産んだのとは別の国で、翻訳をつうじてより深く理解されてきたという洞察から、西欧社会にみられる、「みずからの文化を大きなコンテクストのなかで考察することの無能力(あるいは拒否)」を、頑(かたく)なな地方主義として告発する。ヨーロッパは「最小の空間のなかの最大の多様性」という、みずから育んだはずの最良の価値を見失った、と。

 人びとの日常の愚行を、滑稽に、剥(む)きだしに描く小説は、じつは「悲劇的な感覚」を失ったヨーロッパの裏面でもある。たがいに相対的なものがみずからの真実を手にするのは、敵対者の破滅を代償とするかぎりのことであるという「悲劇」。その有罪感の深い感覚こそが、敵対者にも正しさを認める「和解」の条件である。が、現在、「悲劇的なものが私たちを見捨ててしまったのであり、おそらくそこにこそ真の懲罰がある」。クンデラは、「滑稽」の行く末を見つめた果てに、この重い言葉を書きつけた。

出版社: 集英社
ISBN: 4087734358
価格: ¥ 2,625
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200512060235.html

心を生みだす遺伝子 ●[著]ゲアリー・マーカス


[掲載]2005年05月29日
[評者]渡辺政隆

 最近の生物学は、ゲノム(遺伝子)と脳科学の話題で花盛りである。関連図書の出版も相次いでいる。そこにまたもや加わったのが本書。おまけに書名まで、遺伝子と脳(心)のダブルヘッダーときている。もっとも、原題は『心の誕生』。

 邦題に「遺伝子」の三文字が追加された背景には、全九章のうち最初の七章で遺伝子のはたらきが論じられていることにある。ただし、小難しい論議ではない。著者の専門は言語学と心理学なのに、自家薬籠(やくろう)中のもののごとく、DNAについて軽やかな解説が展開されているからだ。

 著者はなぜにそこまで遺伝子にこだわるのか。その理由は、ヒトゲノム解読により、ヒトの遺伝子はわずか三万個あまりと推定されたことに由来する。ヒトの心(脳)の複雑なはたらきが、たったの三万個の遺伝子で説明されてたまるかというのは、当然の反応である。しかしここに、遺伝子をめぐる誤解の大本があると著者は語る。

 遺伝子の機能は、一個につき一つとはかぎらない。なにしろ、ヒトのほぼすべての細胞は、同一の遺伝子セット(ゲノム)をそなえており、三万個の遺伝子を擁するヒトのゲノムは、爪(つめ)から心臓そして脳に至るまで、自在につくりだしてしまう。これは、最初からきっちりとした青写真がゲノムに焼き付けられているゆえではなく、時と場所に応じて(これを著者は、IFとTHENと表現する)、遺伝子の情報が階層的かつ柔軟に機能するからにほかならない。いうなれば、素材は限られているが、レシピを臨機応変に変更することで、料理に莫大(ばくだい)なバリエーションがもたらされるというわけ。

 そのような遺伝情報によって作られる脳もまた、柔軟な機能を秘めている。したがって、「ヒトの心を決めるのは、氏か育ちか」なる論争はもはや成立しない。遺伝は当然介在するが、遺伝だけで決まるはずもないのだ。

 論争となっている問題を論じるとなると、つい強弁しがちである。その点本書の筆致はあくまでもしなやかであり、そのうえ透徹した論理で貫かれている。若き俊才の力量に脱帽。

著者: 大隅 典子・ゲアリー・マーカス
出版社: 岩波書店
ISBN: 4000053892
価格: ¥ 2,940
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200505310232.html

いきなりはじめる浄土真宗 はじめたばかりの浄土真宗 ●[著]内田樹・釈徹宗

[掲載]2005年05月22日
[評者]宮崎哲弥

 仏教に惹(ひ)かれる哲学者は少なくない。

 確かに仏教という体系は魅惑的だ。けれども、哲学者のアプローチは往々にして知解に偏りがちだ。

 しかも瞑想(めいそう)修行などに凝り出すや、その体験を悟りと短絡する傾向もある。

 本書は、哲学者と僧侶の論考の往復によって構成されるが、アタマにもカラダにも、囚(とら)われていない。

 著者の一人、内田樹はレヴィナスの研究者、哲学的エッセイの名手であると同時に、合気道の達人でもある。つまり身体の不可思議には馴(な)れっこなのだ。だからこそ僧侶と五分(ごぶ)で渉(わた)り合える。

 対する浄土真宗本願寺派の釈徹宗は修行三昧(ざんまい)の坊さんではなく、宗門きっての理論派として知られる気鋭の学僧だ。

 こんな二人の共著が、単なる浄土真宗入門であろうはずがない。

 一冊目の『いきなりはじめる……』では、仏教における因果の捉(とら)え方がメインテーマとなっている。まず内田が勧善懲悪的な業報説の反倫理性を指摘し、レヴィナスの有責論を参照しながら、因果律を転倒させる思想の重要性を説く。

 この提起を受けて釈は、同時決定的、相互依存的な縁起観(「因があるから果があると同時に果があるから因がある」と観じること)こそが仏教独自の因果論であると応じる。

 語り口こそ和やかだが、ピンと張り詰めた思考が向き合っている。

 釈が、仏教の説く因果、縁起の認識は「おのれの執着・無明を相対化するためにこそある」と打てば、内田が「それは因果による思考を放棄することではなく、広大で、豊かな因果のネットワークを構想する知性を励ますためではないか」と響く。このように互いの思索を照合しながら、次第に仏教の土台を明らかにする。

 二巻目『はじめたばかりの……』では、善悪論を軸に親鸞の考説、浄土真宗の基本教理が検討される。

 内田は「真に知性的であろうとすれば、人間は宗教的にならざるをえない」と総括している。だが、宗教の側の読後感としては「真に宗教的であろうとすれば、人間は知性的にならざるをえない」だ。

いきなりはじめる浄土真宗
著者: 内田 樹・釈 徹宗
出版社: 本願寺出版社
ISBN: 4894167778
価格: ¥ 777


岸和田だんじり祭 ●[著]江弘毅 [朝日]

[掲載]2005年09月04日
[評者]鷲田清一
 この男、東京の書店でも買える関西の人気タウン誌の辣腕(らつわん)編集長にして、だんじり祭の元若頭である。一年中頭の中が「だんじり」だらけ。「だんじりでゆうたら……」という翻案で思考のすべてが回っている。

 なぜ命がけで4トン以上の地車(だんじり)をよってたかって曳(ひ)き回すのか、なぜ危険きわまりない十字路を全速力で曲がることに懸(か)けるのか。そんな問いは、祭の当日に仕事が休めなくて会社をやめる男もごろごろいるこの街では一蹴(いっしゅう)される。「人はパンのみにて生くるにあらず」がそのまま生きている街とでも言おうか。

 だからほどほどが毛嫌いされる。「『責任をとる』ではなく『責任をまっとうする』というところに常に軸足を置かないと、何一つ前へ進まない」世界なのだ。

 江の言い方だと、通知簿1と5の親友が毎日わいわいやかましくやっている街。カタログ情報をやたら気にして通知簿3ばかりで生きる人生に対して、1のやつは「さっぱりわからん」と言い、5は「おまえはアホか」で終わり。半端が押しのけられる。

 そんな若頭たちの「寄り合い」も、だから半端ではない。だんじりを小屋から出して開く元旦の新年会に始まり、若頭の月例会、顔合わせの親睦(しんぼく)会、安全祈願祭、物故者の慰霊法要(明治時代から34名が命を落としている)、さらに勉強会、友誼(ゆうぎ)町との花交換会など、年中途切れずある。これらすべてに宴会がともなう。とにかくひっきりなしに「寄り合い」、その合間に仕事に行くという感じだ。

 「遣」という語に惹(ひ)かれた。曲がり角での地車の「遣(や)り回し」、そして「お前らぁ、わかってんか」「しゃあないのお」といった荒々しい言葉で「気を遣(つか)う」年長者たち。意気と深いいたわりが言葉ににじむ。地車の組み立てにも、日頃のつきあいにも、「ひとつひとつに差し向かう」丁寧な心根が見える。

 あくまで祭を軸に、会社や家族といった別の共同体でのそれぞれの生活の縁(ふち)を、そして生き方をさりげなく重ねあわす、そんな男たちの顛末(てんまつ)記。だから「だんじりでゆうたら……」なのだろう。
TITLE:asahi.com: 岸和田だんじり祭 [著]江弘毅 - 書評 - BOOK
DATE:2005/09/08 11:23
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200509060310.html


子どもが選ぶ詩101 いっしょに読んで! ●[編]卯月啓子 [朝日]

[掲載]2005年09月05日
  毎夕、日直が気に入った詩を教室の後ろの黒板に書く。それを翌朝、クラスみんなで読み上げる。子どもたち自身で名詩選をつくる??。そんな取り組みを約20年続けてきた千葉県の公立小学校教諭が、子どもたちが選んできた101の詩と、子どもたちが書いた推薦文を一冊にまとめた。

 「美しい日本語のリズムや息づかいにふだんから接していれば、いつのまにか自分の感情を表現する言葉を体で獲得できる」が編者の持論。教室に100冊以上の詩集などを置く。

 本では、担任した2年生から6年生までが選んだ詩を、おもしろい詩、さみしくなったときに読む詩、どう生きていくか考える詩、家族の詩などに分類した。

 選んだ詩を薦める子どもたちのコメントも味わい深い。2年生男子はまど・みちおさんの「さくらのはなびら」を読んで「さくらのはなびらは、さくらがおとしたなみだです」と書き、父母の悪口を描いた谷川俊太郎さんの「わるくちうた」を読んだ4年生女子は「この詩はわたしたちのみかたです」と、父母に怒られたときに読むことを薦める。編者は「詩とともに、詩を選んだ子どもたちとの出会いを楽しんでほしい」と言う。
TITLE:asahi.com: 子どもが選ぶ詩101 いっしょに読んで! [編]卯月啓子 - 読書ナビ - BOOK
DATE:2005/09/08 11:24
URL:http://book.asahi.com/navi/TKY200509050131.html


電磁波は〈無害〉なのか ●菊池久一 [読売]

出版社:せりか書房
発行:2005年7月
ISBN:4796702652
価格:¥2520 (本体¥2400+税)
評者・苅部 直(東京大学助教授)
  「ケータイ化社会の言語政治学」という副題の方が、この本の中身をよく伝えている。携帯電話などが空中に放つ電磁波について、人体への被害を告発する声も、悪影響を懸念させる調査結果も、世に発せられているのに、広い議論の場へとのぼることが、いっこうにない。そこに著者は、「多数派」の言説が人々の言葉のやりとりを支配してしまう、現代社会の病理をみる。

 「世論」による少数派の圧迫は、長らく指摘されてきた事柄であるが、それを「法」と「政治」の問題としてとらえるところに、この本の眼目がある。今ある秩序を支えているのは、それを正当化する言説にほかならない。そうした言葉の働きに対し、疑いの目を働かせ、対抗してゆくこと。人々をとりまく言葉の意味を、たえず再解釈する営みこそが、現代人に残された、自由な「政治」の実践となる。刺戟(しげき)の強い話題をとりあげながら、考察はあくまでもねばり強い。
(2005年9月5日 読売新聞)
TITLE:電磁波は〈無害〉なのか : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
DATE:2005/09/05 14:08
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20050905bk07.htm


ゴッド ハズ ア ドリーム ●デズモンド・ツツ著 [産経]

 著者は幼いころから神学を学び、黒人では最初のヨハネスブルク聖マリア・カテドラルの主席司祭となった。マーチン・ルーサー・キング牧師の思想に共鳴し、南アフリカの人権とアパルトヘイト撤廃に尽力したことで一九八四年、ノーベル平和賞を受賞した。

 本書は、著者が初めて一般向けに書いた「神への入門書」である。公私にわたるきわめて身近な経験や歴史観、社会観を通じて、人類の平等と平和を訴えている。

 個人的な苦しみや世界の苦しみは、いずれ形を変えて人類の喜びと救済になるという信念はそのまま、神の御心であり夢と解釈。その夢を実現するために、私たちは相手を許すこと、謙虚であること、寛大であること、そして勇気を持たねばならないと主張する。(和泉圭亮・利子・裕子訳/竹書房・一二六〇円)
(09/04 05:00)
TITLE:Sankei Web 読書 【書評】「ゴッド ハズ ア ドリーム」デズモンド・ツツ著(09/04 05:00)
DATE:2005/09/04 15:33
URL:http://www.sankei.co.jp/news/050904/boo015.htm


身近な野菜のなるほど観察記 ●稲垣栄洋 著 [読売]

出版社:草思社
発行:2005年8月
ISBN:4794214340
価格:¥1680 (本体¥1600+税)
 キュウリは本当は「きゅうり」ではなく「きうり」、つまりは「黄瓜」で、熟したキュウリは色鮮やかな黄色となり、実も丸々とへちまのように太っている。私たちが食べる緑のものは、まだ生育の途上で、だから食べられないようにいぼと呼ばれる突起がある、だとか、あのピーマンが苦いのは当たり前で、やはり未成熟(熟すると赤くなる)だから食べられないように苦み物質を出しているとか。題名通り、「なるほど」の連続。ちなみにピーマンの苦みを取るのに細かく切るのは邪道らしい。切ってしまうと苦み物質が酸素と結びつき、分解されなくなってしまう。切る前に一度丸ごとゆでて下ごしらえするとよいという。

 スーパーで魚の切り身を売るようになり、魚の形を知らない若者が増えていると聞き、嘆かわしく思っていたが、毎日食べている野菜のことは意外に知らない。

 キャベツは、葉牡丹(ぼたん)と同じ種で、美しい花が咲き、江戸時代は食用ではなく、観賞用の植物だったという。一度、じっくり見てみよう。(草思社、1600円)(哲)

(2005年8月31日 読売新聞)
TITLE:身近な野菜のなるほど観察記 : 記者が選ぶ : コラム : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
DATE:2005/09/04 15:31
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/column/press/20050831bk02.htm


焼身 ●宮内勝典 [読売]

出版社:集英社
発行:2005年7月
ISBN:4087747646
価格:¥2100 (本体¥2000+税)
評者・野崎 歓(東京大学助教授)
(抜粋)
  かつてベトナム戦争のころ、仏教弾圧に抗議して焼身自殺した僧侶がいた。当時ニューヨークのスラム街で食い詰めていた著者は、蓮華座(れんげざ)をくんだまま泰然と炎上する僧の姿を新聞で見、震撼(しんかん)させられた。それからはるか40年近く経て、現代日本の若者たちと語り合ううち、忽然(こつぜん)と蘇(よみがえ)った写真の記憶に促されて作家は旅立つ。「なにか、信じるに足るものがありますか」と悲しげに問う若者への答えを求めて、僧の抵抗を支えた「苛烈(かれつ)でありながら、蓮(はす)の花のようにも思える」思想のありかを知るために。

 旅の経緯をつづったエッセイという体裁だが、語りのわざが幾重にも凝らされている。手がかりもなしにベトナムにやってきた作家は、名前すらわからない僧の足跡を本当に探り当てることができるのか。寺を回って不自由な筆談を重ねながら、ジグザグを描いて進行する捜索は意外な展開に富み、実にスリリングだ。土地の人々との触れ合いが情味ゆたかに描かれる一方、旅人自らの過去へさかのぼる旅もそこに重ね合わされ、バイク事故で「焼死」しかけた経験が明かされたりする。

 やがて作家はカンボジアの奥地に分け入り、大量虐殺にとりつかれた現代史の悪夢を見据える。文章には熱帯の濃密な匂(にお)いや、密林にみなぎる生気があふれ返り、宇宙的なスケールの大きさすら感じさせる。

 ドキュメンタリー的記述は最終部分で、驚くべき次元に突入する。焼身の瞬間にいたるドラマが、作家の想像力によって克明に再構築されるのだ。炎のただなかにまで踏み込もうとする気迫に圧倒されながら、読者は「小説」の面白さを堪能することだろう。

(2005年8月29日 読売新聞)
TITLE:焼身 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
DATE:2005/09/04 15:30
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20050829bk02.htm


イスラ-ム世界の創造 ●羽田正 [読売]

出版社:東京大学出版会
発行:2005年7月
ISBN:4130130439
価格:¥3150 (本体¥3000+税)
評者・池内 恵(日文研助教授)
(抜粋)
 本書は「イスラーム世界」という概念が西欧・中東・日本のそれぞれの事情と相互関係によって成立する過程を検討してその問題性を解明し、この語の使用を止めようとまで主張する。きわめて刺激的で重要な提言である。そもそもイスラーム教徒は前近代にも「イスラーム世界」という枠組みで自己認識をしていたのだろうか。地理学書ではそうではない。歴史書や法学書では確かに「イスラーム教徒の支配者が統治し、イスラーム法が施行されている領域」を「われわれ」の世界としてとらえ、その他を「異教徒の世界」とする発想は存在した。しかしそれは理念上の存在であり、地理的範囲ではなかった。

 近代に西欧諸国は「世俗化した西洋近代」の反対物として「イスラーム世界」を認識し、この「地域」の特性としてイスラーム教とイスラーム法の貫徹性を前提とする。イスラーム教徒もこの「イスラーム世界」概念を取り入れ肯定的な意味づけを加えていく。日本の場合はイスラーム教との対峙(たいじ)の歴史がなく、むしろ「反西洋」の政治的思惑から潜在的同盟者としての「イスラーム世界(回教圏)」を想像してきた。

 ◇はねだ・まさし=1953年生まれ。東京大学教授。イスラム史。
(2005年8月29日 読売新聞)
TITLE:イスラ-ム世界の創造 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
DATE:2005/09/04 15:29
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20050829bk07.htm


夢を実現する戦略ノート ●ジョン・C・マクスウェル [訳・解説]齋藤孝 [朝日]

(抜粋)
自分の力を効率よく生かす「集中力」、不可能を可能とする「突破力」、成果が倍増する「段取り力」など、7つの力をつけることが成功にたどりつくための戦略となる。他の自己啓発書と大きく異なるのは、ほかの人に喜ばれることが結果的に自らの成功につながることを強調している点である。著者にいわせれば、他人への思いやり、配慮こそが自らの夢の実現に欠かせない資質にほかならない。
DATE:2005/09/04 15:29
URL:http://book.asahi.com/booktimes/TKY200508300300.html


赤灯えれじい ●きらたかし [朝日]

[評者]湯浅学
(抜粋)
 赤い灯といっても酒場のいわゆる赤ちょうちんではなく、夜間の道路工事現場で交通整理ガードマンが振る電灯の光のことである。

 気弱で生まじめで、筋力も乏しい青年が工事現場ガードマンのバイト仲間の娘に恋をする。その娘は青年とは正反対の、気丈で短気で腕力の強い豪快な美人。うじうじした青年が小ざっぱりとした娘に好かれようといらぬ気を回したり、無い体力を使ったりして、空回りしたり、怪我(けが)したりする様が、時に激しく時にのんびり時にしみじみ時にシリアスに描き出される。

 娘の過去や、普段表面化しにくい誠実さなどが次第に明らかになっていく。

 最初は青年のもたもたした行動に、イライラさせられるが、不器用な生き方しかできない者が向こう見ずな努力をしている姿に、呆(あき)れながらも、つい声援を送ってしまうのだった。性格も行動パターンもほとんど正反対の二人だけに、最初は青年の一方的な恋心が軽くいなされていく。娘は娘で、まっとうな生活ヴィジョンをなんとか実現しようと足踏みしている状態でもある。恋愛に酔っていられる状態ではない。フリーターが気楽な稼業ではない、という至極当然のことを伝え、大阪のワイルドな臭気もにじませる。特殊な“まったり感”が楽しい。

TITLE:asahi.com: 赤灯えれじい [著]きらたかし - コミック教養講座 - BOOK
DATE:2005/09/04 15:27
URL:http://book.asahi.com/comic/TKY200508310243.html


美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源 ●池上英子 [朝日]

[掲載]2005年08月28日
[評者]松原隆一郎
(抜粋)
 著者は前著『名誉と順応』で、中世日本の武士たちにおける「名誉」追求の文化が、主従関係が常に反故(ほご)にされる不確定性にさらされていたからこそ意義を持ったという斬新な解釈を示した。本書では、礼節の文化が「座」など中世における自発的結社を起源とすると見ている。連歌や茶の湯など集団で営まれるセッション型の芸能は、礼法にもとづく社交の典型だというのだ。

 こうした「美的なパブリック圏」は、徳川期に爆発的に拡大する。商品市場の広がりとともに都市では消費文化が花開き、高い識字率を背景に出版産業が勃興(ぼっこう)して、俳諧やファッション、貸本などで美を愛(め)でる結社が人々をヨコにつないだ。身分制や分割統治といったタテ割りの幕藩体制が全国を支配する一方で、それは私的な領域をつなぐ「弱い紐帯(ちゅうたい)」としてのみ容認された。こうした「徳川ネットワーク革命」によって美意識や礼節、教養が育まれ、日本は経済発展と近代化の準備を整えたというのである。

 コーヒーショップやパブにおける政治的討議が西欧における民主制の揺籃(ようらん)となったとしばしば言われるが、そうした理想の「市民社会」を経由しなかった日本がなぜ発展を実現したのか。「文化資本」や「社会資本」を繁栄の基盤とみなす近年の諸説を駆使しつつ、重厚かつ説得的な説明が展開されている。
TITLE:asahi.com: 美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源 [著]池上英子 - 書評 - BOOK
DATE:2005/09/04 15:26
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200508300363.html


驚異の百科事典男 ●A・J・ジェイコブズ著 [毎日]

 (文春文庫・1200円)
若島正・評 
(抜粋)
 アメリカの出版社で雑誌編集者をしている三十五歳の男が、あるとき一念発起して、『ブリタニカ百科事典』の通読を思い立った。全三十二巻、三万三千ページ、六万五千項目にのぼるこの大事典を、流し読みすることなく、AからZまで、隅から隅まで読み切ろうというのである。本書『驚異の百科事典男』は、他人の目から見れば「だからどうした?」と言われるかもしれない、まったく個人的な偉業をおよそ一年で成し遂げた、その記録である。

 百科事典の項目を一つずつ読むなんてそんな退屈なことがよくできるものだ、とお思いになる方は、それをすべて読破した記録はさらに輪をかけて退屈だろう、と即断されるかもしれない。ところが、そうではない。これがおもしろいのである。本書は百科事典の構成をそのまま採用し、【a‐ak(アアク)】という項目に始まって【Zywiec(ジヴィエツ)】で終わる。事典の記述で著者の興味を惹いた部分が抜き出され、それと同時に、一年間の百科事典読破マラソンという暴挙に出たことでさまざまに変化していく著者の実生活が綴られる。つまり、本書を読む人間は、『ブリタニカ百科事典』のみごとなダイジェスト版を読み進めていくかたわらで、親子のつきあい、夫婦のつきあい、そして友達どうしのつきあいといった、ファミリー・ロマンスをまるで小説を読むように楽しめるわけだ。
毎日新聞 2005年9月4日 東京朝刊
TITLE:MSN-Mainichi INTERACTIVE 学芸
DATE:2005/09/04 15:24
URL:http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20050904ddm015070017000c.html


ブータン仏教から見た日本仏教 ●今枝由郎・著 [毎日]

 (NHKブックス・966円)
養老孟司・評
(抜粋)
著者はやがて大谷大学に入学し、仏教研究の必然としてチベット語を学び、フランス語を学び、フランスに留学することになる。初期仏教の経典はチベット語にもっとも正確に訳され、残されており、フランスはチベット研究に優れていたからである。じつは著者はそのままフランスの高等研究所に職を得、いまではフランス国籍を持っている。その間にブータンで十年を過ごし、ブータンの言葉であるゾンカ語を学び、多数の知己を得、仏教研究を行った。本書の後半は、そうした著者の目から見た、日本の仏教の特殊性の指摘と、それに伴う現代仏教批判であり、さらには将来の仏教への指針を示す。

 著者はいう。「いつの時代にも、まったく別の意味での三つの仏教がある。一、仏の説いた教え、二、仏とは何であるかを説いた教え、三、仏になるための教え」。この三番目が態度として仏教独自であることが指摘される。その意味では仏教はあくまでも「実践の宗教」なのである。「盲信的な前提ではなく、客観的な事実認識のうえに立脚し、たえずその認識を自ら検証するというのが本来の仏教の特徴である。--アインシュタインが『仏教は近代科学と両立可能な唯一の宗教である』と評しているのは、仏教のこうした性格を指しているのであろう」。本書の最後の部分は「ブータンとフランスの仏教」と題されている。現代フランスでも仏教思想の影響は決して無視できないし、仏教徒の数は増加していると、著者は指摘する。

 つまりこの本はなにをいいたいのか。その真意は、日本文化にもっとも欠けたものとしての、普遍性の追求だと私は思う。著者の経歴を見ても、それがわかるであろう。仏教がこの国に伝来して千五百年、そろそろそれが日本から発して、世界に戻って行っていい頃ではないか。それは単に、仏教の信者を増やすことを意味するのではない。われわれの思想とはなにか、それを生き、それを語ることなのである。

毎日新聞 2005年9月4日 東京朝刊
TITLE:MSN-Mainichi INTERACTIVE 学芸
DATE:2005/09/04 15:24
URL:http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/gakugei/news/20050904ddm015070018000c.html