dunpoo @Wiki ★ロッキード事件と政界浄化の挫折(74年~80年)

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。


政治改革・経済改革の挫折

74年12月9日発足した三木内閣は、典型的な派閥均衡内閣となった。福田は副総理兼経企庁長官、大平は蔵相。中曽根は幹事長となった。わずかに三木らしさを覗かせたのは、民間からの永井文相の登用であった。
三木は、金権政治打破のために総裁選挙改革・政治資金規正法改正・公職選挙法改正を、また狂乱物価に現われた大企業の横暴を抑制するために独占禁止法の抜本的改正を、政権発足当初の課題とした。
しかし、政治改革の方は党内の抵抗によってかなり骨抜きになってようやく成立、独禁法の方は、野党との修正合意までこぎ着けながら参院で審議未了、廃案となった。
三木は、改革に対する党内の抵抗を和らげ政権を維持するため、党内のタカ派との宥和策も図った。独禁法の再提出を諦めた。現職首相としてはじめて8月15日に靖国神社に参拝した。また、一時は賛成に傾いていた三公社五現業へのスト権付与を拒絶した。
また、三木政権時代に財政の重大な転換が行われた。75年12月の財政特例法の成立で、これまで禁止されてきた赤字国債の発行が解禁されたのだ。すでにその年の秋に、首相は物価抑制から景気浮揚へ経済政策の転換を表明していたが、そのために赤字国債の発行が必要となったのである。

ロッキード事件と三木おろし

76年2月4日、外電が、ロッキード社副社長コーチャンの米上院外交委員会多国籍企業小委員会での証言を報じた。ロッキード社の日本に対する航空機売り込みのための口利き料が、右翼大物児玉誉士夫と日本での同社の代理店丸紅に渡り、それぞれ小佐野賢治国際興業社主と日本政府関係者に支払われたというのである。
三木は、早速議会で真相究明の決意を表明し、アメリカ政府に、高官名を含む一切の資料の提供を要請した。
6月、丸紅と全日空の最高幹部が相次いで逮捕された。そして7月27日、田中前首相が5億円の収賄容疑で逮捕された。
この間、恐慌を来した自民党政治家の意を受け椎名副総裁は三木の退陣に動き、大平・福田はそれに同調した。さらに田中逮捕後は、田中・大平・福田の三派連合が「三木おろし」で一致、党両院議員の三分の二以上を集めた「挙党態勢確立協議会」が三木に退陣を迫った。
世論の援護を受けて三木は粘り、党は分裂状態のまま、12月、任期満了による衆院の総選挙に突入した。

76年選挙と福田内閣の誕生

12月5日投票の総選挙は、やはり自民党の敗北であった。自民党は260から249に議席を減らし、結党以来はじめて過半数を割った(のち、無所属候補を加えて過半数を確保)。自民党から分かれた新自由クラブが解散前6議席から17議席に。社会、公明、民社もそれぞれ議席を伸ばした(ただし衆院定数も20議席増の511になっていた)
三木は敗北の責任をとって退陣した。
すでに反三木派の間で「福田一本化」の話はまとまっていた。福田と大平は、2年後に大平に譲る、という「大福密約」を結んでいた。
12月24日、衆参とも1票差というきわどさで、福田が首班指名を受けた。大平幹事長も密約で決まっていた。

福田内閣の事績

党改革に執念を燃やしす三木を追い落とした自民党議員にも、参院選を控え、党改革なくしては自滅の道をたどるという認識はあった。福田総裁就任早々、自民党大会は、派閥の解消、総裁公選制の導入を決定した。
77年7月の参院選は、自民党の辛勝で、かろうじて与野党逆転は阻止された。
「経済の福田」を自認した福田であったが、77年に不況入りした日本経済は、数度の経済対策にもかかわらず、福田の任期中に浮揚することはなく、三木時代に始まった赤字国債への依存を続けざるを得なかった。
福田政権は、78年8月、懸案であった日中平和友好条約の締結にこぎ着けることができた。
72年の田中内閣による国交回復後も、日本の政界では親台湾派を力が強く、また、反ソを意味する「覇権反対」に中国が同意を求めていることが障害となっていた。調印された条約では、「覇権反対」は明記されたが、「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」との文言が加えられた。
78年7月、統幕議長・栗栖弘臣が記者会見で「緊急時の法律のないわが国では、有事の際、自衛隊が超法規的に行動することもありえる」と述べたことで、伯仲国会は大騒ぎとなった。金丸防衛庁長官は、文民統制を破るものとして栗栖を解任し矛先を避けたが、福田は有事立法についての研究を防衛庁に指示した。

大福戦争

大平は密約通り福田の禅譲を待ったが、福田は言を左右にして譲らなかった。
78年末の自民党総裁選では、党員・党友全員の投票による予備選挙がはじめて導入された。「あなたの一票で総理大臣を」という宣伝文句で、党員がかき集められ、その数は党員150万人、党友は17万人と、それまでの三倍にふくれあがった。しかし、この党員たちの大部分が、各議員の後援者や後援企業の従業員たちで、結局、党員は派閥に系列化することになった。
立候補したのは、福田、大平、中曽根、河本の4人。実質は大福の争いであった。党員集めを積極的に行った田中派が推す大平が、福田有利の大方の予想を覆して予備選で圧勝した。福田は、「天の声にも変な声もある」という言葉を残して、本選挙を待たずに辞任した。
78年12月に発足した大平内閣は、田中派の影響が強かったため「角影内閣」といわれた。
大平内閣は、発足後、いきなり、ダグラス・グラマン疑惑に揺れた。自衛隊の早期警戒機E2Cの売り込みで日商岩井と政治家に不正があったという事件である。松野頼三元防衛庁長官が5億円を政治献金として受け取ったが、機種選定には無関係であるとして不起訴となり、ほかの政治家にも累は及ばなかった。

79年総選挙

79年4月、東京都知事選で自公民推薦の鈴木俊一が社共の太田薫を破って、12年間の革新都政に終止符を打ち、大阪府知事選では自社公民推薦の岸昌が共産推薦の現職・黒田了一を破った。
意気上がる自民党は、与野伯仲状態から抜け出すために、解散総選挙に打って出た(投票日10月7日)。ところが、期待に反して結果は自民党の前回につづく大敗で、選挙後無所属の10人を入党させてようやく過半数を確保することになった。大平首相は公約として掲げた「財政再建=一般消費税導入」を選挙途中から否定し、それが有権者の不信を買ったのである。
しかし、深刻なのはむしろ社会党であった。
社会党内では76年2月に江田副委員長が公明党書記長・矢野じゅんや、民社党書記長・佐々木良作と「新しい日本の会」をつくり、社公民連合の足場がためをはじめた。社会党内左派の社会主義協会などがこれに反発、77年2月の党大会では江田を解任した。江田は離党したが、党内の左右対立は収まらず、続いて田英夫らが離党した。成田委員長・石橋書記長は参院選敗北の責任をとって辞任、次の党大会では、ついに隠れたエース、横浜市長の飛鳥田一雄を口説いて委員長に据えて、崖っぷちの再起を期してこの選挙に臨んだのであった。しかし、社会党は、124議席から17減の107議席であった。
公明・民社は選挙協力で議席を伸ばし、共産は消費税批判で、議席を17から39に伸ばす大躍進であった。また、江田(離党後急死した)の残した社会市民連合が2議席を得た。ブームの去った新自由クラブは4議席に縮んでしまった。

40日間抗争

福田・三木・中曽根の三派は、選挙敗北を責任を問うて大平に退陣を迫ったが、大平は受け付けなかった。田中が強力に大平をバックアップしていた。特別国会での首班指名に、反主流三派は福田を推すことを決め、党執行部が開こうとする議員総会の会場を占拠した。そこに主流派の浜田幸一が殴り込みをかけバリケードを蹴散らし、主流派だけで総会を開き、大平を首相候補に選出。自民党は分裂したまま衆院本会議になだれ込んだ。決選投票では、大平138票で福田125票を下し、首相に選ばれた。野党各党は自党の党首に票を投じた。
大平は人事権を使ってこの抗争を収拾した。幹事長に中曽根派の桜内、政調会長に福田派の安倍を一本釣りして反主流派を浮き足立たせたのだ。結局、大平・田中・福田派から各4名、中曽根派3名、三木派2名という派閥均衡の第2次大平内閣ができあがった。

連合政権構想

79年の総選挙で自信を深めた公明党と民社党は、同年12月、「中道連合政権構想」の合意に達した。一方、選挙に破れた社会党も公明党とのあいだで政権協議を進めたが、「全野党共闘」すなわち共産党を含めた野党の共闘路線を捨てることを公明党に迫られた、ついに翌80年1月、共産党を排除する形の「社公連合政権構想」に合意した。公明党を扇の要にして、三党は国会対策で共闘し、次の参議院選挙での選挙協力協議を進めていった。

大平の死と衆参同日選挙

40日抗争後も自民党反主流派は党執行部と対立したままだった。そこに、社会党が、臨時国会の会期延長問題から内閣不信任案を持ち出した。反主流派議員の大量欠席によって、不信任案は、社会党もまさかの成立。大平はただちに衆院を解散した。初の衆参同日選挙となった。主流・反主流は、選挙休戦して自民党として戦うことになった。対する野党は、社公・公民のブリッジ共闘であった。
5月30日参議院選公示の日、大平が狭心症で入院、12日に死去した。自民党は「弔い合戦」と意気上がったが、野党は、他党批判をエスカレートさせ、連合構想の実現至難を思わせた。
結果は、自民党の圧勝であった。有権者の大平への同情票であったのか、投票率が大幅に上がった分は自民の得票増に回り、衆院では前回より36議席増の284議席。社会党は前回と同じ107議席で、公明党は24議席減の33、民社党は3議席減の32、共産党は10議席減の29であった。


参考文献 升味準之輔 日本政治史4 占領政策、自民党支配


コメント

名前:
コメント:
   ↑ご自由にコメントをお書き下さい。