「★1991年」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

★1991年」(2011/01/09 (日) 21:17:26) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[★1990年]] から [[★1992年]] へ #contents *湾岸戦争 国連決議が示した撤退期限の1月15日が過ぎても、イラク軍はクエートから撤退しなかった。世界は、すでに湾岸に展開している米軍の動きを固唾を飲んで見守っていた。 1月17日、米軍を主力とする多国籍軍は、イラク、クエート爆撃を開始した。作戦は、「砂漠の嵐」と名付けられた。2月23日にはイラクに地上軍を投入、瞬く間にクエート・イラク南部を席巻した。たまらず、フセイン大統領はイラク軍の撤退を表明、27日にブッシュ大統領は勝利宣言を出した。4月3日に国連安保理は湾岸戦争の恒久的停戦決議を採択、5日にイラク政府はそれを正式に受諾した。 米国は、足並みの揃わない国連軍という形でなく、機動性の高い多国籍軍という形をとって戦争を遂行した。また、ハイテク兵器を駆使し、それをテレビを通じてリアルタイムに世界に見せつけ、圧倒的な米軍の力を印象づけた。 ミサイルのピンポイント爆撃によって攻撃目標が火を噴く映像は、その爆撃の下で血を流す兵士や非戦闘員の姿を映すことはなく、戦争がまるでゲームのような形で世界の人びとに示された。また、油にまみれた海鵜の写真を提供するなどして「悪のフセイン」というイメージを世界に流すことにも米国は成功した(後にこの海鵜の写真は米軍による情報操作であったことがわかった。) *「貢献」の評価 湾岸戦争開戦から7日後、日本政府は、多国籍軍に対して90億ドルの追加支援を決定した。前年に行った支援と合わせて、130億ドル(1兆3000億円)に上る。国民1人当たり約1万円の負担である。政府は、これを石油などの増税で賄うことにした。 ところが、停戦後、クエート政府が米国の新聞に出した支援国への感謝の広告には、日本の名前がなかった。また、「カネは出すが血は流さない」と日本を非難する声も報道された。日本政府は、屈辱とむなしさに耐えねばならなかった。 4月になって、政府は、自衛隊艦船をペルシア湾の掃海部隊として派遣した。いかにして、自衛隊を海外に出すか、政府の宿題は残った。 *海部首相の立ち往生 海部政権の成立以来の課題は、政治改革であった。すでに竹下政権のとき(89年5月)に、リクルート問題に端を発した政治不信を払拭するため、自民党の政治改革委員会(後藤田正晴会長)が「政治改革大綱」を答申して方向性は決まっていた。その内容は、衆議院選挙制度において小選挙区比例代表並立制を導入することであった。90年の第8次選挙制度審議会答申は、この方向性を追認していた。あとは海部政権の実行力が問われていた。91年7月、閣議決定し、政治改革関連3法案が国会に上程された。だが、与野党で反対論は根強く、新たに設置された衆院の政治改革特別委員会での審議はなかなか進まなかった。委員長が審議日程不足を理由に廃案をにおわせると、「政治改革の実行」が自らの存在証明と自覚している海部首相は、「重大な決意」で事態を打開したいと言明した。首相の「重大な決意」とは、解散というのが政界の常識である。ところが、竹下派は解散に反対し、海部は立ち往生した。結局、政治改革法案は廃案となり、解散もできず、海部は時期総裁選不出馬を表明した。 *宮沢政権の誕生 後継総裁に名乗りを上げたのは、宮沢、渡辺、三塚博の三人であった。三塚は、この年5月に病死した安倍晋太郎の派閥を継承していた。 竹下の返り咲きを狙って、自派から総裁候補を出せない最大派閥の竹下派は、今回もキングメーカーの役割を果たした。竹下派の会長代行をしていた小沢一郎が、自分の事務所に三人の候補を呼びつけ、面接をしたのち、竹下、金丸、小沢の三人が協議して、竹下派は宮沢支持を決定した。 11月5日に成立した宮沢喜一内閣は、海部内閣と同様、閣僚、党役員人事を竹下派にお任せで出発した。 外務大臣 - 渡辺美智雄、大蔵大臣 - 羽田孜、内閣官房長官 - 加藤紘一 作成日: 11/01/09
[[★1990年]] から [[★1992年]] へ #contents *湾岸戦争 国連決議が示した撤退期限の1月15日が過ぎても、イラク軍はクエートから撤退しなかった。世界は、すでに湾岸に展開している米軍の動きを固唾を飲んで見守っていた。 1月17日、米軍を主力とする多国籍軍は、イラク、クエート爆撃を開始した。作戦は、「砂漠の嵐」と名付けられた。2月23日にはイラクに地上軍を投入、瞬く間にクエート・イラク南部を席巻した。たまらず、フセイン大統領はイラク軍の撤退を表明、27日にブッシュ大統領は勝利宣言を出した。4月3日に国連安保理は湾岸戦争の恒久的停戦決議を採択、5日にイラク政府はそれを正式に受諾した。 米国は、足並みの揃わない国連軍という形でなく、機動性の高い多国籍軍という形をとって戦争を遂行した。また、ハイテク兵器を駆使し、それをテレビを通じてリアルタイムに世界に見せつけ、圧倒的な米軍の力を印象づけた。 ミサイルのピンポイント爆撃によって攻撃目標が火を噴く映像は、その爆撃の下で血を流す兵士や非戦闘員の姿を映すことはなく、戦争がまるでゲームのような形で世界の人びとに示された。また、油にまみれた海鵜の写真を提供するなどして「悪のフセイン」というイメージを世界に流すことにも米国は成功した(後にこの海鵜の写真は米軍による情報操作であったことがわかった。) *「貢献」の評価 湾岸戦争開戦から7日後、日本政府は、多国籍軍に対して90億ドルの追加支援を決定した。前年に行った支援と合わせて、130億ドル(1兆3000億円)に上る。国民1人当たり約1万円の負担である。政府は、これを石油などの増税で賄うことにした。 ところが、停戦後、クエート政府が米国の新聞に出した支援国への感謝の広告には、日本の名前がなかった。また、「カネは出すが血は流さない」と日本を非難する声も報道された。日本政府は、屈辱とむなしさに耐えねばならなかった。 4月になって、政府は、自衛隊艦船をペルシア湾の掃海部隊として派遣した。いかにして、自衛隊を海外に出すか、政府の宿題は残った。 *海部首相の立ち往生 海部政権の成立以来の課題は、政治改革であった。すでに竹下政権のとき(89年5月)に、リクルート問題に端を発した政治不信を払拭するため、自民党の政治改革委員会(後藤田正晴会長)が「政治改革大綱」を答申して方向性は決まっていた。その内容は、衆議院選挙制度において小選挙区比例代表並立制を導入することであった。90年の第8次選挙制度審議会答申は、この方向性を追認していた。あとは海部政権の実行力が問われていた。91年7月、閣議決定し、政治改革関連3法案が国会に上程された。だが、与野党で反対論は根強く、新たに設置された衆院の政治改革特別委員会での審議はなかなか進まなかった。委員長が審議日程不足を理由に廃案をにおわせると、「政治改革の実行」が自らの存在証明と自覚している海部首相は、「重大な決意」で事態を打開したいと言明した。首相の「重大な決意」とは、解散というのが政界の常識である。ところが、竹下派は解散に反対し、海部は立ち往生した。結局、政治改革法案は廃案となり、解散もできず、海部は時期総裁選不出馬を表明した。 *宮沢政権の誕生 後継総裁に名乗りを上げたのは、宮沢、渡辺、三塚博の三人であった。三塚は、この年5月に病死した安倍晋太郎の派閥を継承していた。 竹下の返り咲きを狙って、自派から総裁候補を出せない最大派閥の竹下派は、今回もキングメーカーの役割を果たした。竹下派の会長代行をしていた小沢一郎が、自分の事務所に三人の候補を呼びつけ、面接をしたのち、竹下、金丸、小沢の三人が協議して、竹下派は宮沢支持を決定した。 11月5日に成立した宮沢喜一内閣は、海部内閣と同様、閣僚、党役員人事を竹下派にお任せで出発した。 外務大臣 - 渡辺美智雄、大蔵大臣 - 羽田孜、内閣官房長官 - 加藤紘一 *宮沢喜一 宮澤 喜一は、1919年(大正8年)広島県生まれ。母は司法大臣、鉄道大臣等を歴任した小川平吉の娘。 東京帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省。東大在学中の1939年(昭和14年)、日米学生会議に参加のため渡米した。戦後、池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わり、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加。53年の参議院議員選挙に広島県選挙区から出馬し当選。62年の第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、所得倍増政策実現の一翼を担った。67年衆議院に鞍替え出馬し当選。以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。経済・外交通で、無類の読書家、英語にも堪能。池田が創始した宏池会のエースとして輿望を担っていたが、派内では、大平亡き後の後継争いを田中六助と繰り広げ、田中病没後、86年、宏池会会長となった。中曾根内閣で大蔵大臣として円高是正に奔走した。87年秋に中曾根の後継首班の座を安倍・竹下と争ったが、竹下に先を越され、その内閣に副総理兼蔵相として入閣、消費税導入に尽力する。カネにまつわるスキャンダルとは無縁であったが、88年、自らの秘書がリクルート未公開株を譲渡され上場後それを売却して巨額の利益を上げていたことが発覚、蔵相を辞任していた。 作成日: 11/01/09

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
目安箱バナー