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◎生き方・考え方の本棚06Ⅲ

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霊的人間●鎌田東二

[掲載]2006年05月28日
[評者]野口武彦(文芸評論家)

 この一冊は、アイルランドの海岸で孔(あな)の開いた石を拾うエピソードから始まる。自然の石笛である。吹いてくれと訴える声が聞こえる。

 石笛を吹く。するとその霊妙な音にみちびかれて、読者は時間と空間を越える不思議な旅路へ誘い出される。ヘルマン・ヘッセ、ブレイク、ゲーテ、本居宣長、上田秋成、平田篤胤、稲垣足穂、イエイツ、ラフカディオ・ハーン。決して任意に並べられた人名ではない。一筋の通い路でたがいに結ばれた「霊」の世界の遍歴なのである。

 ゲーテと本居宣長は「二卵性双生児」であり、宣長は「日本型ファウスト」だと大胆な断言を下すのも、深い確信から発している。詩を生み出す力は「精霊(ガイスト)」だとするゲーテの直観は、やまとうたを「言霊(ことだま)」の発現ととらえる宣長国学と相呼応している。比較文学風に類似を言い立てるのではない。同一の心性の働きを見て取っている。

 本書のキーワードをなす「霊」の字はモノと読む。モノとは何か。日本語で「品物」「悪者」「怨霊(まもの)」といろいろに使い分けられるこの言葉の多義性を、著者は「物質・物体(物)から人格的存在(者)を経て霊性的存在(霊)に及ぶ『モノ』の位相とグラデーションの繊細微妙さ」と表現している。別々の存在なのではない。全部がひとしくモノなのだ。コトが抽象的で無機質なのに対し、モノには、なつかしい独特の触感がある。カミよりも等級が低くて親しみやすい。

 宣長の「もののあはれ」にも、上田秋成の「もののけ」にも、モノは遍在する。平田篤胤はそれを学問の対象にしたし、稲垣足穂は近代社会でモノとの交信をこころみた異色の作家だった。『怪談』で有名なハーンには『神国日本』の著がある。空気が澄みきったこの美しい風土では、木にも草にも八百万(やおよろず)のモノが宿っている。

 山野に産業廃棄物が溢(あふ)れ、耳は政治的弁舌で塞(ふさ)がれた現代日本にも、まだモノは生き延びているのだろうか。本書は大丈夫と請け合ってくれている。人間がモノへの愛着を忘れずにいる限りは。

出版社: 作品社
ISBN: 4861820758
価格: ¥ 1,995
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200605300354.html

釜ケ崎と福音●本田哲郎

[掲載]2006年05月28日
[評者]斎藤美奈子(文芸評論家)

 世間は『ダ・ヴィンチ・コード』の話題でもちきりだけれども、イエスとマグダラのマリアが結婚して一児をもうけた、くらいで騒ぐんじゃなーい。派手さでは及ばぬものの、この本が主張するイエス像も従来のイメージを覆すという点では相当なもの。

 高い人格と学識を持ちながら、貧しい人たちとともに歩んだ高貴な人物、なんてとんでもない。彼はとことん貧しく、へりくだりを示す余裕などこれっぽっちもなく、「誕生から死まで、底辺の底辺をはいずりまわるようにして生きた」。「食い意地の張った酒飲み」で、ヘブライ語も読めない無学の徒で、「大工」と訳されている職業の実態は石の塊をブロックに切り分けていく「石切」で、それは当時の最底辺の仕事だった。

 イエスだけではない。マリアは律法に背いて父親のわからぬ子を身ごもった罪深い女だから出産の場さえ与えられなかったのだし、そこに駆けつけた「東方の三博士」が怪しい異教徒の占師なら、羊飼いも卑しい職業。12人の弟子だって大半は漁師、あとは徴税人マタイ、極右の過激派くずれというべき熱心党のシモン。いずれも当時のユダヤ社会では「罪人」とされる賎業(せんぎょう)で、つまりイエスは社会から排斥、差別される貧困層に属していたのだっ!

 ギリシャ語の原典にはそう書かれている。大方の聖書は誤訳しているし、教会の教えにも弊害が多い。と主張する著者は、93年から釜ケ崎の労働者と連帯して闘っているフランシスコ会の神父さん。本書には「こういう人たちにこそ布教しなくちゃ」と思っていた彼が「洗礼は受けない方がいいんじゃない」と職務にあるまじき考えを持つに至った過程も綴(つづ)られている。

 私は以前、本田訳の新約聖書『小さくされた人々のための福音』に本当に驚き、敬服したことがある。聖書の物語に多少の造詣(ぞうけい)がある人はテキストの解読に興奮するだろうし、そうでなくても貧困や差別を考える上で多く示唆に富む。「弱者への支援」に潜む差別性を鋭く突きながらも口調はユーモラス。現場感覚にあふれた実践の書だ。

出版社: 岩波書店
ISBN: 4000224638
価格: ¥ 2,625
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200605300356.html

人類が知っていることすべての短い歴史●ビル・ブライソン

[掲載]2006年05月14日
[評者]渡辺政隆(サイエンスライター)

 われわれは何者で、どうしてここにいるのか。この問いかけに答えるには、少なくとも、歴史と哲学と科学という三つのアプローチがある。この三つすべてを学ぶに越したことはないが、どれか一つと言われれば、何を知りたいかによるだろう。

 人間が歩んできた歴史を文字でたどれるのはたかだか数千年。それを知りたいのか、それともそれ以前までさかのぼりたいのか。それ以前となると科学の領域だ。

 存在とは何か、自分とは何かを知りたければ哲学だが、生命論、宇宙論にまで思考が及べば、その先は科学と融合する。そういえばカントも、宇宙は星雲として起源したという説を提唱している。万学の祖アリストテレスは、今流に言えば科学者でもあった。

 では科学は、どんな答を用意してくれるのか。たしかに科学は、人類の存在、宇宙の存在などをめぐるさまざまな謎解きに挑戦してきた。その結果何がわかり、何がわかっていないのだろう。これは、意外と難しい問題である。今どき、科学全般に通じている人などめったにいないし、お手軽な本も見あたらないからだ。とにかく、教科書の類(たぐい)はちっともおもしろくない。

 本書の著者も、教科書のつまらなさに科学への関心から遠ざかった、いわゆる「文系」の人だった。それがふと、「自分の生涯唯一のすみかである惑星について何も知らないことに気づき、切迫した不快感を覚えた」という。そこそこの知識を「理解し、かつ堪能し、大いなる感動を、そしてできれば快楽」を味わえる科学書を書こうと思い立ち、三年を費やして書き上げたのが本書だという。

 その意図は大いに成功している。宇宙の成り立ちから人類の現状まで、科学の成果をざっくりと抽出して一級のエンターテインメントに仕上げた手並みは、さすがに手だれのライターである。楽しみながら、科学リテラシー(教養)を身につけられる。

 冒頭で歴史や哲学に答を求めると科学に行き着くと書いたが、その逆もまたある。科学の知見を語ると、必然、科学の歴史、科学者のエピソード集になるからだ。そしてそのことで、冷徹なイメージのある科学が血の通った営みに思えてくる。しかも、過去の科学者には、奇人変人が目白押しときている。

 著者は、現代の科学の現場にも出かけ、さまざまな科学者への取材もしている。現代の科学者に奇人変人が少ないのは、逆に科学が普通の営みになりつつあるからだろうか。それはそれでよいことなのだろう。

 本書を読んで改めて思うのは、科学が解明していないことはまだまだ多いということである。そして、科学は語り口ひとつで、苦にも楽にもなるということだろう。

 本書を読んで初めて知ったのは、ニュートンの科学書『プリンキピア』出版と、孤島にいた飛べない鳥ドードーが人間のせいで絶滅したのが、ほぼ同時期の出来事だったという事実である。科学には未来を予測することはできない。われわれにできるのは、科学の知識を未来に役立てることだけである。
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200605160460.html

壊れる男たち--セクハラはなぜ繰り返されるのか●金子雅臣・著

(岩波新書・777円)

 ◇問題の本質を理解させる入門書

 セクハラやドメスティックバイオレンスの解説書を男性に読んでもらうのは至難の業である。ほら、こう書いただけで嫌になった人もいるでしょう? 理解してもらうのはさらに難しい。専門家や会社の人事担当者ならともかくも、普通の読書好きの男は、この系統の本にはなかなか手を出してくれない。

 一種の平板さや、行間から立ち上る女性筆者の怒りが予見されて、要するに面白くない、知的なレクリエーションにならない、と感じているのではないか、と想像する。それに自分が責められるように感じられ、既得権を奪われる話は、誰にとっても面白くないものだろう。

 この本は一言で言うなら普通の男性向けのセクハラ解説書である。著者はあちこちに共感しつつ気兼ねしつつ、読んで納得させる努力を重ねている。男性からの視点に立ったわかりやすい書きぶりによって、読む気になる男性が増えるのであれば、是非読んでもらいたい。もちろん男性からの視点とは、セクハラする人からの視点ではない。念のため。

 いまやセクハラという言葉は知らない人はいない。部下の女性を二人きりの食事に誘うのは危ない程度のことは、新聞くらい読む男なら全員が知っているだろう。その説明には実は納得できていないところがあっても、少なくとも犯罪と同じで、やったらまずい、自分が危うい、くらいのことはみんな判っているよね-多くの常識人はそう思っているようなのだが、ところが違うのである。本には単純強烈なセクハラの例が次々と登場する。

 ある中小企業の社長が、離婚した女性を面接で気に入って会社に採用した。やがてセクハラ相談に訴えられた社長はこんな風に言う。離婚している女なら大人だし、きっと寂しいにきまっている。手を出したって、本気で嫌って言われたわけじゃなかったし、その分面倒を見てきたし、何でセクハラで訴えられなくちゃいけない。好意だったのに。

 私が実際に臨床で出会うセクシュアルハラスメントの多くも、こんなことしたら危ないかも、なんて加害者が考えた形跡が全くないことが多い。あまりにあからさまな性的偏見を読むだけでも、いい加減にしてほしいと言いたいようなケースなのだが、実際にこういう人が絶滅する気配はない。

 とりあえず、なぜ悪いかは別として、やっちゃいけない、と思ってもらおう-企業向けのセクハラ解説などは、そういう路線で書かれたものが多い。「今時ちゃんとセクハラ対策をやらないと、御社のご損になりますよ。」人に深く刷り込まれた認識を変えるのはとても難しい。それならまずは行動レベルで。が、そのような方法の限界が、そろそろ露呈しつつある気がする。

 行動レベルで押さえ込まれることへの苛立ちや怒りの反応が、ジェンダーバッシングの動きにつながっているし、一方で、わかりやすすぎるセクハラがちっともなくならない現実を作ってもいるのだろう。

 セクハラを理解するには、性差別の問題とともに、パワハラ、パワーハラスメントの構造の理解が必須である。差別と権力の乱用-古くからの問題がここにもあるのである。そのあたりも本書はちゃんと触れてある。マニュアルではない、ハラスメントの本質の理解に向けての入門書といえるかもしれない。


工藤公康 粗食は最強の体をつくる!●幕内秀夫・著

 (三笠書房・1365円)

 工藤公康はヤクルト戦で今季初勝利を挙げたが、42歳11カ月であり、セ・リーグ史上最年長の勝利投手になった。その衰えぬパワーの源は粗食にあるという。

 肉を食べるとパワーがつくというのは迷信であり、工藤はご飯をしっかり食べる。雅子夫人のキャンプでのメニューは味噌汁、漬物、焼きのり、煮豆、納豆、小魚などである。そして味噌汁のだしに力を入れる。昆布に干しシイタケ、カツオ節。食欲が落ちたら、だし汁を飲む。

 チヂミ、白菜鍋、アジのさつま揚げ、力うどん。工藤家の食卓はじつに質素である。夏にアツアツの鍋料理が夏バテの対策だ。

 金田、稲尾など連投が平気であったきわめてタフな大投手は、貧しい食生活の時代に生まれた。(規)


感覚の近代--声・身体・表象●坪井秀人・著

 (名古屋大学出版会・5670円)

 ◇視覚や嗅覚めぐる言説を洗い直す

 「加齢臭」という言葉がある。不快な臭(にお)いという意味で、否定的に用いられることが多い。江戸時代はおろか、つい二、三十年前にまだなかった表現であろう。同じ匂(にお)いでも昔と今では感じ方も連想したイメージも大きく違うのかもしれない。

 長い歴史のなかで、人間の感覚はたえず変わっている。とりわけ近代以降、その変化が大きい。にもかかわらず、人々はふだんそのことにほとんど気付いていない。一言「変化」とはいっても、何がどのように変わったかは、必ずしも明瞭ではない。本書はそうした未解明の問題に正面から挑んだ。

 むろん近代における身体感覚について、これまでも複数の書物が刊行されている。ただ、そのほとんどが、感覚そのものに集中していた。それに対し、本書は感覚の表象およびそれをめぐる言説の分析に力点が置かれている。言説によってある種の感覚だけが特権的に語られるようになったのはなぜか。そのことが近代の様々なテクストに即して洗い直された。

 二部構成からなる本書は1と2で扱う問題が違う。第2部は唱歌、童謡、民謡、舞踊を取り上げ、リズムが近代的な身体の一部としていかに組織されたかを検討した。前著『声の祝祭』は戦時中の詩の朗読を考察したが、本書はその続編ともいえる。ただ、声の中身よりも、童謡や民謡といった「声」の類別概念の創出に焦点が当てられた。

 「国民の声」として民謡がどのように「発見」されたのか。用語の源流をたどっていくと、概念の受容は上っ面の模倣ではなく、国民文化の意識という、近代国家には必然的に芽生える自己イメージと関係している、ということがわかった。じっさい、民謡集の編纂は国民意識の定型化を狙って行われたものだ。西欧文化という他者と相対するとき、日本の内部にもオリエンタリズム的な欲望が刺激されるという指摘も興味を引く。

 かりに学校唱歌が権力による国民文化の創出という役目を担わされたとすれば、その「対抗文化」として登場した童謡というジャンルも結果として同じ役割を果たした。近代社会は国民国家に基盤を置いている以上、対立する両極が違う方向から同じ終着点にたどりつくことがある。身体感覚が近代化していくなかで、対抗のエネルギーも制度の補完として吸収されていくという示唆は意味深い。

 第1部は視覚、触覚、嗅覚(きゅうかく)などより広い範囲の問題を扱っており、第2部よりも多彩な展開になっている。

 本書の特色の一つに、基礎調査の周到さと資料引用の巧みさが挙げられる。文学や芸術における感覚表象を読み解くとき、小説や写真が分析の材料として用いられているが、その場合、テクストとの響き合いとして引き合いに出された他分野の言説は、あっと驚かせるものが少なくない。『吾輩は猫である』における容貌描写について、医学やヨーロッパに発祥する観相学との関連を指摘したのがその一例。頭蓋骨の計測に基づいて感情や智力を判別するという骨相学の流行は、西欧では十九世紀前半に終息したが、明治大正期の日本では読心術や記憶術や催眠術などとともに、科学として認知され、文学の領域にも波紋が及んでいる、と著者はいう。漱石研究はいうまでもなく、近代の身体美についての多くの論考にもこの視点は欠落している。

 同じ視覚でも、本書では必ずしも物の形や色を識別する感覚を指しているとは限らない。萩原朔太郎の詩や小説について、写真がもたらした新しい視覚との関係が指摘されたが、その場合の視覚とは、いわばテクストによって神話化されたもので、生理的な経験というより、感覚の観念化をめぐる感受性の問題といえよう。

 写真術の登場によって、見られることも見ることと同様、人々の欲望の対象となった。三島由紀夫が自ら被写体になったことの意味についての分析は、視覚の欲望を欲望するという問題を考える上で一つのヒントとなる。

 光や音は波長や周波数によって言い表すことができるのに対し、匂いは数値化することはできない。しかも、近代の「視覚中心主義」の下で、嗅覚はかつて退化した感覚と蔑まれていた。そのような文脈のなかで、匂いがどのように表象されたのか。本書は二つの角度から迫った。まず、匂いの表象が都市の公衆衛生と関連して読み解かれ、それから体臭や香水など、身体に密着して語られたテクスト群が俎上に載せられた。都市空間の表徴にせよ、個人の関係性の隠喩にせよ、匂いの言語化において、もっぱら「芳香」と「悪臭」の両極が注目され、強調されたのは興味深い。

 近代を振りかえるとき、歴史の瑣末さに引きずり回されるのではなく、むしろ今日の状況に対する強い関心を前面に出している。情報社会が人類の身体感覚にどのような影響を与えたのか。将来、人間の感覚はどこへ向かうのか。そうしたことを視野に入れ、あるいは関連させて論じるところは面白い。

毎日新聞 2006年4月16日 東京朝刊
msn.co.jp/shakai/gakugei/dokusho/archive/news/2006/04/16/20060416ddm015070146000c.html

マインド●ジョン・R.サール

出版社:朝日出版社
発行:2006年3月
ISBN:4255003254
価格:¥1890 (本体¥1800+税)
 脳は、複雑とは言っても、やはり物質である。その脳から、一体、どのようにして心が生まれてくるのか? この、人類にとっての究極の謎について思索をめぐらすことは、長い間哲学者の専売特許であった。

 それが、近年の脳科学の急速な発展にともない、心の謎が科学の探究の対象にもなってきた。ノーベル賞学者が一流科学誌に心と脳の関係についての論文を寄せ、世界中から専門家が集まって、意識の問題について科学的に検討する会議を開く。いよいよ、科学の手法を用いて心の謎に迫る機が熟してきたのである。

 そんな流れの中、一部の哲学者が輝きを増している。本書の著者、サールもその一人。最新の脳科学の知見にも耳を傾けつつ、緻密(ちみつ)な思考を積み重ねる。人工知能の限界についての、独自の議論も冴(さ)える。

 心の謎に関心を持つ人全てにとって、必読の文献。訳は正確で、読みやすい。注釈も充実している。山本貴光、吉川浩満訳。(朝日出版社、1800円)

評者・茂木健一郎(脳科学者)

(2006年5月1日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060501bk07.htm

月的生活●志賀勝

出版社:新曜社
発行:2006年1月
ISBN:4788509776
価格:¥1890 (本体¥1800+税)
 あわただしい現代に潤いを求めて、スローライフが見直されつつある。旧暦ブームもそのひとつ。ただ、失われたものへのノスタルジーがそうさせるのか、旧暦こそ季節感にマッチしている、という妙な誤解も蔓延(まんえん)している。もともと旧暦では季節と暦がうまくあわないため、19年に7回も閏(うるう)月を入れ、1年13か月とするなどの工夫が必要だった。この不便を回避すべく、太陽を基準とした新暦が採用されたわけだ。

 その点では、本書の著者は正しく理解し、かなり公平である。旧暦を「月暦」と呼び直し、日本の伝統的文化諸行事と月との関係を紹介しつつ、現代生活に忘れがちな月の魅力を復活させようと試みている。月暦を愛するあまり、新暦については「破壊的、短命、金銭支配を促進させている」元凶のように述べている点など、やや筆の滑りも見受けられるが、月に関する文学や民俗学的視点での広範な考察は興味深い。(新曜社、1800円)

評者・渡部 潤一(国立天文台助教授)

(2006年5月1日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060501bk09.htm

マックス・ウェーバー入門●牧野雅彦

出版社:平凡社
発行:2006年2月
ISBN:4582853102
価格:¥777 (本体¥740+税)
 かつて一世を風靡(ふうび)したウェーバーも、人気者の宿命か、今日では少々「今さら」という感じが漂う。ウェーバー論もやや混迷状況で、ウェーバーを読めば現代社会の病理のすべてが分かる、ともちあげられたかと思うと、その政治的立場や学説の信憑(しんぴょう)性に疑惑をもたれる始末である。

 そのような中で、本書は、ウェーバーを同時代の他の理論家・歴史家(とりわけドイツ歴史学派)の仕事と関係づけて理解するという地道な方法をとることによって、いわば等身大のウェーバーを描き出す。ウェーバーを通して20世紀ドイツの社会科学の実相を探る試みとしても興味深い。評価の分かれるその政治論についても、当時の歴史的・制度的文脈を丹念に掘り起こすことで、ウェーバーとナチスとの関係を安易にとりざたする議論をやんわりと批判して説得力がある。ある程度ウェーバーを読んできた読者にこそお勧めの新鮮な(再)入門書である。(平凡社新書、740円)

評者・川出 良枝(東京大学教授)

(2006年4月24日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060424bk0c.htm

半農半Xという生き方 実践編●塩見直紀

出版社:ソニー・マガジンズ
発行:2006年1月
ISBN:4789727289
価格:¥1470 (本体¥1400+税)
 「半農半X」とは、持続可能な農ある小さな暮らしをしつつ、個性や能力、特技を社会のために活(い)かし、天職(それぞれのひとのX)を行う生き方。手仕事、自給、自己防衛の三つの力をつけ、自分探しと社会貢献ができるライフワークとを両立することが、今後ますます求められる。紹介されている実例は、その見事な見取り図だ。(ソニー・マガジンズ、1400円)

(2006年4月20日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060420bk02.htm

談志絶唱昭和の歌謡曲(うた)●立川談志(5世)

出版社:大和書房
発行:2006年3月
ISBN:4479391290
価格:¥1785 (本体¥1700+税)
 談志がこんなに歌が好きだなんて思いもしなかった。昭和11年生まれだから、戦前・戦中の幼児期から昭和40年代くらいまでの青春期に覚えた歌に愛着を持ち、今に残そうと決意したのだ。その記憶力には脱帽する。数々の名だたる歌手との付き合いや、芸能界の裏話も楽しい。(大和書房、1700円)

(2006年4月20日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060420bk04.htm

複数性の日本思想●黒住真

出版社:ぺりかん社
発行:2006年2月
ISBN:4831510491
価格:¥6090 (本体¥5800+税)
理念より感情を重んじる
 日本人は「和」を大切にするとはよく言われる。外国人と接した経験と比べて、たしかにそうだと思う人も、少なくないだろう。しかし、思想史の観点からすると、「和」を指摘するだけではすまされない。この「和」を支える思想は儒教なのか仏教なのか、「和」について考えられた内容は時代によって異なるのではないか、「和」の担い手は、現世の人間だけでなく、動植物や故人の霊や神仏にまで及ぶのではないか。そういった問題が続出するのである。

 このように、一つの言葉をとってみても、実にさまざまな側面がとりだせる。そこにこの本は、日本の思想がもつ特質としての「複数性」を見いだし、「和」だけでなく、道徳や理想のとらえかた、「公共」という発想、儒教と仏教の関係、死者の魂のゆくえといった、多くの話題について、多様な思考が花ひらいたようすを整理してみせる。

 著者によれば、中心となる原理を欠いたまま、さまざまな思想が混在する状態が定着し、現在に至るまで日本人の思考に影をおとしているのは、徳川時代の支配体制に負うところが大きい。寺社を支配の末端機関に利用したことと、学芸としての儒教の普及を通じて、「神・儒・仏の習合空間」が完成した。その結果、一貫した理念による統合よりも、その場かぎりの感情の交流を重んじる倫理が、ひろく社会に浸透するようになったのである。

 だがこの本は、そうした思想構造をとりだすだけではなく、それがキリシタンを排除し、その「影」を意識しながら築かれたことにも目を配り、他方でまた、宮沢賢治の思想に、予定調和の空間を突き破って、じかに世界の存在感と一体になる過剰さをみいだす。「複数性」を宿命として抱えこんだ日本の思想が、きわめて幅ひろい可能性をもっていることを、五百頁(ページ)をこえる本書の厚みは、そのまま形で示しているのである。

 ◇くろずみ・まこと=1950年、岡山県生まれ。東京大教授。専門は日本思想史。

ぺりかん社 5800円

評者・苅部 直(東京大学助教授)

(2006年4月3日 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060403bk03.htm

世のなか安穏なれ 『歎異抄』いま再び●高史明

[掲載]2006年04月30日
[評者]野村進

 高史明は死ぬことをずっと考えてきた人である。

 極貧の在日朝鮮人の家に生まれ、三歳で母と死別し、父親が首をくくろうとするのを泣き叫びながら制止しようとした人である。

 学歴も何もないまま、当時の過酷な朝鮮人差別の世に投げ出され、作家として自立しかけたとき、深く深く愛していた一人っ子のご子息が自死を遂げてしまう。これで誰が生きつづけられようか。

 親鸞の『歎異抄』と出会って、著者はかろうじて生への道を歩み出した。爾来(じらい)、三十余年に及ぶ思索と求道の結果が、この講演録である。

 会話体とはいえ、わかりやすい本ではない。いや、われわれの「わかる」という骨がらみの合理主義をいったん捨て去らなければ、本書を「わかる」ことはできないのかもしれない。ところが、読みはじめるや、活字が目に食い込んで離れなくなる。

 とりわけ、作家・野間宏の文学と親鸞とのかかわりを論じた章に、異様な迫力がある。現代人の生き難さを見抜き、『歎異抄』を読み込んでいた野間でさえ、私たちと、親鸞の説いた念仏とを結びつける「つなぎ目」を見いだせなかったのではないかと、著者は問う。そのつなぎ目を求める私の前に、だが、著者は『歎異抄』などの仏典の言葉を原文のまま示して、「わかる」ところまでは導かない。

 現代人の「超えがたい奈落」ゆえなのか。そこが「信心」と言われればそれまでなのだが、著者もまたつなぎ目を万人に「わかる」ように伝える方途を、いまだ持ちえていないのではないか。

 亡きご子息は芥川の『蜘蛛(くも)の糸』を読み、感想文を書き残していた。しかし、芥川の描くお釈迦さまの姿はおかしいと、著者は言外に述べている。お釈迦さまなら、再び地獄の血の池に落ちたかん陀多(だた)を、極楽の上から哀れむのではなく、自ら地獄に降りて共に苦しまれるはずだというのである。私を含む“かん陀多”たちが、いくら「信じない」「信じられない」と言おうが、お釈迦さまはなおどこまでも寄り添ってくださると著者は説きつづけてやまない。
出版社: 平凡社
ISBN: 4582739172
価格: ¥ 1,890
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200605020226.html

そのたびごとにただ一つ、世界の終焉1・2 ●ジャック・デリダ

[掲載]2006年04月23日
[評者]巽孝之(慶應大学教授・アメリカ文学)

 本書との出合いは忘れられない。2001年に米国はシカゴ大学出版局より企画刊行された英語版原著『喪の仕事』(The Work of Mourning)を初めて読んだのは2004年の8月。西欧形而上学の伝統に対して巧妙かつ執拗(しつよう)に挑戦し続け、結果的に米ソ冷戦解消の預言者となった脱構築哲学の巨匠が、ロラン・バルトやミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、エマニュエル・レヴィナスなど14名への切々たる追悼文を綴(つづ)った1冊は、深い友愛にみちた追想としても、弔いという作業自体をめぐる瞑想(めいそう)としても、読みごたえじゅうぶんだった。したがって、その強烈な印象も冷めやらぬまま、同年10月9日に著者の訃報(ふほう)を聞いた瞬間は、衝撃というしかない。

 追い打ちをかけるように、ジョナサン・カンデルの「ニューヨーク・タイムズ」同年10月10日付への寄稿は、アルジェリア出身のユダヤ系であったデリダと、ベルギー出身で戦時中には反ユダヤ主義文書を残しアメリカへ移住したポール・ド・マンの交友を嘲笑(ちょうしょう)するかのような、死者に鞭打(むちう)つ文章であり、それに猛反発した北米知識人たちがインターネット上で巨大な署名運動を展開、デリダ再評価への道を拓(ひら)く。反フランス主義とも共振する反知性主義的身ぶりはアメリカ的ポピュリズムのお家芸だが、そんなアメリカを象徴するブッシュ再選も同じころの出来事であった。

 今回の邦訳は、最初の英語版に加えて、デリダ評価の起源であるジェラール・グラネル、現代文学を代表するモーリス・ブランショへの追悼文を採録し、2003年に刊行成ったフランス語版の全訳。存在論的な現前よりも不在に惹(ひ)かれ、死者の肉体(corps)とその著作(corpus)の逆説的な関係を思索し、マルクスらの亡霊たちと語り続けたデリダの体系において、追悼という形式はもともと相性がよかったことが再認識できる。死が単純な終わりではなく終わりなきものの開示であることを多角的なスタイルで説く本書は、追悼の達人デリダ自身の全著作を未来に向かって押し開くだろう。
出版社: 岩波書店
ISBN: 400023711X
価格: ¥ 3,570
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200604250275.html

家族の力●[著]野口誠一 [朝日]

[掲載]2006年04月16日
 78年。深刻な不況下、倒産、失業、自死にまで追い込まれる人が増加した。自らが死を思う倒産社長だった著者は同年、自殺防止を掲げボランティア団体「八起会」を創設した。生きたいとの念願を支えた、今日に至る約30年を振り返りつつ何が窮地に立った人間を救うかを考える。
出版社: 祥伝社
ISBN: 4396110367
価格: ¥ 777
URL:http://book.asahi.com/paperback/TKY200604180195.html

ジェイン・オースティンの読書会●[著]カレン・ジョイ・ファウラー

[掲載]2006年03月12日
[評者]高橋源一郎
 『ジェイン・オースティンの読書会』というタイトルなので、どういう小説かと思って読みはじめると、みんなでジェイン・オースティンの小説を次々に読んでいく(読書会の)話。タイトルそのままではありませんか! でも、心配が一つ。ぼく、オースティンの小説、一つしか読んだことがないのですが(というのも見栄〈みえ〉で、実際は、中学生の頃、世界文学全集に入っていた『高慢と偏見』を半分読んだだけ)、この小説についていけるのかしらん。

 大丈夫。著者のファウラーさんは、「(1)オースティンを読んだことがない人、(2)昔一度読んだだけの人、(3)毎年読み返す人」のすべてを満足させるように書いたのだそうだ。なるほど。では、安心して読んでいくことにしよう。

 登場するのは6人。女性が5人、男性が1人。長く独身生活を続けてきた女、その女の親友で、夫の不倫に悩む妻、その妻のレズビアンの娘、等々。それぞれに、単純に語り尽くせぬ過去と現在を持つ6人の男女が集まり、オースティンの小説について、その中で起こる、愛と結婚と生活と打算について語り続ける。そして、同時に、作者は、オースティンの小説について語る6人の登場人物たちの、ほんとうの姿についても語り始める。

 いつの間にか、我々読者もまた、その読書会の参加者になったかのように、その集まりを楽しみにし、そして、聞き惚(ほ)れている。なにに? 彼らが語る、オースティンの小説の感想に? いや、そうではない。ふだんなら、素直に耳を傾けたりしないような、どこにでもある、もしかしたらひどく陳腐でさえある、彼ら6人の「人生」というものにだ。

 オースティンの小説は、「人生」について書かれている。小説は進化したかもしれないが、「人生」は進化などしなかった。我々は、いまも、オースティンの小説の登場人物たちと同じような「人生」を生きている。そのことに6人が気づいた時、彼らの読書会は終わる。彼らは、オースティンを読んだのではない、オースティンを「生きた」のだ。いや、「読む」とは、本来そうではなかったか。
出版社: 白水社
ISBN: 4560027390
価格: ¥ 2,520
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200603140361.html

リベラリズム 古代と近代●レオ・シュトラウス [朝日]

[掲載]2006年03月26日
[評者]中西寛

 本書は19世紀末にドイツに生まれ、ナチスを逃れてアメリカに移ったユダヤ人思想史家の40年近く前の論文集の翻訳である。著者の弟子の選定による論文集『古典的政治的合理主義の再生』の翻訳が10年前に公刊されたが、その時から予定されていた訳書である。

 「訳者あとがき」にもあるように、本書の公刊まで時間がかかったのはその高度に専門的な内容ゆえである。ギリシャ哲学や中世思想の詳細な検討を含む本書の訳業に多大の精力を要したことは容易に想像できる。しかしその間、この思想史家を巡る世の関心は大きく変わった。かつて政治思想史の専門家以外にはほとんど知られなかった著者の名は、今やネオコンの教祖という評判と共に広く認知されるようになったのである。

 死後30年余りを経たこうした展開に最も驚いているのは著者自身ではなかろうか。確かに彼は、近代合理主義の内包する限界を指摘し、古代及び中世の古典研究の必要性を訴えた点で異端の研究者であり、「保守主義者」に分類しても間違いとは言い切れない。また、彼の近代合理主義批判の一端には、ヒトラーの台頭を抑制できなかったワイマール時代の経験に恐らく由来する価値相対主義への批判と、ソ連共産主義への道徳的対抗の必要性の認識があり、そこに知的戦闘性の要素を見ることも不可能ではないだろう。しかしネオコンの主張が自由民主主義の世界的拡張にあるとするなら、安易な自由民主主義の称揚こそ厳に戒めたという点で、ネオコンの最も厳しい批判を著者の論考から導き出すことも可能である。

 ネオコンとの関連といった俗な関心を超越し、思想史に取り組むことで主張をなした思想家として著者は読まれるべきであろう。率直に言って、本書は政治思想史の門外漢が気楽に読める著作ではなく、先述の前訳書を入門として先に読むことを勧める。知的格闘を余儀なくされること間違いなしだが、著者の問題意識さえ了解すれば、古代、中世の難解なテクストを鮮やかに読み解いてくれる最良の教師としての側面が見えてくるだろう。
URL:http://book.asahi.com/review/TKY200603280316.html
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