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★新史料06Ⅰ

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★戦後史新資料 ラインナップ

0719 米政府が自民・穏健野党へ秘密支援 米外交文書で確認 [朝日]

2006年07月19日06時19分
 米国務省は18日、ジョンソン政権(1964~68年)下の対日外交文書集を刊行し、複数の自民党幹部と野党内の穏健派を対象とした米政府の「秘密支援作戦」(資金援助)が、50年代後半から64年まで存在していたことを裏付ける文書を公開する。中央情報局(CIA)による自民党への資金援助については、94年に米紙ニューヨーク・タイムズが報道したが、公文書で確認されるのは初めて。野党の一部にも資金が及んでいたことが明らかになり、戦後史に新たな光が当てられることになる。

 刊行されるのは、米国務省が、機密解除期間の30年後をめどに逐次出している史料集「合衆国の外交(FRUS)」の第29巻第2部。

 国務省の記者発表文によると、作戦は「主要な親米政治家への支援と、左派野党内から、穏健派を分裂させることを目的とした」ものだったが、小規模だった。ジョンソン政権は、計画が適切とはいえず、明るみに出た場合のリスクに相当しないと判断し、64年に停止したという。政治家への資金援助ではなく、共産主義の影響を排除するための社会・広報宣伝的な秘密計画は68年まで続いていたという。史料集のエドワード・キーファー編集長は「作戦はごく小規模のものだが、資金援助は含まれていた」と朝日新聞に語った。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0719/001.html

0719 資金提供で親米政権安定化…CIAの対日工作明らかに [読売]

 【ワシントン=貞広貴志】米国務省は18日、米中央情報局(CIA)が1958年から10年間にわたり自民党や旧社会党右派の有力政治家への秘密資金提供などを通じ、親米・保守政権の安定化と左派勢力の抑え込みに向けた工作を実施していたとの記述を盛り込んだ外交資料集(1964~68年)を刊行した。

 国務省が編さんしたもので、資料によると、CIAの秘密工作には<1>自民党主要政治家への財政支援と選挙アドバイス<2>親米で「責任ある」野党育成に向けた野党穏健派の分断工作<3>極左勢力の影響力排除のための広報宣伝活動<4>同様の目的による社会各層の有力者に対する「社会活動」――の4種類があった。

 資料は具体的な政党名など固有名詞には言及していないが、このうち<1>はアイゼンハワー政権が58年5月の総選挙を前に「数人の主要な親米・保守政治家に限られた額の財政支援」を行ったのが始まりで、当時の岸信介政権の自民党有力者に渡ったものと見られる。受け取った政治家には、「米実業家からの支援」と伝えられた。<2>も同じアイゼンハワー政権下の59年に始まり、年間7万5000ドル程度を継続拠出、旧社会党右派に民主社会党結成(60年)を促す工作などに使われた模様だ。

(2006年7月19日23時13分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060719i215.htm

0607 CIA、ナチス戦犯のアイヒマン放置…公開文書で判明 [読売]

 【ワシントン=五十嵐文】ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺の責任者の一人だったアドルフ・アイヒマンについて、米中央情報局(CIA)が潜伏先や偽名を知りながら放置していたことが、6日までにCIAが秘密指定を解除した文書で明らかになった。

 1958年3月の西ドイツ(当時)情報機関からのCIAあてのメモには、「アイヒマンは『クレメンス』という偽名で52年からアルゼンチンに潜伏している模様」との情報が寄せられた。

 しかし、アイヒマンの逮捕で、西独のアデナウアー政権下で米国の反共政策などに協力していたナチス残党で、西独の官房長官にもなったハンス・グロプケらの存在が明らかになることを懸念。CIAは、捜索していたイスラエルに情報を提供せず、事実上、黙殺した。結局、アイヒマンは60年にイスラエルの情報機関モサドによって捕らえられ、62年に処刑された。

 CIAはその後も、アイヒマンの回顧録を家族から買い取ったライフ誌に対し、グロプケに関する記述を削除するよう圧力をかけていたことも明らかになった。

(2006年6月7日23時33分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060607i515.htm

0526 HIVの起源、カメルーンのチンパンジーと特定 [朝日]

2006年05月26日06時18分
 世界的な感染拡大が続いているエイズウイルス1型(HIV1)は、アフリカ・カメルーンに生息している野生のチンパンジーが起源となっていることを、米アラバマ大などの研究チームが明らかにした。初めて実施された大規模な現地調査と遺伝子解析による成果で、従来の見方を裏づける結果となった。26日、米科学誌サイエンス電子版に発表する。
ヒトに近いエイズウイルスを持ったチンパンジーのグループが見つかった地点


 HIV1の起源をめぐっては、よく似たサルエイズウイルス(SIV)がこの地域のチンパンジーから見つかっていることから、これまでもチンパンジー説は有力だった。ただ、生息地域が隔絶されていることや、チンパンジーが絶滅の危機にあるといった理由で、研究は進んでいなかった。

 研究チームは、チンパンジーのふんから感染ウイルスの遺伝子を見分ける方法の開発に成功。カメルーン南部の森林10カ所で採取した446匹分のふんを分析した。

 その結果、今回調べたチンパンジーから、これまでに見つかっているSIVのなかで、最もHIV1に近いウイルスを見つけた。

 これまで感染が判明したケースは飼育動物がほとんどで感染率が2%ほど。野生のチンパンジーの感染実態はよく分かっていなかった。今回の調査では、あるグループの感染率が35%と高率だった。

 研究チームによると、このSIVが20世紀初め、一帯にすむチンパンジーからヒトへ、種の壁を超えて感染した結果、HIV1になったと考えられるという。

 また、エイズウイルスは突然変異を繰り返すことから、多数の遺伝子の種類がある。今回の調査以外、ほとんど調査が進んでいないこの周辺地域では、まだ発見されていない新しいウイルスが存在する可能性があり、ヒトへ感染する危険もある、と研究チームは指摘している。
URL:http://www.asahi.com/national/update/0526/TKY200605250364.html

0521 最古のマメ:シリア北西部の新石器時代遺跡で発見 地球研 [毎日]

シリア北西部の新石器時代の遺跡から、世界最古と見られるソラマメとヒヨコマメが大量に見つかった。総合地球環境学研究所(地球研、京都市)の丹野研一・上級研究員(考古植物学)らが確認した。

 見つかったのはシリア第2の都市、アレッポから約70キロ離れたテル・エル・ケルク遺跡。約1万500年前~約8000年前の遺跡で、筑波大調査団(団長・常木晃教授)が97年から発掘を続けている。地球研の有村誠・研究推進員(西アジア考古学)が一部の調査区を発掘。掘り出した土1067リットルの中から、丹野研究員が炭化したソラマメ437点とヒヨコマメ138点を見つけた。いずれも約1万500年前の先土器新石器時代中期前半の地層に含まれていた。

 ソラマメはヨルダンの約1万1000年前の遺跡から5点の出土例があるが、数が少なく、出土地層が後世に荒らされて年代の真偽が不確実。ヒヨコマメも今回の遺跡と同時代のトルコの遺跡で1点が出ているだけ。今回は出土数が多く、地層も荒らされていないため、年代が確実な例としては共に世界最古になる。【奥野敦史】


0521 宇宙の「超薄曇り」、1億年早かった 京大助教授ら研究 [朝日]

2006年05月21日10時07分
 宇宙誕生から約9億年後、宇宙空間に光の通過を妨げる電子の浮遊(電離)が再び起き、「超薄曇り」の状態になっていることが、京都大学の戸谷友則助教授(宇宙物理学)らのグループの研究でわかった。再電離はこれまで約10億年後以降と考えられていた。6月発行の「日本天文学会欧文研究報告」に発表する。

 宇宙は約140億年前に極小の状態で誕生。直後の宇宙は、今より狭い空間を電子が漂っていたため、光が電子に衝突して直進できず、視界がきかない「曇り」の状態だった。それから30万~40万年後、電子が原子核と結びついて水素原子をつくったため、光の通過が電子によって邪魔されない「晴れ上がり」になったとされる。その後、誕生した恒星からの紫外線で再電離した時期がよく分かっていない。

 戸谷助教授は、宇宙誕生の約9億年後にできたブラックホール周辺から発せられたとみられるガンマ線バーストの残光を分析。この爆発現象時には電子の浮遊がすでに起きていたことを突き止めた。「その2億年ほど前に、再電離を促す多くの恒星が宇宙に生まれたためではないか」と推測している。

 宇宙は誕生後、膨張を続けてすき間がどんどん広がっており、現在は電子が浮遊していても光の直進が妨げられることはほとんどない。
URL:http://www.asahi.com/national/update/0521/OSK200605210007.html

0519 毒ガス演習、計画書発見 [朝日]

2006年05月19日10時16分
 日中戦争期に、旧陸軍が作成した毒ガス戦に関する資料が多数見つかった。旧満州(現中国東北部)チチハルに駐在した関東軍化学部(満州第516部隊)などのもので、毒ガス散布地域での演習計画書、対人毒ガス効果のデータ表など計38点、1126ページに及ぶ。非人道的な毒ガス戦計画の実態解明や、516部隊などが中国東北部で遺棄したとされる化学兵器の被害を把握する上で、有用な資料と見られている。(米原範彦)
毒ガス戦に関する資料群。「五一六部隊」「関東軍化学部」の文字が見える


 松村高夫・慶応大教授(社会史)らでつくる「太平洋戦争史研究会」が05年、古書店から入手した。1940~43(昭和15~18)年の作成とみられ、和文タイプと手書きのガリ版刷り。約3分の1は「極秘」「用済後焼却」などの印が押されていた。資料をとじた厚紙などに「満洲第四六一〇部隊長 河西中尉」と書かれていることなどから、故河西豊秋中尉(当時)の所持品だったと見られる。「文書の書式、紙の材質や劣化具合などから本物の資料だ」と松村教授は説明する。

 関東軍化学部の演習計画書「昭和十七年三月 於 王爺廟附近 将校現地研究計画(極秘 用済後焼却)」からは、516部隊の活動の一端が分かる。同計画によると、王爺廟(おう・や・びょう)や葛根廟(かっ・こん・びょう)(いずれも現内モンゴル自治区)付近で、旧ソ連と思われる敵軍との交戦を想定。敵陣地を突破し、国境線を確保したと仮定した上で、同年3月25~30日、佐官から下士官・雇い兵まで総勢348人が参加して散毒想定地域の通過、制毒作業など6課題を解決する訓練を計画した。指揮系統を明確にした態勢で臨み、ガス検知器材、貨車なども配備する予定だった。

 ここでは毒ガスに見立てた発煙筒6500発を使うことになっていたが、別の演習計画書「昭和十七年度第一回 実物演習実施計画表」では、致死性の高いイペリット(きい1号)を使用するという記述もある。


 松村教授は「『陸軍習志野学校』『陸軍技術本部第六研究所』などの作成資料も含まれており、これらが一体となって毒ガス戦研究を進め、態勢を固めていく過程を検証できる」と話している。

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URL:http://www.asahi.com/national/update/0519/TKY200605180407.html

0519 阪神大震災、家屋被害は63万9686棟と確定 [読売]

 阪神大震災の家屋被害について、兵庫県は19日、これまで確定していなかった県内の一部損壊棟数を29万7811棟と発表した。

 これにより、震災での家屋被害数は、全半壊や他府県分を合わせ、計63万9686棟(総務省消防庁まとめ)と確定した。震災から11年を経て、ようやく家屋被害の全容が明らかになった。

 内訳では、全壊10万4906棟、半壊14万4274棟、一部損壊39万506棟。被災者が新たに住宅を取得する際、所得税が減免される特例が2005年3月まで認められ、自治体が罹災証明書の発行を続けていたため、一部損壊の棟数は確定していなかった。

 県は昨年度、特例措置が終了したことなどから再調査。これまで被害数に含まれていなかった神戸市内の計12万6197棟などを加え、消防庁に報告した。

(2006年5月19日21時23分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060519it13.htm

0518 ホロコースト文書5000万点、学者にも公開 [読売]

 【ベルリン=佐々木良寿】第2次世界大戦中のユダヤ人虐殺(ホロコースト)などに関するナチス・ドイツの文書管理を監督する国際委員会は16日、ルクセンブルクでの会合で、これまで犠牲者遺族らごく一部にしか認められていなかった文書閲覧を、歴史学者やホロコースト研究者にも公開することで合意した。

 公開されるのは、赤十字国際委員会傘下で、ドイツ中部の町バード・アロルセンにある文書館「国際追跡サービス」が保管するナチス・ドイツの文書で、強制収容所に送られたり強制労働を強いられたユダヤ人約1700万人に関する約5000万点。

 同文書館は、1955年に英、米、仏、独、イスラエルなど11か国が設立を決定したもので、ナチス・ドイツによる犯罪を歴史的に解明するために歴史学者らが公開を求めてきたが、ドイツが「犠牲者のプライバシーを侵害するおそれがある」などとして公開に消極的だった。

(2006年5月18日0時24分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060517i417.htm

0511 松野頼三氏死去…元自民党総務会長、小泉首相の指南役 [読売]

 自民党総務会長や防衛長官を歴任した松野頼三(まつの・らいぞう)氏が10日、心不全のため都内の病院で死去した。89歳。告別式などは未定。自宅は東京都港区白金台2の14の10。

 「政界の策士」として知られた松野氏は、熊本県出身。参院議長を務めた鶴平氏の三男として生まれた。吉田茂・元首相の秘書官を経て、1947年に衆院旧熊本1区から初当選し、当選15回。佐藤栄作・元首相を支えた「佐藤派五奉行」の一人と言われ、総理府総務長官、労相、防衛長官、農相などを歴任。三木政権で自民党政調会長、総務会長を務めた。

 79年のダグラス・グラマン事件で日商岩井から約5億円の政治献金を受領したとされ、事件は時効となっていたが、道義的責任を取って議員辞職した。同年10月の衆院選で落選し、80年衆院選に無所属で出馬し、返り咲いた。83年に自民党に復党。中曽根政権当時の84年、総裁選を巡り、福田赳夫、鈴木善幸両元首相らと会合を重ね、二階堂進・元副総裁の擁立を画策した。

 90年の衆院選で苦杯をなめ、93年に政界引退を表明した。引退後も、豊富な政治経歴を生かした政治評論で知られ、細川護煕・元首相や小泉首相の指南役を務めた。とりわけ小泉首相は松野氏を「政治の師」と仰ぎ、アドバイスを受けることもしばしばだった。

 民主党の松野頼久衆院議員は長男。

(2006年5月11日1時47分 読売新聞)
URL:http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060510i312.htm

0426 日韓交渉の文書公開を請求 市民ら330人 [朝日]

2006年04月26日10時03分
 日韓の大学教授や市民らでつくる「日韓会談文書・全面公開を求める会」(共同代表=山田昭次・立教大名誉教授ら)の331人が25日、情報公開法に基づいて、65年の日韓基本条約締結に向けた両国の交渉文書の公開を外務省に請求した。戦後補償問題の根本的な解決のために公開が必要としている。

 韓国側の文書は05年に韓国政府が全面公開し、交渉で最大の焦点だった対日請求権をめぐるやりとりの一端が明らかになっている。しかし、日本政府は「日朝国交正常化交渉に影響を及ぼす」などとして事実上、公開していない。

 90年代以降相次いだ戦後補償裁判で、日本政府は補償問題について、基本条約とともに結ばれた請求権・経済協力協定で解決済みとの立場を繰り返してきた。

 山田共同代表は「韓国の戦争被害者の多くが戦後、一切の補償を受けられずに苦しい生活を強いられた。日本政府は戦後処理の過程の全貌(ぜんぼう)を明らかにする責任がある」と話している。
URL:http://www.asahi.com/international/update/0426/003.html

0413 人類の進化、440万年前のラミダス猿人から道筋 [朝日]

2006年04月13日06時08分
 猿人のアウストラロピテクス属の中で最も古いアナメンシス猿人の化石を、日本や米国などの研究チームがエチオピアで新たに発見した。同じ地域で見つかっていたラミダス猿人から進化したことがわかった。アウストラロピテクス属は現代の人類の直接の祖先と考えられている。現代の人類へ直結する進化の道筋は、約440万年前のラミダス猿人までさかのぼれることになった。13日発行の英科学誌ネイチャーに発表する。

 化石が見つかったのはエチオピア北部の地域。東京大の諏訪元・総合研究博物館教授や米カリフォルニア大バークリー校のティム・ホワイト教授らが調査してきた。

 歯や大腿(だいたい)骨など少なくとも8人分の計30点で、年代測定により約420万年前の化石と判明。付近からは、アルディピテクス属のラミダス猿人と、今回のアナメンシス猿人より新しいアウストラロピテクス属のアファール猿人(340万年前)も見つかっている。

 これら3猿人の歯を比べると、今回の猿人の臼歯はラミダス猿人より明らかに大きく、アファール猿人と同等だった。歯のエナメル質は厚く、アファール猿人に近づいていた。一方、犬歯はラミダス猿人と同じ大きさだった。つまり今回の猿人の歯はラミダス猿人とアファール猿人の中間的な特徴を備えていた。

 アナメンシス猿人はこれまで、ケニアでしか見つかっていない。今回の場所からは約千キロも離れ、ラミダス猿人との関係は不明だった。

 同じ地域に3猿人が生息していたことや歯の特徴から、諏訪教授は「アウストラロピテクス属は440万年~420万年前、ラミダス猿人から急激に進化した可能性が高い」と説明。人類の祖先とされる化石は、600万年より古いものなど複数が見つかっているが、こうした化石とのつながりの解明も期待されている。

 〈馬場悠男・国立科学博物館人類研究部長の話〉 歯の変化が20万年ほどの間に急激に起きたというのは新しい知見。歯の比較は系統を調べる上で重要で、進化の道筋がラミダス猿人までつながったとみていいだろう。
URL:http://www.asahi.com/international/update/0413/004.html

0401 蒋介石日記15年分初公開 米スタンフォード大 [共同]

 【パロアルト(米カリフォルニア州)31日共同】日中戦争に勝利した後、毛沢東率いる共産党との内戦に敗れ台湾に逃れた国民党政権の最高指導者、蒋介石(1887-1975年)の日記が3月31日、米スタンフォード大フーバー研究所(カリフォルニア州パロアルト)で研究者向けに公開された。
 公開されたのは、マイクロフィルムに収められた1917年から31年までの15年分で、自筆の日記が抜粋ではなく大量に公になるのは初めて。
 今回の公開分には、関東軍が仕掛け、満州事変の発端となった31年9月の柳条湖事件直後に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と抗日への決意を示した記述などがあり、同研究所は、蒋介石が死去する直前までつづっていた日記の残りの部分も今後、数年かけて段階的に公開する方針。
URL:http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006040101000703

0331 金大中氏、拉致事件は「日本外交の汚点。私の人権を放棄」 [朝日]

2006年03月31日06時22分
 金大中(キム・デジュン)前韓国大統領は30日、自身の拉致事件をめぐる政治決着について「日本外交の汚点だ。日本は、韓国の国家権力が犯罪に関与した証拠を握りながら妥協し、私の人権を放棄した。日本の民主主義がどの程度のものかを示した」と批判した。ソウル市内で朝日新聞記者に語った。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0331/002.html

0331 金大中事件、最終決着は日本が主導 [朝日]

2006年03月31日06時30分
 73年の金大中(キム・デジュン)氏拉致事件をめぐり、韓国政府が口上書を提出することで幕引きを図った第2次政治決着(75年)は、日本政府が提案し、交渉を主導していたとする韓国側の外交文書の存在が明らかになった。韓国政府は31日、これらの文書を公開する。金大中事件のほか、70年の日航よど号乗っ取り事件関連の外交文書も含まれている。

 韓国政府は2月にも、金大中事件に関する外交文書を公開した。事件発生から3カ月後の73年11月、金鍾泌(キム・ジョンピル)首相が訪日し田中角栄首相と会談し、「これでパーにしよう」(田中首相)として日本が捜査を事実上、終結させることで合意(第1次決着)したことが明らかになっていた。韓国側の公開文書からは、水面下での日韓の癒着ぶりとともに、いずれの政治決着でも日本側が積極的に動いた形跡がうかがえる。

 第1次決着後、日本では現場から指紋が見つかった韓国大使館の金東雲(キム・ドンウン)1等書記官の処分をめぐり不満が高まった。75年7月の韓国外務省文書によると、日本外務省は6月、三木武夫首相と宮沢喜一外相も了承したとして韓国政府が自発的に口上書を出すことで決着する案を提示した。

 口上書は(1)(韓国政府は)金書記官の捜査を中断した(2)その後、確証を得られず不起訴処分になった(3)国家公務員の資質に欠けるため辞職した、の3項目。宮沢外相の訪韓にあわせて韓国側が日本に伝達すると同時に、「日本は金東雲問題を今後、再論しない」と約束することが秘密裏に盛り込まれた。

 日韓関係の改善を優先し、口上書を宮沢外相訪韓と日韓閣僚会議開催の前提として決着を促す日本に対し、韓国は「再論しない」方針の文書化を求めた。日本は政治決着に反発する警察当局からも「これ以上追及しない」とのメモを得たと説得。結局、日本が再論しない方針を「口頭で表明する」ことで合意した。

 口上書は宮沢外相の訪韓直後に公表されたが、韓国側文書によると日本は当初、「日本の政界、マスコミで物議を醸す可能性がある」として、韓国側に非公開とするよう要請していた。

 よど号事件に関する外交文書では、平壌に向かっていた同機が機長の意思で韓国・金浦空港に「偽装着陸」したとの見解を韓国政府がまとめていたことが明らかになった。だが、当時の同空港の管制官は29日、朝日新聞の取材に「金浦に着陸させるよう米韓から指示があった」と証言。石田真二機長も「平壌と思った」と否定している。

     ◇

 宮沢喜一元首相は30日、朝日新聞の取材に対し、「この件に関してはコメントをするつもりはありません」と事務所を通じて答えた。また、外務省の鹿取克章外務報道官は同日、「政府として見解を述べることは差し控えたい」と語った。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0331/004.html

0310 平城京の羅城、簡略版か 十条大路があったのは確実 [朝日]

2006年 3月10日 (金) 23:30
 奈良時代の首都、平城京(710~784年)の九条大路南側にあった羅城(らじょう)(城壁)跡の一部が奈良県大和郡山市で新たに見つかった。同市教委と元興寺文化財研究所(奈良市)が10日、発表した。平城京が模した古代中国の都城は、堅固な土壁でできた高さ10メートル以上の羅城で囲まれていたが、平城京では簡易な瓦ぶきの板塀だった可能性が高い。また、京の南端とされていた九条大路より南で、昨年に続いて区画道路跡が出土し、平城京遷都当時に十条大路があったことが確実になった。

 羅城跡は、九条大路中央の羅城門から東約520メートルで出土。柱(直径約30センチ)の穴が東西方向に2.4~2.7メートル間隔で2列(幅1.5~1.8メートル)に並んでいた。古代中国の羅城のような基礎工事の跡がなく、出土品は瓦だけ。柱の太さからみて、高さ2~3メートルだったらしい。瓦の特徴などから築造は750年ごろとみられる。

 今回の出土地点で羅城跡は途切れており、東端と確認。羅城門を中心に左右対称とすると総延長は1キロ余り。東西4.3キロだった平城京の約4分の1ということになる。

 区画道路跡は九条大路の南約400メートルで見つかり、3カ所の交差点を確認。いずれも平城京内と同規格の道路がさらに南へ続いていた。
URL:http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060310/K2006031004350.html

0308 「沖縄密約」、99年に外務省元局長が認める発言 [朝日]

2006年03月08日07時56分
 72年の沖縄返還で米側が払うとされた土地の原状回復補償費400万ドルを日本が肩代わりする密約が結ばれていた問題で、外務省元アメリカ局長の吉野文六氏(87)が99年の時点で密約を認める発言をしていたことがわかった。非公表の政策研究大学院大学のオーラルヒストリー(聞き取り)プロジェクトの報告書に収められている。密約を裏付ける米公文書が初めて明らかになった00年以前に、吉野氏が自ら密約の存在を認めていたことになる。

 このプロジェクトは文科省の補助金をえて、戦後の日本を支えた政治家や官僚らの証言を記録したもの。

 吉野氏は返還で日本が支払う金額を大蔵省側から示された際、「はたと困った。一体、どうやって、そんなものを協定に盛り込むか」と考え、「それで、ひた隠しに隠そうという形になったわけです」と話している。

 また、交渉が最終段階にあった72年4月に、交渉過程を記録した外務省の機密電文が同省の女性事務官から毎日新聞記者に漏れる事件が起きたときには、捜査当局にこう話したという。

 「これを公表するようなことがあれば、相手と交渉できなくなる。従って、国会に対しても否定する、うそを言うんだ」

 吉野氏は今年2月、朝日新聞などの取材に、政府関係者として初めて「密約があった」と証言。米公文書で密約の存在が裏づけられた00年に、当時の河野外相から密約を否定するよう要請されたことも明かしている。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0308/003.html

0224 沖縄返還の密約否定「河野氏が要請」 元局長新証言 [朝日]

2006年02月24日16時19分
 72年の沖縄返還で米側が払うとされた土地の原状回復補償費400万ドルを日本が肩代わりする密約が結ばれていた問題で、密約を裏付ける米公文書が見つかった00年、交渉の実務責任者だった外務省元アメリカ局長の吉野文六氏(87)が、当時の河野洋平外相(現衆院議長)から「密約の存在を否定するよう要請された」と、朝日新聞に証言した。また、「とにかく協定を批准させればいい、あとは野となれという気持ち」「意識的に記憶から消そうとした」などと、当時の心境について率直に述べた。

 吉野氏は今月はじめ、朝日新聞の取材に応じ、これまでの証言を覆し、政府関係者として初めて密約の存在を認めた。その後2回にわたる取材で、河野氏からの要請について明らかにした。

 00年に我部政明・琉球大教授と朝日新聞が入手した米公文書には、返還協定では米側が「自発的に支払う」とされた原状回復補償費400万ドルを日本政府が「確保する」と吉野氏が明言していることが記されている。吉野氏とスナイダー駐日米公使のサインがあった。

 吉野氏によると、報道後に外務省の事務当局者から電話があり、「(報道に関して)問い合わせがあったら『密約はない』と否定してほしい」と頼まれた。河野元外相からも「密約は否定してください」と電話で要請され、了承したという。

 その後記者会見した河野外相(当時)は「密約はない」と、歴代外相の答弁を繰り返した。

 密約を裏付ける別の米公文書が発見された02年には、当時の川口外相が参院外交委員会で「河野元外相が吉野氏に直接確かめた」として、吉野氏の証言を根拠に密約を否定した。今回の新証言で、政府答弁の根拠が失われたことになる。

 吉野氏は交渉当時の心境について「とにかく協定を批准させることが大事だった。あとは野となれ、という気持ちだった」と振り返った。その後は「意識的に記憶から消そうとした。その方が良心の呵責(かしゃく)を覚えなくてすむ」と述べた。

 また、毎日新聞記者だった西山太吉氏(74)が当時、密約の存在を示唆する外務省の機密電文を女性職員を通じて入手、国家公務員法違反の疑いで逮捕された事件後「(国民の知る権利を訴えていた)メディアの流れが変わった」とし、「国会で何度もウソをついていたので個人的には助かった」と語った。

 協定締結から35年をへて新たに証言したことについては、「400万ドルの肩代わりは『小さな密約』。沖縄をどうするという本質的な議論に移ってほしい、という思いがあった」と明かした。

 河野元外相は、吉野氏への要請について、事務所を通じて「記憶にない」と話している。
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0224/004.html

沖縄返還密約:認めぬ日本政府の姿勢は不誠実 [毎日]

 沖縄返還協定に関し日米両政府が交わした密約の存在を、当時の日本外務省局長が34年経てようやく認めた。

 沖縄返還は、良好な日米関係を継続するため、当時の両国にとって最重要の政治課題だった。ただ国際情勢から、非核3原則を掲げる日本に沖縄を返還しても、極東における米の軍事機能を維持し、ベトナム戦費で苦しむ米国に財政負担もかけずに返還を実現させるという、複雑な命題を背負った交渉となった。

 佐藤栄作首相とニクソン大統領は69年11月、「核抜き・本土並み」で両3年内の返還という原則合意にこぎつけた。核兵器の扱いは、有事の日本持ち込みを日本がひそかに承諾しクリアした。交渉役の故若泉敬・京都産業大教授が著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で明らかにしている。

 一方、米施政権下で米国が作った施設は日本が買い取った。当時の吉野文六外務省アメリカ局長が語るように、沖縄に配備されていた核ミサイル・メースB撤去など、米国が負担すべき費用まで日本が支払った。

 ただ、米軍が壊した土地は米が補償するという方針で交渉が続いた。日本から見れば、「銃剣とブルドーザー」で追い出した米国が補償するのは当然という国内世論の反映だった。逆に、米国は沖縄を「血であがなった土地」ととらえた。米政府は日本の補償請求を正当と認めつつも、米議会は一切の補償費支払いを認めなかった。そこに密約が生まれた。

 表向きは米国が400万ドル支払う形をとるが、実際は日本が買い取りに支払う3億2000万ドルの中に補償費も肩代わりしてもぐり込ませた。

 「米側としては財源の心配までしてもらったことは多としている」(71年5月28日、愛知揆一外相へのマイヤー駐日大使発言)。密約を裏付ける外務省機密電文は、当時の西山太吉毎日新聞記者が親しかった同省女性事務官から3通入手。紙面で疑念を指摘後、横路孝弘社会党衆院議員(現衆院副議長)に渡し、同氏が国会で追及した。この際、吉野氏ら政府側は密約を一切否定した。

 西山記者は72年4月、機密漏えいをそそのかしたとして国家公務員法違反容疑で事務官と共に逮捕された。協定の真実に迫って、なぜ罪に問われるのか。西山記者側はそう主張したが、最高裁で有罪が確定した。密約の有無は公判では検証されなかった。

 しかし、次々見つかった米公文書で密約は明白になっている。02年6月に公開された文書(72年6月)は、来日を控えたキッシンジャー大統領補佐官用にホワイトハウスが作った資料で、「日本政府が神経をとがらせているのは400万ドルという数字と、日米間の密約が公にならないようにすること」と記してある。

 明白な証拠が出ているにもかかわらず、密約の存在を認めない日本政府の姿勢は不誠実極まりない。現職を退いた立場とはいえ、担当局長の証言は、核兵器の持ち込みなど密約を引きずりながら実現した沖縄返還の真実を一層くっきり浮かび上がらせた。【榊直樹】

毎日新聞 2006年2月9日 20時59分 (最終更新時間 2月10日 8時33分)
URL:http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/seitou/news/20060210k0000m010103000c.html

沖縄返還密約:当時の外務省幹部が認める [毎日]

1971年に調印された沖縄返還協定をめぐり、本来米国が払うべき土地の原状回復補償費を日本側が極秘に肩代わりしたと指摘されていた問題で、吉野文六・元外務省アメリカ局(現北米局)局長(87)が9日、毎日新聞の取材に「返還時に米国に払った総額3億2000万ドルの中に含まれていた」と日本側の肩代わりを認めた。沖縄返還の密約については、その存在を明記した米公文書が発見されているが、日本政府は一貫して否定しており、政府関係者が存在を認めたのは初めて。

 吉野氏は現在横浜市在住で、本来米国が支払うべき土地の原状回復補償費400万ドル(当時のレートで約12億円)を日本が肩代わりすることになった理由について「当時、ベトナム戦争の影響で、米経済が悪化する一方、日本は戦争特需だった。日本から金を出さないと米議会が納得しない状況だった」などと説明。また密約に関して「米国がもう発表したから、日本政府は隠す理由がない」と語った。

 原状回復補償費は、米軍が接収していた沖縄県民の土地を元の田畑などに戻すための費用で、沖縄返還協定は第4条で米国が自発的に払うと規定。第7条で、沖縄にあるとされた核兵器の撤去や、米国資産の買い取りのため日本が米国に支払う3億2000万ドルには含まないことになっていた。

 しかし71年5、6月に当時毎日新聞政治部の西山太吉記者(74)が密約の存在を前提としたやりとりを含む外務省の極秘電文3通を入手。電文などをもとに「3億2000万ドルの中に400万ドルが含まれている」とし、一部を報道した。しかし、政府は密約の存在を否定。西山記者と、電文を渡した同省女性事務官が国家公務員法違反容疑で逮捕、起訴され、いずれも有罪が確定した。その後も政府は「外務省密約事件」と呼ばれる同問題で密約の存在を一貫して否定していた。

 02年6月には、日本側の肩代わりを「日米間の密約」と明記した米政府の文書が米国立公文書館で見つかった。密約の存在が改めて裏付けられたが、当時の福田康夫官房長官は「原状回復の費用を日本側が負担するという密約は一切ない」と述べた。西山氏は昨年4月、「密約を否定した当時の判決は誤りで不当な起訴で名誉を棄損された」として約3400万円の国家賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。

 ▽ことば(外務省密約事件) 沖縄返還交渉で日米間に米側が負担すべき400万ドルを日本側が肩代わりする密約があり、毎日新聞政治部の西山太吉記者が71年5、6月、これを前提としたやり取りを含む極秘電信文3通を入手、一部を報道した。電信文コピーを受け取った社会党(当時)の横路孝弘議員が72年3月の衆院予算委員会で政府を追及した。

 外務省がコピーの流出ルートを調査し、同省女性事務官が親しい関係にあった西山記者に渡していたことが分かった。警視庁は同年4月、西山記者と事務官を国家公務員法違反容疑で逮捕し、東京地検が起訴した。

 東京地裁は74年1月、元事務官を有罪(控訴せず確定)とし、西山被告は「取材行為は正当」と無罪を言い渡した。西山被告について東京高裁は76年7月、1審判決を破棄し、「被告の行為はそそのかしにあたる」と懲役4月、執行猶予1年の有罪判決。最高裁は78年6月、「正当な取材活動の範囲を逸脱している」と上告を棄却し、西山元記者の有罪が確定した。

 ▽元毎日新聞政治部記者の西山太吉さんの話 沖縄返還問題は、思いやり予算など日米安保の変質の原点として位置づけられる今日的な問題だ。吉野文六氏は沖縄返還交渉の実務に携わった最終責任者。沖縄返還から30年以上が経った今、これ以上の権威あるコメントを残せる人はいない。当時の米側の圧力が強かったことも裏付けられた。政府は、密約の存在で沖縄返還協定が虚偽表示になるので、これまで否定してきた。吉野氏の証言を受けて100%認定された事実を否定するのであれば、具体的な説明をする責任がある。

 ◇改めて密約否定 安倍官房長官

 沖縄返還交渉で、本来米国側が支払うことになっていた返還される土地の原状回復補償費400万ドルを日本側が肩代わりした問題で、当時の外務省局長が密約の存在を認めたことについて、安倍晋三官房長官は9日の記者会見で「全くそうした密約はなかったと報告を受けている」と述べ、政府として改めて密約を否定した。

毎日新聞 2006年2月9日 20時37分 (最終更新時間 2月10日 8時32分)
URL:http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060210k0000m010101000c.html

金大中氏事件に関する外交文書、韓国が公開 [朝日]

2006年02月05日21時29分
 韓国外交通商省は、73年の金大中(キム・デジュン)氏(前大統領)拉致事件に関する外交文書を6日付で公開した。事件は、容疑者の旧韓国中央情報部要員の聴取や金氏再来日など原状回復を要求する日本と、拒否する韓国が激しく対立した。3カ月後に金鍾泌(キム・ジョンピル)首相が来日、田中角栄首相との会談で政治決着に至ったが、会談録では、紛糾の長期化を恐れた日本側が「金氏には来日して欲しくない」「これで終わった」と言質を与えるなど、首脳間の生々しいやりとりが明らかになった。

 公文書によると、73年11月2日の日韓首相会談では冒頭、田中首相が「捜査の進展状況を伝えよ」「公権力の介在が判明すれば改めて問題提起せざるを得ない」と迫った。金首相が「それは必ずそうすることか、建前として一応、話をしておくことか」と聞くと、田中首相は「建前としてだ」と応じた。

 また田中首相は「金氏が日本に来るような政治的センスのない人ならば将来性もない。来ないで欲しい」と捜査当局と逆の立場を述べ、金氏が真相を明らかにすれば後の政治活動に支障が出ることを示唆した。

 さらに日本側で捜査が続いていることに話が及ぶと、田中首相は「建前はそうだが実際、日本の捜査は終結する」。「これでパー(終わり)にしよう」と言った。金首相は「この前、ホールインワンしたから自信を得たのか」とゴルフ談議に。田中首相は「ホールインワンは偶然だが、こっちは本物だ」と応じた。

 公開されたのは事件直後から翌74年までの約2500ページ分。04年にも一部が公開されたが、まとまった分量の公開は初めて。プライバシーなどに関する約3割の核心部分は除外された。

   ◇

 〈金大中氏拉致事件〉 73年8月8日、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)の独裁を批判して日本で民主化運動をしていた金大中氏が東京都内のホテルから白昼連れ去られ、一時は殺されかけながら5日後にソウルで解放された。韓国大使館の中央情報部(KCIA、国家情報院の前身)要員である金東雲(キム・ドンウン)1等書記官(直後に帰国)の指紋が発見され、公権力による主権侵害だとして世論の対韓非難が高まった。しかし政治決着を経て韓国捜査当局は金書記官に嫌疑なしと断定、翌74年8月に捜査打ち切りを日本に通告した。刑事事件としては関係者の海外逃亡で時効が中断したままになっている。東亜日報が98年に報じたKCIAの内部文書によれば、金書記官らKCIA要員25人が周到に役割分担し、朴大統領も報告を受けていた。
URL:http://www.asahi.com/international/update/0205/004.html

旧満州国の中央銀、アヘン専売制へ資金 公文書館に資料 [朝日]

2006年01月04日05時55分

 日本が戦前、中国東北部につくった旧満州国で実施されたアヘンの専売制度をめぐり、同国の中央銀行だった「満州中央銀行」が、生産や販売に資金を提供するなど制度確立に重要な役割を果たしていたことが明らかになった。愛知県立大の倉橋正直教授(中国近現代史)が、中国・吉林省の公文書館にあたる「档案館(とうあんかん)」が保存していた同銀行の内部文書を入手した。同国は建国当初からアヘンを歳入の柱の一つとしており、背後にあった当時の日本のアヘン戦略の全体像を解明する手がかりになる可能性もある。

 満州国のアヘン専売は建国された1932年度に始まった。今回見つかったのは、同銀行が保管していた33年度(同国年号で大同2年度)の「阿片専売特別会計」の一部や、アヘンの原料となるケシの栽培農家に同銀行が費用を貸し出していたことを示す36年(同康徳3年)の資料など計約260ページ。档案館には敗戦時に散逸を免れた同銀行の内部文書が約5万点収蔵されており、その中に残されていた。

 「阿片専売特別会計」は、アヘンの集荷や原料からの製品化を受け持つ専売公署と同銀行との資金のやりとりの記録。首都の新京(現・吉林省長春市)にある公署以外に、国内に計10カ所あった専売支署が各地の同銀行分行や支行と個別に資金を収受していた状況が記されている。

 専売制度発足直後で軌道に乗っていなかったためか、「鴉片(アヘン)作業費 減額 六八四二九七六・一二」などと、年度末に収入見込みの減額を赤い数字で記入した文書が多かった。一方で、「違法阿片」を押収してその分を繰り入れたことによる収入増を「臨時密生産鴉片収納費 新規 三六八四五」と黒字で記して報告した文書もあった。

 各専売支署は地域ごとの販売権を政府指定の卸売人に独占させ、アヘンを流通させていた。35年7月30日付の「阿片収売人並ニ卸売人ノ保証金利息支払ニ関スル件」とした専売公署の通知は、卸売人から預かった保証金の利子を同銀行から各卸売人に支払うよう求めていた。

 1912年のハーグアヘン条約などでアヘンの輸出は国際法違反とされていたが、日本は国内で生産したアヘンを、アヘン戦争以降も多数の中毒患者のいた中国大陸に大量に流通させた。満州国でのアヘン専売は、同国を日本の傀儡(かいらい)政権とみなした国際連盟から厳しい非難を浴びたが、制度自体は敗戦まで継続した。
URL:http://www.asahi.com/national/update/0104/OSK200601030009.html

沖縄返還巡る密約否定は「政治犯罪」 西山元記者が講演 [朝日]

2005年09月24日21時10分

 沖縄返還協定で日米政府が結んだ密約を72年に暴きながら、国家機密を漏らしたとして国家公務員法違反で有罪となった元毎日新聞記者の西山太吉さん(74)が「すり替えられた国家犯罪」と題して24日、東京都渋谷区の区勤労福祉会館で講演した。

 西山さんは事件について沈黙を貫いてきたが、今年4月、東京地裁に「外務省高官の偽証などで名誉を傷つけられた」として国に損害賠償を求める訴訟を起こした。密約を裏付ける米公文書が00年と02年に発見されたが、政府は一貫して密約の存在を認めていない。

 西山さんは「これ以上の政治犯罪はない。政府は、密約の存在をいまも否定することで、30年前の犯罪を再生産している」と語った。

 西山さんに情報提供したのが外務省の女性事務官だったため、33年前、世間の関心は「男女問題」に移り、密約の存在はうやむやになった。「自分で言うのは嫌だが、大衆は傍流の問題に流された。日本には、下から権力を突き上げるムーブメントがない。だから我々は権力からいまも見下されている」と述べた。
TITLE:asahi.com: 沖縄返還巡る密約否定は「政治犯罪」 西山元記者が講演 - 社会
DATE:2005/09/26 07:11
URL:http://www.asahi.com/national/update/0924/TKY200509240199.html

後藤田正晴氏が死去、副総理など歴任 [読売]

 官房長官や副総理を歴任し、「カミソリ」の異名をとった後藤田正晴(ごとうだ・まさはる)氏が19日午後8時53分、肺炎のため都内の順天堂大病院で死去した。91歳だった。

 密葬は21日午前、都内で近親者のみで行った。後日、「お別れの会」を東京と徳島で行う。自宅は東京都渋谷区広尾4の1の17の506。

 後藤田氏は、徳島県生まれで、1939年に東大法学部を卒業。旧内務官僚から警察庁長官、田中内閣の官房副長官を経て、76年の衆院選で、自民党から旧徳島全県区に出馬し、初当選した。

 79年には、当選2回で大平内閣の自治相・北海道開発庁長官に抜てきされた。82年に発足した中曽根内閣では、官房長官や総務庁長官など、5年間にわたって閣僚に起用された。

 「戦後政治の総決算」を掲げた同内閣の中枢として、行財政改革の推進や、大韓航空機事件の処理などに手腕を発揮した。

 92年12月、宮沢内閣の法相に就任し、93年4月からは副総理を兼任した。自民党政治改革委員長、政治改革本部長代理などを務め、衆院選挙制度の見直しなどを柱とする政治改革の実現に情熱を傾けた。

 また、自民党護憲派の重鎮として、自衛隊の海外派遣などに慎重な姿勢を示した。

 後藤田氏は、警察官僚として培った情報収集力と官僚操縦術に定評があった。当選7回を重ね、96年に政界を引退した。

 引退後は都内に事務所を構え、活発に講演活動などをしていたが、今年夏に体調を崩していた。自民党の後藤田正純衆院議員は、正晴氏の兄の孫。
(2005年9月21日11時44分 読売新聞)
TITLE:後藤田正晴氏が死去、副総理など歴任 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
DATE:2005/09/21 11:51
URL:http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050921it03.htm



関東大震災の死者・不明、10万5千人 80年ぶり改訂 [朝日]

2005年09月01日09時57分

 82年前の1923年9月1日に起きた関東大震災による死者・行方不明者「14万2千余」を、最新の研究で「10万5千余」に修正する説が学界に定着。理科年表(丸善発行)も、06年版で関東大震災の項目を80年ぶりに改訂することになった。引用される機会の多い理科年表の改訂で、この数字が一般にも普及しそうだ。

 理科年表の地震のページを監修する纐纈一起(こうけつ・かずき)東京大学地震研究所教授によると、同時に「家屋全半潰(壊)25万4千余」を「住家全潰10万9千余、半潰10万2千余」に、「焼失44万7千余」を「焼失21万2千余(全半潰後の焼失を含む)」に改める。

 従来の数は、震災の2年後、当時の東大地震学教室の今村明恒氏が調べ、発表した「震災予防調査会報告」に基づく。死者9万9331、行方不明4万3476とあって、合計すると約14万人になる。

 だがゼネコン・鹿島の研究者、武村雅之さんらが内訳を調べ、行方不明が、当時の東京市(ほぼ山手線の内側にあたる地域)で1055人なのに、比較的、被害が大きくなかった東京府郡部は3万8千余りと多いのに疑問をもち、市町村個別のデータや他の資料を再検討。その結果、行方不明者と身元のわからない死者が3万~4万人、重複している可能性の高いことがわかった。

 「当初は重複が認識されていたのに、いつのまにか忘れられ、14万という数字だけが残ったのだろう」と武村さんはみる。武村さんらは昨年、死者・行方不明者は10万5千余とする論文を発表。纐纈さんは、学界でもこの説が定着したとして、改訂を決めた。
TITLE:asahi.com: 関東大震災の死者・不明、10万5千人 80年ぶり改訂 - 社会


大物右翼・故児玉誉士夫氏が暗躍 日韓交渉文書公開 [朝日]

2005年08月27日08時27分

 韓国政府が26日公開した外交文書は、右翼の大物、故児玉誉士夫氏と韓国外交当局との接触や、植民地支配の根拠となった1910年の韓国併合条約をどの時点で無効になったと見なすかなど、国交正常化交渉の「裏面史」も明らかにした。

 児玉氏とのパイプ役になっていたのは、駐日韓国代表部の参事官。62年3月13日の接触で児玉氏は、正常化交渉の最大の難関だった対日請求権問題について「情報筋」の話として「日本側は請求権1億ドルと無償援助2億ドルの計3億ドルにするだろう」とし、日本側が韓国の要求を6億ドルと見積もっているとも伝えた。

 そのうえで「両国の中間の4億5000万ドルに会談代表の裁量分の5000万ドルを加え、日本側は最大5億ドルで結論を出す方針」とした。

 最終的には両国は「無償3億ドル、有償2億ドル」と民間協力資金1億ドル以上で合意しており、児玉氏が日本側の交渉戦略について熟知していた様子が読み取れる。

 ほかにも児玉氏は62年4月に大平正芳官房長官のメッセージを韓国側に伝達、同年7月には「閣内や自民党にいる重要人物や慎重論者を個別に説得した方がいい」などと助言した。

 また、63年3月9日に代表部大使が外相に送った公電には「読売新聞ワタナベ記者が韓国を支援したいとしていた」との記述があった。公電は続けて「児玉氏、ワタナベ記者は隠密に協力し舞台裏の交渉を推進しており、これらの関係の保安には特別な留意を」と結んだ。「ワタナベ記者」は当時政治部記者だった渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長とみられるが、読売新聞東京本社広報部は「文書を確認していないのでコメントはできません」としている。

 一方、韓国併合条約については、65年2月20日の基本条約の仮調印直前まで激しいやりとりが繰り広げられた。65年1月から2月にかけて、併合条約は不法に締結されたとして「当初から無効」と主張する韓国と、締結当時は有効だったが52年のサンフランシスコ講和条約で無効になったとする日本が激しく対立した。

 2月19日付と見られる大至急電は「協議で日本側は『もはや(ALREADY)無効』を提示した」と報告。その後の19日の公電は「無効だ」を固守するよう指示したが、結局、「もはや無効」で仮調印。最終盤になって、双方が国内向けに都合良く解釈できる表現で妥協した。
TITLE:asahi.com: 大物右翼・故児玉誉士夫氏が暗躍 日韓交渉文書公開 - 政治
DATE:2005/08/27 14:54
URL:http://www.asahi.com/politics/update/0827/004.html


日韓交渉文書「金・大平メモ」 韓国政府が全面開示 [朝日]

2005年08月26日10時17分

 韓国政府は26日、65年6月の日韓基本条約締結までの両国間の交渉文書を全面公開した。対日請求権問題を政治決着させた大平正芳外相と金鍾泌(キム・ジョンピル)・中央情報部長(いずれも当時)による「金・大平メモ」(62年11月12日)を始め、領有権で対立する竹島(韓国名・独島)を巡るやりとりなど国交正常化に至る詳細な経緯が初めて公式に明らかにされた。

 公開されたのは、1月に開示された請求権関連文書5件を除く計156件、3万5000ページ余りの公電や会議録。金・大平メモを含めた会談関連文書の一部は流出し、概要は知られていたが、両政府を通じて正式公開は初めてだ。

 ●金・大平会談

 「無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力資金1億ドル以上」で一致した金・大平メモに至る韓国の戦略も浮き彫りになった。朴正熙(パク・チョンヒ)・国家再建最高会議議長(後の大統領)は62年11月8日の金部長への訓令で日本の支払額について「総額が6億ドルでなければならない立場で譲歩が難しいことを強調」するよう指示した。

 さらに「日本が請求権問題で誠意を示せば韓国は漁業問題で柔軟性を示す」態度をとるよう命じ、李承晩(イ・スンマン)元大統領が韓国付近の公海での外国漁船による操業を禁じた「李承晩ライン」を巡る日本漁船の拿捕(だほ)問題などでの譲歩を示唆しながら、経済協力のかさ上げを図った様子も裏付けられた。

 極秘で作られた金・大平メモは計2枚で、片仮名交じりの日本語。駐日代表部大使が韓国外相に送った合意翌日の公電では「(日韓)会談首席代表にも知らせないようにした」とされた。

 ●竹島問題

 竹島の領有権争いに決着をつけようと日本が再三にわたって国際司法裁判所(ICJ)での裁定を促したが、韓国側が拒否を続けた様子が改めてわかった。

 62年11月の「金・大平会談で日本側が示したメモ」によると日本は「双方がメンツを保ちつつ困難な問題を一時棚上げする効果もあるので、韓国側も国交正常化後に本件の国際司法裁への提訴に応ずるということだけはぜひ予約してほしい(提訴、応訴は国交正常化後になる)」と主張した。

 駐日代表部大使の外相あて公電によると、金部長は「第三国の調停に任せるのはどうか」と応じたが、韓国側はその後、条約締結まで一貫して「固有の領土であり会談の議題ではない」とし、協議を避け続けた。

 62年9月3日に東京で開かれた第6次会談の予備折衝記録によると、日本外務省アジア局長が「無価値な島で大きさも日比谷公園程度。爆発でもしてなくしてしまえば問題がない」と発言していたこともわかった。

 竹島関連の文書は韓国政府の審査過程で当初、「国益に反し、対日関係に悪影響を与える」との理由で非公開とすることが固まったが、「国民の知る権利」を重視する盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の後押しで急きょ、公開が決まったという。日本政府は日朝交渉への影響などを考慮し、日韓会談の関連文書を公開していない。
TITLE:asahi.com:日韓交渉文書「金・大平メモ」 韓国政府が全面開示 - 国際
DATE:2005/08/27 14:59
URL:http://www.asahi.com/international/update/0826/002.html
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