「★1992年」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

★1992年」(2011/05/21 (土) 09:37:28) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[★1991年]] から [[★1993年]] へ #contents *PKO法 宮沢政権の課題も、海部政権からの積み残しである政治改革と、自衛隊の海外派遣であった。 後者については、90年に国会で流れた「国連平和協力法案」を見直して、「国連平和維持活動協力法案」を91年に海部政権が国会に上程していた。宮沢政権成立後すぐに、衆院で成立したが、継続審議となった。6月、停戦監視などの軍事行動を伴うPKF活動を当面凍結するなどの自・公・民共同修正案が合意され、それに基づいて参院で修正可決となり、再び衆院に送られた。絶対反対の社共両党は牛歩戦術、全衆院議員の辞表提出(社党のみ)、閣僚個々の不信任案提出等で抵抗したが、辞表は議長に受け入れられず、不信任案提出は、与党による全閣僚信任投票で封じられ、万事休す、6月15日に成立した。 成立した「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO協力法)の内容--- ①自衛隊が国連平和維持活動(PKO)に参加する前提条件として、(1)紛争当事者の間で停戦合意が成立(2)当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOの実施と日本の参加に同意(3)特定の紛争当事者に偏ることなく中立的な立場を厳守(4)以上3原則のいずれかが満たされなくなった場合には参加部隊を撤収(5)武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限る――とのいわゆるPKO5原則 ②派遣前に国会承認が必要 ③武器使用に厳格な制限を適用 ④国連平和維持軍(PKF)本体活動は当面実施しない 政府が成立を急いだ背景として、カンボジア和平の進展があった。9月17日、初めての自衛隊PKO部隊がカンボジアに派遣された。 *参院選 7月26日に行われた第16回参院選、自民党は宇野内閣の下での89年の惨敗(40議席)から立ち直って、70議席と改選過半数を獲得した。反対に社会党は、前回52から24と惨敗した。前回11議席とった連合は、22人候補を立てながら1議席も獲得できなかった。注目されるのは、細川護煕前熊本県知事が5月に立ち上げた日本新党で、いきなり比例区で4議席を獲得した。 社会党は、前年、統一地方選での敗北の責任をとって土井委員長が退き、田辺誠委員長に替わっていた。PKO法成立後の世論調査では、PKO法支持・不支持は拮抗していたのであるが、国会で社会党がとった抵抗戦術が国民の同情を引かなかったことは明らかになった。 *株も土地も暴落 経済は大変なことになっていた。3月に発表された公示地価はマイナス4.6%で、17年ぶりの下落となった。経企庁は2月の月例経済報告で「景気後退」と告げた。しばらく持ち直していた株価が、3月に再び2万円割れ、さらに8月には1万5000円を割り込んだ。 政府は、8月、10兆7千億円の景気対策を発表した。主なねらいは株価維持で、郵貯・年金資金で株価を買い支えることにした。また大蔵省は、銀行の益出しのための株式売却抑制、株式評価損の償却先送りを認めるなどと通達した。(すでに不動産融資総量規制は1月に解除されていた。) これらの対策によって株価は一時持ち直したが、年末にはまた1万5千円台に下落した。 大手21銀行の不良債権が12.3兆円(9月末)と、大蔵省は発表した。地価・株価のとめどない下落によって、それが日に日にふくれあがっていった。 経済はすでに奈落に向けて転がっていたのである。 *東京佐川事件、皇民党事件 2月、東京佐川急便の渡辺広廉社長が特別背任容疑で逮捕された。捜査の過程で、東京佐川から5億円のカネが金丸副総裁に渡っていることがわかった。金丸は副総裁を辞任、9月には政治資金規正法で略式起訴され、罰金20万円の処分を受けた。ところがこの軽い処分に世論が沸騰、金丸は議員辞職に追い込まれた。さらに、東京佐川事件の公判で驚愕すべき事実が発覚し、影の最大権力者竹下を追いつめる政治的事件へと発展していった。 話は1986年に溯る。ポスト中曽根の地位をめぐって安倍、宮澤としのぎを削っていた竹下が、日本皇民党と名乗る右翼団体から「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」と「ほめ殺し」の街頭宣伝を執拗に受けるようになって困っていた。金丸が、右翼や暴力団と親交のある東京佐川の渡辺社長に相談したところ、広域暴力団・稲川会会長石井進が仲介に立つことになった。交渉の結果、竹下が、田中角栄に対するこれまでの仕打ち(経世会の結成によって反旗を翻したことなど)を直接田中に謝罪すれば、皇民党は竹下攻撃をやめるということになった。そして実現したのが、竹下が小沢一郎と共に行った、87年元旦の田中邸訪問であったというのである。(このときは田中真紀子よってに門前払いをくったのであるが。) 竹下は、公判廷に証人として出廷し、一部事実関係については否定しつつも、「万死に値する」として道義的責任を認めた。この事件によって、竹下が首相として返り咲く可能性は完全に消失した。 会長だった金丸の失脚によって、竹下派は小渕恵三に引き継がれた。年末、小沢一郎は、羽田孜、渡部恒三ら国会議員44人を引き連れて経世会を離脱、羽田孜を会長とする羽田派を立ち上げた。小渕派に残ったのは、橋本龍太郎、梶山静六ら国会議員66人であった。 *細川 護熙 細川護熙(もりひろ)は、1938年(昭和13年)東京生まれ。 肥後熊本藩主だった細川家当主細川護貞と、近衛文麿元首相の娘との間の長男。上智大学法学部卒業後、朝日新聞社記者を経て、69年の衆院選に熊本1区から保守系無所属として初出馬し落選。71年の参議院議員選挙で自民党公認で全国区から出馬し初当選、田中派に属する。次の参院選で熊本地方区に転じて当選し、大蔵政務次官を務めた。その後、熊本県知事に全国最年少の知事として当選。知事時代は、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進、地方分権をさかんにアピールして全国的に名前を知られるようになった。3選も確実視されていたが、「権不十年」を唱えて勇退。 「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務め、92年、文藝春秋誌上で発表した論文で、政権交代可能な保守の二大政党制の樹立を訴えるなど、常に政治ジャーナリズムをにぎわしてきた。 92年に日本新党を立ち上げ代表に就任、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年参議院選挙で、初陣の日本新党は、細川を含めてミニ政党としては過去最高の比例区4議席を獲得した。そして今回の衆院選で、日本新党は躍進し、細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選した。 この選挙では、細川は、新生党を指して「改革派と称しているが、今まで自民党の中枢にいたいかがわしい人たち」と批判していたが、選挙後、「自民党を政権から引きずり下ろすためには悪魔とも手を結ぶ」と述べ、小沢からの要請で非自民連立政権の首班となることを受諾した。 非自民政権への期待と、細川首相自身の清新なイメージ(田中角栄首相就任時の54歳に次ぐ若さ、知事を経てきた異例の経験と発信力、メリハリのきいた話し方など)が受けて、内閣発足直後に行われた世論調査では内閣支持率は軒並み7割を超え、史上空前の高さとなった。(この記録は後に小泉内閣によって塗り替えられるまで保たれることになる。) *政治改革法の成立 その成立の経緯からして、細川政権の最大の使命は政治改革の実現であった。 しかし、それは難航した。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、自民党へ譲歩して小選挙区の比重を大きくしたものの、自民党・社会党が参院で反対したため、94年1月に廃案となった。細川は、河野自民党総裁との党首会談で修正を話し合い、今までよりもさらに自民党案に近い、小選挙区300、比例代表200の並立制とする案を呑むことで合意を取り付けた。1月29日、長年にわたり何度も頓挫してきた選挙制度改革はようやく実現を見た。 民意を反映できないとして本来小選挙区制に反対していた社会党や公明党などは、世論の、まずは改革あるべし、という圧力を受けて賛成せざるを得ない状況であった。 *ウルグアイ・ラウンド 細川政権には、喫緊のもう一つの課題が生じた。それは、93年末に決着したGATTウルグアイ・ラウンドの合意に従い、日本の米市場を開放することであった。政府は、米国内消費量の4~8をミニマムアクセスとして段階的に輸入し、6年後に輸入自由化することを決断した。自民党政権下で長年の懸案でもあったコメ市場の部分開放であった。 作成日: 11/01/10
[[★1991年]] から [[★1993年]] へ #contents *PKO法 宮沢政権の課題も、海部政権からの積み残しである政治改革と、自衛隊の海外派遣であった。 後者については、90年に国会で流れた「国連平和協力法案」を見直して、「国連平和維持活動協力法案」を91年に海部政権が国会に上程していた。宮沢政権成立後すぐに、衆院で成立したが、継続審議となった。6月、停戦監視などの軍事行動を伴うPKF活動を当面凍結するなどの自・公・民共同修正案が合意され、それに基づいて参院で修正可決となり、再び衆院に送られた。絶対反対の社共両党は牛歩戦術、全衆院議員の辞表提出(社党のみ)、閣僚個々の不信任案提出等で抵抗したが、辞表は議長に受け入れられず、不信任案提出は、与党による全閣僚信任投票で封じられ、万事休す、6月15日に成立した。 成立した「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO協力法)の内容--- ①自衛隊が国連平和維持活動(PKO)に参加する前提条件として、(1)紛争当事者の間で停戦合意が成立(2)当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOの実施と日本の参加に同意(3)特定の紛争当事者に偏ることなく中立的な立場を厳守(4)以上3原則のいずれかが満たされなくなった場合には参加部隊を撤収(5)武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限る――とのいわゆるPKO5原則 ②派遣前に国会承認が必要 ③武器使用に厳格な制限を適用 ④国連平和維持軍(PKF)本体活動は当面実施しない 政府が成立を急いだ背景として、カンボジア和平の進展があった。9月17日、初めての自衛隊PKO部隊がカンボジアに派遣された。 *参院選 7月26日に行われた第16回参院選、自民党は宇野内閣の下での89年の惨敗(40議席)から立ち直って、70議席と改選過半数を獲得した。反対に社会党は、前回52から24と惨敗した。前回11議席とった連合は、22人候補を立てながら1議席も獲得できなかった。注目されるのは、細川護煕前熊本県知事が5月に立ち上げた日本新党で、いきなり比例区で4議席を獲得した。 社会党は、前年、統一地方選での敗北の責任をとって土井委員長が退き、田辺誠委員長に替わっていた。PKO法成立後の世論調査では、PKO法支持・不支持は拮抗していたのであるが、国会で社会党がとった抵抗戦術が国民の同情を引かなかったことは明らかになった。 *株も土地も暴落 経済は大変なことになっていた。3月に発表された公示地価はマイナス4.6%で、17年ぶりの下落となった。経企庁は2月の月例経済報告で「景気後退」と告げた。しばらく持ち直していた株価が、3月に再び2万円割れ、さらに8月には1万5000円を割り込んだ。 政府は、8月、10兆7千億円の景気対策を発表した。主なねらいは株価維持で、郵貯・年金資金で株価を買い支えることにした。また大蔵省は、銀行の益出しのための株式売却抑制、株式評価損の償却先送りを認めるなどと通達した。(すでに不動産融資総量規制は1月に解除されていた。) これらの対策によって株価は一時持ち直したが、年末にはまた1万5千円台に下落した。 大手21銀行の不良債権が12.3兆円(9月末)と、大蔵省は発表した。地価・株価のとめどない下落によって、それが日に日にふくれあがっていった。 経済はすでに奈落に向けて転がっていたのである。 *東京佐川事件、皇民党事件 2月、東京佐川急便の渡辺広廉社長が特別背任容疑で逮捕された。捜査の過程で、東京佐川から5億円のカネが金丸副総裁に渡っていることがわかった。金丸は副総裁を辞任、9月には政治資金規正法で略式起訴され、罰金20万円の処分を受けた。ところがこの軽い処分に世論が沸騰、金丸は議員辞職に追い込まれた。さらに、東京佐川事件の公判で驚愕すべき事実が発覚し、影の最大権力者竹下を追いつめる政治的事件へと発展していった。 話は1986年に溯る。ポスト中曽根の地位をめぐって安倍、宮澤としのぎを削っていた竹下が、日本皇民党と名乗る右翼団体から「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」と「ほめ殺し」の街頭宣伝を執拗に受けるようになって困っていた。金丸が、右翼や暴力団と親交のある東京佐川の渡辺社長に相談したところ、広域暴力団・稲川会会長石井進が仲介に立つことになった。交渉の結果、竹下が、田中角栄に対するこれまでの仕打ち(経世会の結成によって反旗を翻したことなど)を直接田中に謝罪すれば、皇民党は竹下攻撃をやめるということになった。そして実現したのが、竹下が小沢一郎と共に行った、87年元旦の田中邸訪問であったというのである。(このときは田中真紀子よってに門前払いをくったのであるが。) 竹下は、公判廷に証人として出廷し、一部事実関係については否定しつつも、「万死に値する」として道義的責任を認めた。この事件によって、竹下が首相として返り咲く可能性は完全に消失した。 会長だった金丸の失脚によって、竹下派は小渕恵三に引き継がれた。年末、小沢一郎は、羽田孜、渡部恒三ら国会議員44人を引き連れて経世会を離脱、羽田孜を会長とする羽田派を立ち上げた。小渕派に残ったのは、橋本龍太郎、梶山静六ら国会議員66人であった。 作成日: 11/01/10

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
目安箱バナー