dunpoo @Wiki

★田中支配と戦後政治の総決算(80年~87年)

最終更新:

dunpoo

- view
管理者のみ編集可

鈴木内閣

総選挙後自民党各派は、内部抗争にも倦み、話し合いでの総裁選出を合意した。大平派を引き継いだ鈴木善幸総務会長に白羽の矢が立ち、田中の支援もあって、議員総会での満場一致で、鈴木が総裁に選ばれた。
鈴木内閣の最大の課題は財政再建であった。田中内閣以来、国債残高は急激にふくらみ、その利払いが財政を圧迫していた。中曽根行政管理庁長官のリードによって、臨調方式の行革プランづくりが決まり、臨調の会長には財界から土光敏夫が選ばれた。
土光は、鈴木から、首相のリーダーシップで答申を必ず実施すること、増税なき財政再建をやり遂げること、の言質をとった。大蔵省は、悲願である大型間接税の導入をしばし棚上げし、「小さな政府」による歳出削減のレールづくりに協力した。

財政再建の行き詰まり

しかし、各省庁の抵抗は激しく、また景気の落ち込みで税の減収もあり、財政再建は難航した。公務員給与の引き上げをめぐっては野党が抵抗、国会審議拒否もあった。生産者米価の引き上げでは与党と土光会長が対立した。81、82年度と続いて政府は歳入欠陥に陥った。
臨調第三次答申(基本答申)は、84年度に赤字国債ゼロという当初目標を棚上げし、また間接税増税を容認するものとなった。また、国鉄、電電、専売の3公社の民営化を提言した。
党内では、田中派の数と影響力が増すにつれ、福田派など非主流派との軋轢も大きくなってきた。
財政再建の行き詰まりと、角福の怨念の闘争の再燃を危惧する鈴木首相は、総裁選を前にした82年10月、突然再選不出馬を表明した。

中曽根内閣

後継総裁選びでは、中曽根総理・福田総裁の「総総分離」案などで調整が図られたが、福田派の権力掌握をなんとしても避けたい田中の妨害によってまとまらず、中曽根、河本、安倍、中川の4人が立つ予備選になだれこんだ。下馬評は河本優位であったが、結果は田中派が全力でバックアップした中曽根が過半数を獲得。本選の前に中曽根総裁が確定した。
11月に発足した中曽根内閣では、後藤田正晴官房長官、二階堂幹事長はじめ、田中派の重用が目立ち、マスコミはこれを「田中曽根内閣」と揶揄した。

外交の転換

中曽根首相は、年明け早々に訪韓した。日本の首相として戦後初の公式訪問であった。日韓間は、82年の教科書問題以来ぎくしゃくしていたが、首相は周到に訪韓を準備し、全斗煥大統領との間で「新次元の日韓関係」をうたう共同声明を出し、晩餐会では韓国語でスピーチするなど友好ムードを盛り上げた。
翌週には訪米、「日米は運命共同体」「日本列島を(対ソの)浮沈空母に」と発言。レーガン政権と一体になり東アジアにおける反ソ軍事同盟に積極的に関わる意思を鮮明にした。

ロッキード一審判決と83年総選挙

1983年10月12日、東京地裁は、田中の収賄を認め懲役4年の実刑判決を下した。野党は、田中の議員辞職勧告決議案を提出し、解散を要求した。中曽根首相は、野党と世論に押され、しぶしぶ田中邸を訪問し、「一人の友人として・・・助言」した。しかし田中に辞任の意志は毛頭なかった。国会は一ヶ月あまり空転した。首相は自民党への風当たりの強いこの時期の解散を避けたかったが、田中派幹部は野党と法案成立を条件に取引をし、11月に解散となった。
12月総選挙はやはり自民党の大敗となった。36議席を減らして250議席の過半数割れであった。しかしその中で、田中派だけは2減にとどまり、田中自身も無所属で立候補して過去最高得票で当選した。社公民がそれぞれ議席を伸ばした。
福田と三木は中曽根の退陣を求めたが、中曽根は、「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」という総裁声明で切り抜け、一方で新自由クラブとの連立交渉をまとめた。

二階堂擁立劇から創政会へ

第二次中曽根内閣はそれでも、大きく田中派に傾斜した内閣であり、それを不満に思っていた鈴木前首相は、中曽根失脚、田中派の分裂を策した。それが84年9月の、田中派の大番頭・二階堂進の擁立劇であった。福田・三木・河本が賛成し、公明党の竹入委員長、民社党の佐々木委員長も同調して、首相指名選挙で勝てる頭数はそろったが、田中の猛烈な反対で二階堂自身が腰砕けになり、中曽根は命脈を保った。
しかし、復権への執念を持つ田中と、最大派閥でありながら総裁候補を出せないことで鬱屈する中派議員の間の溝は深まっていった。田中派議員は、自前の総裁候補として竹下登をかつぐ「創政会」を85年2月に立ち上げた。
田中はこれに激怒した。そのためか、直後、脳梗塞に倒れ、政界復帰は絶望的と伝えられる事態となった。

死んだふり解散・総選挙

田中派に支えられ党内基盤の弱かった中曽根だが、審議会を多用して政策をあげさせてそれをトップダウンで採用する改革者的スタイルが国民の一定の支持を受け、85年の政局は奇妙に安定していた。中曽根は、田中という重石がとれたことを機に、解散・総選挙に出て一挙に自らの党内基盤を強化し、翌年9月に切れる総裁任期後の続投を画策した。
おりしも、85年7月に、衆院定数の不均衡が「違憲状態」に達しているという最高裁判決がでて、定数是正が政治課題となっていた。与党も野党も、公選法改正後の周知期間と国会会期を考え合わせると解散は不可能と考え、中曽根も解散の意思を捨てたように見せかけていた。ところが、中曽根は国会閉会後すぐに臨時国会を召集し、本会議前の議院運営委員会の席上、衆院議長に解散詔書を朗読させ即日解散するという奇策に出て、7月6日の衆参同日選挙を実現させてしまった。
中曽根は野党の追及に対し、大型間接税は導入しないと公約した。選挙結果は、自民党が300議席の大台に乗る歴史的大勝を博した。新自由クラブが解散して一部が自民党に合流したため、自民党は衆院で308議席を占めた。また、中曽根派は党内第二の派閥に伸張した。自民党は、両院議員総会で中曽根の総裁任期一年延長を決めた。
社会党は、同年の党大会でマルクス主義からの転換を表明する「新宣言」を採択し、「ニュー社会党」を標榜しての総選挙であったが、左右社会の合同以来初めて100議席を割り、85議席の惨敗で、石橋委員長が敗北の責任をとって辞任し、替わって土井たか子を党首に選んだ。

三大改革と売上税廃案

「戦後政治の総決算」をかかげる中曽根首相は、国鉄改革を含めた行財政改革、教育改革、税制改革を三大改革と位置づけていた。自民の圧倒的優位と党内基盤の強化を勝ち取った中曽根は、その仕上げに取り組んだ。
86年9月11日召集の臨時国会では、国鉄の分割・民営化関連八法案が提出され、野党のさしたる抵抗もなしに、11月に成立した。これによって、85年4月の電電、専売両公社の民営化につづいて、87年4月1日には「JR」が誕生することになった。このほか、安全保障室の新設など内閣官房の組織改編や新行革審の設置など、「行政改革」にむけての動きは着実な進行をみせた。 
教育改革の面では、臨教審が第二次答申が出され、のちに実現する初任者研修、大学入試共通一次などが提起された。
税制改革については、86年の末に「売上税」導入と「マル優」廃止を盛りこんだ税制改革大綱が決定された。「大型間接税反対」という公約を明らかに破るもので、世論は沸騰した。
96年2月に売上税法案が提出されると、全国で反対決議が相次ぎ、3月の参院岩手補選で売上税反対の社会党候補が圧勝(岩手ショック)し、4月の統一地方選では、福岡、北海道、神奈川で革新知事が誕生、県議・市議レベルでも自民候補の落選が相次いだ。国会では野党の反対が激しく、ついに売上税法案は廃案に追い込まれた。

右傾化

自民党の中でもナショナリストとして際だっていた中曽根は、鋭敏な時代感覚を生かし、アメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権を範とする新自由主義的な改革を日本に導入するとともに、国家主義を強化し、日米安保協力を緊密化する諸施策を遂行してきた。戦後初の靖国神社「公式」参拝を敢行し(これは中韓政府の反発によって一度で終わった)、国家秘密法(スパイ防止法)制定の試み、安全保障会議の新設、総額18兆4000億円にのぼる「中期防衛力整備計画」の閣議決定、87七年度予算での防衛費のGNP比1%枠突破、アメリカの軍事要求に呼応しての長超波のOTHレーダー設置への協力、戦略防衛構想(SDI)研究への参加決定、米軍艦載機夜間発着訓練(NLP)のための三宅島の官民共用空港化の動き、逗子弾薬庫跡地の米軍住宅建設や年々増額する「思いやり予算」、初の陸・海・空三軍の日米合同実動演習など、日米間の軍事協力を進めていった。また、中曽根の進めた行政改革が、なによりも左翼的労働運動の牙城であった国鉄の労働組合を解体したことにより労働運動全体をより体制内化し、社会全体の右傾化を促進したのであった。中曽根は、自民党の「ウィングを左にのばす」と表現したが、経済の成熟とともに層の厚みを増した新しい中間層の保守的な意識を自民党につなぎ止める役割を見事に果たしたのであった。

目安箱バナー